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Wednesday, February 4, 2015

感情に振り回されない人がリスクコントロールできる人

■もうすぐ春ですね♪

今年の冬もずいぶん春めいてきました。植物は、季節の変化を人間より早く知るようです

我が家では、もう春の新じゃがの煮物が食卓に上りましたし、野菜入れのニンジンの根っこからは、ぴよよ~んと新しい芽吹きが。葉っぱがかわいくて、キレイなので取ってあります♪

豆を煮るのに、浸水するとき、うっかりすると、もやしになりそうになります(笑)。季節によっては、同じ浸水でも、腐敗が早く来てしまうこともあるのですから、季節と言うのは不思議ですね。

植物が季節を知るメカニズムには、とても興味を引かれます。

2月は恒例の味噌作りの月です。そろそろ味噌を仕込まねば!ですね。

■1月を振り返る

例年、1月には素晴らしい山日和が来ます。去年はその日、甲斐駒にいましたが、今年はその山日和を生かし切ったとはいえない1月でしたが、愛情に恵まれた月になりました。

私は、雪稜が好きで山をやっているからです。

厳冬期の山は、安全対策が厳しいので、私の今のスキルでは、万が一のために小屋がある山が良いと思っています。(とはいえ八ヶ岳までレベルを下げてしまう気にはなりませんが・・・。)

代わりに、師匠が金石沢と湯川アイスに連れ出してくれました。ありがたいことでした。

■ 守ってもらう

何しろ、私は守ってもらった側なのです…。そうでなければ、私は自分の身の丈以上の山に行ってしまったかもしれません。

山の危険は、天候だけでなく、どんな人とどう行くか?にも寄ります。しかし、それにしても

金石沢と湯川のアイスに連れて行ってくれたこと、
先輩が月例山行で助け船を出してくれたこと、
阿弥陀北陵の日に山に連れて行ってくれたこと

には、とても慰められました。思いやりとは、行動で示すもの。

■ 時機が満ちるのを待つ

阿弥陀北陵はテーブルに上がってから1年たつ山でした。なので、惜しいという感情が湧きます。

しかし、甲斐駒もテーブルに上がってから、2年待ちました。

”行ける”というのと、”時機が満ちる”のは違うことなのです。

阿弥陀北陵は、八ヶ岳の入門バリエーションルートです。易しいので、ロープを出さずとも、登ってしまえるようなルートです。つまり、リスクはロープを出さないで行ってしまうという安易さに流されやすいことです。

なので、クライミング力を誇示するようなところではありません。 しかし、ロープを出さないで登ってしまえば、入門ルートの意味がありません。

易しい場所で出せないロープが、難しいところでだせるはずがない。これから先、技術度が上がるわけだからです。

したがって、ロープワークが、”あうん”の呼吸になった相手と、ともに歩む最初の一歩として、ふさわしいルート、ということが言えます。

そういう意味で、待つことは、実力未満を示すのではありません。むしろ、賢明さを示すのかもしれません。

■ 顕在的な意識と潜在的な意識

私は厳冬期の甲斐駒山行を2年目で見送りました。そのときは、自分でリスクを避けた、という認識が、はっきりと顕在的にありました。今でも冷静な判断で間違っていたとは思いません。

しかし、山行の誘いは、悪魔の声だと思いました(笑)。 実際それを裏付ける出来事もありました。甲斐駒を断った時、残念そうに「最適なメンバーが揃う事なんて待っていたら山には行けないよ」と負け惜しみ?を言われたのです。

山をやっていて、厳冬期甲斐駒黒戸尾根という誘いに魅力を感じない登山者がいるでしょうか?しかし、死の危険を取るくらいなら、そもそも山に行かないでも良いのは自明のことです。ので、この人はダメだなと思いました。(すいませんね~) 

今回は、私は残念ながら、心待ちにしていた山行には参加できませんでしたが、一方で、(計画の甘さ)と(天候のリスク)を感じたので、先手先手で色々と対策を考えました。ので、参加できなくなったときに、一抹の安堵を感じた、ということは否定できません。

しかし、それにしても、2年前は、誰の助言を得なくても、その誘惑を跳ね返す、冷静さと緻密な判断力を私自身が持っていたのに、より登山者として成長したハズの今は、その冷静さと判断力を少々失っているようです。

それだけ、機会が限られた山については機会を取りたい、という欲、つまるところ、煩悩のほうが勝っているということですね。くわばら、くわばら。

■ 山煩悩

危険認知力を危うくさせるのは、言うなれば、(多少のリスクを引き受けてでも山に行きたい)と思う”山煩悩”です。

それは、悪天候でも頑張って歩いたり、単独の心細さを乗り越えて山に行く”覚悟”という意味のリスクテイキングとは違います。

覚悟は恐怖という感情に振り回されないという、主体性を持った行為ですが、山煩悩は、逆で、欲という感情の方に人間が振り回されています。

You should control your emotion not the emotion should control you! です。

どうしてそうなってしまうのか?

行きたいのに行けない、というストレスが、山煩悩を生みます。

人の山に付き合っているだけでも同じように山煩悩が増えます。人のために時間を使うケースでは、相手がそのことを分かっていて、感謝してくれないとストレスが増えます。

人間が持てる時間は限られている。だから、時間を分け与えてくれるということは、愛情の印です。

しかし、きちんと受け止めらえていない愛情は、ストレスを生みます。簡単に言うと、自分のために時間を使えばよかったな~、損しちゃったな~、という気分になる、ということです。

それを回避するには、

 1)自分で自分の幸福のバケツを満たしておく
 2)分かっていない人とは行かない

です。

2)は避けたくても避けられない場合もあるので、1)を充実させておくに限ります。

■ 行く山が伝えるメッセージ

山ヤのメッセージは、どんな山に連れて行ってくれるか?が伝えるもの、です。

私も同じことをしています。連れて行く山をするときは、(自分の山)を知ってもらう内容の山にしています。燕岩岩脈しかり、御神楽尾根しかり。

金峰山は、赤岳だけが凄い山じゃないということを知ってもらいたいがために選んだ山でした。自己顕示欲を満たすための山は、好きではありません。そういう中で、私が今のスキルで連れて行ける山で一番大きな山が金峰山でした。

おそらく、私が連れて行ってもらった甲斐駒や広河原沢、あるいは前穂北尾根は、私が連れて行った金峰山と同じような性格だったでしょう。

そういう意味で、山行そのものの成功とは別に、山行で伝えようとしたメッセージが届くかどうか?という成功の尺度があります。

願わくば、打てば響く相手でありたいものです。

■ アルパインファースト

師匠が同行してくれた金石沢と湯川渓谷は、どちらも今の私のスキルとニーズにマッチした山でした。

ミニアイスボルダーのリードとクライミング力だけをピックアップするためのゲレンデのセットです。

去年は同じゲレンデでも、金ヶ窪沢と広河原沢に行っています。これは、”アルパインファースト”という原則です(勝手に命名)。

最初にゲレンデでクライミングを紹介してしまうと、ゲレンデクライマー、ローワーダウンしか知らないスポーツクライマーを作ってしまいます。

岩も私はゲレンデではなく、アルパインの岩場、三つ峠でデビューしています。厳密には、私の岩デビューは、その前の十二ヶ岳の岩でのアイゼントレですが、リードフォローでデビューしているので、やはり、アルパインファーストです。

問題は位置づけで、ゲレンデを練習の場、と位置付けることができるかどうか?です。

■ 成長

しかし、改めて考えてみると、私は金峰山に人を連れて行けるようになっていた… あれ?ということで、自らの成長を今更ながらに感じます。

2年前は、私が人を連れて行ける雪山は、北横岳でした。

登山者の成長は、自分で顕在意識的に捉えられるものと、そうでないものがあるもののようです。


Friday, December 19, 2014

学費ローンの返済に思う

今年も育英会の奨学金の返還の時期が来た。

大学を卒業して、何年になるだろう…。私は両親から大学に出してもらうことは、期待できないと心配して高専に進みたかったのに、周囲に押されて普通高校に進んでしまった。その学校は進学率100%で就職の道はなかった。一方、実家は、私学の高校生を二人抱えて期待できず、それで自力で夜学に行った。夜学は5年制なので、ストレートに卒業しても、5年かかった。在学中は最終学年を除いて、フルタイム勤務で働きながらだったので、常時時間に追われた。

3年目で休学して、2年間アメリカに渡った。語学を習得したかったから。この2年は人生でもっとも幸せな時間だった。アメリカではスレスレの生活だったけど、したいことをしていたので幸せだった。

ただ、2年、これで遅れたので、卒業はさらに遅れて、トータル7年かかった(汗)。小学校より長く、学校にいたことになる(笑)。帰国したら、学内に知っている人は、ほとんど誰もいなくなっていた。教務課の人が、おかえり、と言ってくれた。

帰国後、教官に外国人の先生を選んだ。授業は英語での討論で週に2冊の読書が最低必要でレポートはA4 4ページが最低ラインだ。卒論も手を抜けなかった。語学系学部はどこも同じで、出席率に厳しい。それで、生活のための仕事にはそんなに精を出せなかった。卒業したタイミングも悪く、就職氷河期。

卒業年前年の就職率は先輩たちで25%だった。同級生で、まともな就職ができた人は、外務省の一人と教職についた一人くらいだ。一般企業に行って、まともに就職できた人はいない。みな大学院に逃げ込むか、地元に帰って親元に身を寄せていた。どっちの選択肢もない同級生の一人は、バイトで入ったマツダの工場にそのまま勤め続けた。その後彼の訃報を聞かされた。自殺してしまったのだ。他の同級生は、民間の学生寮のまま、何年もバイトでファーストフードの店長を務めたが、正社員には登用されず、失意のうちに親元に帰った。農家を継いだのだと思う。

私も院をしきりに勧められた。が、卒論しながら、バイト生活は大変すぎて、これを続けるのは無理だと思った。学内には先輩がいっぱいいて、教授ポストは糞づまりだった。子供を3人抱えた助手がコマで教えていたが、妻の収入がないと生活が成り立たないと言っていた。ドイツ語科の友達は40社断られた後、ドイツに渡って就職した。

卒業時25歳だったので、一般社会では新人とは言えず、勤め先探しは難航した。たまたま仕事をしていた先の人が目を掛けてくれて、なんとかひねりこませてもらった形だ。だから、入社直後から即戦力扱いだった。派遣待遇でのスキル採用だった。その頃、小・中・高と同じ学校の地元の親友が、初出張で遊びに来てくれた。一緒に青春18切符する仲の人だ。彼は一ツ橋を出て、製造業の営業部に入った。私と製造業で同じだが、私は開発部で向こうは営業にいた。

当時、派遣は今のように”ちょっと高級なバイト”というくらいの”誰でもできる雑用をコストダウンするために派遣に置き換える”常套手段ではなく、プロでないとできない仕事の外注、という位置づけだった。第二新卒という言葉はまだない。派遣で行く人には、最低でも2年間の該当実務の実務経験とマイクロソフト製品が、よどみなく使えるという、まぁ常識的なITスキルを求められた。

ただ実際は、それさえできない人が行った先の既存社員の中には大勢いた。語学では、私は通訳経験があったけれど、単発なので経験値には換算されず、パソコンも同じだった。しかし、入ってみれば、私がワードやエクセルの使い方を教える側で、教わる側にいることはなかった。アクセスはゼロからデータベースを起こした。キーボードはブラインドタッチだった。中学生から学級新聞をワープロで作っているのだもの、当然か。入社して数年は家に帰るのは10時が普通だった。朝は8時半出社だ。

仕事を初めて1年目、26歳の頃、弟が24歳で亡くなった。弟には彼女が3人もいたらしくて、びっくりした。帰ったら、実家に弟の靴が150足も残されており、それにも驚いた。私はまだ長屋に住んでいた。トイレは共同で風呂なし。

弟が死んでから、しばらくして、妹が自殺未遂でICUに入った。それで妹を大阪に引き取ることになった。妹は短大を出て、地元で親元に住み、親が就職斡旋した会社で、デザイナーをしていたが、妻子ある人を好きになり、捨てられたのだった。私は長屋から抜け出して、恋人と二人、やっとトイレとお風呂がある、普通のマンションに入って、まだ同棲いくらも立っていないところだった。当時はまだ、よく友達が遊びに来てくれる家だった。大学の友達と週に一回クラブに通ったりしたけれど、アメ村のすごく安いところだ。一杯1000円くらい(笑)。妹は来て1か月くらいで、すぐ元気になった。そして、すごく元気に宮古島に旅立っていった。それから彼女は大丈夫だ。

子供の頃、自分ができることが弟や妹にもできると思ってはいけない、と言われた。それはただ年長さんだからだ。

6歳の頃に両親が離婚した。弟は4歳で母親が仕事のために出かけようとすると、泣き叫んで、嫌がった。この年齢の子供には、普通だ。それで私が抱っこしている役目になった。妹も弟も、母恋しく、別れるとき、すごく泣いた。妹は母親と間違えて、私の膝に攀じ登りたがった。でも、私も6歳なのだった。妹が鼻水で私の服を汚すので子供はキライだと思っていた。

母が帰宅して、お茶を入れてあげると、すごく喜ぶので、自然に夕食を作り始めた。8歳。でも、子供のことだから、味噌汁と卵焼き、ごはん、くらいのことだ。買い物にいく時間が、母親にないので、私が買い物に行く。八百屋さんが重いだろうと言って、みかんやさつまいもは配達してくれるときがあった。弟は6歳、妹はまだ4歳だった。その習慣は、私が15歳になるまで続いた。自宅に帰ると家事優先で、受験勉強をする時間は取れなかった。自宅に帰らず、友人の家で、夜は勉強会をして、夜中に帰り、朝は6時からパン屋でバイトしていた。だから、友人たちとは深い絆で結ばれていた。バイトは禁止の学校だったが、気にしている場合ではなかった。

24歳。私は大学生。同じ年齢で母は一人目の子供を産んだ。妹はICUに入っていた。弟は急死した。

28歳の時、私は研究所所属になった。個人事業主契約だった。母は3人目の子供を産んだ。妹は宮古島に移住した。都会は体質に合わないのだそうだ。その後、海外に渡った。

祖母は45歳で、”おばあちゃん”になった。母は当時24歳で初産だ。私は40歳を超えたが、子供は授からなかった。今後授かることはないのではないだろうか?

29歳で私は結婚した。母が人生のパートナーを失ったのは28歳。3人の子供を抱えた。祖母は、その時、50歳を超え、老いを目前にし、女ひとり生きていく決断をした。

父は、30歳。若干30歳の若者が、自分の夢を追っても、仕方がないのかもしれないし、まともな仕事がない地方で、収入が低いと言っても、仕方ないのかもしれない。

ただそれで生まれてしまった子供は、一体どうしたらよかったのだろうと思う。弟も妹も私も。そして母も。

それは創造性の課題なのだろうか?

父はその後、都会へ移住し、大きな会社に勤めて部長クラスまで、なんとか上り詰めた。再婚したが子供はいない。

祖母は長生きし、私は社会人で収入がある間はなんどか祖母の家に遊びに行った。私の結婚式にも出てれた。おと年他界した。35年の一人暮らしの末だった。祖母に新しい冷蔵庫を買ってあげて、3年目だった。エアコンも、入れてあげたかったが、私がお勤めを失ってから、だったので、そこまで、できなかった。

育英会の奨学金の封筒は、いつも私にこうしたことを思い出させる。あと何年あるかな・・・

山をめぐる自立は、人生の自立や役割分担と、とても似ている。

相手の立場に立ってみないと、その気持ちは分からないものだ。

そして、たいていが、その事には長い時間、気付かれないものだ。

無邪気な人は、いつでも無邪気なままだ。相手の立場に立つことがないと気が付かないのは、想像力の問題でもある。



Tuesday, August 19, 2014

ひと夏の反省

■ 夏の終わり

お盆が終わると、もう残暑と言われます。今日はとっても暑くて、エアコンなしではやって行けない感じですが、それでも残暑。

そして、夏の終わりの気分は、というと、反省会です。いつも”何を成し遂げ、何を成し遂げなかったか?”を自分に問います…。

What have I achieved this summer? 

そう、夏はアクションを問われる季節です。さらに言えば、アクションの結果を問われる季節ですね。 が、私にとっては最も行動を起こしづらい季節なんですよね。

というわけで、毎年夏の終わりは、毎年、少々挫折感を感じる、という巡りあわせになっています…(^^;)

■チャンスをつかめなかったワタシ

今年のお盆は、複雑な心境での旅でした。体調がイマイチなのは、プライマリーな理由ではなく、私に知人伝いで、ある求人の話が舞い込んだのです。

ところが、私はクオリフィケーション的に、その求人には、ちょっとミスマッチでした・・・。3つある条件のうち、一つを満たしていなかったのです。たった一つだけ…。それは英語を教えた経験、です。

これは、キャリア方面は、すっかりお留守にして、安心しきっている私に神様が、キャリア方面でも、爪とぎを忘れてはならぬ、と、警告してくれているのかもしれません。

■ 女性と社会貢献

就職したい…というのは、正直な所、正確な表現ではないかもしれません。

就職というより、自分の持って生まれた能力を気持ちよく生かす場を持ちたい、という気持ちかもしれません。

登山にハマった理由は、まさしく登山で私の才能が生かせるから、に他なりません。

結婚して家庭を持っても、持たなくても、働くかOR働くか、しかの選択肢がない男性諸氏にとっては、ある意味、女性は羨ましい存在かもしれません。

女性には、働くか働かないかの選択肢があるように見えるからです。が、それが選択肢であるのは、自由で豊かな労働市場においてのみです。私の職業は、主に本社機能に属すものだったので、いわゆる本社が、そもそもないような土地に来てしまうと、自動的に失職します・・・が、仕事のために、夫を残して大阪に残る、という選択肢はないわけで・・・。男性が優先権を持つ、ということでやはり女性は適応することしか選択肢はありません。適応の結果が専業主婦ということです。

逆に 夫は私がニュージーランドでヘッドハンティングを受けても、やっぱりついては来れない(つまり適応はできない上、主夫にもなれない)ので、私が夫に合わせるしか選択肢はありません。

ヨガの教えでは、女性には夫を通じて与えられる、という運命もある、と説いています。

その女性がもっとも社会に貢献できる道が、家庭経営を通じてであれば、それは、その女性に与えられた仕事です。居心地のよい家庭を運営すること、子を産み、育てることは、生涯を掛けてやるに値する仕事です。

逆にもし、社会が親に時間を与えず、その結果、親から十分に時間を与えられなかったことによって、十分な愛情を受け取ることができなかった子供を増やすと、それは、ある意味、社会の害悪でさえあるかもしれません。

子供の頃に、十分に自尊心が満たされていないと、そのことは、生涯その子供を苦しめるばかりか、周囲の人々の苦労の種になってしまいます。たとえば、犯罪者には注目を惹きたい、認められたいがために、犯行に及んでしまう人が少なからずいますし、アルコールやタバコ、買い物などの依存症の人も大抵がそうです。

そこまで行かなくても、常に賞賛や承認を求める人になってしまいますよね。逆に、親から十分、時間と愛情を注がれた子供は、大人になって、他の人の時間やエネルギーを消費する人にはなりません。

今の日本社会を見渡すと、愛情と時間の代わりに、金銭を注がれた子供はいても、十分に親の愛を受けた、自己肯定感の強い人は少ないのではないでしょうか…。

だから、常に人と比べ、人と同じことがしたくなり、人が持っているものが欲しくなる。

経済的に主婦の経済効果を推し量ったデータなどもありますが、そんなことより何より、主婦がやりがいがあり、必要とされる職業であるという真実を如実に示すのは、私のかつての上司たちの家庭がほぼ専業主婦、ということです。かつての私の同僚たちも、妻が家庭にいるか、家庭に主軸を起き、フルタイムでは働いていない家庭の人がほとんどで、男性並みに働くフルタイムの妻を持っている男性は、日銀に努めている女性のおひとりだけでした。つまり、社会で働くということは、ハンデの無い男性でさえも、妻の支えを必要とする、というのが真実でした。

私も本音は妻が欲しい… 快適な家庭と温かい食事、清潔なベッドと衣類…安心できる場所が常にスタンバっている状態。

現代は男女平等が発展途上の、男性中心の社会ですから、仕事において、ハンデがあるのはむしろ、女性で、妻が必要なのは、女性です(笑)。 ハンデがあるのに、男性と同じ成果を求められつつ、労働の対価である賃金は男性に譲り、そして、家庭でも手を抜けない…のが、私が知っている女性たちの働く姿現実でした。自分も含め。

大概の男性は、家に帰るとスイッチが自動的にOFFになりますが、女性はOFFにはできない。帰宅して、お茶を入れるのは私です…疲れた~と家に帰ってからも、仕事が待っているのが女性。

まぁそんなわけで、私自身は、女性が外に仕事を持たなくても、安定した家庭を作っているだけで、十分素晴らしい社会貢献をしている、と思います。社会の平和は家庭の平和から、は真実ですし。

社会に貢献している夫を支える、という貢献です。 私も、夫は、私などには到底できない高度な仕事をしていると思うので、彼が仕事をしやすい環境を整えることが、結果的には、私の社会貢献であろう、と時に思います。

ただ、一方で、私は家事の才能豊かな方ではないのは明らかな上、子供もいないので、家庭を切り盛りすることが、私の社会的貢献のすべてだと言い切るのも、たぶん、ちょっと違うような気がします。家事は私にとっては出来るけど、出来るだけのことです。学生時代は家庭科は5でした。が理科も5だったし、国語も5だったんですよね。私が最も強みを発揮できるのは論文です。

しかし、私の持っている得意やスキルは、使い道を発見するのが難しいコンビネーションらしく、常に頭を抱えています。

ので、余っている時間と労力の有意義な使い道を常に模索しています。簡単な言葉でいうと、”やりがい”のあることですね。

■ やりがい

やりがいがあること、と言うと、やはり、第一に人間が考えるべきなのは、他の人の役に立つ、と言うことです。

私はその場合、たくさんの人に役立ちたい人と、少数の人の役に立ちたい人に傾向として分かれると思います。

誰もが他人からありがとうと言われるとうれしいものですが、多くの人の役に立つことがより大きな喜びとなる人は、名声を求め、間接的な”ありがとう”を多く受け取る人です。

逆に少数の人の”ありがとう”が心に響く人は、一体一のコミュニケーションに長けた人です。私はこちらです。ヨガを教えていると、一人の人が成長し、変化するのを見るとこの上ない、充実感を感じます。一対多のコミュニケーションは、むしろ苦手です。コンサルティングはできるけど、大教室での黒板での講義は苦手です。

私はこのブログを書くときでも、大抵は、誰の役に立つか?ある一人の人を思い浮かべながら、書きます。それは自分であるときも、もちろんあるのですが。ともあれ、読者を想定することは重要です。

■ 学びと後悔

ただ、すべからく人は、究極的には、自分自身の学びのために、今世を生きています。私自身、なんらかの”学び”があって、すべての時間を過ごしているわけです。

人生は有限で、しかるべき時にしかるべきことをやっておかないと、のちのち後悔の時間を過ごすことになってしまいます。

後悔の有無が人生の成否の指標となるくらいです。

私は、この仕事を受けることができそうにないので、英語を教えるという経験を少しでも、積んでおくべきだったと今感じています。

ということは、今からするべきことは、英語を教える経験を少しでもいいから積む、ということかもしれません。

ということは、登山という活動を通じての学びは、一つの区切りにあるのかもしれません。

≪登山で学んだこと≫

・変わることを恐れないこと
・適応すること
・10の力があれば、8の力で山に登るべきなこと
・「勇気ある撤退」と言うように、ある時は手放すこと
・「山は自己責任」の”自己責任”は、単独とは限らないこと
・”個の自立”から、夫との”相互補完・相互依存”へ。生かし生かされる関係へ
・今、何ができるか?と常に問うこと
・常に前を見ること
・観察と経験から常に学ぼうとすること

と言うわけで、少し考える時間が必要です。

まぁ人から見れば、常に考えてばかりいるような感じの私ではありま
すが…


Friday, August 1, 2014

ラブラブ温泉登山の旅を企画中♪

やっと夫の休暇が決まったので、夫とのラブラブ温泉登山の旅を企画中です♪

■ 「三大北壁」?!

「就職、結婚、出産は、山男の三大北壁」
冷池山荘のテン場 鹿島槍は夫と再訪したい

などと山業界では言われているそうです(汗) 
一般的には、女性にとって、この発言そのものが「失礼しちゃうわ!」って話だよな~って常日頃、思っています。

僭越ながら、男性登山者は決してこのような発言をしない方がいいですよ~。了見が狭いと思われてしまいます。

まぁ、生きていくためには、そりゃ誰だって、何がしか、働かなくてはならないでしょうが、結婚は、したくなければしなくていいって話だしね。

ついでに、出産&育児なんて、男性は、ほとんどなんにも戦力になっていませんからね~(笑) 

半分の戦力になってから言うなら、根拠があるかもだけど。結婚と出産で生活が変わるのは女性の側で、男性は、働くか働くか働くかの選択視しかなく、選択肢的には、既婚でも未婚でも同じだったりします。

妻は自分の子供を育ててくれている、ありがたい人材です。自分と自分の子のために、本人の人生を変えてくれる人ですから、大事にしましょう。 

私は山梨に来て、子だくさんの男性を何人か知っていますが、いつも不思議に思うのですが、、あたかも自分が子作りをしなかったかのような愚痴を言うんですが…「子供がいっぱいいて大変だ」とかって。まさか子供が天から降ってきたのでもあるまい?

そして、なぜか、そう言う人は、みな夫婦愛が冷め、嫁とうまく行っていない。

でも、まさかカソリックで、バースコントロールが禁止されているわけでもあるまいし、子作りする→子供が生まれる→育てないといけなくなる、という流れは、30年前だって、小学校で習うわけですしね・・・、普通は、そういう理由で、子供は一人とか二人にしておくのだろう、と思いますよ。

「三大北壁説」は、自分の決断に対しても、妻子に対しても失礼なので、たぶん言わない方が女性受けが良いと思います。

三大北壁がなくても、たぶん、〇〇(各自の目標の山)は、登れなかったんですよ!現実的になりましょう。

そういえば、山岳会では、会員同士が結婚ということも多いようです。今は男女の出会いが少ないので、山岳会は、女性が男性のパートナーを見つけるのには良いところだと思います。男性はどうだか・・・。男性はダンスなどの趣味をしたら、女性パートナーを見つけやすいと思いますが・・・。

山岳会内部で結婚したカップルが2、3組あるそうです。と言うことは、その人と一緒に山に行くだけでなく、山人生も共有したいなと思ったわけですよね。それなのに「三大北壁」と言って、邪魔者扱いしては、女性登山者にかわいそうです…。せっかく人生に協力してくれようとしたのに。

■ 誰と登るのが一番幸せか?

最近、色々な人と山に登るので、思うのですが、一番幸せな山は、やっぱり夫とふたりで登る山、ですね。当然か。

ただマイダーリンは、最近「ああ~山岳会に入ってくれて良かった~。これで週末、妻の山に付き合わなくて済む~」とホッとしているようです・・・(^^;)。私の方が脚が強くなっちゃったんですよね・・・。まぁあっちはメンテナンスが悪いので仕方ない。

でも、どっこい長期休暇は夫婦登山するノダ(笑)!

私は既婚の女性登山者ですが、今のところ、夫を除外すると、ベストな山パートナーは、同じくらいの年の男性のザイルパートナーです。

立山方面は行きたいけど、混雑が・・・
■ 山友達の条件?

やっぱり

 ・体力
 ・技術
 ・行きたい山
 ・志向
 ・クライミング力
 ・ビビり力

などを合計した、総合得点が似ている、という相手が良いと思います。

山が合わない というのは

 ・相手の体力が高すぎる(低すぎる)
 ・技術力に偏りがある (どちらかがリードばかり、セカンドばかり)
 ・行きたい山が違う (マイナー好み、通好み、アルパイン好み、ハイキング好み)
 ・志向が違う (飲み中心にしたい、歩きたい人では価値観が違う)
 ・クライミング力 (行ける山に行ってもらうばかりだと悪い)
 ・ビビり力 (安全に配慮すると、行動が遅くなったりしますので、そのバランスが似ている人)

です。 性格についてはあまり心配がいらないような?ブレーキ役とアクセル役が、どう転んでもできます。

私は夫や女性と行くとリーダーですが、先輩やパートナーと行くとセカンドです。

■ 一緒に歩いて楽しい、山パートナーランキング~

1位: 結婚してちゃんと妻子がいる男性のザイルパートナー。 

2位: 師匠。なにしろ師匠なので、安心です♪ 先輩も入るか。

3位: 年下の独身男性。若い男性は強いので、先を歩いてもらって、こちらが後から追いつくような、半単独みたいな山行が良い。年下の男性は、まだセクハラ世代には入っていません。

4位: 気の合うおばちゃん登山者。おばちゃん登山者の場合は少人数化がコツです。3人以上の団体になると、おばちゃんに限らず、女性はパワー炸裂しすぎです。

5位: 気の合う女性登山者。女性登山者は難しいです。女性は単独の方が男性登山者や山小屋などの関係者からの援助が得やすいので、お互いに単独をキープしたほうが良い。例外は、山そのものが密室になるような、里山です。山小屋ないので。でも里山(藪山)派になるような女性登山者は、ものすごく少ない。ので、必要な場所にこそ必要な相手がいない、という結果になります。それでも里山派の人は一人でも平気なつわもの系です。

というわけで、なぜか女性登山者が下位にランキングされてしまうのです・・・(^^;)

■ 一緒に歩けない人、ランキング・・・(T_T)

船窪小屋行きたい・・・
1位: 何でもお任せの万年初心者。1回目はいいのですけど、無邪気な人は二度も三度も…となり、負担に。

2位: オジサン。オジサンは、山デートと思っているようです。でも同じ年齢の男性にも、オジサンとオジサンじゃない人の2種類がいるようです。その差は議論を呼ぶところのようです。

3位: 責任感の無い人。相手を利用するだけ、というようなドライな感性の人だとうまく行かない。

4位: 山に詳しくない人。中山尾根と言っても、それを知らなかったら価値が分からない。分からない人を連れて行くと、連れて行くだけになり、自分の山でなくなる上、相手にとっても他人の山であり、結果、せっかく行ったのに誰の山でもない、という結果に陥る。

どんな関係にも言えますが、
黒戸尾根は夫には無理

 ・自分が相手を必要とせず、相手の力になろうとする、
 
 ・自分がどうして欲しいかを明らかにしておく

とすると、良い関係が維持できます。

■ オジサンはダメでした・・・

やってみて分かったのですが、オジサン登山者はダメです。

オジサンはセクハラする。それも自分で気がつかないでセクハラするので余計始末に悪いです…が、これがまた一緒に行ってみないと、その人がオジサンなのか、オジサン化せず、踏みとどまっている普通の男性登山者なのか、分からないんですよね…。 

人はどうやってオジサン化するのか?は、オバサン化と同じく、別の議論になるので、踏み込みませんが、オジサンと非オジサンを見分ける能力は、女性登山者には必須能力です。

私はたぶんオジサン撃退能力も身につけなくてはいけません・・・(が良く分からない)。

これまでのところ、オジサンと非オジサンの見分け方は以下です。

・登山に来たのになぜか歩きたがらない
・プライベートな愚痴を聞かされることが多い
・なぜか女性の写真を取りたがる
・実際の努力より、空威張りのほうが上回る

■ 家族と行く山は工夫次第

我が家は、子供ができなかった夫婦なので(こういうとおせっかいなおばちゃんは不妊治療クリニックを薦めてきたりしますが…それも了見が狭いだけなので割愛)、夫婦と言っても、ほとんど「恋人」です。

人はなぜか結婚すると、相手が「恋人」であることを忘れてしまうもののようです…特に男性。男性が妻を扱うやり方は、”積読”に似ています(笑) 後で読もう~と思って買っただけで積んでおく本のことです。そう思っていると本は古くなり陳腐化するんですよね~。妻との大事な時間も同じです。

結婚して子供ができると、山に行けなくなる・・・のも、物の道理そのままですが…、山、行けますよね?家族で。

そりゃ滝谷とかの登攀に家族と一緒には行けないだろうけど…、でも北岳バットレスは行けるよね~?家族は白峰御池小屋でキャンプしたり、普通に一般登山道で北岳に登頂していればいいので…。何もワンパーティにこだわらなければいい。

秘境の温泉宿とか、キャンプ場があるようなところは、大抵が山の中ですし…山麓がヤダとかいうのは、里山蔑視の発想かも…。

”大きいほど良い、困難なほど良い”という、古臭い概念を捨てればいいだけなのかもしれません。

というわけで、家族がいるから山に行けないという嘆きは、私には、単純にクリエイティビティの枯渇にしか聞こえないんですよね…。

ここは知恵を絞って工夫しましょう!

■ 夫と行く山

残念ながら、MYダーリン、夫は山にはそんなに興味を持っていないのです…。なぜか?というと、山より面白い、仕事という趣味、を持っているから・・・。

彼はソフトウェアのエンジニアなのですが、家に帰ってからもパソコンが趣味と来ていて、妻としては健康面が気になります。 目を休める山は、とっても彼の健康に良いはず!何しろ、パソコン以外に彼は趣味がない。社外の友達もいない(社内にいるのかも怪しい)。

なんと不健康なことでしょう!このところ、大変忙しいようなので、長期休暇はリフレッシュ&リラックスの両面で過ごしたいところです。

ということで、提案は、リフレッシュ=山、リラックス=温泉。

彼はデスクワーク中心の仕事な上、忙しすぎて日々の運動習慣を作る時間がないので、年齢相応の体力はなく、登山者として見た場合、一日歩行時間5~7時間がマックスです。初日は特に2~3時間にとどめておいた方が良い。

その上、登山は運転も大変なんですよね… ただ運転は二人で交代してできるので、1時間づつ交代して、5時間くらいまでは、大丈夫みたいです。

私としては、夫とは二人とも初めて行く場所に行きたいのですが、私の方が行ったことがあって彼が行ったことがない場所がこのところ増えつつあり、それは夫婦の思い出づくりとしては、あまり望ましくないので、なんとか2つをコンバインしたような場所はない
か?と探しています。
阿弥陀南陵は夫は無理かな~

というわけで夫と行く山旅の条件:

1)山好きでない人も楽しい山
2)健康に良い山
3)リラックスも出来る(温泉つき)
4)初日2~3時間、一日の行動時間5~7時間。
5)遠出はOK (5~6時間)
6)ふたりとも初めて行く場所が含まれるのがベター

葛温泉&扇沢周辺の山
みくりが池温泉&立山周辺の山
蓮華温泉&白馬周辺の山
赤石温泉&南ア

せっかく運転手が二人いるので、運転手が一人の時は行けないような、遠くの温泉&山に行こうか?と模索中です。

飯豊連峰
吾妻連峰

秘湯の温泉宿をくっつけ、山はおまけだな~(^^)。  

Wednesday, July 16, 2014

登山を通じてポジティブライフ

■夏の始まり

ここ数日、甲府は大変暑いです。今年甲府は7月11日、先週の金曜日から夏日に入りました。

そして私は、その夏日初日にクライミングウォールでノースリーブのタンクトップで壁に張り付いていて、肩をうっかり日焼けし、今もう皮がむけてきています。人工壁で壁にへばりついていたのは、ほんの10分程度だと思うのですが、湿度を含んだ空気を通った紫外線の威力は侮れないみたいです。完全に焼けすぎになっています。日焼けしやすい私は、この週末のクライミングで日焼けし、すっかり”夏休みの子供状態”です。つまり幸せいっぱい!ということですね。

■ 私の山

私は夏は暑いので、涼を求めて沢を歩きたいと思っていました。もうそろそろ涼が欲しくなる季節になりましたが、今年は、北岳バットレスという課題が浮上しました。北岳バットレスは、私という登山者の身の丈以上での山であり、全エネルギーを集中投下しないと実現しない。そのため、今は沢はお預け感が少しあります。

北岳バットレスは、私らしい山か?というと、たぶんそうではないと思いますが、北岳バットレスに行きたくない登山者はいません。登山者なら誰もが行きたい山です。ただ行けるとは思わないから、行かないだけで。私自身、まさか北岳バットレスに行くという可能性が、ほんの指先の先っぽだけでも、浮上してくるとは思ってもいませんでした。

それは、鹿島槍鎌尾根や西穂高沢、あるいは屋根岩2峰や小川山レイバックにしても同じです。まさか、このような山に行ける日が自分に来るとは思っていなかったのです。どの山も名前さえまったく聞いたことのなかった山でした。

考えてみると、これらの山は日ごろの読書や苦手である人工壁でのクライミングを続けている、というような、日常傾けている地味な努力に対しての、ご褒美というような感じですが、実際のところ、これらの山が可能になった事情の半分は、私自身の努力の結果ではなく、ベテランたちにとっても、山の同行者を得るのが大変に難しい、という山岳業界の事情によるものではないか?と思います。

同行者ってそれほど得るのが難しいんですね。 自分の行きたい山に一緒に行ってくれる人がいないって意味です。

まぁ、私は単独大好き派で、ロープのイラナイ山に夫以外の人と行きたいと思ったことはないので、いつでも誰かと行きたい、という気持ちはあまり分かりません。

■ パートナーを育てる

パートナーを見つけるのが難しいので、パートナーを育てる人もいます。 

その場合のメリットは、自分好みの登山者に仕上げることができる、ということです。 

ハイキングにも行ったことがなくてバリエーションに登っている人もいるらしいので、不思議におもったら、そういうことでした。

私にとっては、登山は経験ゼロから積み上げる、発見のプロセスを愉しむものなので、そのような、いきなり感のある成長の仕方もあるということにビックリしました。 

『華絵、山に行く』という本を前に読んだときにもそう思いました。一人では高尾山にも行けないのに、冬の穂高とか行っちゃった女の子の話です。クライミングジムにヘルメットを持って行って笑われるんですよね。

私がそれ以上に驚いたのは、育てる人の側です。 

ハイキングレベルの登山経験もゼロの人を、バリエーションが登れるまでに育てるのは、一言でいえば、すごく困難なことだと思います。体力やクライミング力は、一朝一夕にはつかないので、時間もかかるでしょうし、行き先の選定から、安全配慮まで、全部自分持ち、つまりガイド状態です。相手は何も知らない、知っているはずがないのですから、仕方ありません。それを分かっていて、やらないといけない。相手にモチベーションを与え続けなくてはなりません。

ガイド以上の、まるでサリバン先生か、専属トレーナーのような負担を全部を受け入れてまで、パートナーを育てるなんて、私にはとてもできそうにありません。何しろ自分がしてきた苦労の果実をぜんぶパートナーに注ぎ込む、ということになるからです。

たとえば、去年、ハイキングレベルの登山者をアイスクライミングに誘い、クライミングを楽しんでもらったことがありましたが、ハードシェルも冬靴もヘルメットもハーネスもクランポンも私が貸出しでした。その上、ビレイはさせられない、というかしてもらえないのです。つまり連れて行くと、自分は登れず相手を登らせてあげるだけです。さらに言えば、もしガイドに頼めば、2万円近くの出費になるということも、初心者なので当然知っているはずがなく、ありがとう、という一言でさえも期待はできません。逆に危険な目に合わせてひどい、と言われないか、びくびくしないといけません。その上、ビレイしてもらえるようになってもらおうとおもったら、練習用のジム代も自分持ちです。

具体的に言えば、そのような負担があるんです。私がそのような負担を背負ってまで、一緒に行きたいのは正直、恋人である夫だけです。

私の師匠は、若き日の自分が注ぎ込んだ登山の情熱と苦労の価値を理解でき、ありがたいと思ってくれる人にだけ、分け与えたいとおもっているのではないか?と思います。

勉強熱心な初心者が愛される理由は、そこです。熟達者の苦労と価値が分かるということです。

しかし、一般に、一般登山者がそこを理解できるか?というとそれは非常に難しいです。

これを書いている私自身、いまだ想像の域を出ません。

■ 現在地

そういうわけで、私は、一般登山者以上クライマー未満、というような段階にいます。

平たく言えば、初心者です。しかし、一般登山道で言えば、もう一般登山道はどこでも歩けます。

しかし、2年前は、観光客以上一般登山者未満、というような段階にいました。

■ ポジティブな変化

私は正直、かつて仕事に傾けていたのと同じ情熱を、趣味の登山に傾けていると思います。ボスがいないだけです。逆に言えば、ボス不要の自律性を身に着けたからこそ、そのスキルを使って趣味を推進させていると思います。私が仕事で身に着けたスキル・能力は、全部登山に向けて活用されています。

私の現在の職業はヨガのインストラクターなので、ヨガにそのような情熱を傾けるべきだという心の声も聞こえてこないわけではありませんが、ヨガは都会のもので、山梨の地の利を生かした活動ではありませんし、また私自身が置かれた現在の状況的にも、追い風とは言い難く、総合的に判断すると、今、取るべき戦略とは思えません。

改めて、趣味の成功とは何か?と言うことを考えると、これは職業上の成功(おそらくほとんどの人にとって金銭的成功でしょう)とは、また別の尺度で、図られるべきであろうと思います。

もちろん趣味ですから、楽しく充実感がないと続けること自体が困難であると思います。それはあたりまえとして、何が趣味の成否を決めるのか?ということになりますが、これは日常生活が、その趣味をもたなかった場合より、円滑に流れていく、ということが一つの傍証ではないか?と思います。

私の現在の生活はすごくシンプルで、献立に悩まされたり、行き届いていない掃除に罪悪感を感じたり、退屈しのぎにファッションに資金を投じたり、あるいは、ステータスを表現するためのバッグや指輪などの有力なサポートが必要だったりしません。

私は私のありのままで問題なく存在できます。そうしたことは、精神的に充足してこそだと思います。

私は仕事においても、そうした精神的充足を求めてきましたが、仕事では登山と同じように取り組んでいても、同じような充足を得ることができなかったのです。

が、それは、私自身に原因があるのではなく、社会の側にあったのだろう、ということが登山を通して最近、理解できるようになりました。

仕事においては、私はスーツで身を固め、パスポートにある出国数スタンプの競争に参加し、名刺にある名前ではなく、会社名で存在を認識されなければなりませんでした。

日本は女性に対してクローズドな社会です。が、成人するまでのプロセスを通じて、私はそれを学びそこねたようで、さらに20代の早い時代に自立を勝ち取り、アメリカに渡って、性差ではなく能力で判断させる社会を経験したせいでしょうか…、また学生時代を通じて男性と比べ、自分が劣ると思える事態は起らなかったため、社会に出た私は、自分が男性並みに能力があると言うことが、なぜ受け入れられないのか、ということを理解するのに長い時間を費やした気がします。

それは私の側の問題ではなく、社会の側の問題であったのだ、ということが最近登山を通じて理解できました。

要するに私が敗北だと思っていたことは敗北ではなかったのです…

そうしたことが理解できただけでも、登山はやる価値があった活動だと思います。



Friday, June 13, 2014

新人隊員の懸垂下降の練習 など・・・

■ クライミングは今から出来るようになればいい

教科書通りスポット中
水曜日は平日休みの仲間と懸垂下降の練習をしていました☆

私は

1)セルフビレイ
2)懸垂下降
3)ロープワーク
4)支点
5)相手のビレイ
6)クライミング

の順で、教えてもらいました。 この途中で、全体像が見えない、という想いが1年くらい払拭できず、もやもやしていました。

最近、文登研の確保理論のテキストを読んで、霧が晴れるようにスッキリ~! 

なので、この途中に確保理論を入れると良いと思います。

ロープの紹介、ギアの紹介の時と同時がいいかと。ギアの知識と確保理論は、車の両輪。
あー手繰り墜ちしてしまいました・・・
ここから!ここから!

ギアだけすごくて、確保理論を分かっていないとカッコ悪い・・・(^^;)。



≪参考記事≫

リードに進ませる要件

■ セルフビレイは何を使うか?

何はなくともセルフビレイ!は、アルパインの鉄則です。

初めて懸垂下降を教わる隊員がいたのですが、クライミングウォールの終了点に上り詰め、スリングでセルフビレイを取ったら、腕力尽きて、小規模な落下。

スリングに落ちるとスリングは伸びないので、衝撃がすごい。 

彼も一気に冷や汗を拭きださせていました。スリングに落ちるのって、やっぱり初心者はかならずやりますね。

スリングやぬんちゃくセルフには決して落ちないようにしましょう。

これは、『教科書になかった登山術』にも詳しく書いてあります。




昨今、ランヤード(セルフビレイのことを正式にはランヤードと言います)に伸縮性がないのが高所作業の分野では問題になっているそうです。 

『教科書に…』にも、伸びのあるコードで作るカウテールの話が書いてあります。似たものでは、ヴィアフェラータ用のランヤード。伸縮性があります。

アイスクライミングをしたとき、隣のパーティのおじさんが、伸縮し、長さ調整自在のランヤードを見せてくれました。切り売りしているプルージックのコードで作るのだそうです。

でも、どうなのかなぁ…伸びると使いづらい、という可能性もあります。セルフには常に静荷重をかけておくからです。

他に、PASを使うという手もあります。先輩はこれでした。私はPASの優位性がわからなかったのですが、PASだとエクステンションつきの懸垂下降をするときに、セットしやすい。

スリングだとテンションしているので、張ったスリングの間に道具を入れるのは、入れづらい。

あとはデイジーチェーンを使う人もいますが、デイジーのセルフはちゃんとわかっていないと、短くしたときに全然輪に入っていない使い方もあるので、分かっている人向き。デイジーはホントはアブミの距離の調整用です。

私は120cmのスリングに3つコブを作って使っています。安全環付のカラビナが動かないように結んでおくのがコツ。最近買った雑誌にアルパインクライマーの馬目さんのギアが紹介されていたのですが、馬目さんもスリングだったので、なんとなく、馬目さんと同じにしたくなりました(笑) 
今見たら、馬目さんはPASで、勝山さんがスリングだった・・・PAS買おうかな・・・(笑)
まとめると

≪セルフビレイ≫
            メリット          デメリット
1)スリング     汎用性がある     エクステンションには使いづらい 
2)PAS       長さ調整しやすい   高額
3)自作コード   伸びる(落ちれる)   手間がかかる  
4)デイジー    長さ調整しやすい    知らずに危険な使い方をすることがある

PASは自分がトップで懸垂するような力がついたら、買おうかな?今は私は最後の懸垂下降者なので。 トップの人はバックアップつき懸垂が必ず必要なので、あると楽かも。

≪参考≫
ビビり系登山道具
デイジーチェーンと自己確保
自己確保の考察























■ ハンギング懸垂下降?

懸垂下降は、被った壁の、クライミングウォールのてっぺんでセットを練習しました。

しかし、先輩の若き山ヤ、H本先生は、ほんわか草食男子に見えるけど、実はやっぱり山岳部なんだな~と思いました。

というもの、ハンギングした状態で、懸垂のセット方法を教えるだけでなく、クライミングウォールとは言え、ミニマルチの練習でしたからね(笑) 

結構、スパルタ? 

まぁ教えられる新人、0隊員は、結構見込まれている、ってことですね。

どこまでわかってくれたかなぁ?

大体初めての時って、教わるほうは、次に何が起こるのか分かっていないので、焦りまくりです。

O隊員もビックリ&汗びっしょりでした(笑) 

いや~本人は安全とは一体何を意味するのか?分かりませんからねぇ…。

安全とは強固な支点にセルフでつながっていることです。

あとメインロープとつながっていても、心が穏やかになれます。

普通は、初めての懸垂下降、足場があるところでやります。

セットは足場があり、そこから、おもむろに足場のない場所に降りていく。

懸垂下降では、足場のないところに降りていく瞬間が一番ドキッとします。 どうしても、そのまま落ちて行ったら、どうしようか?と想像してしまうんですよね… 

ので、最初からスリングにぶら下がっている状態でのセットは、ある意味、このドキっというのが無くていいかも? もうずっとドキドキしっぱなしですから。

まずはセルフを取ったら安心ということを学ぶのがいいのかも? 

というわけで、新人はかなりドキドキしていたと思うので、血圧と心拍数が上がった状態で、どれくらい覚えていてくれるかな~?

実は彼には片手で作るメインロープでのセルフビレイでのクローブヒッチの作り方は教えていたのですが、覚えていなかったので(><)・・・ おねーさんは悲しいです・・・

■ 北岳バットレスの懸垂

師匠と昨日は北岳バットレスの話をしました。

バットレスは、マッチ箱のコルの上の懸垂下降が、セットがとっても怖いところからスタートする、そうです。後で写真を送ってくれました。これです。

≪参考サイト≫
http://pub.ne.jp/MX2225749/?entry_id=3939300

なので、初めての懸垂下降をハンギングしないといけないところでスタートするのは、とっても実践的で良かったかも?

なにしろ、私たちは、目指せ!四尾根隊、結成中ですから…。

ちなみに師匠によると、北岳バットレス四尾根の核心は、

スムーズなロープ操作

だそうです。パートナーと、あうんの呼吸でロープ操作できるようになるまで、行ってはいけないのだそうです。

そのためには何をしないといけないか?というと、

三つ峠マルチ(3p)を一日4往復くらいできること、

だそうです。 登る技術が問題にならない、楽勝のところで、ロープ操作に習熟すべし。

■ 懸垂下降101

ちょっと話がずれましたが、まとめておきます。

≪懸垂下降事始め≫
・セルフビレイのセット
・下降のセット
・バックアップつきの懸垂下降

セルフビレイについて、ちゃんと分かってくれたら合格。懸垂のセットは単純バージョンのみで合格ライン。エクステンションつきは覚えていたら、優秀。 

そういえば、ロープがシングルロープで太かったので、私は、マルチ用のATCガイドでバックアップつき懸垂をしたら、ロープが全然流れなかった。 やっぱりロープの径は重要です。

≪学んだこと≫
・ロープの振り分け
・ロープダウンのとき、腰にぬんちゃくでぶら下げて降りる方法
・確保器とロープ径の相性

次回は本番と同じロープでやろうかな~ 

■ オセロ?

私にとって登山という活動は、常識を覆すことが楽しい活動。

たとえば、昨日のモロクボ沢は、一般常識的には雨後の沢は危険。ですが、知識があれば、快適プライベート沢でした☆

危険、とされることを、非危険、にオセロの駒を裏返すように裏返していく…。 そこが面白いんですよね。

私は黒のピース(ダメ)が、白のピース(OK)に裏返るのが楽しいのです。

 アブナイ → 危なくない へ。

 怖い → 怖くない へ。

 知らない → 知っている へ。

 嫌い → 好き へ。

 ダメ → いい へ。

 出来ない → できる へ。

 無力 → コントロール へ。

不安なひとり歩きから、快適なひとり歩きへ。 自信がないからついて行かざるを得ないツアーから、一緒に行きたい楽しい仲間と行く山旅へ。

■ 面白い展開が開けるのが楽しい

人生も同じで、私は18歳で親から完全独立していますが、さんざん周りには出来るはずがないと言われていました。またアメリカに20歳の頃2年ほど渡っていますが、その時も、まさかそのようなことがお金持ちの親なしに出来るはずがないと、私自身も思っていました。

しかし、何かができないという物差しで測るから、何事もできないのかもしれませんよね?

出来るようになるためには何をするか?という発想に、転換するのは、大変楽しいものです。

私にとっては、この次に何が起るか?分からないのが探検みたいで楽しいのです。知らない景色をみたい、ということですね。

たとえば、白馬主稜に行きたいと2013年の春に思ったら・・・・(たまたま岳人に載っていて、登れそうだったし、知り合いが山行計画していた)、そのために、講習会に行ったり、山小屋で働いたり、山岳会に入ったりしたら・・・、なんと願いは、鹿島槍鎌尾根になって聞き届けられました。
白馬岳が鹿島槍に・・・鹿島槍の方がかっこよくていいかも(笑)? 一応そういうのはミーハーです。

雪の西穂は、自分で行けるようになろうと思っていたら、思いもがけず、西穂高沢から西穂登頂になったりしました♪ 自分でも思ってもいない景色が広がり、思いもがけない展開。 

師匠に去年の今ごろ、三つ峠で出会った時、まさか一緒に沢に行くことになるとは想像だにしていませんでした。 

登山は、ピークハントの達成感だけが目につくことが多いです。

でも、達成感って、その構造的に、すぐ限界(つまり挫折)が来るのが、分かり切っている。 何しろ、ピラミッド型の競争原理は、どのような分野のどのような競争原理であれ、勝者は一人しかおらず、99人は敗者に入る仕組みです。大多数が敗北者になるようなシステム、愉しいですかね???

また数を持ち込むのも嫌いです・・・100名山したら、200名山しないといけないし、200終わったら、300しないと行けなくなり…切りがない…。満足感がなく、キリがないのは、中毒という別名を持っています。

私は、すぐに行き詰まることが見えている作戦は取りたくないのです…

というわけで、山はやっぱり自己満足の世界。 

私は大した山には登れそうにないスキルしかありませんが、それでも、色々な別の表情を見せてくれる、登山という世界は大変楽しい。

私にとっては、こうやって四尾根に行くにはどうしたらいいか?と考えていることそのものが、発見続きの冒険行です☆


Monday, May 12, 2014

私にとっての岩登り

■ それぞれの意味

モノゴトというものは、その人にとって、特別な意味がいつもあるものです。

私にとって大人から始めたバレエは一つの自己変革でした。

小さいころ、私はいとこのお兄ちゃんのお下がりを着せられていたし、フリルやピンク色とは全く無縁で、男の子と間違われる子供でした。

女の子らしい、可愛らしいというのは、妹の専売特許だと思っていたのです。それに運動も弟の専売特許と思って育ちました。

そのため、バレエは、「女の子らしいこと=恥ずかしい」という構図を克服するための、一つの課題でした。

闘志を燃やすスポーツにも、柔らかな女の子らしさにも、否定的とまでは行かなくとも、自分とは無関係なこと、という考えを持っていました。

■ 古いアイデンティティを手放す

ある人が、何かに先入観や否定的な考えを持っている時、それは、自分のアイデンティティが脅かされる、と感じているのだと思います。

たとえば、女性の登山者を自立した登山者として扱わず、特別扱いする人は、自分の男性性が脅かされるように感じるのかも知れませんし、このインターネット全盛時代に、ネットを毛嫌いする人は、自分の技能が古くなっていくことへの脅威と感じるのかもしれません。

私は女の子らしさを否定することで、自分の何が脅かされると考えていたのか?

可愛らしさ、ということは、母の役に立たないという事でした。つまり、かわいい”だけ”ですね。

私は役に立つことを自我の拠り所としていたのです。役に立たない私なんて、誰にも求められないと思っていました。

運動が得意な立場は、弟に明け渡していたので、私は自分の担当は勉強だと思っていました。

それは、結局は、母の思想、母が想定した子供たちへの役割を反映していたわけで、私自身の得意不得意を反映したものではなかったのです。

自分の可能性を否定するのはよくありません。

■ 岩

登山の中で、私にとって、岩は同じような感じです。古いアイデンティティに対するチャレンジです。

私の古いアイデンティティとは

 ・あんまり夢中になるのは怖い (統制がとれた状態が好き)
 ・闘志を燃やすのは好きでない (岩では、ここぞという時にハイパワーがいるようです)
 ・無理が嫌い (岩では多少の無理は当然のようです)

でも、まぁ私は確固として、雪が好き。それに沢もしたいのです。

そうなると、3級が楽に登れるくらいまでは岩頑張らないといけません。 

効率よく岩登りに上達するには、一時期クレイジーな時期を過ごさねばならないそうです。

クレイジーになる… もしかして、これが私が一番苦手なことかもしれません。Let it go です。もう、アメリカでは嫌になるほど、Let it Goと言われました・・・日本では、もっと型にはまれと言われるんですが(汗)

何しろ、私の一番の強みは、中庸。中肉中背。良識。可もなく不可もなく。統制がとれたスキルセット。

つまり、私は通知簿に例えるとぜーんぶ4のタイプです。何か一つ得意科目があって、それが5っていうタイプではないのです。英語も数学も国語も4、みたいな優等生タイプ。それは、逆に言えば、子供のころから、自己統制がかなりイケテるという意味です。子供大人だったわけですね。

なので、今、私は大人になって、大人子供をしないといけなくなったのです・・・。子供に戻れと。困ったなぁ・・・。

でも、もしかして、岩、そんなに苦手じゃないのかもしれません。 

それとも、すっごい苦手かもしれません。

それは、正直な所、どっちなのか、やってみないと分かりません。

つまり、未知なる世界なのです。 なので、自分に制限を設けないのが大事なのですが、それが私にとって、とっても難しいのが岩。 

女性の先輩の後姿を見て、マネしてついていく・・・というのが、作戦かな。


Thursday, December 19, 2013

登山をいかに学ぶかその②

■ 登山をいかに学ぶか…

今日も甲府は冷たい雨です。 今日は買い物の他、冬用のダウンを洗ったりして過ごしています。

   登山をいかに学ぶか…

これは個人の未組織登山者にとってはとても難しいことです。

山を学ぶには、独学を除いて、3つ方法があります。

 1)優れたガイドにつく 
 2)講習会に出る
 3)山岳会に入る

これについては以前も書きました。メリットデメリットがあるという話です。

独学も入れるとこうなります。選択肢は4つ。

 1)優れたガイドにつく 
 2)講習会に出る
 3)山岳会に入る
 4)独学

最近、私は これはマルチプルチョイスではなくて、ありとあらゆる手段を全部投入しないといけないのではないか?と考えています。

つまり、

 1)優れたガイドがやっている講習会(2)に参加し、  → スキル導入
 3)山岳会で仲間を見つけ、                 → スキル定着
 4)なおかつ、独学で晴耕雨読し、             → 知識を得る
 4)一緒に行く人がいないときは単独であっても山に行く → 判断力をつける

ということです。

それぞれが各々違った役割があるのではないだろうか?

■ 判断力は自分で登らないと身につかない

山岳会に例え所属していても、ただ先輩の後ろを歩いて行くだけでは何のスキルも付きません。それどころか自分で判断することを放棄しているので、全然ダメ登山者になる可能性すらあります。

それはガイド登山ならなおさらで、ガイド登山で冬山に行っても自分で判断していないので、何の判断力も付きません。

なので、ガイド登山や山岳会に所属していても、自主山行を端折ってしまうと、バランスの良い成長はできません。

■ 独学だけでもダメで・・・ 

しかし、独学で、一人でずっと登っていても、何かしら間違ったことや自己流のやり方を続けていて、それがあまり良い方法でなくても、ずっと気が付かずに行ってしまうというリスクがあります。

やはり正しいやり方、たとえば雪上歩行でも、フラットフッティングやキックステップは習った方が良いと思います。

■ 講習会は一時的

というわけで講習会は必要です…ところが、講習会というのは、一時的な集まりなので、一回や二回講習を受けたところで、山のスキルは身に付きません。

むしろ身に付いたと誤解して自信をつけてしまうリスクがある。

結局、継続的な学習が必要なので、そのための集団を形成する必要があります。

そうなると、既存の会に属すか、自分で会を発足するかしかなくなります。

■ 既存の会=山岳会

山岳会に最初から入っている人は、山岳会で合宿があったりして、有料の講習会に出ない場合もあると思います。

私はこれもリスクが大きいと思います。 英語ではThere is no free lunch (ただ飯はない)と言いますし、Trust but check (信頼してなおかつ自分でチェックしろ)とも言います。

最初から人に連れられて山に行ったり、山岳会に入って他の山の学び方を知らない人のリスクは、

教えてもらう技術の価値が分からない。連れて行ってもらうことの価値が分からない、

ことです。

価値というのは金銭的な価値だけではありませんが、分かりやすいので金銭的な価値に置き換えると・・・

たとえば、私は赤岳に登頂しました。 

赤岳はただ行くだけで、一人4万円 +宿泊費+ガイド経費(宿泊費・交通費の頭割り分2~3千円ほど) がかかります。一般に冬山装備は始めるだけで20万円ほどかかると言われています。

最近はアイスクライミングに行きました。南沢小滝を登るだけでも2人で4万円ほどかかります。
一人2万円くらいはかかるんですよね。それに普通は自分で道具を用意しなくてはなりません。(道具を体験講習では貸してくれるところもあります) ためしに試算すると、クランポン2万円、アックス2.5万円×2、ロープ1.5万円、スクリュー0.8万円・・・ あっというまに10万円はかかってしまいます。

というわけで、こうしたところに連れて行ってくれる人はホントにありがたい人たちです。

■ 教わるものではなく、盗むもの

が、ガイドでも講師でもないので、何かを教えてくれるということを期待するのは、それは厚かましすぎ、というものではないでしょうか…?

山と言うのは、そういう意味で、無料で連れて行ってくれる先輩がいる場合は、

 教わるものではなくて、盗むもの

であるのではないか?と思います。

しかし、連れて行ってもらえることに、感謝の気持ちがなければ、ただついていくだけで、何も見ていない…要するに、何も学ばないわけですから… つまるところ 結局、宝の持ち腐れ、ということになってしまいます。

■ 山は人生の学び場

宝の持ち腐れ…これは人生におけるすべてのことに言えるかもしれませんよね?

つまり、今ある条件を生かそう!という発想です。

 今できることは何か? 

それに全部意識を集中するということ…つまり、それが”今を生きる”ということの意味なのかもしれません。

ちなみに私はヨガを教えていますが、ヨガでは、今を生きろ、と、くどいほど指導しますが、その意味について深く掘り下げることはせず、今に集中するというマインドフルネス瞑想の心理的効果だけが取り上げられることが多いです。

が、私は結局のところ、今置かれた環境や条件のもとにおいて成せる、実現できる、ベストを実現することが今を生きることだと思っています。

出来ることを精いっぱいやる。どんな時も。

そういう事が学べるから、山は「哲」なのかもしれません。 





Wednesday, December 4, 2013

初めて読んだ山の本 『北八つ彷徨』

■ 図書館は山書豊富です

今日は朝から県立図書館に来ています。山口輝久さんの『北八つ彷徨』を読むため。

年上の山の友人が、明日、阿弥陀中央稜に連れて行ってくれることになっていますが、『北八つ彷徨』の中の『岩小屋の記』を読んできて欲しいと言うので、読みに行ったのですが、昨日に限って貸し出し中だったと話すと「岩小屋の記、読んで欲しかったです」という返事。

こういわれたら読まないわけにはいかない、と図書館です(笑)。県立は都合の良いことに『八ヶ岳研究』も隣に置いています。

■ 新しい登山の愉しみを見つけたい 

新しい登山価値とはなんだろうか?と最近、特に考えます。 

従来型のアルピニズムがすでに末期症状を呈していることは、登山4年目の門外漢にも感じられるほど濃厚な空気感ですし、かといって中高年が活路を見出した山のスタンプラリーゲームの百名山行脚にはまったく魅力は感じません。なにより、財布が持ちません(笑)。

登山という”総合芸術”から、スポーツという面だけを取り出したフリークライミングにもまったく魅力を感じません…。何しろ、私は女性で雄叫びあげて岩に飛びつくのが、かっこいい!とはどうしても思えないのです。

登山の映画などで出てくる登山の価値観は、どれも“命知らず”を賛美するもので、現実離れしており、そんなものをリアルにやろうものなら、私みたいなひ弱な女ではなく、屈強な若者であっても命が何個あっても足りません。

大体なんで映画では、アイスアックスを持てば、からなず空中ジャンプして氷壁に着地なんでしょうか(笑)?

槍穂に登った中高年の山自慢と同じくらい、煮ても焼いても食えないものはありません。

標高1700mに過ぎずアイゼンの必要のない茅ヶ岳の山頂で、「俺にはアイゼンがある!」と、ことさら”アイゼン”を声だかに叫ぶ御仁や(どこで使うん?)、五竜岳の山頂で「穂高でぇ~」と穂高穂高とウルサイ山ガールや「鶏冠でぇ」とウルサイ山おばさん(もう、五竜が気にいらないなら、そっちに行ったら?)、ダダの残雪の溶け残りが多少沢に残っているだけの場所で「雪渓があぶないから~」と触れて回るアンちゃん(そうじゃなくて丸太橋が壊れたんですよ)など、出会う度にウンザリさせられます。

そういう人に会いたくないからもう一般ルートの山には行きたくないくらいです。

”山の凄さ”を競うことほど、ガキ大将がけしかける「お前階段10段跳べる?」に近いものはありません。子供じみている。

基本的に登山者の山自慢の大部分は、”山の名前の響きの威嚇力”(=ネームバリュー)と”周囲の無知”につけこんだ、庶民的な誤解に基づくものです。

■ 魅力がない

一方、ホントにすごい登攀は今では専門的知識がないと理解できないものになってしまいました。

そうした先鋭的な登攀者の世界は、当然ながら一般登山者にとっては全く知覚の外でありますし、かといって一般登山者の知覚の範疇に入る山の世界には、今の日本ではどっちを向いても魅力的なものがありません。

下界がそのまま山上に移動したような、そんな環境で、どうやって自然と対話しろっていうんだ?って感じです。

それでも、日本で暮らす日本人にとって、日本の自然は、心のふるさとであることは疑いようもない真実です。

日本で自然がありのままに残された場所は、土地の8割が森林という国にあっては、山の中以外にありようがありません。

しかるに、日本で暮らす喜びの純粋なものは、やっぱり山の中にあるんではないか?と思うので、生まれ育った土地を愛するということはすなわち、その地を、つまり自然を、よく知るということなのかなと思います。

特に海外で水が乏しい生活をすると水の豊かな国に生活できるありがたみを強く感じます。

■ 自然に対する身の処し方

大昔に大勢の若者が憧れたように真摯にアルピニズムの情熱を傾けようとも、あるいは老後の、お金のかからない楽しみとしての山歩きを始めようとも、あるいは、オシャレして向かう山でも、向かうところは一続きで同じ山。

私はハイキングしかしないから遭難しないというわけにはいきません。

そこで行う行為の目的が違っても、舞台となる場所の、特徴、性質、そういったものは同じです。

たとえば、八ヶ岳の嶮しい山、権現岳の麓は天女山という、たおやかな女性的な名前の山があります。

天女山までならだれでも歩けるハイキングコース。
権現まで登る人はアルパインコース。

ですが、山域は同じなので、権現で嵐になれば当然天女山でも天候は荒れ、八ヶ岳おろしと言われる烈風が身体を吹き飛ばさんとする勢いです。

だから、自然の脅威から身を守る術において、ハイキングコースの人は知らなくて良くて、アルパインコースなら、知らねばならないということがあるはずはない。

知るべき内容は同じで、結局のところ、違いは困難度と体力度ということになります。

環境という意味の厳しさでは同じです。むろん森林限界以上の稜線上か森林限界以下の樹林帯の中かという違いはあっても、無防備で良いというほどの環境差にもならないし、もちろん丸腰で行く言い訳にもならない。

というわけで、”自然に対する身の処し方”という意味で、基本的な登山技術というものは、ハイキングであれ、登攀者であれ、すべての登山者に共通に必要な知識のはずです。

それが私が山における技術を求めた理由でした。

自分自身を守る術を知らずに、丸腰で山に入るのはアブナイなと思ったからです。

■ 人との出会い

山では特別に人との出会いが、その人の山の色を決定するものかもしれません。

私が人との出会いに想いをはせるわけは、この『北八つ彷徨』が、私が初めて読んだ山の本だからです。

スマートICがある双葉にプラテーロと言う天然酵母のパン屋さんがあります。ドイツ料理とフレンチのレストランが併設されています。たまたま出かけ、山の帰りだと言うと、このレストランの古老のオーナーからこの本を貸し出されたのでした。

北八ヶ岳が私はこのころ気に入っていたからです。山の帰りにパンを買いによるから、しょっちゅう行っているのがバレバレ(笑)「また行ってきたの?!」「はい!」「北八つが好きなら、いい本を持っているよ。この本を持って行きなさい」

そして、この古老のオーナーからは「私が書いたんだよ」と古い岳人の記事をオーナー自身が寄稿したものなどを借り、そこには、これもまた偶然を演じた記事がありました。それは古いツルネ東稜の紹介記事で、この年私たち夫婦は登ることになります。

ですから、私が古い山の本をよく読むのは、ひとつには、もともと私がブックワームであることもありますが、人との出会いも強く影響しています。

長谷部オーナーとの出会いの後、私たちはガイドさんに教えを乞うたのですが(だって普通の登山者にはガイドさん以外誰に教えを乞えというのでしょう?) その時、「どこに行きたいの?」と聞かれ、「川俣尾根」と返事をしたら貸してくれたのが 『八ヶ岳研究』です。独評登高会。 だから、これも出会いが引きつけた本です。

■ にゅうから川俣尾根へ

私と夫は北八ヶ岳のスノーシューハイクがすっかり気に入ったのですが、にゅうや中山展望台から硫黄岳や天狗岳が見えます。見えると行ってみたくなるのはもう、これは人の情というものです(笑)。

天狗岳は3回も登りました。すっかり満足していましたが、3度目で小屋で出会った男性が、若いガイドさんでした。「ストックでは杖にはなっても滑落を止めることはできない」と指摘されました。ごもっとも。

まぁ「丸腰だよ」とやんわり指摘されたわけですね。さわやかな青年、と思っていたら、同年だったことも反省を促しました(汗)。

そこで、山の教えを乞うことに相成ったわけですが…それが韮崎在住の三上ガイドでした。

三上さんとは以前に山道具屋で開催されたロープワークの講習会でも一度面識はあり、その時も不思議にご縁があるのではないかしら?と感じた覚えがあります。

しかしこの一瞬の出会いから、山行に参加することは思いもよらず(ガイド登山には興味がないので)、1年後の再会という感じでした。先方はもちろん、覚えていなかったと思います。

だだ、「ピッケルを購入したので使い方を教えてください」と言うと、「ピッケルより読図でしょ」という答えで(笑)、差し戻し審判をされているような恰好で、地図読みから出直しでした。

と言っても、あんまり地図読み教えてくれなかったんですけど… 三上さんの教え方は、それとなく、気づかせる、というような教え方なので、教えられているという実感に乏しく、感受性が鋭くない人には三上さんの指摘の的確さはたぶん分からないと思います。 

たとえばの事例ですが…私は慎重な性格なので、山技術を教えてもらうにしてもいきなり雪山なんて行きませんから、最初に資質を見るために三つ峠の山行に日帰りで参加しました。なにしろ、何かあれば、命を預けるんですから、ちゃんとしたガイドでないと困ります。

この時、三上さんは途中のルートを変更して、無名の尾根を降りたんですが、これは私たちの山行の幅を広げさせるためですね。道なき道を歩くという発想には全くなかったからです。(ちなみに夫は元ボーイスカウトなのでオリエンテーリング大得意で、大会でいきなり2位とかなので、私より的確に山を見ていたと思います) このように今その登山者に不足している登山技術を的確に把握するのが上手なガイドさんです。

で、ピッケルの使い方を教わろうとしたわけですが…ピッケルって知らなかったけど、山男の命みたいな道具なんです。山男曰く、マスターオブクライムだそうです(汗)

恐れ多くもそんな大それた道具を気軽に手にして「ストックにするには短いし、この先っぽを突き刺して歩くほど、急な所、行かないし…」と、私たち山素人にとっては、微妙に使いづらい道具だなぁという感想でしかありませんでした。

アイゼンなんてものも、同時期に使用しはじめますが、アイゼン歩行って難しいって言われても、どこが?くらいの感想でしかありませんでした。

技術的には、このような、稚拙な、認識の無い状態であったわけです。当時の私たちは…

それでも…私たちは自分たちだけの力で、天候判断し、ルートの情報を集め、気温の低さや風の強さなどの環境の過酷さに備え、地図を用意し、そこに赤線でルートを書き込み、谷と尾根に線を引き、素人なら素人なりに、「安全だ、大丈夫だ」と思われるときにしか出かけていないので、山の神様はそのような勉強熱心な登山者に牙をむくことはないようです。

むしろ私たちを驚かせたのは、そのような”楽しい判断”をガイド任せにして、まったく登山の判断スキルの無い参加者がほとんどだと言う事でした。

私たちは天気図なんて何枚も見てましたから。雪がなさそうだとみると、予定山行日を変更させたくらいです(笑)。

私たち夫婦はその後三上ガイドの案内で川俣尾根を歩くことができました。これはとてもバランスのとれた過不足ない良い山行で、素晴らしい好天に恵まれ、お山の神様がもろ手を挙げて微笑んでいるように思われたのでした。

■ 私たちの求める山

三上ガイドは面白い山ヤです。川俣尾根に行きたいと言ったらツルネ東稜へ、八幡尾根を歩きたいと言ったら、金峰山黒平ルートへ、ロープワークの確認をしたいと言ったら、黒富士東尾根に連れて行ってくれ、こちらのリクエストを山行に仕立てるのが得意なガイドです。

でも、普通に「初心者なんで北横岳」とかいうのは苦手なようです。なので、三上ガイドに依頼したい人は今の自分の率直な登山者像と将来自分がどんな山をしたいのか伝えておくと、そのための山を組み立ててくれるかもしれません。

この出会いは私の山のカラーをある種方向づけたようで、私は難しい山にどんどん手を出していく、そうした技術追求型の山には興味がありません。

どんどん高い山に行く、という高度追求型の山にも興味がないようです。

ただ自然度が高いところに行きたいと思うと、岩稜という岩の要素がどうしてもでてきてしまうので、多少の岩登りは甘受しなければならないようだということで、クライミングジムには少し通いました。

成果は夏山の縦走が楽だったこと、それと先月はクライミング強化月間で一か月通い、初めて壁でリードできたことでした。

スキルを高める活動には、なかなか興味が持てません…でも山登りするなら、それは義務だと思います。

何しろ、山では女だというだけで足手まといですから。努力してもできないことはありますが、努力できることをなんとかしておくのは、もうマナーとでも言うべきものでしょう。

でもまぁこれ(クライミング)は当人の資質もあるかもしれません。永遠のトムボーイ(お転婆娘)を心地よく感じる女性は少なからずいますから。

私はお転婆ではありませんでした。ただ、弟がいたのでよく喧嘩はしてましたけど。

では、私たちが求める山はどういう山なのか? それはまだ模索中です。よく分かりません。

ただ私たち夫婦は山頂を買うガイド登山には興味がなく、実際、誘われても断って行かないくらいです。

私にとってはガイド登山はなんというか背中を押す感じのものです。

やはり経験の不足により、リスク判断が保守的なので、行けない場所がたくさんあるのです。そうした経験不足による、保守的判断で行かないようなところに、「行ってもいいよ、大丈夫だよ」というようなものが、私たちのガイド登山です。

私たち夫婦が求める山の方向は、低くても自分で登った山であり、多少間違っていても自分でリスク判断した山であり、それは結果として身の丈の山にならざるを得ません。

実際のところ、今年一年講習会などに出て身に着けようとしていることは、雪山2年目で連れて行ってもらったツルネ東稜にどうやって自分たちだけで行けるようになるか?ということと全く同じです。

そういうわけで、初心者コースの高見石に登って、仰ぎ見た天狗岳に登るのに2年、そして、その天狗岳で仰ぎ見た赤岳に登るのに3年ってわけです(笑)

■ のぼれちゃった、そこはかとない自慢

そういう登山をしているので、事前にあこがれを温めることもなく、ただ何となく、晴れているから、八ヶ岳にでも登ろうか、と出かけて、他の登山者の後をついて歩き、登って行った先が赤岳だった、という登山者に、私たちが拍手を送ることができなくても仕方ありません。

以前、どこを歩いているかも知らず前の人について行ったら、鋸岳だったという、おばさん登山者に辟易した覚えがあります。 そこはかとない、のぼれちゃった自慢です(汗)。

でも、そんな登山、何が面白いの・・・?

たとえば、屈強な若い男性であれば、赤岳~横岳~硫黄岳の八ヶ岳縦走路の核心部も雪の状態が良ければ(他の登山者が歩いた跡であれば)、別に特段の困難もなく、歩けてしまうのが普通です。

たぶん確率で言えば私だって歩けます。実際、八ヶ岳では80%のケースはそういう状況であり、悲しき哉、それが八ヶ岳が人気がある理由でもあります。

それは結局、道のコンディションによっては、ロープを出すコースだという知識がないまま、リスクが何か?を全く知らぬまま、歩いてしまえるのが山だからです。

そこで人は増長し、自分には雪山のリスク判断能力がないのだと気づかないまま、山に向かわせてしまいます。そうした機嫌のいい時の山に騙されないようにしないといけません。

そうした、無知と無知ゆえの増長を増長と気づかぬまま進んでしまう人間の姿は、下界で放射性廃棄物の処理方法の確立しないまま、次々に建設される原発と同じメンタリティを感じさせます。

事故が起こってから初めて気が付く。

長く山男時代を過ごした、多くのガイド諸氏は無知による失敗の痛手をこうむり、苦い経験を通じて生き残り、生き残った人だけが、備えと用心の大事さを覚え、保守的な判断をするようになります。

生き残りというのは、大げさではない言葉です。山で死んだ友達を持たないガイドはいない。

(その事実を知っていたがために、私自身今年知人を一人山で失い、私のような稚拙な初歩的な登山者にも山で死んだ知人が出来てしまったこと・・・に戦慄を覚えました。私とてラッキーの生き残りかもしれないのです。というかこれから入ろうとする道はラッキー以外の生き残り策がない世界もしれないのです。)

けれども、私が思うには、そうした死を伴う試行錯誤ではなくても、先人の失敗から学び、最初から保守性的な判断の重要性や、備えることの大事さを学んで、小さな山から、下から山を積み上げていく山スタイルがあってもいいんじゃないかと…。

象徴的に言うならば、向こう見ずと命知らずを競う男性的な登山ではなく、確実な判断力とその判断の的確性を競う女性的な登山です。

■ 想像が当たった時にうれしい

登山は3回楽しいものです。

一回目は企画するときが楽しいです。2度目はもちろん、山行自体が楽しいです。3度目は今度は山行記録を書いて反省している時が楽しいです。

3度目は1回目で想像していたことがどれくらい的中したか、私は自分自身をそんな視点で評価しています。

成功裡に終わり、予想が当たっていたら満足です。一回目の企画の段階で、どれだけ熱心に細部まで企画したか?が、山行が予想どうりに進むか進まないかの分かれ目なので、企画の充実度が、山行そのもの充実度を決めるともいえます。(とはいえ、未知の要素があまりにない山はタノシクナイですが)

そういう意味で、山の企画を温める時間もなく、山から帰ったら帰ったで、山を振り返る時間もないような登山は一体何が楽しいんだろう?と思うのですが・・・。

山に憑かれたように次から次に行く人は何が楽しいのかしら?と思います。

もちろん、私と夫が北八つに通ったように、同じ山域に行けば、企画は1回で山行は3回も4回も出来るのですが、それは一種の地域研究のような感じで、通ったことのないルートを通って同じピークを踏む、というようなケースです。

■ 赤岳西面の山域

今回は実はそのケースに当たり、赤岳さんが私を呼んでいるかもしれません(笑)

先日赤岳に登頂したところなのに、また明日、阿弥陀中央稜です(中尾根でもいいです…笑)、そして土曜日は知人と南沢の滝めぐりです。

このエリアは実は冬季は避けていました。というのは人がとっても多く、うんざりさせられるからです。
(2月の赤岳近辺は大都会です… その分初心者には安全安心です) 

例の『岩小屋の記』ですが…山口輝久さんの書いたところでは、

・八手の藤吉
・マムシ仙人
・中尾根に岩場


とあります。中身は読んでいただくとして、岩小屋というのは、泊まり場として魅力的ですね。私はまだ泊まったことがありません。

11月に予定していた別の山の岩小屋探検山行は、体調が悪くて流れてしまいました。

実は『八ヶ岳研究』の方にも”中山の岩小屋”として同じ記載がありました。これは山口さんの記載ではありませんでしたが。

明日、岩小屋確認できるでしょうか・・・ 今回のスパイスは岩小屋かもしれません(笑)






Sunday, December 1, 2013

答えはYesの赤岳

■ 一般登山と本格的登山の交差点

昨日の赤岳
赤岳は言わずもがなの八ヶ岳の盟主です。無雪期は普通に一般登山者の山です。

ところが、積雪期の赤岳はとても微妙な地位にいます。
 
というのは、赤岳は”本格的登山”において”初級”の雪山ですが、一方、一般登山者向けのガイドブックでは”最上級”の雪山です。

その理解しがたい矛盾について、以前考察した記事があります。

かいつまむと、(一般登山者の上級)=(山ヤさんの初級)です・・・(^^;) もう、こまっちゃう(笑) 

 ※参考までにガイド登山では、赤岳は岩稜帯に入ってからはロープで登山者を確保します。

私は完全に一般登山者として、趣味で登山をスタートしています。ですから、雪の赤岳は基本的に”目標とする山”でした。遠くの目標は八ヶ岳の全山縦走ですから、赤岳はまず越えなければならない課題です。ハードルとしては手前のほうです。

■ いったい何をどうトレーニングしたらいいのか?

「目下のところ、目標とする赤岳に登れるようになるには何をすればよいのだろうか?」 

明確な回答は得られないまま、多くの登山者は、いちかばちかの登降をせざるを得ないわけです。

それは私が選びたい道ではありませんでした。

「赤岳くらい楽勝」という空気は、一般登山者の間でも濃厚です。それは山やにとって初級の山であることから情報が錯そうしているためです。

昔は山ヤしか読まなかった山雑誌。その時代に”初級”と書いても問題なかったものが、今では未組織で、山の技術伝授の歴史の流れの中にまったくいない登山者も、そうした専門雑誌を参考にして山を決めるようになってしまいました。そこで混乱が起きたわけですね。

しかし、一般登山者と山ヤの違いは、リスクの認識力です。

一般登山者が晴天の赤岳に登れても、それは、リスクについての認知が不足したまま、たまたまのラッキーで登れている山という意味です。決して実力を示しているわけではありません。

私はリスク認識が欠如したまま、登れるから登ってしまうという登山をしたいわけではなく、またリスク判断についても他者にお任せした登山をしたいわけでもありません。たとえばガイド登山のようにですね。

そうした登山者は一体何をしたらよいでしょうか? 経験からわかっている範囲で書きます。

■ 第一段階 脱一般登山 ~ 低くても自信が持てる山からスタートすべし

私たちは”自分たちでリスク判断し、安全にたいして自信が持てる山”からスタートしました。具体的には、冬の天狗岳や初冬の西穂独評などに出かけました。そこで得た成果は、次のようなものです。

 ・雪や低温環境に慣れる
 ・雪山とはどのようなものかを知る
 ・装備についての知識

登山独特のリスクは、「リスクとは何か自体を知らないこと」かもしれません。リスクを知らなければ、当然それに備えることはできません。

登山のリスク管理は、一見すると、なんだこんなことか、というような非常に些末に見える内容です。具体的には、雪の山では行動食ですが、行動食に何を持って行ったらいいのか?とか、雪の山で着るべき服装はどんなものか?とか、正解を聞いてしまえば、あっけない、そういう内容です。

なので、”軽視してしまうという心理リスク”があります。しかし、リスクを取らないのではリスク管理したことになりません。山なんか登らなきゃいい、という話になります。

軽視してしまうと言う心理リスクを避けるためにおススメの方法論は自らの失敗を通して学ぶと言うことです。下らなければくだらないほど、教えられて身に着けるより、自ら学んで身に着けるほうが身に付くからです。大体くだらないことは人に教えてもありがたがられませんし(笑)

だから、ピッケルを持つまでに天狗岳3回ってわけです。

ここまでが第一段階です。 ここまでで、雪山が好きなのかどうか?今後もやりたいのかどうか?それが自己判断できるようになると思います。

一般登山者のレベルで挑戦できる雪山は冬の天狗、硫黄レベルが結構限界点です。いわゆる入門と言われる山ですね。私たちはおよそ2年を費やしています。

■ 赤岳までの道のり

私は好きだから続けたいと納得したので、更なる技術の伝授を求めました。

それが2012年2月26日の天狗岳です。ピッケルは持つだけでは意味がなく、使えるようにならなければ意味がないというわけで、プロのガイドさんにスキル伝授を乞うたのがこの山でした。

一般にガイド登山は自分で登った山とは言えません。

が、この時点で私たちの冬天狗は4回目であり、ガイド登山において登頂を買ったものではないことは明白でしょう。

そこから試行錯誤が約1年… 講習会の門をたたき、クライミングジムに通って初歩的な岩登りを身に着け、夏山は後立の岩稜帯を縦走しました。

つまり、それがこの赤岳までの道のりです。

高額な講習費用や山道具費用をねん出するため夏山のアルバイトという犠牲も払ったほどです(^^;)。

振り返ると、この山に登るために過不足ない技術が付くように、山の神様はうまく計らってくれたのだということがよく分かります。

赤岳はピッケルとアイゼンが必要な山であることは良く知られています。

しかし、そうした技術をみにつけるにはどうしたらよいかについては正直な所、あまり納得性の高いアドバイスはありません。

結果、何がどう身に着いたらどこの山に登っていいのかどうか、よく分からない。

山は自己責任と言われるのに自己判断できないのです・・・(汗)

私も、一年前、雪の岩稜を通過するために安全性を高めるには、何をどうトレーニングして身につければ良いのか、よく分かりませんでした。

今ではアイゼンワークについてならよく分かっています。 自分の欠点・弱点、強みについてもよく分かっていると思います。

■ 第二段階 ・・・ 環境探し

まとめると、第二段階では

・岩稜帯の投降について夏山で慣れる
・クライミングについて多少の知見を得る
・初めてのロープワークに触れる

などスキル面を強調した山をすべきでしょう。 この段階では体力UPは、目標ではなく前提です。

■ 達成とはじまり

今回、積雪期としては、初めて赤岳に登頂しました。 実はこの前に重要な決断をしました。山岳総合センターの講習会を途中退場したのです。なので、私にとってこの山行の成功は意味が大きいものです。

これは山岳会の山行に同行したもので、お見合い山行(笑)とでもいうべきものです。

頂上荘前から赤岳山頂方面を望む
私にとっては今シーズン初の雪山。 つまり、これは足慣らしの山です。 

雪山は環境が過酷なので、いきなりだと体に堪えるだろう、と私たち夫婦は足慣らしで、11月の西穂独評に行くなどしていました。ただ、今年は、実は、秋は少し体調が悪く、出かけられていませんでした。 ので、私の懸念は岩稜帯ではなく、むしろ体力の低下を少し心配していました。そこで、出かける前に低山を少し歩いておきました。

今回も、山の神様は、これ以上ない快晴で私を迎えてくれました。

雪の赤岳は素晴らしく・・・

それはまるで「ようこそ!」と言っているかのようでした。「よくやったね」ではなく、「ようこそ!ここへ」でした。

私の山の喜びは達成感という一言では片づけられないものです・・・ それは、山に導かれていることに対する実感。そうした実感は山を始めたときからありましたが、改めて感じると、多少の驚きも感じます。

どの人も運命と言うものには導かれているものだと思います。出会う人、出会う場所、人が経験することには偶然という名ではあれ、大いなる存在によって、無意識や潜在意識の力が働いていると思います。ただ普通人はそうと思っていないでそうしているだけで。

直観力などを持ち出さずとも本来は人はみな導かれているのですが、そういう風に納得できる機会というのは、瞑想などで自分自身で作り出す他は、なかなか難しいものです。

私は自分の直観力に対して信頼があるほうですが、改めて実感すると、それは深い感動を伴います。

道を選んでいるのは自分でいるようでいて、自分ではないのだということ・・・。委ねるということ、ゆだねても大丈夫だということ、そういう感じです。

導かれているものが何であるにせよ、それは正解へ至る道を選んでいる。そのことに対して改めて信頼性を深めました。

行者小屋前から赤岳 うららかな冬の一日

山行報告は今から別途書きます☆

Friday, November 22, 2013

山はendlessly interesting

雪をかぶった北岳は荘厳です
朝、夫を送り出して、家事をすませると、大体いつも10時ごろになります。

今日は久しぶりに裏山を散策してきました。

ちょっと散歩のつもりが帰ったら1時半。標高、たった548mの山で(笑)。

■ しばらく山は休み

しばらく山には行っていませんでした。

別に行っても良かったんだけど、わざと行かなかったんです。

一つには体調の悪さがありました。ヨガが体に意識を向けさせるのは、体を日々の生活の羅針盤として使わせるためです。毎日、同じ時間に同じことをしていると日々の体調の微妙な差が分かるようになります。私の羅針盤は、なんとなくNoと言っていそうでした。

また一つには、山へ向かう理由を失っていました。退屈な日常から逃げるというニーズはゼロ(笑)。私は充足していました。山より家にいたかったんです。

さらに別の理由は、私が一つの”謎解き”を完了したからです。私を山に向かわせた理由の最大の理由は、”謎解き”でした。

登山新参者としての謎や疑問の多くが、夏の北ア事情をつぶさに見ることや、講習会の参加で、「な~んだ」というあっけなさを伴って解消されたので、私は探偵ごっこをする必要が無くなったのでした。

山の社会事情は”もうわかった感”があります(笑)。

■ 数値、ブランド、達成感、自分との戦い

私には、○○の地図にある道を全部歩きたい!とか、百個の山を全部歩きたい!というコレクター的感性はなく、さらに数値的な目標は・・・、まったく持っていません。

数値的な目標なんて、遊びではなく、仕事みたい・・・で、あまり好きになれません。

さらに残念ながら、高いところに登りたい!という”登山者かくあるべき”な気持ちもないのです(笑)。スミマセン。

私はその意味で登山者たるべき資格を持ち合わせていないのかもしれません・・・。ホントに。
クライマーは登れたらなんでも、うれしいらしいので。私はクライマーではありません。

さらに言えば、山のブランドにも興味がないし…。

無論、山ヤは自己顕示欲ではなく、自己との対話のため、自分と戦うために山に登っているんだと思いますが、それさえ私にはどちらかというと、後付の根拠かもしれません。

私は自分をわざわざは追い込みません。さらに困難な山を目指すわけでもない。いつも”等身大”でいることを目指しています。

山で自分を高めていく…という気持ちも実はあんまりないかも・・・。これは山が男性のアクティビティで私が女性だからかもしれません。

山における私のステップアップは、何のためかというと、”無理を避けるため”。 無理がなく達成できた山に喜びがあり、無理をして達成していたら、私の喜びは半減するでしょう・・・。(ただ断っておくと、”男は無理してナンボ”ですよね・・・)

そして、登山者として最大の欠陥かもしれないのは、いわゆる山頂を極めることの執着がないかもしれないことです。ピークは登山全体に必要なアクセントって感じです。欠けたら変な感じがするけど、無くてもケーキはおいしい、要は全体のバランスです。

■ 好奇心、インスピレーション、心を奪われる美しさに出会うこと

ただ…山というのは、私にとってendlessly interestingです。

登山と言う趣味を続けている理由は、例えるなら藪山みたいな感じです。

この先に何が出てくるかしら?知りたい。

次から次に、色々と面白い展開が開けるので、目を離せないドラマみたいな感じなんです(笑)

あとは「苦を忘れる面白さ」。

雪の山に行くたびに、寒さや朝の早起きの苦労、色々な煩わしい面倒など、すっかり吹っ飛んでいます。山は心奪われる美しさです。

覚えていることは美しい景色だけ。 そして、いつも行ってよかったなって思うんですよね。

それは要するに、人生の終焉はこのようでありたい、ということであるかもしれません。つまり、死の床に着いたとき(いずれ誰もがそうなります)、いいことだけ覚えていて、悪いことはすっかり色あせて忘れてしまっている、そんな人生でありたいと私が思うからかもしれません。

そういうわけで、山という趣味で、私はオーソドックスな登山者であるかどうか?は、かなり疑問符です(笑)。

私みたいな人は絶対多数派じゃありませんね(笑)

■ 見えなかったものが見えてくる喜び、自由が広がる喜び

富士山が鉄塔脇から見える
今日は裏山…もう知り尽くしたと思ったんですが…まだ知らない道がありました。道だったかどうか…そこは疑問です(笑)

ふと脇に泥と岩が固まった2mくらいの箇所があったのです。斜度70~80度くらい。

なんとなく、脚だけで登れそうだと思って試してみたら、石が抜け落ちましたが…(笑)、とりあえず登れました。そしたら少しの藪の先に道があったので通ってみたんですが…通れた。

きっと、この山は小さい山なので、どこだって通れるんだと思います。

登れそう…と思ったのは・・・クライミングをしていなかったら、こんな発想はしなかったと思う。つまり、私の山というフィールドにおける”自由”は少し拡大しました(笑)

桂の木の葉は秋になると、キャラメルのようなとてもいい匂いがします。桂の葉がそうなることを知らなくても「あ、いい香りだ」とは思いますが、それが桂の木だと知っていると、「あ、近くに桂がある」と思います。


今日も地面をみると掘り返された跡があって、「猪だな」と思います。「夜はやめよう」そんな感じ(笑)。

そういう”山とのやり取り”が楽しいなって思うんですよね。フィールドから小さなサインを受け取ることが。受け取れるサインは、ベテラン登山者になればなるほど多くなるらしいです。

雲を見れば天気が分かり、風の音を聞けば山の機嫌が分かり、緑を見ても、大地を見ても、雪を見ても、山がその人に語りかける…そういう人に憧れています。

そういえば、今日は小鳥たちがやたら騒がしかったです。何かお家騒動でもあったのでしょうか?な感じでした。

■ 黒富士東尾根

週末は楽しみな山行が予定されています♪

黒富士東尾根。 知っている人いないんじゃないかと思います。これもリクエストして、色々一緒に考えてもらって、提案してもらいました。

≪要件≫
・参加者は2名のガチ山女子
・両方ともクライミングは初心者(講習会レベル)
・ロープを使う山がしたい

候補は

・阿弥陀南陵
・阿弥陀北陵から御小屋尾根
・十二ヶ岳の岩場
・三つ峠
・太刀岡山
・黒富士東尾根

考慮した条件は
・雪(地面のコンディション)
・アプローチの長さと山行目的のバランス
・気温や風などのストレス

色々考える・・・

・阿弥陀南稜=ロープは要らない。(ガイドさんツッコミ:、P3を広河原沢に回り込んだルンゼでロープを使ったほうがいいと思います。)
・北稜の方がロープを使う箇所はあるが、雪が少なくグラウンドも安定していない。
・素手でロープが扱える場所の方がしっかり学べる

の結果、絞られて八つはパスに。

 黒富士 太刀岡、三つ峠、十二ヶ岳

さらに絞り込む・・・

・手あかのついた岩場だと、クライミングのほうにシフトしてしまい、自力登山のシュミレーションにならない。
・トップロープでの岩登りなら誰にでもお願いできる。

と、これらの点を考慮の結果、そういう誰でもできることではない山、オリジナルライン、ということで

 黒富士東尾根

に決定しました。

結果、テーマは”一般道ではない尾根で、危険回避のロープワークをしっかりやりましょう!”となりました。

実際の岩場でのリードクライミングです。

テーマは 
・読図
・ランニングの支点取り方
・トップロープ
・二人が交代でリード

と盛りだくさん。 

とっても楽しみになりました☆

Tuesday, October 1, 2013

生きるために山に行く

■ちっぽけな自分

山に行くと嫌なことを忘れる… そんな風に思って山に行く人は、実は少なくはないようです。

雄大な自然や厳しい環境で生きる動物たち、それに過酷な環境に適応して生き延びたお花、水と風が気の遠くなるような時間をかけて浸食した地形、それに満天の星空…私たちは星の光が何万年もかかってたどり着いているのをすでに知っています…

そういう自然の在り方を見ていると、どんなに自分にとって大きな悩みであっても、その悩みがちっぽけなものに思えてくる…

それは誰しも経験があるのではないでしょうか。

そして、もし、誰しもが同じように思うのなら、それは真実なのではないでしょうか?

■ 問題は大きな目で見るといつでも小さい

約10年ほど前、久しぶりにサンフランシスコに行き、旧友を訪ねると、ジムおじいさんがいました。

ジムは定年退職した元・看守でした。大男で身長はアメリカ人の中でも大きく、私なんか子供に見えるくらい。ジムは学生が入れ代わり立ち代わり住む大学近くのシェアハウスで、ガレージを改造したインローと言う部屋に住んでいました。インローというのは義理の(in-law)という意味で、嫌々ながら引き取る義理の親を押し込む部屋とくらいの意味です。でも実際インローはトイレもバスも上の階とは別で、かなり住み心地が良いものです。ただガレージ改造なので床が…ね。

ジムは出会った時から年寄でしたが、さらに年を取ってそしてアフリカ旅行から帰ってすぐでした。感想を聞くと「アメリカのことなど心配しなくなった」そうです。なぜ?と聞くと「アフリカでは今日死ぬか明日死ぬかの戦いだ。アメリカではあと30年後に年金がないと言って騒いでいる」と…

たしかにそうですよね。先進国の我々が持つ不安なんて、「老後が心配…」などとまだ起こってもいない未来を考えて心配になり、今生きている現在の時間を台無しにしているのです。

今この同じ地球上で、飢えて死んでいる人がいるというのに、私たちのもっぱらの関心は、痩せること、なんですから。

明日死ぬかもしれない人たちの現実と日本で毎日温かいものを食べることができるのに痩せることを目的にしないといけない人たちの現実…その差は生まれ落ちた場所の差だけ!

地球的視野でみると、先進国に住む我々の悩みなんて悩みのうちに入るのでしょうか…

たとえば山の問題と言えば、鹿が増えて困っている、と言うことになっていますが、鹿が増えるのと、同じ日本人なのに飢えて死ぬ人も出つつある貧困問題ではどちらが優先すべき重大な問題なのでしょう…

一方では老いて仕事に就けないからといって、人に食べ物すら与えず、一方で野生で(つまり無料で)生きているだけの鹿をただ増えすぎたからと言って打ち落とすために税金をつぎ込む・・・のが、私たちの生きている社会なのです。 

■ 大自然の目線で自分の問題をとらえなおす

そうやって、大きな視野で自分の問題をとらえてみる。

それが重要なんですよね。 

だって、な~んだ、そんなことで、ウジウジ、イジイジしていたのか、と、自分で自分がばかばかしくなってくる…

それが、精神の平衡を取り戻すってことの意味だと思うんですよね。

それは何だっていいんだろうと。海でも山でも。星でも。石でも。

だから、人は、海や山の大自然に触れ、自然の大きさ、大きな視野を思い出させてもらいに山にいく。

そうして精神の平衡感覚を取り戻し、また元気に人間界のいざこざに対処できるようになって帰っていくんだと思います。

それが自然と人間の正しい付き合い方なんじゃないかな?

人生とはままならぬもの。苦しいことは次々にやってきます。そう考えると・・・

生きるために山に行く、というのはそういう意味であながち大げさな言葉ではないと思うのは私だけでしょうか?

Tuesday, September 17, 2013

自分の登山を見つける

■ 今日から秋です

甲府は今日は台風一過の素晴らしい晴れです。2013年は9月17日から秋。山では初氷。

涼しくなって、家事がやっとはかどるようになりました。これまで山を下りて2週間、家じゅうの整頓や洗濯をやりたいと思いつつ、体が付いていかず、ホントに苦痛でした。

今日は洗濯物を干すのも気分がよく、お天気ひとつで、人間の幸福はこんなにも左右されるのだと感じています。

そう、人間の幸福なんてほんの些細なことから生まれる… お天気さえよければゴキゲン♪ですね。

今日はずっとやろうと思っていて、けれども、暑さにまいってしまってぐったりして、できなかったことが出来る。

■ 後ろ姿の夏

一方で、夏の終わりに一抹のさみしさも感じています。

というのは…沢…です(ため息)。 

あの逃げ出したくなるような夏の暑さ…から、本当に逃げ出して、沢のひんやりとした水にドボンと浸かる爽快感を感じられる季節が終わってしまった…(涙)。 とうとう今年は、そういう泳ぐ系の沢をひとつもしないまま、終わってしまいました。

しかし…こんなことを、暑い暑いと文句を言っておきながら、涼しくなればなったで考えるなんて、人間というものは、なんて愚かな動物でしょう。 失われて初めてその価値に気が付く動物ですね。私もその一人から免れ得ないってことですね(笑)

実は、沢をやる機会はあったのです。

…が、折からの大雨の後で出水が気になり、気温も低かったので、理想とするカッとした暑さ&ひんやりの沢では到底なく…入渓からレインウエアを着て鉄砲水を恐れての徒渉では…脳裏に移るのは寒さに凍える自分でした・・・と戦意が萎えて、取りやめにしたのでした。

ヤル気がみなぎっているときはそれでもやれるのですが、ちょうど条件的困難を乗り越えるタイプの山行には気分が萎えていた頃でした。体調もおかしく、雷の尾根を歩いたときの風邪がぶり返していましたし…

…という事情で、今年は沢はお預けですね。山の神様は、私には沢はまだちょっと早いとお考えのようです(笑)

昨日の台風で、もう秋の山行を企画する季節になってしまいました。

私の今年の夏山は尾根に捧げられたってわけなんだな。

まぁ山は、「尾根三年、沢三年、雪…」とかっていうんですってね。

急ぐことはない。 と言っても、山の趣味は甲府に居る間だけ、と決めていますから、あと何年甲府に居るか分かりませんから、何十年も山をやるわけではないんですが。 

■ 貴重な知見

私が最近お山から得ている大変価値ある知見に「人生は自分のものであるようでいてそうではない」というものがあります。

出生、学歴、結婚、子供の有無、出会い…どんなものも自分で選んでいるように思えて、実は自分では選んでいない。

山は登りたくともお山が心を開かねば登れないのと同じです。意思の力の届かぬ領域を受容する心…。

人間の幸福は、ないものを数えることにはなく、あるものを数えることにある。・・・のは、皆、百も承知のことと思いますが、それが骨身にしみるのがお山です。何しろ、自然が相手ですからね。でもよく考えたら人生そのものだって、意のままにならぬものが相手なのです。

■ 登山とスリルとリスク

後立縦走…本来、特に志向していない岩稜帯…とっととやっつけちゃえ!感がありました…(笑)

一般的に現代の登山者にとって、登山の醍醐味は一体なんだろうか?と考えると、

・スリル
・挑戦

は、アルピニズムの伝統であり定番であると思います。ギリギリボーイズ系ですね。

現代はリスクフリーな時代。 リスクがない=危険がない=スリルがない=生きている実感に欠く、という構図は、おおよその山岳文学の基本的なテーマの立て方です。もう古臭いくらいかもしれません。

無鉄砲な荒くれ男が自分の力を試しに山に向かう・・・。

このテーマの立て方、最近の本では、マンガ『孤高の人』ですね。主人公は森文太郎…のちに妻の名で加藤文太郎になりますが、基本的に若き高校生の森君がクライミングに目覚めたのは、”墜ちたら死ぬ”ところを危機一髪、クリアする快感でした。生きてる!!!って感じ。

今の登山でも、たぶん、基本的な構造は同じで、生きてる!!!ていうスパイシーな感動が、辛さでいうと、ハバネロクラスから、七味程度のマイルドさに落とされたような感じでしょうか。

たかだか七味程度のクラスではあっても、それでも、一般的に登山者は、スリルと挑戦を求めて山にやってきているのだと思います。特に難しいとされる岩稜帯を歩くようなチャレンジ主体の山に来る場合は。

そこがお化け屋敷やジェットコースターなんかのスリルを味わう娯楽と登山の類似性。バンジージャンプをする人と不帰ノ嶮に挑戦する人の類似性。

(リスクを取るという行為)と(達成感)は物事の表裏ですから、(リスクを取る)という行為が一般社会にない現代という時代、・・・というか日本人の特殊な心性の一つである、リスク嫌いからか(?)・・・、人は娯楽として、多少のリスクを伴うもの、を求めているのかもしれません。つまり、人生や社会生活において”リスクを取る”ということをしなくなったからですね。

私とて、その例外には入らず、(天候リスク)や(単独行リスク)、(女性であることのリスク)や(体力が不足しているリスク)、(転滑落リスク=技術が不足しているリスク)、(経済的リスク)、(道迷いリスク)などの諸々のリスクを乗り越えて、(無事下山)したときには、とても達成感がありました。

誤解を避けるため、ちょっと強調しておきたいのは、達成感があるのは(登頂)ではなくて(無事下山)です。 登頂で喜ぶのはまだ早いのは登山者の常識。だから、80歳でエベレストを登頂しても下山でヘリを使った三浦さんが色々と議論されていますよね。下山まで山は終らないのが登山。

★登山における様々なリスクとリスク回避法
 
 天候リスク → 観望天気・天気図の知識を勉強する
 単独行リスク → 人の多い山を選ぶ、山で同行者と歩く
 体力リスク → トレーニングをする、無理のない計画をする
 転滑落リスク → ボルダリングジムに通う
 道迷いリスク → 地図読みを勉強する、よく気をつける 高度計
 経済的リスク → 節約
 女性であるリスク → 人の多い山を選ぶ、同行者と仲良くする、小屋番さんに顔を知ってもらう
 子供連れリスク → 人の多い山、易しい山を選ぶ

達成感に話を戻しますと、その達成感はおつりが来たくらいです。

今振り返ると、私はこの手の達成感から、早く卒業したかったんだな。

■ チャレンジすることは良いことです

私は挑戦することには、とても価値を置いてきた人間です。チャレンジ好き。

それは私の経歴が物語るところでもあり、18歳で親元を離れた自立から、20での海外への渡航やその後の転職の回数、独立、引っ越し好き、などなど・・・仕事自体の中身も、開発や開拓営業、新事業開発と、チャレンジ続き(笑)。

1)自分で自分の取り組み対象を決める
2)この取り組みにおいて達成とは何か?を自分で定義する
3)その達成に何が必要かを細かくブレークダウンし、一回に一個ずつ片づける
4)小さな勝利を重ねる。失敗には固執しない
5)時期が来れば、積み重ねが自己目標の達成につながる
6)目標を再設定する

このサイクルを延々と回してきた…私の毎度のパターンです。

お受験から始まり、語学、バレエ、最近では登山が加わりました。時々人から「自信にあふれて見える」と言われるのは、一つにはこの行動パターンを比較的早期に身に着けたせいかもしれません。別の一つのコツは、そもそも判断の指針を内なる神以外にゆだねない、ということがあります。

取り組もう!と思ったことに対して一定の(自分なりの・・・ですが)成果を得る…のは、もう慣れっこ。

なので今、登山と言う趣味で、また6)の目標再設定、のステージにいるってことが、自分でもよく分かります。

登山においては、今は目標に”岩”を据えるかどうか?そんなところが争点です。

ただ…今日はふと思ったのですが、もしかして、これらの行動パターンを塗り替える、新しい行動規範が私には必要なのかもしれませんね。

振り返ってみると、私にとって行動の原動力は、スリルへの希求心ではなく、好奇心、でした。

知らないものを知りたいという思い。 好奇心とかあるいは探究心と言った方がいいかもしれません。広げるより、深める志向にあるので。  

■ 卒業してどこ行くの?

登山における”スリルを味わうことによる喜びとリスクを乗り越えることによる達成感”…

それらを卒業して、どこに行くのか?

実はそこんところはよく分からないのです(笑)。ただ、スリルは私は登山には一切求めていないですね。

でもまぁ、山のことは山に聞くしかないわけで、行ってみないと分かりませんね。行けば分かる。

それが山の良いところでもあります。

また、それが自分に問う、ということの実態でもあります。

自分の内なる神に問う・・・には、やっぱり山に出かける。(それはヨガでもバレエでも瞑想でもいいんですが・・・)

また山かいな!!ってな結論になってしまうところが、すでに山バカ?!な感じではありますね(笑)

剣、もとい立山、が私を呼んでいる・・・かな?!



Monday, May 6, 2013

山のコミュニケーション力


■ リーダーに必要な表現力

3シーズン目の雪山では、社会人山岳会にゲスト参加したり、公的機関の講習会に出たりしています。
偶然ですが、雪山でのテント泊。 

2つも出て感じたことは… リーダーの表現力が大切、ということです。

★リーダーは次にすべきことをすぐに明示できるべきだ。

良い例:到着地に近づいてきた
       ↓
    「さあ、みんな、どこにテントを張ろうか?」とテント適地を探すようにメンバーに声を掛けられる。

悪い例:自分だけがテント適地を探してしまう。
       ↓ 
    自分だけが探しに行き、なぜそこが適地かメンバーは分からないまま、整地が始まる。

これは一時が万事ということなのです。

テント適地を見つけるところのみならず、次は整地、整地はどの程度終わっていいか、装備はどういう風に置いておくか、テント内にいつのタイミングで入っていいのか、食事の用意はいつから始めるか、すべてにおいて重要なのは”一声かける”ということです。

つまり…これからすることを全部言葉にして表現する。 次にすることは全部表現しないといけない。 夜寝る前は「明日は4時起きの6時出発です」と声をかけ、起きたら「あと2時間で出発です」とか、「トイレは順繰りに行こうか」などです。

つまり、普段の生活なら、無意識にやっていることを、全部意識的にやる必要があるのが山です。

なぜなら、たとえば、装備をどうするか?だけの1点をとっても、非常に些末なようですが、

・木につるすべきなのか?
・その辺に無造作に指していていいのか?
・一か所にまとめるのか?
・すべての装備をカラビナ等で連結しておくのか?

などの多彩な選択肢があり、それらの判断の根拠は

・木につるすべきなのか? → 豪雪により、すぐ埋まるから
・その辺に無造作に指していていいのか? → テントサイトだったり、無雪だったりして無くさなければいいレベルの危険しかない場合
・一か所にまとめるのか? → 無くさない工夫だけすればよい、リスクは少ない
・すべての装備をカラビナ等で連結しておくのか? → 雪崩で持っていかれるリスクがある場合

など… 些末なことのようであっても、経験による判断が必要だからです。

明らかに好天の下であってもそこが雪崩地形であれば、雪崩に持っていかれるリスクはゼロでないと判断して、カラビナ連結を選ぶリーダーがいるかもしれません。

その場合は、「ちょっと用心深すぎるようだけれど、ここは雪崩もありうるから連結だけはしておこうか」などと言ってくれると、メンバーも安心できます。

登山は、こうした些末で小さな判断の連続なのです…。そして、その判断を表現することこそ、リーダーの役目なのです。なぜなら、メンバーはリーダーの判断をサポートしたくてもリーダーが判断を示さなかったらサポートできないからです。

■ リーダーの表現力が足りないとパーティがばらける

メンバーが勝手な行動をし始める、と文句をいうリーダーがいますが、それは次にすべきことをメンバーより先に指示しなかった場合です。指示という言葉が適切でなければ明示。 

メンバーを迷わせたのは、リーダーの言葉による表現が遅すぎた場合です。メンバーの勝手な行動を責める前に、次にすべきことをきちんと明確にできていなかったという点を反省した方がいいのです。コミュニケーションの失敗ですね。

こうした失敗は、期待から出ます。「言わなくても、もうわかっているだろう」と思ってしまうのですね。それは分かっているだろうと思ってもくどいくらい言っておくのがいいのです。期待はしないと決める。 

なぜなら、今は昔のように一般的な登山教育というものがないからです。たとえば、リーダーがロープを束ねている間にメンバーはどうすべきか?水を飲んだり、何か食べたりして出来ることをやっておくべきですが、そういう風に今の登山者は教育を受けていません。

するとなんとなく過ごしてしまって、さぁ出発とばかりに歩き出してすぐ、「休憩したい」などと言い出します。リーダーからすれば、「えっ?さっき休憩しておいてくれなかったの?」などと考えてしまいます。 

こうして、メンバーが各自のタイミングで休憩を取りたがったりすれば、メンバーが多ければ多いほど、どんどん行程は押してしまい、結果として予定時間より長くかかることになります。逆に遠慮がすぎるメンバーもいて、声をかけないと休憩さえも自分で取れません。服を着るか着ないかまでリーダーが支持してやらないとできない人もいるくらいです。

そうこういう理由で時間が余計にかかれば、精神的プレッシャーも増しますし、何もいいことはありません。
つまり、メンバーが多ければ多いほど、言葉による当たり前のことの表現は重要になります。

パーティの分断は回避できることであり、リーダーの力不足によるものです。 手慣れたリーダーなら自然とできていると思います。

■ 拘束

私は自立したタイプなので、団体行動は苦手です。拘束が嫌いです。でも、考えてみれば、リーダーシップがちゃんとしているときは嫌でなかったんですよね。いわゆる仕切り屋でも、嫌味でない仕切り屋もいます。

リーダーはたぶん、メンバーから値踏みされることに耐える精神力を持つべきです。メンバーがついて来ない、という場合、たぶん、リーダーシップに疑問符を抱かれているかもしれません。 

が、その疑問符を抱かせたのは、リーダー本人かもしれません。判断力というのは、リーダーだけでなく、メンバーにもあるからです。山は自己責任なので、リーダーの判断力より自分自身の判断の方が自分の命を守れると判断したときは、メンバーは自分の判断に従うでしょう。 実際、遭難現場では自分で判断した人ほど助かっているわけなので。

私が最近した自己判断は、岩場で一人で勝手に先を行ったことです。というのは、ご一緒したのが70才を超えた方だったので、リーダーにはその方のフォローに集中してもらった方が良いと思ったのです。判断の根拠は

・リーダーに登れない人に集中してもらうため
・その岩場はまったく問題なく一人で通過できる場所だった
・待たせている人がいると登るほうはアセる

リーダーシップが、リーダー個人のメンツやプライドと連結している場合、こういう行動はたぶん「身勝手」として、非難を受けるかもしれません。これは私のメンバーとしての判断でリーダーの判断ではないからです。リーダーの側からするとたぶん「ああ、一人で行きたかったんだな」と思ったくらいかもしれませんが、それでよいと思います。このケースでは、先の安全地帯で到着を待ちました。危険地帯はさっさと通過するのがセオリーだからです。

■ 普通のことを表現する・・・ヨガの例

考えてみると、普通のことをあえてわざわざ表現する、というのは、ヨガと、とても似ています。たとえば、ただ立つだけの山のポーズ。ヨガの基本中の基本で、サンスクリット語でタダサナと言われています。

①足は骨盤幅以下に開いて立つ
②足は、小指の腹、親指の腹、かかとの内側、かかとの外側の4点で立ち、完全に両足を並行にする
 たいていの人はかかとが近すぎ、足は外側に開いているのでかかとを近づけすぎない。
③両足の鉛直のラインが、骨盤のちょうど真ん中、膝の真ん中、足首の真ん中、最後は第二指、第三指の間を通っているようにする。
④骨盤は前傾も後傾もしないで水平を保つ。そのためにはおへその向きに注目する。
⑤おへそを引き上げる。(=丹田の力を抜かない。丹田から力が抜ける場合は、疲労や病気で生命力が弱っているケース)
⑥上半身はリラックスする。
⑦胸は開き、肩から力を抜き、肩峰と耳は横から見たときに同じラインにある
⑧⑦をすると腕は、上腕は自然に外旋する。そのままだと下腕も外側に開くので軽く内転して内側に戻す
⑨あごは軽く引く。(首が前に出すぎている人が多いため)
⑩視線は鼻先を見る
⑪リラックスした呼吸をつづける

とまぁ、こんな具合に立つだけでもやることが11個!!もあるのです。実は、これは基本しか書いていない…(汗)

ので、実はもっと表現すべきことがあります… たとえば、土ふまずを引き上げる、とか…。

これを毎回マシンガンのようにしゃべっているわけなんですが…その経験と比べると登山で必要な表現力は、ここまで微視的でなくて良いような気がします。

山とヨガの共通点… は、当たり前のことを丁寧に表現する必要がある、ということでした。

まぁそれを考えてみると、人生そのものも、当たり前のことを丁寧にやることが幸せへの近道のような気がします。