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Wednesday, November 25, 2015

山では知的怠惰厳禁

■ やっと寒く・・・


今日は甲府は寒い。やっと干し柿作りができる!と喜んでいる人は多いのではないだろうか?

今年は、干し柿の品種の、百匁柿は豊作らしいが、お天気が秋らしく乾燥せず、干すに干せなかったのだ。

今日は我が家でも、買ってあった百匁柿をたくさん、つるした。

百匁柿は高級柿で、干していない状態でも1つ100円もする。

山梨は、外からの情報が入らないし、自分のところの情報も外へ出て行かない、孤高の土地柄で、その影響か、良さをよく知られていない。

冬にお天気が異様に良いこともそうだし、干し柿が長野のものなどと比べて異様に大きく、おいしいこともそうだ。

自然を起点にするものは、流行がなく、陳腐化の影響を受けづらい。

■ 中高年登山というジャンル

無名山塾の、『岩崎元郎校長の決定版 登山学―ヤマケイ・無名山塾カルチャー教室リーダー養成講座より』を図書館で借りてきているので、パラパラとめくっている。

最近、山には、”中高年登山というジャンル”がある、ということを理解した。

いわゆる”中高年登山スタイル”で登っている登山者は、いわゆる山ヤとは、全く違う価値観で動いている人たちだ。

私は40代で、中高年というくくりに入る。しかし、現代の60代以上の人たちがやっている登山と、私の山はまったく違う。同じ山に行っても行動様式が全く違う。

それで改めて、この本を読んでみたのだが、視点的に同じ問題意識に基づいていると感じたが、驚愕しているのは、2002年と言う古さだ。13年前だ。13年も前から続く問題だったのだ。

問題意識は、易しい語り口で語られてはいるが、何に基づくかというと、

 誰もリーダーとなりたがらない = リーダー = ババ引きのババとなっている点

だった。中高年登山は、リスクを取りたがらない、楽しいだけ、受け取るだけ、というスタイルだ。

そうなった歴史的経緯は、

 登山者増加
  ↓
 スキル不足の危ない登山者増加
  ↓
 アブナイからお金を払っても、しっかりしたリーダーに着いた方がいいですよ
  ↓
 ガイド登山ではなく、なぜか団体ツアー登山になってしまった = かけ違い
  ↓
 ”危ない”部分は正せず、ツアー登山増加
  ↓
 依存性 & 無謀性 増加
  ↓
 結果として、毎年 中高年登山者の遭難増加

となっているらしい。言い出しっぺは岩崎元朗師匠だったようなのだ(笑)。

したがって、現在、登山ジャンルとしての”中高年登山”は、かなり高リスクジャンルに入っている。

この本の奥付を見ると、発行は2002年で、連載はその頃だから、すでに13年ほど昔に問題意識となり、その反省はおそらくないまま、永久的にリスクが温存されている状態と思われる。

2002年時点で50~60歳だった人は、13年後は63~73歳となる。73歳はおそらく多くの人が現役を退きリタイヤしていると思われるが、63歳はまだ健在と思われる。

10年あれば相当な経験が蓄積できると思われるが・・・。 

(楽しい)&(受け取るだけ)が、一つの物事の陽の局面とすると、陰の局面は、(無謀)&(依存) だ。

誰も無謀登山、依存登山を推奨した訳ではないのに、歴史経緯的にこうなってしまった・・・ということが、人間の近視眼を物語るものであろう・・・。登山のマイオピアだ。

■ 下部組織にハイキングの会

山岳会に、60代以上の登山初心者が増えて、山岳会が山岳会ではなく、ハイキングの山しかできない状況に陥ってしまうのも、今に始まったことではないらしい。

岩崎さんの本では、山岳会に別組織としてハイキングの会が立ち上がった、という状況も書かれている。

登山、ではなく、中高年登山というジャンルの登山を志向する人が増えた結果、ハイキングの会が必要になったということなのだ。

前穂北尾根に行きたい人と、大菩薩嶺に行きたい人では、話が全然かみ合わないからだ。

それは当然の流れだと思う。一つの団体で済ませようとする方が無理があり、その無理がどう反映されるか?というと、山行が危険になる、ということだ。

つまり、大菩薩嶺でハイキングすることが登山だと思っている人を、前穂北尾根に行くような世界に連れて行ってはいけないのだ。

しかし、日本では悪平等主義がはびこっているので、一つの団体だと切り分けが難しくなるのだ。

やはりアルパインを志向する本来の山登り、オーソドックスを行く人たちと、中高年登山は、混ぜてはいけないのだ。

■ 正確にリスクを見極められなくなっている

一方、アルパインクライミングについても、山の人たちの間でも誤解は深い。

例えば、ロープワークについては、ロープと言うのは、初心者ほど必要なギアだ。ロープは文字通り命綱なのだから、落ちる可能性が大きい初心者ほど必要なのは道理だ。

しかし、山の世界ではなぜか、ロープがいる=本格的、イラナイ=初級という思い込みが根強く、初心者の人ほど、ベテランがロープ無しでは通らないような、危険な一か八かをロープもつけずに行っている。

それは、頑固な思い込みによるもののようだ。(そして人は誰でも年を取るほどに頑固になる)

そのような思い込みの一つに、クライミングは危険、というものがある。 おかしなことに、クライミングより、むしろ危険な沢登りで、そう発言する人がいたりもする。

沢は外的危険が大きい。外的危険は、人間がコントロールできない危険だから、外的危険が大きいことは、より危険だということだ。

アイスクライミングについても同様の誤解が根強い。現代はアイススクリューなどのプロテクションが発達したので、沢登と比べるとアイスの方が格段に安全だ。

何より大切なのは、プロテクション・・・中間支点やアンカーで、沢ではハッキリ言ってプロテクションは取れないと思った方が良い。

滝の中では、自分でプロテクションを設置することは、ほぼできないし、あってもハーケン(錆そう)や、木の根だったりだ。

フリーのクライマーから「滝って何でプロテクション取るの?」なんて不思議そうに聞かれる・・・そりゃそうだよな~と思う。あんなの、プロテクションのうちに入らないかもしれない。

■ 鳥瞰図を持つこと 全体像をつかむこと

先日のことだが、山で軍手をしていたら、おじいさんから「山で軍手をしてはいけないよ」と注意を受けた。

山では木綿ではなく化繊・・・というのは、言われることだが、焚火をするなら軍手がないと何もできない。化繊ではあっという間に火がついて燃えてしまう。

ウエアも同じで、火の粉が散るようなときは、木綿のシャツ一枚上に羽織って、化繊のウエアを火から守らなくてはいけない。

しかるに、「山で軍手をしてはいけない」というのは、そのおじいさんのやっているレベルの山では真実だが、道なき道を行き、焚火で暖を取り、調理をするような山では、全く反対のアドバイスが的を得ることになる。

山では、基本的に年功序列は成立しない。山をより深く理解している方が、アドバイスを与えることが良いのだが、これは基本的に日本人が感じる文化的快適ゾーンではない。

それは、クライミングにも、テント泊にも、読図にも言える。

全体像をよりよく知ろうと努力をすることで、本を読むだろうし、より経験の大きな者を探したりもするだろう・・・何より、よく意味を考えるようになるだろう。

日本では知識偏重と言われるが、それは、思考を伴わない単一の知識の受け売りが危ないという意味だ。

経験への強すぎる依存も見受けられる。

知識を軽んじ、経験を重んじるのは、たぶん、背後に思考の怠惰がある。どちらも思考という努力を放棄している点、単純さ、盲信を後押ししている点が知的怠惰なのだ。

そういう意味で知的怠惰を起こさないことが、山では安全につながる、と感じた。

Thursday, October 8, 2015

負の連鎖 ・・・山岳会を考える その8

山岳会へ入会すると、新人はもれなく、いきなり岩へ連れて行かれる。でも、そうすると、トップロープして降りてくるだけが岩登りだと言う誤解を生んでしまう。

アルパインという枠で見た場合、いきなり岩へ行きたいのはビレイヤーが欲しいという先輩側のエゴイズムだと思う。

だって、岩と言うシチュエーションになった途端に、それがどんなに易しくても、血圧が上がるのが普通の山しか知らない初心者だからだ。

落ち着いてロープワークに専念できる環境で教えていないことが、テンパっている状況で、すぐ出てこないからって、怒ったって仕方がない。

先輩にはツマラナクても、初めて教わる人には、何もかもが新鮮なはずだ。

その一回の手間をおしんだがために、何年たっても、万年フォローしかしていないのに、それで自分はイケてる、カッコいい奴だな~とか、思ってしまう・・・。ぬんちゃくをラックに、ぶらぶらぶら下げているだけで、使っていないのに、それで自己満足してしまうのだ。

それは何も知らない人が、そのギアを見て、凄い人というまなざしを送ってくれるからだ・・・。

そんな”凄い人”という誤解を受けても、本当の自信はつかない。

だから、リードできないし、リードしたい!という気持ちにもならない。

一生セカンドで、登って、周囲に”凄い人ね~”と誤解されたままでいる方が楽チンだからだ。

そんな人を作らないためには、最初に、ちゃんと教えるべきことを教えてから、連れて行くべきだというのが私の意見だ。

〇〇に行きたいなら、××をできるようになってください とハッキリ言うべきだ。

それは失敗例を根拠にした意見だ。

■ 新人が誤解する仕組み

山岳総合センターでは、ビレイができないと岩には連れて行けない、と講習生だれもが分かっていた。

ビレイも出来ないのに、高度な山に連れて行ってはいけない。それはズルだ。ズルができる、ということが、その山岳会に所属するメリット、になってはいけない。

岩に行くなら、最低限

 ・ビレイ
 ・ビレイヤーの自己脱出

は、できないと困ると教え、相手が分かった、行きたいから教えてください、という気持ちになってから、行く・・・というのが正しい順序であるべきだ。

実際に完璧にできるかどうか?ということはともかく、できるようにはならねばならない、と最初に理解していることが大事だ。

そうであれば、できないのに連れて行ってもらっている、という意識が芽生える。つまり、謙虚さ、ということだ。

■ 謙虚さがない新人は間違った教育のインデックス

そうでないのに連れて行けば、連れて行ってもらうことは当然と感じるだろうし、自分は食当だから自分の役目は果たしている、と勘違いしてしまう。食当やロープを担ぐなどの分担は、貢献にはカウントされない。皆で協力するのは普通のこと。

貢献と言うのは、その山行の遂行に欠くべからざるメンバーになる、ということだ。その人が抜けても山行成立するなら、別に何も貢献していない。

何も貢献していないのに、自信満々であるとか、どこそこへ行ったと自慢話をしている、ということは、どういうことを意味するか?

聞いた人は単に「分かっていない人だな~」と思うだけなのだが、分かっていない人の存在が意味することは?

それは、多分、間違った教育、だろう。間違った教育の結果が、自慢話なのだ。

例えば、誰にでも分かりやすい例は・・・

 ・ビレイもできないのに外岩
 ・高尾山にも行けないのに、GWの穂高のバリエーションルート
 ・地図も読めないのに、厳冬期北岳

人には親心というものがあり、山にあこがれる人には、ちょっと背伸びしてでも見せてあげたい!という気持ちが働くものだ。

それが行きすぎるのは、連れて行く人のエゴなのだ・・・そのエゴと言うのは、自分だけのパートナーにしたい、自分に依存してもらいたい、という気持ちなのだろう。

教えた人が自立してしまうと、せっかく自分の時間と労力を費やして教えたのに、教えた相手が気に入った相手と勝手に出かけ始めてしまうからだ。

それが経験値として積み重なると、最初から依存傾向にある人だけ選んで連れて歩くようになる。

つまり自立したがる人は良いパートナー候補とならない。

同じ原理で、山岳会は、会員が確保できないと感じるようになるだろう。


■ 外岩に連れて行くタイミング

前にいた、アルパイン系の山岳会では、外岩に連れて行くタイミングは非常にデリケートに感じているようだった。

ある程度、人工壁で、リードが確実にならないと外岩デビューはない。

何しろ、外岩デビューはビッグイベントで、それはご褒美と言う位置づけでないといけない。

安売りすると後で損するのは自分なのだ。

岩登りそのものだって同じで、人工壁である程度登れてから連れて行く。自分はこのグレードは登れるんだという信念が、外の岩だって登れるはずという気持ちを作るからだ。

登れなくても、じゃあなんで登れないのだろう?という話になる。

そうやって、努力する動機を作ってあげるのが、先輩の役目で、できないことをあたかもできるかのような気持ちにさせて、自分に同行させるのは、ニンジンを吊り下げているだけで、じきにもっと良い人参が欲しくなるのが人間の性だ。

そうなるとこんなセリフが出てくる。「こんなところしか連れて行けないの?」

こんなことを言われないためには、ちゃんと踏むべきステップを踏んで、分かるべきことが分かるようになった人から、押し出すことだ。

会にいる時間が長いから、とか、〇〇をよくやってくれるから、ではない。 登山者には、その時の登山者にふさわしい山がある。

十二ヶ岳がふさわしい人もいれば、三つ峠がふさわしい人もいて、ゲレンデの小川山がふさわしい人もいる。

それを無視して、自分の好みの山しかしないと言うのは、自分もそういう教育をされたということなのだろうから、その人のせいではないが、上手くいかない連鎖をどこかで断ち切らないといけない、ということはいえ、断ち切ることができないのは、弱さだということは、また言える。

これは、何も別に、岩に限らず、地図読みだってハイキングの山だって同じことだ。