初めて懸垂下降を習った時、足で踏んで、ロープを弛ませてから下降器をセットするように習った。
下降器がセットしづらいからだ。しかし、これは一人でやろうとするとそうせざるを得ないという訳で、手がもう一つあれば、事足りる。
・・・ということは、トップで降りない相方は、トップがセットするのをボケッと突っ立ってみているのではなく、ロープを弛ませてあげるくらいのことはしているべきで、そういう小さな点での、相手への配慮というのが大事なことだ、と最初に懸垂下降を教えてくれたガイドの三上さんは教えてくれた。
その後、講習会へステップアップすると違和感ばかりを感じさせられた。
講習会では「ロープを踏むな!」と叱られる。
なのに、ザイルを組んでいる相手への配慮、というのは教えられない。ところが、相手への思いやりとは逆で、相手の品定めの方法は教えられる。そうではなくて、
・足りないところは自分が補ってあげよう
・知らないことは教えてあげよう
という気持ちのほうが必要なのに、相手の安全に対する責任感=パートナーとしての責任感は非常に薄いことが多い。
パートナーシップとは相手の命を自分は預かっているのだ、という責任感のことだ。
懸垂のセットが間違っていて、相手が墜ちてしまえば、それはパートナーにも落ち度がある。
相方が懸垂下降のセットでバックアップのセットがまだ確立していなかった頃は、私の方がセットが確実だったので、空中懸垂になる箇所などは私が先に降りた。セットも二人で確認した。
そう言う態度を持ち続けないと、行きつく先は遅かれ早かれ死が待っている。
人工壁では、5.7だからって言ってロープが要らないと言うことはない。だから、5.7だろうが、5.13だろうが、高さがあれば、スリップして転んだ時には下まで落ちて行ってしまえる。ということは、高さがあれば、ロープがイラナイということではない。
あくまでロープの要・不要は易しさではなく、落ちたとき死ねる場所かそうでないかで判断すべきだ。
初心者が易しい場所だからロープを出さないというのはタダの怠慢で、ロープを出す技術がないから出さないだけなのだ。
観察していると、ベテランではない人たちは、ロープを出す出さないの判断が、登れるならロープはイラナイになっている。
それでスリップしたらどうする気なのだろう?もし、落ちたら、自分だけではなく、周囲の人はその人をレスキューしなくてはならなくなる。
身体が大きい人のレスキューは非常に大変だ。周囲の人に迷惑をかけないためにも、ロープは必要だ。
自分は登れるかもしれないが、後続はどうだ?背が高い人もいれば低い人もいる。太った人もいれば痩せた人もいる。自分に楽でも、他の人にとって楽かどうかは別問題だ。
スリップは防げるものではなく、リスクの一部に入っているものだ。だから、落ちれば、死ぬ箇所でロープを出さないのは、凄いのではなく、思慮が浅い、だけだ。
■ 突っ込むだけではだめ
同じことはルートファインディングにも言え、いくら最短距離でも、目の前に障害物があれば、それを避けて、出来るだけ安全に易しく通過できるルートを見出すのがルートファインディング。
それをしなければ、余計な時間がかかるだけでなく、不必要な危険にさらされてしまう。
尾根に乗ろうとしているのに、高度を上げるのがつらくて、延々とトラバースしている、などがその悪例。トラバースは登山ではやむを得ない場合に限って使わないと、山の側壁というものは、大抵は他の支尾根、枝沢の支点で、特に枝沢の始点はガレの始点であり、危険であることが多い。
目の前にある危険も、危険だと認知しなければ、危険を感知したことにならない。
したがって、何を危険と感知するか?というセンサーの精度が問題になるが、その
センサーが不感症
の人が多いのが、登山の初心者だ。ベテランは、それぞれ個性があっても、なんとなく統一感のあるザイルの出し方をしている。
■ ザイルの出し方を学ぶ
私は、ベテランと行く山行では、ザイルの出し方を学んでいる。
いつ、どんなところで、どうザイルを出すか?
それが問題だ。
どういう訳か、男性同士は経験の差があっても、経験者から学ぼうと言う姿勢が見えない場合が多い。なぜなのだろう?
そうすると、一緒に行く人は、その人が滑落したら運任せの危険極まりないフリーソロに付き合うことになる。”一か八か登山”になってしまう。”一か八か登山”は私のしたい登山ではない。
そんな登山に付き合っていたら、ロシアンルーレットと同じであり、遅かれ早かれ、死んでしまう。
そんなことを痛感させられた本間沢だった。
3mならボルダ―と同じなので、ロープはいらない。
それでも背の低い人やフリクションの悪い靴の人、ザックの重い人、クライミングは得意ではない人、に取っては、お助け紐があった方が良い。
それは先頭が判断すべき。
いくら階段状になっていても、落ちれば死ぬ高さなら、ザイルが必要。
ザイルを出すべきだ、と最初から分かっていたのに、ザイルを引いて行かず、上から投げようとしたので、ザイルが下まで届かず、二人目もほぼフリーソロになってしまった。
トップは中間支点を見落とし、支点を取らずザイルはザックに入ったままの完全フリーソロ。
落ちない自信があっても得策ではない。
5人だったし登攀は易しいので、後続はプルージックで登ればよいところだが、末端が下まで届かなかったので、結局、ラストもフリーソロ。
しかも、フリーソロがかっこいいという判断だ。
何かがおかしい。水圧は強く、水圧に負けることも考えられる。
やってみて失敗してからザイルがあれば・・・と思っても遅い。
こんなのにザイルは不要。
それでもスタンスが外傾しているので、スリップの可能性はある。
トップは腕に覚えがあるものが行き、後続は、ごぼうで確保。
お助け紐程度で大丈夫だ。
結局、前進するのにザイルを使わなければ(プロテクションとしての要素だけであれば)、ザイルを出しても出さなくてもフリーソロと変わりはない。
だからフリーソロは別に自慢にならない。
自慢になるのは、むしろ手間が増えても、ちゃんとプロテクションを取れる、という技術のほうなのだ。
その技術は臆病者の証ではなく、
まっとうな大人としての責任感の証
なのだ。
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