■ オーディション
昨日は、新人のオーディションがあった。ヨガのイントラは、面接採用ではなく、オーディション採用。私も数年前、オーディションを受けて、今の仕事をすることになった。
今では、すっかり慣れっこの仕事だが、はじめは1時間教えるのに、丸一日考えて行っていた。しかし、せっかく一日を費やして、メニューを考えて行っても、お客さんの様子に合わせてポーズを選んだほうが効果的なので、結局、考えていくのはやめた。
初めてのオーディションから数年たって、中堅というようなことになり、懐かしいな~と思っている。
山登りも同じだ。
初めて懸垂下降したのが2013年だった。登山歴2年、3年目。その時は、もうビックリ仰天だった。丸2年経ち、今年はカウンターウェイトができるようになった。
■ 恐れ
私を何がこうした予防的な知識へ走らせるか?
・・・というと、やはり山に対する恐怖心だ。山が怖い。
普通にセカンドで歩いていても、滝の高巻きで、踏んだところが、岩盤の上に載っている、ただの土で、上に生えている草ごと、ごっそり滑って落ちたこともあったし、北岳では先輩の頭をビーンという音をさせた落石がかすめた。
多分レスキューに興味がない人は、山ではあまり怖い思いをしていないのではないだろうか?
個人的な観察では、同じことを目撃しても、楽観的な人は、その目撃が印象に残らないみたいだ。
私はネガティブ思考なので、ちょっとした事件が強く印象に残るタイプだ。
■ 登らせていただく
そして、山への礼儀だ。山は登らせていただくものであり、征服するものではないと思う。
そんなことは誰だって分かっていると思う。でも、分かっているのと、それを行為するのは違う。
セルフレスキューを知らないまま、クライミングだけに行ったり、連れて行ってもらう会山行数を重ねている人が伝統的な会でも大半だ。
その行為が、別に”山を征服しよう”と思っているわけではないことは知っている。誘われるがままに行く山というわけだ。
しかし、突き詰めると、行為が示すことは
(まさかの時の知識) < (自分の楽しみ)
であり、自分のしりぬぐいができるということが後回しになっていることは、行為そのものが示している。
それは行為が伝えるところとしては、無保険のまま、登山に行く登山者と同じだ。
■ 自覚する必要があるのが日本の山
小一時間、整備された遊歩道を歩くハイキングに行くのに、山岳保険に入っていないとか、登山届を出していないとか、文句をつける人はいない。
けれども、日本の山は、山岳保険と登山届が必要な山が、小一時間の遊歩道の延長にあり、適切な範疇を越えたところで、自覚的に意識をレベルアップして行かないと、ハイキングの意識のまま、穂高や剣に登れてしまう。
”遊歩道を小一時間”は、”小屋まで2時間”とは違うし、”小屋まで2時間”は、”携帯電話の通じない3時間”とも違う。”携帯のつながらない1日”は、”救急車の来ない1日”であり、”電気の無い生活”で、”誰ともつながっていない”、だ。今死んでも誰にも気付かれない。
だから、そういうところには誰かと一緒に行きたいものだし、山行計画を出して、帰ってこなかったら探しに来てもらうようにするわけだ。
同じことで、ジムでクライミングしている分には、レスキュースキルはいらないし、フリーのゲレンデでも、落ちてもローワーダウンすればいいだけ。運悪く事故になっても、救急車も横付けできる。
が、バリエーションルートに行きたいとなると、自分で自分をピンチから脱出させることができなければ、伝令にもなれない。
リードしている先輩に落石が来て、意識不明になったら、ビレイから自己脱出し、クライマーを固定して、安全な所にひとまず移動し、それからしか伝令になれない。
実際、あれに当たっていたら、死んでいたなという落石が先輩の頭をかすめたのを目撃して、肝を冷やした。
■ 山からのメッセージを良く聴く
私にとっては、こうしたヒヤリハットの目撃は、一種の山からの警告で、ここにくるなら、レスキューを学んでから来い、と言われているような気がするものだ。
一つ一つのヒヤリハットでもらった課題を消化せずに、次の山に進むことには、なんとなく後ろめたさがある。
もし、それで事故になれば、あの時山が警告したのに、それを聞き入れなかった自分が悪いのだ、と考えるだろう。
最近あったネパールの地震で、クマリと呼ばれる少女の預言者が、「人間が神の怒りに触れた」という解釈をしていたのだが、そういう感覚と似ている。
「大地が揺れたのは、人々の罪の重さにこれ以上耐えきれなくなったからです」と、彼女はエレンに語った。「人々は自分勝手で欲張りになりました。人の苦しみを和らげることより、多く食べて肥え太ることしか考えなくなったのです。大きな屋敷を建て、大きな車を買い、山のようにごみを出していました」
「人々の地球への敬意が薄れていました。特に、地面を掘って水をくみ上げたのは問題です。搾取と汚染が神々を怒らせ、私たちをとてもひ弱な存在にしてしまいました。地球は1つしかないのです。この地震はネパールだけに向けた警告ではありません」
原始的で素朴な感じ方であるだけに、”科学信仰”に染まった現代人には受け入れがたいが、それでもやっぱり、私はこういう感性を否定するにも、論拠に欠けると思う。こういうのは、立証も否定もできないから、空論なんだが、人間の心には、直感的な部分があり、特に山ではそうではないかしら?と思うのだ。
実際、人は山に行くと山と対話している。本当は、自分と対話しているのだが、それでも、例えば、私が伝丈沢に自分で初心者を連れて行って付けた自信は、そもそも山がくれたものだ。
そういう自信のつけ方でつけた自信は、裏切らない。
■ 根拠ある自信と根拠なき不安
人生には偶然はない、とヨガでは教える。山でも不可抗力の事故はあるが、ベテランに聞くと、最近の遭難の8割は避けることができた遭難だと言う。
例えば、あまりクライミング力がなくて、すぐ落ちそうで、体格が良い人とクライミングに行って、その人が落ち、私が体重差のためにレスキューできなくて、遭難に遭ったら、それは偶発的な事故なのだろうか?
あるいは、実力未満と周囲のベテラン3人に言われているルートへ、それでも行くと行って、ビバークになったら?
やっぱり、そういうのは、簡単な言葉でいうと、イケイケか?それともそうでないか?の差があり、イケイケでない判断をすることが大事だと思う。
イケイケは不遜な態度ということだ。不遜と言う言葉はキツイ言葉なので、誰しも自分が当てはまるとは思っても見ないだろうが、根拠やバックアップなく、行けると思うのは、不遜なのだ。
山に不安はつきものだ。 不安は乗り越えないといけない。しかし、大事なことは、不安に対する許容が、根拠ある自信に基づいている、ということかもしれない。
それは、練習が支えるものでもあるし、経験が支えるものでもあり、また講習会に出ると言うような研鑽が支えるものでもある。
どれも自分の内に貯込むもので、客観的に指標があるものではない。
■ 臆病に
私は、実力以上のところに行かないという点でも、何かアブナイことをする前には、そうなった時の対策を考えてから行く、という点でも、臆病以外の何物でもない。一か八かは取っていない。
宙吊り登り返しとは何か?を知らないまま、岩に行ったりはしていない。
しかも、そのための支払いは、時間についても、労力についても、金銭的負担についても、惜しんでいない。出すべきものは出していると思う。遠かろうが、講習へは行くし、お金が余分にかかっても甘受している。
だから、ジムに行く費用が出ないんだが、ジムに行くのは楽しみの為であり、まさかのときにどうすればいいかを学ぶ15000円のほうが、クライミンググレードをあげる1万円より価値がある、と考えているということなのだ。
ほとんどの人とは逆の価値観だ。
そういう人が保険がないまま山行という楽しみだけを重ねている人に対して、あまり良い印象を持たなくても仕方がないのではないだろうか?
マルチピッチ3年目で、初めて流動分散を習うということは、つまり、その3年の期間、リードしていなかったという意味だ。
そんなに高いグレードが登れるのに、こんな初歩的なことも知らないのかしら?と思ってしまうのは、致し方ないのではないだろうか?
・・・というわけで、登山歴を重ねると、やはり人は何から学ぶべきかについて、色々と意見を持つように自然となってしまう。
私はリスクへは近づく前に備えるタイプだと思う。それでも事故に遭ってしまうかどうかは、確率論でチャンスしだいだ。
人間にできることは確率を下げるということでしかない。
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