Saturday, June 27, 2015

アンコントロールなチャレンジ=無謀

■ 幸福を実感中

昨日は、冷たい雨がしとしとと降り続く日で、梅雨を実感する寒い日だった。その雨で、去年、モロクボ沢に出かけたときのことを思い出した…

あの時は、狭い車で車中泊して切なかったけど、良く考えれば、あれが幸福と言うことの意味なのだろう。まだ山岳会への例会参加は3度目くらいで、先輩たちにとっては私は見知らぬ他人に近かった。

最近思う。幸福って、懸命ってことなのかも…って。いわゆるゲラゲラ笑うようなことが楽しいってことではなく、時が一瞬に感じてしまうような、懸命さで生きている時、それは人生が充実している、っていうことなのだろう。

登山を初めてから、時がたつのが早い。甲府に来てもう5年目とは信じられない。1年も短いようで遠い…。あれから丸一年たったとは…。自分自身の登山者としての成長には感慨深いものがある。

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去年の今頃の成長の振り返り

■ 登山者としての成長の複合的な形

一つ一つの山行では、何を具体的に学んだ、と言えるのかは、凄く曖昧だ。モロクボ沢は大増水していて、そして、私はロープをザックに入れ忘れた。沢の具体的な内容は、もう覚えていない。

配慮に気がつく能力
けれど、よく考えれば、モロクボ沢は、私のために師匠がよく配慮して選んでくれていた。私は今でも丹沢のことは全然知らない。家から遠いから、同じ時間で行くなら八ヶ岳のほうに出かけてしまう…が、最近、レスキュー講習で丹沢に行って、多少土地勘ができた。すると、私の自宅からの距離にも配慮して、モロクボ沢を選んでもらっていたんだなぁと分かるようになった。当時は、師匠が、モロクボ沢を選んだ理由は分からなかった。

こうしたことは自分が逆の立場をやるようにならないと気付くことができない。

ピークを大事にする
モロクボ沢では、ピークを踏まなかった。沢の源頭を詰めるのを避け、短縮コースで帰ってきた。私は、もちろん地図やトポを持って行き、地形の理解をしてから行った。それくらいは登山者として当然のことだ。が、しかし、何という山に登る登路として、魅力がある沢なのか?は知らずに行った。

だからピークを詰めないことには異論はなかった。

一般的には、ピークを大事にすると言うことは山の基本だ

むろん沢においても、沢山行いう山行物語は、ピークを詰めると言うハイライトなしには成立しない。そのことには当時は無頓着だった。

行動様式の継承
もちろん、山行はテーマによりけりで、このモロクボ沢は、初心者の私に沢を紹介すると言う、目的(師匠とは初めての沢)であるのだから、美味しいとこどり、が正しい戦略だった。

振り返れば、私もその通りの行動様式を取っている。初心者を連れて行った伝丈沢では良いとこどりで、ピークを踏むことよりも、焚火の楽しさや沢のキレイさを味わってもらうことを主眼にした。

初心者と行く場合の別の戦略は自分が連れて行けるもっとも大きい山に連れて行くと言う戦略だ。
厳冬期金峰山は私が初心者を連れて行けるもっとも大きな山だ。これも師匠から受け継いだ行動様式だ。考えてみれば、先輩が連れて行ってくれた前穂北尾根はこれに当たる。

≪必要な経験を与えるという高い視野≫

こう言う風に登山者としての成長には、”今この登山者に必要な経験は何か?”と考える思考回路が必要だ。その発想を持っている人は少なくなった。それがおそらく師を持つ、ということの最大のメリットなのだろう。

昔ながらの山岳会は、伝統的にそういう発想をしていたようだが、最近はそのような発想はしない。おそらく、このような発想で、山行計画を立てる、ということは、同じように育てられた人しかできないモノの見方なのだ。

山ヤ教育が廃れ、すでに何十年もたっている状況では、ステップを踏んで成長させる、というオーソドックスなスタイルは、やりたくでも人材の面でできないのだ。

≪山ヤ道先行者を信頼する≫
もちろん、当時でも師匠がおそらくさまざまな配慮をしてくれているだろう点は分かっていたし、ルートの選択にも、全幅の信頼を置いていた。

沢自体が初心者である私には、師匠がやってくれたように「この時期の初心者に良い沢山行は何だろうか…」と考え、無数にある沢の中からその登山者の成長段階に即した計画を立てる能力はないということは明瞭で、その点については最初から全幅の信頼を置く。

大抵の場合、私はベテランと行くときには、その計画に異議を唱えない。これが大事なことのように思える

最初から、疑ってかかる人を連れて行きたい人はいない。その上、その態度は裏を返せば、値踏みであり、ガイド客待遇を期待しているということだ。自分自身も安全管理に協力する気がない、と言う意味だ。だから、相手が載ってこなかった時点で、その山行に対する実力が備わっていなかったと言う意味だ。山を知らなければ、自分が行けるかいけないかも分からないのだから。

まったく初対面の相手であっても、一緒に行くベテランが選んでくれる山は全面的に信頼している。それは山ヤだったら分かるからだ。連れて行く相手に対して、どれほどの責任感が必要かを・・・命の危険があると言うことが分かっていれば、連れて行ける確信がなければ、連れて行けるなんて発言はできようもない。

もちろん、信頼しているからと言って調べないで行くと言うのは違う。Trust But Checkが基本だ。多くの人はどうもそれが逆になっている。Untrust Because No check 調べないから、どのような性格の場所かを知らず、それが不安となり、不信感を駆り立てる。調べれば大抵は不安は解消するものだ。

それにそもそも、登山においては、行ける山というのは、連れて行く人の技量で決まリ、連れて行かれる人の技量で決まるものではない。

連れて行ってもらった山は自分の力量の山ではなく、復習山行をしてやっと自分の山になるのに、その点について、無理解な人が山岳会でさえ多いのは驚きでしかない。

≪リスクを大きくしていくか、未知を大きくしていくか≫
しかし、振りかえてみると、雪では、無数にある山について、ステップアップするという視点を持って、選んできたと思う。現在のスキルで行ける山ということだ。ステップを外していない。

雪ではリスクを大きくしていくのではなく、未知を大きくしていく方向に収まった。近所の小さな山にも未踏のルートは一杯あった。

おなじことを沢でしようと思っている。小さくて易しい沢でもいいから、人の歩かないルートを狙いたいな、と思っている。師匠はこれをロマンと表現していた。 

ビッグネームになりたいと願いさえしなければ、山は今でも楽しい冒険フィールドをたくさん用意してくれている、と思う。

■ アンコントロールなチャレンジ=無謀

去年の6月ごろの成長を振り返ると、遠方からのゲストも来ていたりして、すごく忙しい月だった。またザイルパートナーを得て、初めて初心者だけで、小川山のマルチピッチに行けるようになっていた。人工壁に通い、リード練習していたし、クライミングについての基本的なことの理解と、ビレイ技術が身に付いた。今年は2年目で、A1を覚える時期にきた。

初心者は、山での判断は、第一にどうすればもっとも安全になるか?と言う発想で行うべきだ。

それは図らずも登山の歴史をなぞることと同じになる…つまり初登スタイルと同じことになる。

まずは考えられるもっとも安全な手段、もっとも臆病なスタイルで貫徹する。

そうして、安全に登ることをマスターしてから、その安全の枠を外し、リスクに近づいて行くべきだ。

つまり、墜落の危険があるところではザイルを出すという基本ができてもいないのに、いきなりフリーソロで、墜落リスクを甘受しながら登る、というようなスタイルは慎むべきだ。

つまりノーマルルートもできないのに、いきなりバリエーションはしないのと同じことだ。

それは、コントロールされたチャレンジではない。

無謀とチャレンジの違いは良く議論される。おそらく、この辺に違いがあるのだろう。

無謀とは、同じ個所をより安全に通過する方法があるにもかかわらず、その方法が何かであるか?を知らずに挑むこと。選択肢が与えられている状態に気が付かず、選択せずに選ぶこと。

チャレンジとは、その場での選択肢については分かっているが、あえてリスクの大きいほうを選ぶこと。

大きな違いは自覚だ。無謀な人は多くの場合、無謀であることを自覚していない。したがって悪気が一切ない。

本間沢F9でザイルを出さずに登ってしまった人もそうだし、ロープワークが未熟なのに四尾根に行くことを主張する人もそうだし、ビレイがまだできないのに、三つ峠に行きたい人もそうだ。

その地に行くために必要なスキルを身に着けてから行くと言う発想がない。

そのような人から、距離を置くことは、登山者としての生き残りには必要な知恵かもしれない。

なぜなら、そうした彼らには悪気がないためだ。


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