Thursday, June 11, 2015

サンフランシスコの思い出

■サンフランシスコの思い出

なぜだか、私は小さい頃から、今ある環境から逃げたかった。それで、子供にとって、手っ取り早い逃避先は、絵本や読書で、むさぼるように本を読んだ。

3年生で既に村岡花子の訳した赤毛のアンシリーズは全巻読破したし、次にヘミングウェイやトルストイを読んだ。5,6年生の頃には、読書量は月10冊くらいになっていた。それだけ逃避していたということか(笑)。でも、たぶん勉強で、あんまり苦労しなかったのは、読書のおかげだと思う。

そういう子だったので、進学は格好の逃避の口実。その次にしたかったのは、海外逃亡。進学は、単独実行はなにかと大変だったが、何とか成し遂げた。次は海外逃亡だ(笑)。

進学した年に、黒人の女性の先生が赴任してきた。日本では初めて迎える黒人女性の大学教授だ。

カリフォルニアバークレー校でドラマを専攻した、ケニア人の先生だった。オモデレ先生は、日本文化にまるで疎かったので、最初、アメリカ式に授業して、誰も先生の言葉を理解もしないし、先生が「質問は?」と言っても、誰も挙手しないのに、呆れ果てていた。ヤル気あんのか?この学生らは!という訳だ。日米文化の差を知らなかったのだ。

ただ先生の授業、専門が黒人女性文学で、家庭内暴力や性的虐待に遭っている黒人女性の悲しい話を主題にした文学作品(当時でピュリツァー賞を受賞した『青い目が欲しい』とか『カラーパープル』)が主体で、とても悲しいのだった・・・(汗)。黒人女性文学に限らなくても、米国の黒人文学は、いかに黒人たちがつらく悲しい差別の歴史を生き抜いたか?を描くものだ。

私は夜学生で時間にゆとりがない生活をしていたので、大学では徹底的に”集中と選択”した。将来に役立つ語学系科目は、全科目A。それ以外の経済学などの一般教養は捨てた。語学力だけが欲しい実力だった。

それでオモデレ先生にとっては、偶然にも、私はなかなかヤル気のある生徒として映っていた。

これはたまたま周囲が夜学の学生と言っても、大抵は親元から仕送りされている、のんびり暇な人が多く、勉強より恋愛や自由の満喫に忙しいようだったから・・・で、別段、私が優秀だったわけではない。比較の問題だ。

オモデレ先生がバークレーに帰国するとき、先生の二人の子供は、日本語ペラペラになっていた。それで先生はベビーシッターを誰か連れて帰国することにした。海外では、大学生くらいの若い人が、ベビーシッターとして住み込んでいるのは、全然珍しくない。ドイツの人などが多い。

それで、色々と紆余曲折があり、私が一緒に行くことになったが、また紆余曲折あって、私は別のスタンフォード大学に勤める女性大学教授の家に世話になることになった。

そういうわけで、サンフランシスコの郊外に住むことになった。まったくの偶然。

オモデレ先生とは家も近かったので(と言っても車で1時間)1年ほど頻繁に交流した。よくバークレーの授業に忍び込んだ。憧れのバークレーは、素晴らしいところだった。バークレーに進学できるほど賢かったら、本当に良かったのに。

行った当初は、英語も話せず、運転も出来ず、乗ったバスから降りれなくて、始発まで戻り、改めてタクシーを使って帰るほど何もできなかったが、会話は3か月くらいで問題なくなり、運転は自分で教えてくれる人を雇ってマスターした。

1年間は郊外にいたが、友達の家に遊びに行くにも、サッカーの試合に行くにも、子供たちを車で運転して、連れて行かなくてはならないような、遠隔地の生活に、若い私は退屈してしまい、サンフランシスコ市内に引っ越した。

家賃が安いだけで選んだ引っ越先は、たまたまガンショップの2階だった。階段には穴が開いていた。日本人のオーナーが経営するガンショップで、元自衛隊の人がツアーガイドとして働き、射撃場へ、たくさんの日本人観光客を案内していた。私も一度連れて行ってもらったことがある。だから私は射撃の経験がある。

そのガンショップの2階の1室を借りたわけだが、初日になんだか、かび臭い匂いがすると思って、大掃除した。しかし、全然匂いが取れない。気分が悪い。1週間、掃除しまくったがダメで、あきらめて、知人の紹介の家に引っ越した。

後で分かったのだが、それはマリファナの匂いで、シャアメイトの一人がいつも自室でふかしていた、というだけなのだった。カリフォルニアはマリファナは合法なのだった・・・。

当時、私が働いていた先は、日本人女性と米国人男性の国際結婚した家で、3歳のマークと2歳のエリザベス。マー君は動きたい盛りでタイヘンで、エリちゃんは扱いやすい子だった。良く公園に遊びに行ってかけっこした。

私はまだ21歳で連れていると、若い母親と間違われ、年配の女性が目を細めてくれ、皆、親切だった。ママじゃないんだけどね~。ママのほうは当時35歳で、うんとかけ離れていると当時は思ったけれど、今思えば、35歳はまだ若かったりする。

あとはアルツハイマーのメイおばあちゃんのお世話もした。メイは私の金髪碧眼のBFをいつも「YourBrother」と言っていて、どうしたらそうなるのかしら?と思っていた。たぶん、奥ゆかしい時代の人だから婉曲語だったのだろう。彼は、仕事が終わる時間に、迎えに来てくれていたのだった。

それにしても私も若かったな~。あの頃はサンフランシスコに住みたいと思っていた。でも、大学を中退してまで居残って、祖国の日本を見捨てては、いけない気がしたのだった。

帰国するとき、当時の恋人が「帰国しないで欲しい」とゴネて、飛行機を5分遅らせ、乗客みんなに白い目で見られた。彼は、その後、3か月ほど日本に来てくれたが、日本の水が合わず、急病になってしまい、そのまま緊急的に飛行機に乗って帰国した。関空までタクシー代3万円!

歴史に ”たられば”はないが、あの時、帰国しないでいたら、どうなっていたのだろうか・・・?と、たまに思う。

まぁ、でも、私の青春の1ページがサンフランシスコにある、ということは間違いない。

その後、メルボルンに一時住んだりもしたし、仕事でカンザスやウェリントンに一か月ほど滞在したこともあるのだが、不思議なことにサンフランシスコに対するほどの思いは、やっぱりオーストラリアには、わかなかった。

サンフランシスコを考えるとき、やはり思うのは、母が青春を過ごした?60年代後半から70年代という時代だ。

反戦を歌い、自然回帰を謳い、体制に反発し、ベルボトムのズボンなどのヒッピーファッションを身にまとう。

いわゆるカウンターカルチャーは、今は山ガールのウエアになって昇華している。

その流れは、起点はサンフランシスコにあったのだろうと思うのだが、違うのだろうか?

山梨に来て、たまたま出来た余暇を活用すると言う理由で、クライミングをするようになり、その流れから、ヨセミテのクライミングカルチャーを知ることになり、サンフランシスコ的なものを懐かしく感じる。

例えば、こういう本だ
 
どうもグレン・デニーさんは、今度パタゴニアでトークショーをするらしい。


アプローチシューズで有名な、キャンプ4は、ヨセミテの人たちが集まった場所の名だ。言って見れば、”昇仙峡開拓団”が商品名になったみたいなものだ。

今はクライミングシーンは社会を揺るがすような大きなムーブメントとのシンクロナイズというのはないみたいなんだが、あえて探すとすれば、やっぱり原発反対、だろうか?

大体、今電気一杯余ってるし、人口減少社会なんだから、これ以上、電気は要らない。

そもそも、産めよ増やせよも、どう転んだって成長の限界が来るのは、なにもローマクラブでなくたって誰だってわかる話だ。右肩上がりの成長というのは、そのような末路が見えている仕組みだ。

そうしたことをすべてすっ飛ばしたとしても、富んだ人(電力会社)がさらに富むための無駄な施設を、支払う側(大衆)が支持するのを期待するなんて、人を馬鹿にした話だと思うのだが、リニアの開発を嬉しがる人たちを見ると、日本はホントに大丈夫なのかしら?と思う。

そういうのは、連れて行ってもらう山、を嬉しがる感性となんだか似ている気もする。”あなたのためですから”って嘘ばっかり。

≪資料≫
原発とはどのようなものか?

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