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Friday, September 8, 2017
デナリ南西壁滑降
私は普段TVを見ないのですが、久しぶりに見ました。師匠と一緒に見ました。
この方たちの偉業はすごいという点について、何も口をはさむことはないのですが… 私はNHKの番組の作り方が、画一的でリスク中心でなく、こういう作りが、自己顕示欲の山を生むのだなぁと納得することしきりでした。
カシンリッジを登路に選んでいるのですが、NHKのアナウンスでは、「もっとも難しい登路」と言っていましたが、下から2番目に難しい登路…そりゃそうです、スキーを背負って登るのですから、バリバリアイスやミックスの登攀みたいなルート登れるハズがない…。でも、一番って言ったら、事実と違う…。
大事なことは、どうしてこのルートがその装備で登るには、もっともチャレンジングで、もっとも偉大だったか、という、計算のほうです…
なぜ選んだのか?そこに苦悩があるはずで… 山登りなんて、計画がほとんど、冒険の半分を占めるようなものなのに…
スキーで転倒した仲間をアイゼンとアックスで迎えに行くシーンも、ロープ持たないで行ってどうするんだろう?と思いました。
なので、山ヤ的には、行動が、一般受けを狙いすぎて、平板化しているような印象になりました…
くどいようですが、この方たちが成し遂げたことは、賭け値なしに凄いことです!でも、その凄さをTVが正確に伝えていたかと言うとそうではないと思いました。
すいません。 私が思ったのは、こういうテレビはホントに山の先輩とか、昔から山やっている人と一緒にみると勉強になるなぁということでした。
私はデナリに行った人と一緒にみたので…。
ホント、一般の無知な人を対象にしたナレーションではなく、きちんと山のことを分かっている前提の番組作りしてもらいたいなー。
一緒に見ないと、私も無知なので、カシンリッジって、デナリの登路として一番難しいのか~リッジなのに…と思うところでした。大体山で一番難しい登路は壁です。〇〇壁。
なので、デナリには壁はないのかと思うところでした。映像でも、60~70度の傾斜にしか見えなかったのですが、80度と言っていて、うーん、見た目より傾斜があるのかなぁとか考えていました。
もちろん、デナリの高度は、+1000だそうで、高所ということのハンデを考えると、どんな傾斜でもすごいことですが…
私は高所登山の経験はなく、雪の富士山くらいしか知らないので、高所で、重いスキーを担いでそれだけの傾斜を登るつらさは、ものすごいのだろう…としか言えず、想像すらできないですが…。
ただ、作りがなぁ…
映画『メルー』を見た後だったので余計ですかね? メルーはいい映画でした。ちょっと泣けてきそうになる。
しかし、日本人の登山への大誤解は、NHKが作り出しているのかもしれぬ、とも思いました。ごめんなさい、NHK。
ああ~デナリ、でもきれいだな~。 ハイキングルートはないのかなぁ(笑)
デナリに登るには?
https://www.nps.gov/dena/planyourvisit/upload/FAQ-s-About-Mountaineering-in-Denali-National-Park-Japanese-Version-PDF.pdf
花谷さんと、谷口ケイさんの記録
http://first-ascent.net/contents/reports/Denali.pdf
カシンリッジの記録
http://hikingbird.exblog.jp/23757207/
Saturday, February 13, 2016
ヤマプラ
■ 認知度が低い山のグレーディング
遭難者数が年々増加していることを受けて、山のグレーディングが発表されているが、いまひとつ浸透していなかった。
それもそうだろう・・・信州山のグレーディングや山梨山のグレーディング・・・みなネットで発表されているだけで、パンフレットとして配られていることがない。
遭難者の約半数が60代以上で、その60代以上の人たちのインターネット利用率の低さを考えれば、あまり知られることがないのも当然の帰結なのかもしれない。
・・・というわけで、ネットの世界で、山の情報が充実しても、それを必要としている人たちにはいまひとつ、伝播して行かないのだが・・・
そのようなネット上の山の世界の進化が一つ増えた。
今回はヤマプラだ。ヤマレコ上に、グレード別にルートがマッピングしてあるもの。
![]() |
| http://www.yamareco.com/modules/yr_plan/step1_planner.php?lat=36.305350395&lon=137.6788894&grading_mode=1 |
易しいコースと難しいコースが分からない人が多いと、当然だが、自分では歩けないところに入ってしまう。
■ 尾根の名前
ちょっと見ていたら、赤岳と”阿弥陀(美濃戸口)”が同じグレードになっていた。 ”阿弥陀(美濃戸口)”は、御小屋尾根のことだ。
・・・が、普通、山の人の間では、”阿弥陀(美濃戸口)”と言わずに、普通に”御小屋尾根”と言う。
”赤岳”、と言わずに、”文三郎道で登って地蔵で降りる”とか”真教寺尾根”とか言う。
〇〇尾根という捉え方をすることこそ、大事なことなのではないだろうか?
Saturday, December 12, 2015
登山業界の将来を考える
今日はちょっと登山市場の未来について考えてみようと思います。
■ 登山市場概要
こちらのニュース記事を簡単にまとめてみた。以下要約。
1)登山人口
2003年~2008年まで 600万人前後
2009年 1,230万人 (倍増)
2010年 1,000万人越え
2014年 840万人
近年 800万人前後
・顕著なのは高齢者層 = 60代の10人に1人以上が登山を行っている
2)問題点
・増え続ける遭難件数・遭難死者数
・登山者の高齢化
・中高年者の体力への過信
・スマートフォンの地図だけで登るような初級登山者の存在
・一部の山域に登山者が集中するオーバーユース
・登山者のマナー低下
3)対策
・Webサイトで手軽に登山届を提出できるサービス
・山のグレーディング表(長野・岐阜・山梨・静岡)
4)市場 =安定型 1800~1900億円規模
・2014年の登山用品市場(キャンプ用品を含む)は1,950億円(アウトドア用品市場は1,812億1,000万円と推計)
・前年比103.2%
・伸び幅は大きくないものの、安定した需要
・釣り用品(2004年 2,060億円 → 2014年 1,600億円 減)
・スキーやスノボード用品(同1,910億円 → 同1,410億円 減)
・近代登山はたかだが150年の歴史しかない
5)特徴
・店舗のショールーミング化はおきにくい
・ライフタイムバリューの高い顧客
6)課題
・新たに登山を始める人を増やすこと
・環境や生活スタイルの変化をうまく取り込んでいくこと
7)新たな動き
・ネット登山パーティー
・互いの体力や登山技術・経験、性格などもわからないままにパーティーとして山にのぼること
・パーティーでの責任者(いわゆるリーダー)が明確ではないこと
・「trippiece」
まぁここまではよく聞く話です。都会にいた頃は、登山は高齢者の遊びだと思っていましたが、やはり、それは的確な観察のようです。山は山で、登山活動は登山活動であり、オーソドックスな登山活動をする限り、年齢は関係ないと理論上はなりますが、実際はオーソドックスな登山から離れて、中高年登山という一つのジャンルが確立している、と考えるのがスムースです。
■ 釣り業界との比較
1)釣り人口
1990年代後半 2,000万人 (90年代、空前のアウトドアブーム)
2011年 940万人
2012年 810万人
2013年 770万人
2)釣り市場 おおよそ1300億円市場
・釣りブーム全盛期には3,000~3,500億円 (1/3ほどまで縮小)
2011年 1,124億円
2012年 1,161億円
2013年 1,219億円
2014年 1,251億円(見込み)
2015年 1,293億円(予測)
・大震災のあとに徐々に回復基調
3) 減少の原因
・市場飽和
・イメージ悪化 バス釣り離れ=ダークなイメージ
・2001年に同時多発テロによる釣り場が減少
・撒き餌による水質汚染&ゴミの不法投棄によるイメージダウン
4)回復要因
・インバウンド市場 (2兆305億円)の取り込み
・普及価格帯の釣り用品
・海外展開
・釣り人に対する啓蒙
・ライフスタイルとしての釣りの提案
・釣り人そのものを育てるような取り組み
・釣り場のゴミ拾い活動を通しての啓蒙
・若年層向けの釣りクラブ活動
・旅行・運輸産業とコラボして釣りツアーを実施(異業種との連携)
・“島ガール”
・新たな釣りジャンルの創生
5)動向
・余暇をもつ高齢者の増加
・多摩川に代表されるように良質な釣り場環境の回復
■ スキー業界
1)スキー人口
1993年 1,770万人
1998年 1,800万人(ウィンタースポーツ客全体としてのピーク)
2013年 770万人
2)衰退の原因
・バブル崩壊による経済の衰退
・殿様商売
・複合施設化 “滑る”というスキー本来の魅力を希薄化させた → スキーよりミッキー
・スキーを楽しんでいた層の呼び戻しに失敗
・若者層のライフスタイルの変化により将来の優良顧客を取り込み損ねた
3)動向
・インバウンド消費の取り込み (北海道ニセコ地区、長野県・白馬地区や野沢温泉地区)
・レンタル事業
観光省資料
http://www.mlit.go.jp/common/001083645.pdf
■ 登山の位置づけ 大局を把握
登山は基本的に ”レジャー”です。
レジャー=余暇の過ごし方
レジャーには、国内旅行、外食、音楽鑑賞、劇場、映画、パチンコ、スポーツ、などが含まれます。
外に出かけないで家で余暇を過ごすイエナカ消費(巣篭り消費)という言葉も一時でました。
押さえたいポイントは、登山は国内旅行のカテゴリーに入り、クライミングはスポーツのカテゴリーに入る、ことです。
アルパインクライミング? どっちに入るのでしょうか?良く分かりませんが、やっぱり”国内旅行カテゴリー”かなぁ?
大雑把に
登山 = 国内旅行
ロッククライミング = スポーツ
のようです。
■ 国内旅行という視点でみた登山
国内旅行の市場は縮小傾向にある。国内宿泊旅行延べ人数は2013年で 1.76 億人!
http://www.mlit.go.jp/pri/kikanshi/pdf/55-1.pdf
もっとも頻度が多いのが、時間とカネに余裕があり元気な60代とされている。これは、登山者人口が60代が多い点と合致する。
■ 余暇増大
ここ10年で余暇が1割増えているというデータが国土交通省から出されています。
これは、本当なのか?!と言う感じですが・・・もしかして2極化ではないか?と思ったりもします。
というのは、都会暮らしの頃は実感として、夜8~10時まで仕事をしているのが普通だったからですが・・・。
少子高齢化が進んで、単純に余暇というより、余暇を持つ”退職者”が増えているだけかも?その指摘は国が出している資料にもあります。
http://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/bunseki/pdf/h17/h4a0506j3.pdf
http://www.nrc.co.jp/report/pdf/130430.pdf
余暇の動向としては、”歩く”活動が好まれているようです。
http://activity.jpc-net.jp/detail/srv/activity001444/attached.pdf
■ 考察
・登山人口、釣り人口、スキー人口は、すべて 800万人前後規模的に変わりがない
・登山市場規模1800~1900億円、釣り市場1300億円
・市場特徴は、釣りやスキーと比べて、安定型
で、既に大きな規模の浮き沈みを経験した釣りやスキー市場と比べ、登山市場は比較的ぬるま湯と言えます。
他のアウトドア市場の失敗から学べることをまとめますと・・・
・環境汚染などのダークなイメージは市場を冷え込ませる
・ライフスタイルの変化に合わせるべき
・複合施設化は避けるべき
・インバウンド市場にも目を向けるべき
・殿様商売にならないように注意する
となります。
これらの点を登山市場に当てはめると・・・
1)遭難などのダークなイメージを回避する
2)環境問題へ積極的に取り組み、クリーン&グリーンなイメージをキープすべし
3)スマートフォンやネット利用などのライフスタイルの変化は追随すべし
4)複合施設化は避ける
5)外国人客(インバウンド)の取り込みを積極的に行う
6)他業界と連携する
7)登山用品業界として、登山者そのものを育てる取り組みを行う
8)ライフスタイルとしての登山を提案する
9)新たなジャンルを作り出す
■ 施策
すでに登山業界では取り組まれています。
1)遭難者を減らすための活動に取り組む
2)インターネットやスマートフォンで登山計画書を提出できる
その際に留意する点・・・
・山域を分散してオーバーユースを避ける = 環境に対する配慮でイメージダウンを避ける
・登山初心者へきちんと登山の知識を与える(地図携帯、遭難対策、マナーアップ)こと
・新規登山者の機会提供
■ 考えてみた施策のあれこれ
地図不携帯への対策(遭難対策)
・一般ルートの山の場合、登山口で地図を販売する(100円程度や2万5千の地図そのもの)
たとえば南アルプスの広河原沢インフォメーションセンターや芦安で、バス内、タクシーで2万5千の地図を販売したら、地図携帯者数は上がりそうな気がします。その際、市場より高めの価格設定でもよいかと思われます。コーラだって下界より高いのだし。
・安価で小グループのガイド(ツアー)登山
現在は初心者向けの安価で小グループのツアーが品薄です。大規模=オーバーユース、ですし、今の時代に大人数で出かけるツアーは、国内旅行業界としても閑古鳥ですから、流行るとは思えませんが、少人数の場合の価格の高さがネックになっていると思われます。
ガイドレシオ(1:8程度)を守るためには、3万円÷8=3750円ですので、4000円~8000円以下の価格帯での初心者向けツアーがもっと増加して良い気がします。
現在は、交通費込みでの初心者ツアーとなっていますが、現地ツアー型で、それくらいの価格帯のツアーが定期的に開催されていれば、新規登山者への機会提供となるのではないでしょうか。
その際の窓口は、おそらくツアー会社ではなく、登山用品店、ガイド、講習会またはネット窓口とならざるを得ないような気がします。
ネット登山の弊害が指摘されていますが、
・互いの力量不明のメンバー
・誰がリーダーか(責任の所在)不明
・登山を教える人がいない
は、実は山岳会に所属しても同じです。
この点はガイド登山の場合(は、登山者同士が力量不明である、という点以外はクリアしています。
ガイド登山では、メンバー同士の結束が計れないというのは、エベレスト登山でも一緒のようです。
ガイド登山の参加者同士が、定期的・継続的に仲間として成立するような方向へ向かうのが良いのではないでしょうか。
ガイドさん自体は、顧客同士が一緒に行ってしまうと自分の儲けが無くなると危惧しているかもしれませんが、実際はそうはならないのではないか?と思います。登山の場合、かならず指導者が必要な側面が出てくるし、高額な出費で続けられる人口が減ることよりも、ライフタイムで、一生登山を継続するほうがトータルとしては長期の優良顧客となるハズだからです。
スキー業界と比べて、登山はインバウンドの取り込みはまだのようですが、瑞垣や小川山など国内の有数の岩場は、可能性があるのではないでしょうか。外国人を時々みます。
インバウンドとは?
http://diamond.jp/articles/-/65852
■ 登山市場概要
こちらのニュース記事を簡単にまとめてみた。以下要約。
1)登山人口
2003年~2008年まで 600万人前後
2009年 1,230万人 (倍増)
2010年 1,000万人越え
2014年 840万人
近年 800万人前後
・顕著なのは高齢者層 = 60代の10人に1人以上が登山を行っている
2)問題点
・増え続ける遭難件数・遭難死者数
・登山者の高齢化
・中高年者の体力への過信
・スマートフォンの地図だけで登るような初級登山者の存在
・一部の山域に登山者が集中するオーバーユース
・登山者のマナー低下
3)対策
・Webサイトで手軽に登山届を提出できるサービス
・山のグレーディング表(長野・岐阜・山梨・静岡)
4)市場 =安定型 1800~1900億円規模
・2014年の登山用品市場(キャンプ用品を含む)は1,950億円(アウトドア用品市場は1,812億1,000万円と推計)
・前年比103.2%
・伸び幅は大きくないものの、安定した需要
・釣り用品(2004年 2,060億円 → 2014年 1,600億円 減)
・スキーやスノボード用品(同1,910億円 → 同1,410億円 減)
・近代登山はたかだが150年の歴史しかない
5)特徴
・店舗のショールーミング化はおきにくい
・ライフタイムバリューの高い顧客
6)課題
・新たに登山を始める人を増やすこと
・環境や生活スタイルの変化をうまく取り込んでいくこと
7)新たな動き
・ネット登山パーティー
・互いの体力や登山技術・経験、性格などもわからないままにパーティーとして山にのぼること
・パーティーでの責任者(いわゆるリーダー)が明確ではないこと
・「trippiece」
まぁここまではよく聞く話です。都会にいた頃は、登山は高齢者の遊びだと思っていましたが、やはり、それは的確な観察のようです。山は山で、登山活動は登山活動であり、オーソドックスな登山活動をする限り、年齢は関係ないと理論上はなりますが、実際はオーソドックスな登山から離れて、中高年登山という一つのジャンルが確立している、と考えるのがスムースです。
■ 釣り業界との比較
1)釣り人口
1990年代後半 2,000万人 (90年代、空前のアウトドアブーム)
2011年 940万人
2012年 810万人
2013年 770万人
2)釣り市場 おおよそ1300億円市場
・釣りブーム全盛期には3,000~3,500億円 (1/3ほどまで縮小)
2012年 1,161億円
2013年 1,219億円
2014年 1,251億円(見込み)
2015年 1,293億円(予測)
・大震災のあとに徐々に回復基調
3) 減少の原因
・市場飽和
・イメージ悪化 バス釣り離れ=ダークなイメージ
・2001年に同時多発テロによる釣り場が減少
・撒き餌による水質汚染&ゴミの不法投棄によるイメージダウン
4)回復要因
・インバウンド市場 (2兆305億円)の取り込み
・普及価格帯の釣り用品
・海外展開
・釣り人に対する啓蒙
・ライフスタイルとしての釣りの提案
・釣り人そのものを育てるような取り組み
・釣り場のゴミ拾い活動を通しての啓蒙
・若年層向けの釣りクラブ活動
・旅行・運輸産業とコラボして釣りツアーを実施(異業種との連携)
・“島ガール”
・新たな釣りジャンルの創生
5)動向
・余暇をもつ高齢者の増加
・多摩川に代表されるように良質な釣り場環境の回復
■ スキー業界
1)スキー人口
1993年 1,770万人
1998年 1,800万人(ウィンタースポーツ客全体としてのピーク)
2013年 770万人
2)衰退の原因
・バブル崩壊による経済の衰退
・殿様商売
・複合施設化 “滑る”というスキー本来の魅力を希薄化させた → スキーよりミッキー
・スキーを楽しんでいた層の呼び戻しに失敗
・若者層のライフスタイルの変化により将来の優良顧客を取り込み損ねた
3)動向
・インバウンド消費の取り込み (北海道ニセコ地区、長野県・白馬地区や野沢温泉地区)
・レンタル事業
観光省資料
http://www.mlit.go.jp/common/001083645.pdf
■ 登山の位置づけ 大局を把握
登山は基本的に ”レジャー”です。
レジャー=余暇の過ごし方
レジャーには、国内旅行、外食、音楽鑑賞、劇場、映画、パチンコ、スポーツ、などが含まれます。
外に出かけないで家で余暇を過ごすイエナカ消費(巣篭り消費)という言葉も一時でました。
押さえたいポイントは、登山は国内旅行のカテゴリーに入り、クライミングはスポーツのカテゴリーに入る、ことです。
アルパインクライミング? どっちに入るのでしょうか?良く分かりませんが、やっぱり”国内旅行カテゴリー”かなぁ?
大雑把に
登山 = 国内旅行
ロッククライミング = スポーツ
のようです。
■ 国内旅行という視点でみた登山
国内旅行の市場は縮小傾向にある。国内宿泊旅行延べ人数は2013年で 1.76 億人!
http://www.mlit.go.jp/pri/kikanshi/pdf/55-1.pdf
もっとも頻度が多いのが、時間とカネに余裕があり元気な60代とされている。これは、登山者人口が60代が多い点と合致する。
■ 余暇増大
ここ10年で余暇が1割増えているというデータが国土交通省から出されています。
これは、本当なのか?!と言う感じですが・・・もしかして2極化ではないか?と思ったりもします。
というのは、都会暮らしの頃は実感として、夜8~10時まで仕事をしているのが普通だったからですが・・・。
少子高齢化が進んで、単純に余暇というより、余暇を持つ”退職者”が増えているだけかも?その指摘は国が出している資料にもあります。
http://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/bunseki/pdf/h17/h4a0506j3.pdf
http://www.nrc.co.jp/report/pdf/130430.pdf
余暇の動向としては、”歩く”活動が好まれているようです。
http://activity.jpc-net.jp/detail/srv/activity001444/attached.pdf
■ 考察
・登山人口、釣り人口、スキー人口は、すべて 800万人前後規模的に変わりがない
・登山市場規模1800~1900億円、釣り市場1300億円
・市場特徴は、釣りやスキーと比べて、安定型
で、既に大きな規模の浮き沈みを経験した釣りやスキー市場と比べ、登山市場は比較的ぬるま湯と言えます。
他のアウトドア市場の失敗から学べることをまとめますと・・・
・環境汚染などのダークなイメージは市場を冷え込ませる
・ライフスタイルの変化に合わせるべき
・複合施設化は避けるべき
・インバウンド市場にも目を向けるべき
・殿様商売にならないように注意する
となります。
これらの点を登山市場に当てはめると・・・
1)遭難などのダークなイメージを回避する
2)環境問題へ積極的に取り組み、クリーン&グリーンなイメージをキープすべし
3)スマートフォンやネット利用などのライフスタイルの変化は追随すべし
4)複合施設化は避ける
5)外国人客(インバウンド)の取り込みを積極的に行う
6)他業界と連携する
7)登山用品業界として、登山者そのものを育てる取り組みを行う
8)ライフスタイルとしての登山を提案する
9)新たなジャンルを作り出す
■ 施策
すでに登山業界では取り組まれています。
1)遭難者を減らすための活動に取り組む
2)インターネットやスマートフォンで登山計画書を提出できる
その際に留意する点・・・
・山域を分散してオーバーユースを避ける = 環境に対する配慮でイメージダウンを避ける
・登山初心者へきちんと登山の知識を与える(地図携帯、遭難対策、マナーアップ)こと
・新規登山者の機会提供
■ 考えてみた施策のあれこれ
地図不携帯への対策(遭難対策)
・一般ルートの山の場合、登山口で地図を販売する(100円程度や2万5千の地図そのもの)
たとえば南アルプスの広河原沢インフォメーションセンターや芦安で、バス内、タクシーで2万5千の地図を販売したら、地図携帯者数は上がりそうな気がします。その際、市場より高めの価格設定でもよいかと思われます。コーラだって下界より高いのだし。
・安価で小グループのガイド(ツアー)登山
現在は初心者向けの安価で小グループのツアーが品薄です。大規模=オーバーユース、ですし、今の時代に大人数で出かけるツアーは、国内旅行業界としても閑古鳥ですから、流行るとは思えませんが、少人数の場合の価格の高さがネックになっていると思われます。
ガイドレシオ(1:8程度)を守るためには、3万円÷8=3750円ですので、4000円~8000円以下の価格帯での初心者向けツアーがもっと増加して良い気がします。
現在は、交通費込みでの初心者ツアーとなっていますが、現地ツアー型で、それくらいの価格帯のツアーが定期的に開催されていれば、新規登山者への機会提供となるのではないでしょうか。
その際の窓口は、おそらくツアー会社ではなく、登山用品店、ガイド、講習会またはネット窓口とならざるを得ないような気がします。
ネット登山の弊害が指摘されていますが、
・互いの力量不明のメンバー
・誰がリーダーか(責任の所在)不明
・登山を教える人がいない
は、実は山岳会に所属しても同じです。
この点はガイド登山の場合(は、登山者同士が力量不明である、という点以外はクリアしています。
ガイド登山では、メンバー同士の結束が計れないというのは、エベレスト登山でも一緒のようです。
ガイド登山の参加者同士が、定期的・継続的に仲間として成立するような方向へ向かうのが良いのではないでしょうか。
ガイドさん自体は、顧客同士が一緒に行ってしまうと自分の儲けが無くなると危惧しているかもしれませんが、実際はそうはならないのではないか?と思います。登山の場合、かならず指導者が必要な側面が出てくるし、高額な出費で続けられる人口が減ることよりも、ライフタイムで、一生登山を継続するほうがトータルとしては長期の優良顧客となるハズだからです。
スキー業界と比べて、登山はインバウンドの取り込みはまだのようですが、瑞垣や小川山など国内の有数の岩場は、可能性があるのではないでしょうか。外国人を時々みます。
インバウンドとは?
http://diamond.jp/articles/-/65852
Thursday, December 10, 2015
ダグ・トンプキンスさん死去の話題ほか
■ 気象庁の天気図がカラーになりました!
毎朝チェックする気象庁の天気図・・・
今朝は、カラーになっていました。今週末、お天気が悪そう・・・
■ ダグ・トンプキンスさん死去
ノースフェイスの創始者、ダグ・トンプキンスさんがパタゴニアで亡くなったそうです。
http://www.alpinist.com/doc/web15y/newswire-doug-tompkins-dies-in-kayaking-accident-in-patagonia
アルピニストに出ていました。カヤッキング中の転覆事故だそうです。レスキュー後、集中治療室に入ってすぐに亡くなったそうです。
私はサンフランシスコには思い入れがあるので(ノースはサンフランシスコの会社)、ちょっとビックリして、取り上げることにしました。
また暮らしてみたいサンフランシスコ。夫と行くことはもうないかなぁ・・・またあちらで生活できたら、いいな~といつも思っているのですが。
でも、まぁ小川山があるからいいか(笑)。 画像はフィッツロイ。見てみたい景色です。
アルパインのいいところは、こういう景色と日本でやっていることがつながっていることではないかと思う・・・クライミングは国際言語というか・・・基本はみな同じ、というわけだし。
■ 鹿肉
友人が鹿肉を送ってくれました。
どうしましょう?今週末は、わらじ納めなので、鹿肉パーティになりそうです。
今日は、ローストビーフの鹿肉バージョンに一番小さい塊りで挑戦予定です。
毎朝チェックする気象庁の天気図・・・
今朝は、カラーになっていました。今週末、お天気が悪そう・・・
■ ダグ・トンプキンスさん死去
ノースフェイスの創始者、ダグ・トンプキンスさんがパタゴニアで亡くなったそうです。
http://www.alpinist.com/doc/web15y/newswire-doug-tompkins-dies-in-kayaking-accident-in-patagonia
アルピニストに出ていました。カヤッキング中の転覆事故だそうです。レスキュー後、集中治療室に入ってすぐに亡くなったそうです。
私はサンフランシスコには思い入れがあるので(ノースはサンフランシスコの会社)、ちょっとビックリして、取り上げることにしました。
また暮らしてみたいサンフランシスコ。夫と行くことはもうないかなぁ・・・またあちらで生活できたら、いいな~といつも思っているのですが。
でも、まぁ小川山があるからいいか(笑)。 画像はフィッツロイ。見てみたい景色です。
| http://publications.americanalpineclub.org/articles/12196926300/Fitz-Roy-1968 より引用 |
■ 鹿肉
友人が鹿肉を送ってくれました。
どうしましょう?今週末は、わらじ納めなので、鹿肉パーティになりそうです。
今日は、ローストビーフの鹿肉バージョンに一番小さい塊りで挑戦予定です。
Monday, December 7, 2015
どの程度調べていくか、調べないで行くか?
今朝は、ちょっと沢の調べもので忙しかった。行く場所が決まり、リーダーから連絡が来る。
そこに行けるかどうか?
その判断から、自分持ちだ。自分だけでなく、連れて行く人がいれば、その人の分もある。今回は夫も連れて行きたいと思っていたので、夫が歩けるかどうか?を見極めなくてはならなかった。
■ 調べないでいいことが分かるということ
実は、昨日の倉岳山は調べて行かなかった。
”オフ会”と聞いただけで、山としては、ものすごく簡単な所に設定されていることが、分かるからだ。
山域を把握し、地図を印刷して山としてはお終い。あとは、駅集合なので電車の時刻は調べた。
が、それ以上は調べない。
その山に困難な部分がなく、体力的にゆとりを持って歩けると分かっている以上、それ以上調べたからって、何も変わらない。
新しい山を発見する楽しみが調べて分減るだけだ。
一般道の山なら、登山口くらいは知っておかないといけないけれど、地図があれば、それだって、当日アタフタすれば済んでしまう。
できるだけ、たくさんの、新鮮な驚きを得たい。だから、できれば、何も事前情報が与えられない状態で行きたい。
もちろん、それができる環境下である、という前提で、だ。
それが分かっていたのは、オフ会に選ばれるような山である、ということと、オフ会に参加するだろうメンバーの脚力の様子、それに前に行ったことがある近郊の山(高川山)で山域の雰囲気くらいは分かっていること、があった。
■ 経験値の差
一方、夫の方は、「ええ~?そこ標高何メートル?往復何時間?!」と慌てふためいて調べていた。
いつも、私の山には彼は調べないでただついてくるだけ。
だから、いきなり知らない人と行くことになると、大慌てなのだ。
考えてみると、彼と私の山の経験値は大きく違う。特に、ここ3年ほど、私がアルパインに進んでからは、夫はまったくその領域には足を踏み入れておらず、まったく無知に等しい。
ときどき、山に連れて行く程度だったからだ。その場合も、私が既に行って良かった山に案内する、という形で、まったく未知のところに一緒に発見に行く、という体験は積み上げていない。
また、体力面でも、私が年間50~60山行をこなしているのに対し、夫は年間10山行、行けばよいほうだ。
だから、同じ時点で山をスタートしていても、まったく登山の理解度が違う。
でも、夫からは、私の方が経験が多く、判断の材料が多いことは分からない。
■ Grow Apart
英語で、Grow Apart という言葉があるが、それぞれ成長して違う道に進んでしまった、という意味だが、そんな感じだ。
私は一般登山から、アルパイン、アイス、沢、フリーと順調に(?)、困難度を上げてきているが、夫は違う・・・
しかし、それは、夫婦のきずなを深めていくこととしては、色々とまずいかもしれない。
夫と私には子供がいない、つまり、共同の成果物がない。家を建てる、子供を育てる、そうした共同作業がない夫婦には、かすがいがなく、かすがいとなりうるのは、互いへの愛情だけだ。
愛情はあっても、共通の基盤がなければ、人は孤独を感じることができる。夫は、孤独への感性が鈍く、ほっておくと、友達は一人もいなくなってしまう。孤独を感じていないのではない、孤独を感じる感性が鈍くなってしまっているのだ。だから、やはり唯一の親友として、夫婦のきずなは大事にしておかなくてはならない。
倉岳山の2万5千の地図を出していたのに、それを見ても、往復何時間くらいか、計算できない・しない彼をみて、「やっぱり一般登山からしないとダメかなぁ」と思った。
地図にルートがあれば、大雑把なコースタイムの計算はできる。 距離と標高差を見れば、大体分かる。
慣れてくれば、A4で1P印刷で収まる山=半日コースだな、と分かる。
標高がいくらかなんて、地図を見れば分かる。地図を渡されて、それを聞くのは恥ずかしいことだ。
しかも、夫は、わたしに向かって、「そんなことも調べないで行くの?」という顔さえしたのだ・・・はぁ~(ため息)。
彼に、先日、4月に一緒に行った兜山に一人で出かけてもらっていたら、どうやって登山口まで行ったのか、覚えていなかった。
登山口まで内から30分しかかからないことも知らなかったのだ。
私にいつも連れて行ってもらっているから。
■ 何が分かっていないのか分かっていないのが初心者
何が分かっていないのか、分かっていないのが初心者と言われる。
分かっていないことが分かっていない = とってもえらそー
とも言える。
というわけでエラソーな夫なのであった。
そこに行けるかどうか?
その判断から、自分持ちだ。自分だけでなく、連れて行く人がいれば、その人の分もある。今回は夫も連れて行きたいと思っていたので、夫が歩けるかどうか?を見極めなくてはならなかった。
■ 調べないでいいことが分かるということ
実は、昨日の倉岳山は調べて行かなかった。
”オフ会”と聞いただけで、山としては、ものすごく簡単な所に設定されていることが、分かるからだ。
山域を把握し、地図を印刷して山としてはお終い。あとは、駅集合なので電車の時刻は調べた。
が、それ以上は調べない。
その山に困難な部分がなく、体力的にゆとりを持って歩けると分かっている以上、それ以上調べたからって、何も変わらない。
新しい山を発見する楽しみが調べて分減るだけだ。
一般道の山なら、登山口くらいは知っておかないといけないけれど、地図があれば、それだって、当日アタフタすれば済んでしまう。
できるだけ、たくさんの、新鮮な驚きを得たい。だから、できれば、何も事前情報が与えられない状態で行きたい。
もちろん、それができる環境下である、という前提で、だ。
それが分かっていたのは、オフ会に選ばれるような山である、ということと、オフ会に参加するだろうメンバーの脚力の様子、それに前に行ったことがある近郊の山(高川山)で山域の雰囲気くらいは分かっていること、があった。
■ 経験値の差
一方、夫の方は、「ええ~?そこ標高何メートル?往復何時間?!」と慌てふためいて調べていた。
いつも、私の山には彼は調べないでただついてくるだけ。
だから、いきなり知らない人と行くことになると、大慌てなのだ。
考えてみると、彼と私の山の経験値は大きく違う。特に、ここ3年ほど、私がアルパインに進んでからは、夫はまったくその領域には足を踏み入れておらず、まったく無知に等しい。
ときどき、山に連れて行く程度だったからだ。その場合も、私が既に行って良かった山に案内する、という形で、まったく未知のところに一緒に発見に行く、という体験は積み上げていない。
また、体力面でも、私が年間50~60山行をこなしているのに対し、夫は年間10山行、行けばよいほうだ。
だから、同じ時点で山をスタートしていても、まったく登山の理解度が違う。
でも、夫からは、私の方が経験が多く、判断の材料が多いことは分からない。
■ Grow Apart
英語で、Grow Apart という言葉があるが、それぞれ成長して違う道に進んでしまった、という意味だが、そんな感じだ。
私は一般登山から、アルパイン、アイス、沢、フリーと順調に(?)、困難度を上げてきているが、夫は違う・・・
しかし、それは、夫婦のきずなを深めていくこととしては、色々とまずいかもしれない。
夫と私には子供がいない、つまり、共同の成果物がない。家を建てる、子供を育てる、そうした共同作業がない夫婦には、かすがいがなく、かすがいとなりうるのは、互いへの愛情だけだ。
愛情はあっても、共通の基盤がなければ、人は孤独を感じることができる。夫は、孤独への感性が鈍く、ほっておくと、友達は一人もいなくなってしまう。孤独を感じていないのではない、孤独を感じる感性が鈍くなってしまっているのだ。だから、やはり唯一の親友として、夫婦のきずなは大事にしておかなくてはならない。
倉岳山の2万5千の地図を出していたのに、それを見ても、往復何時間くらいか、計算できない・しない彼をみて、「やっぱり一般登山からしないとダメかなぁ」と思った。
地図にルートがあれば、大雑把なコースタイムの計算はできる。 距離と標高差を見れば、大体分かる。
慣れてくれば、A4で1P印刷で収まる山=半日コースだな、と分かる。
標高がいくらかなんて、地図を見れば分かる。地図を渡されて、それを聞くのは恥ずかしいことだ。
しかも、夫は、わたしに向かって、「そんなことも調べないで行くの?」という顔さえしたのだ・・・はぁ~(ため息)。
彼に、先日、4月に一緒に行った兜山に一人で出かけてもらっていたら、どうやって登山口まで行ったのか、覚えていなかった。
登山口まで内から30分しかかからないことも知らなかったのだ。
私にいつも連れて行ってもらっているから。
■ 何が分かっていないのか分かっていないのが初心者
何が分かっていないのか、分かっていないのが初心者と言われる。
分かっていないことが分かっていない = とってもえらそー
とも言える。
というわけでエラソーな夫なのであった。
Thursday, November 12, 2015
基本に立ち返ること
昨日から山に行きたいなと思っているのに、甲府はずっと高曇りで、パッとしない天気が続いている。先週の連日の晴れが嘘のようだ。
先週は、本当に素晴らしい山日和りだった。雨の心配がゼロだった。
■ 計画書をリスペクトせよ!
一方で、色々な疑問や謎が明らかになってしまった山だったが、良かったことは、地図に予定のコースタイムを書き入れて行ったこと。地図ベースで判断して行ったこと。
何時にどこを通過しているべきか?というのは、山の基本だ。予定より遅れていれば、急がなくてはならない。
山行計画をリスペクトせよ!というコラムを読んだが、山行計画のリスペクトが低いという病は、どこにでも見受けられるもののようだと思った。
つまり、逆説的に言えば、山行計画について、あれこれと指摘がある、ということが、歓迎すべき、安全登山への一歩なのだ。
しかし、だ・・・
計画書に質問や指摘をする、ということは、かなり勇気がいることではないだろうか?
指摘されたほうは、その指摘を快く受け入れられるのだろうか?
誰も指摘しないということは、指摘を受け入れないだろうなと皆が考えていることの裏返しではないだろうか?
■ 会心の山 = 計画とピッタリの山
私は夫と出かける自分たちの山行(実力拮抗型パーティ)では、リーダー兼山行企画者だ。
だから、かもしれないが、わたしにとっては、計画と実際の、乖離の少ない山が、良い山だ。
早く下山しすぎても、見積もりが、辛目だったということになる。
会心の山 = 計画と実際のかい離が少なかった山。
いつもギリギリになって降りた山については反省している。だから、か、ヘッデン下山の経験はとても少なかった。
しかし、一方でヘッデン下山にはすぐに慣れてしまい・・・たとえば林道をヘッデンで歩くなど、「経験になっていいんじゃない?」程度の感覚になってしまった。
・・・これはいいのだろうか???
想定されるハザードレベルが同じなのに「大丈夫」と判断している、ということなのだろうか?それとも、林道=安全、なのだから、機会を生かしてやっておくべき経験で、経験値が上がった、ということになるのだろうか?
■ 下山遅れ
下山時間と言うのは、良し悪しの判断が難しい・・・。
例えば、クライミングのガイドさんでも、時間を切って、きっちり、15時に下山開始する人もいれば、クライアント=登りたがり、ということで、暗くなってヘッデン下山になるまで登らせてくれる人もいる。
どちらの人が良いガイドと称されるか?は、価値観による。
例えばアイスだが、ベテラン保科ガイドの時は、金ヶ窪沢(三つ峠)ということもあって、下山は明るいうちだった。
一方、岩根(車の中からビレイできそうな場所)では、私がしつこく、登ったのもあって、暗くなるギリギリまで、「もう、仕方ないなぁ。あと一本だけよ」と言って登らせてくれた。
師匠と出かけると大抵は、互いにあまり言葉を交わさずとも、大体の判断で暗くなる前に降りて、安全登山をしている。
その辺の勘どころ、というのは、何も言わなくても、済んでいたので、潜在意識化してしまっていた。
今回は、その潜在意識化した感性が、危機意識となって呼び起こされるような山だった。
ただ不思議なのは、私以外の誰も、危険を察知していないようだったこと。
それは私の方が、ピーチクパーチク騒ぎすぎなのか? それとも、自分の感覚が正しいのか?
どちらにしても、まぁ今現在生きているので、大した問題ではない。
■ なだらかで鹿道の多い道
山で得る経験は、山からの個人的なメッセージとして、いつも受け取ることにしている。
山がなかなか私を手放してくれない・・・
最近は、山梨で生活することの一番のメリットは登山だ!とは、感じられなくなってきた。
・・・というよりむしろ、このまま登山を続ければ、その先にあるのは、必ずしや死ではないか?とさえ、感じるようになった。
安全登山へ続く選択肢は一体どれなのか?非常に分かりにくい。例えるなら、鹿道が錯綜する、なだらかな尾根をルートファインディングしているような感じだ。
もしかしたら、私の好みは、厳しくてもルートファイの容易な、急な痩せ尾根なのかも?
もし、そうであれば、フリーをもっと頑張らないといけないのだが・・・頑張ってみたら、好きかどうか、分かるだろうか?
前に先輩が、「小川山レイバックをリードで登れたら、新しい世界が開けるかもしれない」と言っていたんだが・・・うーん、その新しい世界は、”私が切り開きたい新しい世界”なのだろうか?
そこのところが自分でもよく分からなくなっている。
どんなことでも、行けるところまで行って、やってみないとよく分からないモノだから、まぁ仕方がないと言えば仕方がない。
フリーを頑張ると山では確実に弱くなるし、弱くなったらやっぱり、少しがっかりはしたんだった。
しかし、まぁ迷った時はやはり、基本に帰って、安全とは何か?だけを唯一の判断の拠り所とすべきだろう。
ちょっと買い物へ出て、家に帰ると、家の中が生温かった。急いでフレッシュな空気に換気する。ずっと家の中にいたら、換気が必要だと感じ取れなかっただろう・・・
山の危険は、そんなことと似ている気がする。
先週は、本当に素晴らしい山日和りだった。雨の心配がゼロだった。
■ 計画書をリスペクトせよ!
一方で、色々な疑問や謎が明らかになってしまった山だったが、良かったことは、地図に予定のコースタイムを書き入れて行ったこと。地図ベースで判断して行ったこと。
何時にどこを通過しているべきか?というのは、山の基本だ。予定より遅れていれば、急がなくてはならない。
山行計画をリスペクトせよ!というコラムを読んだが、山行計画のリスペクトが低いという病は、どこにでも見受けられるもののようだと思った。
つまり、逆説的に言えば、山行計画について、あれこれと指摘がある、ということが、歓迎すべき、安全登山への一歩なのだ。
しかし、だ・・・
計画書に質問や指摘をする、ということは、かなり勇気がいることではないだろうか?
指摘されたほうは、その指摘を快く受け入れられるのだろうか?
誰も指摘しないということは、指摘を受け入れないだろうなと皆が考えていることの裏返しではないだろうか?
■ 会心の山 = 計画とピッタリの山
私は夫と出かける自分たちの山行(実力拮抗型パーティ)では、リーダー兼山行企画者だ。
だから、かもしれないが、わたしにとっては、計画と実際の、乖離の少ない山が、良い山だ。
早く下山しすぎても、見積もりが、辛目だったということになる。
会心の山 = 計画と実際のかい離が少なかった山。
いつもギリギリになって降りた山については反省している。だから、か、ヘッデン下山の経験はとても少なかった。
しかし、一方でヘッデン下山にはすぐに慣れてしまい・・・たとえば林道をヘッデンで歩くなど、「経験になっていいんじゃない?」程度の感覚になってしまった。
・・・これはいいのだろうか???
想定されるハザードレベルが同じなのに「大丈夫」と判断している、ということなのだろうか?それとも、林道=安全、なのだから、機会を生かしてやっておくべき経験で、経験値が上がった、ということになるのだろうか?
■ 下山遅れ
下山時間と言うのは、良し悪しの判断が難しい・・・。
例えば、クライミングのガイドさんでも、時間を切って、きっちり、15時に下山開始する人もいれば、クライアント=登りたがり、ということで、暗くなってヘッデン下山になるまで登らせてくれる人もいる。
どちらの人が良いガイドと称されるか?は、価値観による。
例えばアイスだが、ベテラン保科ガイドの時は、金ヶ窪沢(三つ峠)ということもあって、下山は明るいうちだった。
一方、岩根(車の中からビレイできそうな場所)では、私がしつこく、登ったのもあって、暗くなるギリギリまで、「もう、仕方ないなぁ。あと一本だけよ」と言って登らせてくれた。
師匠と出かけると大抵は、互いにあまり言葉を交わさずとも、大体の判断で暗くなる前に降りて、安全登山をしている。
その辺の勘どころ、というのは、何も言わなくても、済んでいたので、潜在意識化してしまっていた。
今回は、その潜在意識化した感性が、危機意識となって呼び起こされるような山だった。
ただ不思議なのは、私以外の誰も、危険を察知していないようだったこと。
それは私の方が、ピーチクパーチク騒ぎすぎなのか? それとも、自分の感覚が正しいのか?
どちらにしても、まぁ今現在生きているので、大した問題ではない。
■ なだらかで鹿道の多い道
山で得る経験は、山からの個人的なメッセージとして、いつも受け取ることにしている。
山がなかなか私を手放してくれない・・・
最近は、山梨で生活することの一番のメリットは登山だ!とは、感じられなくなってきた。
・・・というよりむしろ、このまま登山を続ければ、その先にあるのは、必ずしや死ではないか?とさえ、感じるようになった。
安全登山へ続く選択肢は一体どれなのか?非常に分かりにくい。例えるなら、鹿道が錯綜する、なだらかな尾根をルートファインディングしているような感じだ。
もしかしたら、私の好みは、厳しくてもルートファイの容易な、急な痩せ尾根なのかも?
もし、そうであれば、フリーをもっと頑張らないといけないのだが・・・頑張ってみたら、好きかどうか、分かるだろうか?
前に先輩が、「小川山レイバックをリードで登れたら、新しい世界が開けるかもしれない」と言っていたんだが・・・うーん、その新しい世界は、”私が切り開きたい新しい世界”なのだろうか?
そこのところが自分でもよく分からなくなっている。
どんなことでも、行けるところまで行って、やってみないとよく分からないモノだから、まぁ仕方がないと言えば仕方がない。
フリーを頑張ると山では確実に弱くなるし、弱くなったらやっぱり、少しがっかりはしたんだった。
しかし、まぁ迷った時はやはり、基本に帰って、安全とは何か?だけを唯一の判断の拠り所とすべきだろう。
ちょっと買い物へ出て、家に帰ると、家の中が生温かった。急いでフレッシュな空気に換気する。ずっと家の中にいたら、換気が必要だと感じ取れなかっただろう・・・
山の危険は、そんなことと似ている気がする。
Monday, November 9, 2015
山の実力を客観視することの難しさ
■ リーダーへのサポートが必要
〇〇さんがリーダーだから、任せておけば大丈夫 という思考回路
は、信頼をあらわしているのではないかもしれない。
では何を表しているのか? 依存、か、怠惰、のほうではないだろうか?
リーダー任せの山行は危ない。リーダーだって神ではないのですから、何でも知っている、分かっていると期待するほうが、おかしいのです。
リーダーのミスは、指摘してやれなかった、みんなのミス。
以下は、死者が出る遭難を経験した大学山岳部の学生らが出した反省とその対策です。
■ 学生が遭難から導き出した問題点と反省点
問題点1) 知識、経験が秀でている者に判断を任せていた
問題点2) 山岳部として安全を担保するための考え方を教わっていなかった
問題点3) 上級生の積極的参加意識の低下
問題点4) 危険と安全に対する意識が欠如
対策1) 机上講習の充実
対策2) 合宿、個人山行のあり方を見直す
対策3) リーダーを務める山行を積極的に行う
対策1)机上講習の充実
・インプットだけでなく、アウトプットを行い、進捗度と定着を図る
・遭難事故を学習する機会を設ける
・登山の歴史や思想を学ぶ
・自分にとって、登山とは何なのかを自主的に考え、山と真摯に向き合う
対策2)合宿、個人山行のあり方を見直す
・合宿では、目標達成より、安全を重視する
・コンパスの使い方や地形図の読み方など基礎的な技術を、各人が身に着け、個人レベルで安全な登山ができる体制を作る
・不足している技術は、積極的にOBに協力を仰ぐ
対策3)リーダーを務める山行を積極的に行う
・下級生も年に3~4回はリーダーを務める山行を行う
・その際は、計画立案段階で、山行計画の内容を部員全員で検討する
■ 山ヤの資質
問題の根っこは、社会人も学生も同じだ。 任せておけば安心、という、考え方だ。
それは残念ながら、捨てなくてはいけないし、自立する心が芽生えるのが、山の良さなのだから、任せて安心したがる人は、そもそも山ヤとしての資質に欠ける。
そのような人は、山ではなく、小屋がある一般登山道でハイキングをするべきだ。
上記の学生の反省を、山岳会に落とし込むと・・・
1) リーダー任せにしないで、山行計画をきちんと各人が読み込む
2) 和 より 安全 (安全=スピード)
3) ナビゲーション表の共有 (あるべき行動時間を各人が把握する)
4) 歩く基本を重視する (歩けない人は連れて行かないのではなく、連れて”行けない”)
5) テント泊の生活技術、地図読み、パッキングなど、技術がそもそも身についていない場合は、会山行は、本番ではなく、練習山行の内容にとどめる
6) 遅くなる人は、過剰装備を山行前にチェックする
7) 毎年1度、同じルートを同じ重さを背負って歩き、体力の低下をチェックする
8) 実力を客観的に測定する目安を持つ
今回のリーダーは、赤岳を休憩なしで登れないメタボおじさんとは違い、確実にしっかりした山ヤのリーダーだ。
そのリーダーがした判断であれば、過信が問題なのではないのかもしれない。
とすれば、考えられるのは、単純に パーティ全体の力量が、客観的に把握できていない、ということだ。 パーティの力量=もっとも弱い人の力量。
力量を客観的に把握することは、誰にとっても難しい。
私自身、自分の力量はどこのあたりか分からないため、本チャンなどの本気の山の時は、臆病なくらいに控えめなコースタイムを設定しているので、結局、一日余ったりして、下山が朝9時など、笑ってしまうほど、ゆとりが残っている。
ずっと同じグループで山に登り続ければ、一般登山者との比較ができなくなる。そのため、平均点も取れなくなっていること自体に気が付かない、気が付けない可能性がある。
例えば、私は、40代の平均的な強さ、と言われており、別に強くはない。
40代平均というのは、当然30代平均よりは弱いハズで、当然50代平均よりは強いはずだ。
したがって50代の中では強いだろうと思える山岳部出身者より、私は弱いという現実を見ることになると、それは想定を裏切る好成績。(=安心)
ところが、50代山岳界出身と、同じような人のはずなのに、私より弱いということは・・・たとえば赤岳が休憩なしで登れなかったメタボおじさん・・・は、一般登山者レベルの体力ということが想定できる。なぜなら、私は別に平均より強くないからだ。(=不安)
■ コースタイムは甘々
昨今は60代、70代が増えたため、北アなどのコースタイムは、大幅に水増しされて設定されている。
私も初心者の頃、北岳に登るのに、6時間半と言われても、5時間しかからないので困った。
こうした一般に言われていることの矛盾は、自分で山行を企画していないと気が付かない。
会に入ると、会でしか登らなくなり、自分のコースタイムには気が付けなくなるリスクがある。
例えば・・・私が詳しい尾根で恐縮だが、前に遠見尾根のコースタイムが登り6時間で驚いた。私は4時間20分で、問題なく登る。若い男性(30代)は、3時30分で登る。
ところが、いわゆる健脚者は3時間。しかし、60代は7時間かかる。
60代の方で、ザックを軽くして(5kg日帰り)コースタイムの6時間通り登れた!と喜んでいる人がいた。
エアリアの想定は、35才の男性が、一泊程度の装備を背負って4~5人で歩く、を想定してあるから、35才と同じ速さなら健脚だろうという訳だ。
しかし、それは誤解だ。健脚者と言うのは、3時間で登れる人のことを言う。一般の40~50代は、コースタイムよりうんと早く登る。
アルパインで通用するのも、そのあたりのラインからだ。それ以下の人は、みなアルパインもどき、でしかない。もちろん、私自身も含めて、だ。アルパインには資格不足だということを知っておくべきだ。
これに似た誤解がないようにするには、客観的に測量可能な目安・・・時間と重さ・・・で、毎年条件を同じにして、測定するしかありません。
私にとっては西岳がそれで、大きな山行の前には西岳を歩いて、どれくらい時間がかかったのかを計っておきます。
〇〇さんがリーダーだから、任せておけば大丈夫 という思考回路
は、信頼をあらわしているのではないかもしれない。
では何を表しているのか? 依存、か、怠惰、のほうではないだろうか?
リーダー任せの山行は危ない。リーダーだって神ではないのですから、何でも知っている、分かっていると期待するほうが、おかしいのです。
リーダーのミスは、指摘してやれなかった、みんなのミス。
以下は、死者が出る遭難を経験した大学山岳部の学生らが出した反省とその対策です。
問題点1) 知識、経験が秀でている者に判断を任せていた
問題点2) 山岳部として安全を担保するための考え方を教わっていなかった
問題点3) 上級生の積極的参加意識の低下
問題点4) 危険と安全に対する意識が欠如
対策1) 机上講習の充実
対策2) 合宿、個人山行のあり方を見直す
対策3) リーダーを務める山行を積極的に行う
対策1)机上講習の充実
・インプットだけでなく、アウトプットを行い、進捗度と定着を図る
・遭難事故を学習する機会を設ける
・登山の歴史や思想を学ぶ
・自分にとって、登山とは何なのかを自主的に考え、山と真摯に向き合う
対策2)合宿、個人山行のあり方を見直す
・合宿では、目標達成より、安全を重視する
・コンパスの使い方や地形図の読み方など基礎的な技術を、各人が身に着け、個人レベルで安全な登山ができる体制を作る
・不足している技術は、積極的にOBに協力を仰ぐ
対策3)リーダーを務める山行を積極的に行う
・下級生も年に3~4回はリーダーを務める山行を行う
・その際は、計画立案段階で、山行計画の内容を部員全員で検討する
■ 山ヤの資質
問題の根っこは、社会人も学生も同じだ。 任せておけば安心、という、考え方だ。
それは残念ながら、捨てなくてはいけないし、自立する心が芽生えるのが、山の良さなのだから、任せて安心したがる人は、そもそも山ヤとしての資質に欠ける。
そのような人は、山ではなく、小屋がある一般登山道でハイキングをするべきだ。
上記の学生の反省を、山岳会に落とし込むと・・・
1) リーダー任せにしないで、山行計画をきちんと各人が読み込む
2) 和 より 安全 (安全=スピード)
3) ナビゲーション表の共有 (あるべき行動時間を各人が把握する)
4) 歩く基本を重視する (歩けない人は連れて行かないのではなく、連れて”行けない”)
5) テント泊の生活技術、地図読み、パッキングなど、技術がそもそも身についていない場合は、会山行は、本番ではなく、練習山行の内容にとどめる
6) 遅くなる人は、過剰装備を山行前にチェックする
7) 毎年1度、同じルートを同じ重さを背負って歩き、体力の低下をチェックする
8) 実力を客観的に測定する目安を持つ
今回のリーダーは、赤岳を休憩なしで登れないメタボおじさんとは違い、確実にしっかりした山ヤのリーダーだ。
そのリーダーがした判断であれば、過信が問題なのではないのかもしれない。
とすれば、考えられるのは、単純に パーティ全体の力量が、客観的に把握できていない、ということだ。 パーティの力量=もっとも弱い人の力量。
力量を客観的に把握することは、誰にとっても難しい。
私自身、自分の力量はどこのあたりか分からないため、本チャンなどの本気の山の時は、臆病なくらいに控えめなコースタイムを設定しているので、結局、一日余ったりして、下山が朝9時など、笑ってしまうほど、ゆとりが残っている。
ずっと同じグループで山に登り続ければ、一般登山者との比較ができなくなる。そのため、平均点も取れなくなっていること自体に気が付かない、気が付けない可能性がある。
例えば、私は、40代の平均的な強さ、と言われており、別に強くはない。
40代平均というのは、当然30代平均よりは弱いハズで、当然50代平均よりは強いはずだ。
したがって50代の中では強いだろうと思える山岳部出身者より、私は弱いという現実を見ることになると、それは想定を裏切る好成績。(=安心)
ところが、50代山岳界出身と、同じような人のはずなのに、私より弱いということは・・・たとえば赤岳が休憩なしで登れなかったメタボおじさん・・・は、一般登山者レベルの体力ということが想定できる。なぜなら、私は別に平均より強くないからだ。(=不安)
■ コースタイムは甘々
昨今は60代、70代が増えたため、北アなどのコースタイムは、大幅に水増しされて設定されている。
私も初心者の頃、北岳に登るのに、6時間半と言われても、5時間しかからないので困った。
こうした一般に言われていることの矛盾は、自分で山行を企画していないと気が付かない。
会に入ると、会でしか登らなくなり、自分のコースタイムには気が付けなくなるリスクがある。
例えば・・・私が詳しい尾根で恐縮だが、前に遠見尾根のコースタイムが登り6時間で驚いた。私は4時間20分で、問題なく登る。若い男性(30代)は、3時30分で登る。
ところが、いわゆる健脚者は3時間。しかし、60代は7時間かかる。
60代の方で、ザックを軽くして(5kg日帰り)コースタイムの6時間通り登れた!と喜んでいる人がいた。
エアリアの想定は、35才の男性が、一泊程度の装備を背負って4~5人で歩く、を想定してあるから、35才と同じ速さなら健脚だろうという訳だ。
しかし、それは誤解だ。健脚者と言うのは、3時間で登れる人のことを言う。一般の40~50代は、コースタイムよりうんと早く登る。
アルパインで通用するのも、そのあたりのラインからだ。それ以下の人は、みなアルパインもどき、でしかない。もちろん、私自身も含めて、だ。アルパインには資格不足だということを知っておくべきだ。
これに似た誤解がないようにするには、客観的に測量可能な目安・・・時間と重さ・・・で、毎年条件を同じにして、測定するしかありません。
私にとっては西岳がそれで、大きな山行の前には西岳を歩いて、どれくらい時間がかかったのかを計っておきます。
Tuesday, October 20, 2015
山行計画は山ヤのラブレター
今日は仕事の日だった。夜教えているから、帰りは夜10時になる。
ヨガを教えることができることにとても感謝している。ヨガを教えることは、通常なかなか叶わないことだ。このような気持ちは、山岳会を率いるリーダーが持つ気持ちと同じかもしれない。
教えることができることへの感謝は、私がむしろ学ばせていただいている、ということによる。
■ 山との類似
ヨガを教える側は、自分のヨガはできない。そのことは、先生たちの間では良く知られている。
教える側は、指示を出さないといけないので、自分のヨガを深めることはできない。
観察力を内に向けることができず、指示を出したり、生徒さんのアライメントを直したり、と結構忙しい。自分のポーズなんて後回し。しかし、要所要所でポーズは見せないと行けないので、自分で自分のヨガをする時間を別に持つのだ。
というわけで、ポーズについてだけなら、生徒側でいるほうが、上達が早い。
どっこい、ヨガをする、ということは、ポーズに熟達する、ということではない。
・・・ということが、生徒でいる間は、分かるようにならない。
それは、山が、体力だけでない、スポーツではないということが分かるようにならないのと似ている。
ヨガはポーズをとることではなく、ヨガ的な生き方というものを行うことがヨガなのだ。だから仕事をしていてもヨガ的であればヨガをしていることになるし、それはカルマヨーガという名前が付いている。
ポーズはヨガの小さな一局面に過ぎない。トータルで座学や歴史、ヨガ哲学を含めて体系的に学んで、初めて、ポーズを取ることの意味が分かるようになり、レッスンを組み立てることができるようになる。
意味が分かる瞬間と言うのは、まったくコペルニクス的転換で、生徒としてヨガを教わっていた10年や20年の間、ヨガをしているつもりで、全くしていなかったんだな~と分かる(^^;)。
しかし、教えるときには、そうして学んだポーズ上の小さなコツが具体的な教えになる、ということも否めない。
ただ先生のあり方として、ヨガ的でない人、つまりヨギーでない人は、すぐにわかる。
それは山ヤも同じだと思う。
人の後ろをついて歩いていると、もちろん歩くことは上手になる。足はみな強い。でも、山ヤじゃない。
考え方が山ヤじゃないのだ。人の後をついて歩いているだけでは、山を分かるようには一生ならない。
自分で計画を立て、リスクを計算し、自分の力量を客観的に評価し、どういう山が登れるのか、判断するという経験を積んで行かないと、山行を企画することすらできない。
山をするとはどういうことか?の全体像も分かるようにならない。
ヨガと山の共通点はこれだ。
逆に言うと、何事も指示されてやっている間は、特定の限定された範囲の技術に強くなれるということだ。技が研ぎ澄まされるチャンスということだと思う。
ヨガの先生になると、ヨガポーズ自体の洗練度は、実はどうでもよくなる。
なぜなら、そのポーズをどう使うか?のほうが、ポーズが上手とかキレイであることより、大事だからだ。
山も、計画から、その岳人の山への想いが伝わる。山行計画は、岳人から山へのラブレターなのだ。
その愛の詩を理解できることのほうが、山ヤとして大事なことで、足が強いとか、体力がある、なんてことは二の次、三の次のことなのだ。
ヨガを教えることができることにとても感謝している。ヨガを教えることは、通常なかなか叶わないことだ。このような気持ちは、山岳会を率いるリーダーが持つ気持ちと同じかもしれない。
教えることができることへの感謝は、私がむしろ学ばせていただいている、ということによる。
■ 山との類似
ヨガを教える側は、自分のヨガはできない。そのことは、先生たちの間では良く知られている。
教える側は、指示を出さないといけないので、自分のヨガを深めることはできない。
観察力を内に向けることができず、指示を出したり、生徒さんのアライメントを直したり、と結構忙しい。自分のポーズなんて後回し。しかし、要所要所でポーズは見せないと行けないので、自分で自分のヨガをする時間を別に持つのだ。
というわけで、ポーズについてだけなら、生徒側でいるほうが、上達が早い。
どっこい、ヨガをする、ということは、ポーズに熟達する、ということではない。
・・・ということが、生徒でいる間は、分かるようにならない。
それは、山が、体力だけでない、スポーツではないということが分かるようにならないのと似ている。
ヨガはポーズをとることではなく、ヨガ的な生き方というものを行うことがヨガなのだ。だから仕事をしていてもヨガ的であればヨガをしていることになるし、それはカルマヨーガという名前が付いている。
ポーズはヨガの小さな一局面に過ぎない。トータルで座学や歴史、ヨガ哲学を含めて体系的に学んで、初めて、ポーズを取ることの意味が分かるようになり、レッスンを組み立てることができるようになる。
意味が分かる瞬間と言うのは、まったくコペルニクス的転換で、生徒としてヨガを教わっていた10年や20年の間、ヨガをしているつもりで、全くしていなかったんだな~と分かる(^^;)。
しかし、教えるときには、そうして学んだポーズ上の小さなコツが具体的な教えになる、ということも否めない。
ただ先生のあり方として、ヨガ的でない人、つまりヨギーでない人は、すぐにわかる。
それは山ヤも同じだと思う。
人の後ろをついて歩いていると、もちろん歩くことは上手になる。足はみな強い。でも、山ヤじゃない。
考え方が山ヤじゃないのだ。人の後をついて歩いているだけでは、山を分かるようには一生ならない。
自分で計画を立て、リスクを計算し、自分の力量を客観的に評価し、どういう山が登れるのか、判断するという経験を積んで行かないと、山行を企画することすらできない。
山をするとはどういうことか?の全体像も分かるようにならない。
ヨガと山の共通点はこれだ。
逆に言うと、何事も指示されてやっている間は、特定の限定された範囲の技術に強くなれるということだ。技が研ぎ澄まされるチャンスということだと思う。
ヨガの先生になると、ヨガポーズ自体の洗練度は、実はどうでもよくなる。
なぜなら、そのポーズをどう使うか?のほうが、ポーズが上手とかキレイであることより、大事だからだ。
山も、計画から、その岳人の山への想いが伝わる。山行計画は、岳人から山へのラブレターなのだ。
その愛の詩を理解できることのほうが、山ヤとして大事なことで、足が強いとか、体力がある、なんてことは二の次、三の次のことなのだ。
| 私の愛の詩 |
Sunday, October 11, 2015
サードウェーブ?
スターバックスに代表されるようなシアトル系のコーヒーショップの後に台頭してきた、スペシャルティコーヒーを提供する、カフェをサードウェーブコーヒーと言うそうだ。
名称はともかく、私はコーヒー歴が長く、おいしいのとそうでないのが分かってしまう・・・。
甲府では、サードウェーブコーヒーの代表格は、寺崎コーヒーさんかな、と思う。出来て1年半くらい?草分けはビジョーさんではないか。寺崎さんができてから、あちこちに小さなカフェが目立つようになり、どこも共存共栄で流行っているようだ。
甲府に来た5年前は甲府にはスタバは2件、駅前と繁華街にあるだけだった。今では、アチコチにドライブスルー型のスタバができ、6件もあるが、コーヒー業界は飽和していないようだ。
ちなみにサードウェーブがスペシャルティとすると、スタバはまだセカンドウェーブなんだが・・・梅田にスタバが出来て、行列を見たのは、私が大学生の頃。
社会人で本町OLをしていた頃は、スタバは朝から勉強する社会人でいっぱいだった。ドトールはサボっている営業マンが行く場所のイメージだった。
そんなことを言いたかったのではないが、甲府にいると、大体大きな流れが来るのが20年くらいずれているのでは?というのは、このような事情による。
それでも最先端の流れは流量としては少なくても、ちゃんとある。
登山の世界にも、山岳界に若い人が来ない・・・とは言う。
でも、変化の兆しはきちんとある。ちゃんと山に向き合っている若い人もいる。
ただ、同じコーヒーを飲むでも、昔の純喫茶に誰も足を運ばなくなったみたいな感じなんじゃないかと。
純喫茶 → ドトール → スタバ → サードウェーブコーヒーショップ
飲んでるのは、コーヒー。でも、体現している価値観は全然違う。全体に、健康志向化、健全化、環境志向の強まりがある。
新しいワインは新しい革袋に入れないといけないってことなんじゃ?
コーヒーが不良が飲むもの、とか、カッコつけるためのもの、退廃やニヒリズム、という部分がだんだん少なくなって、明るく、健全で、リラックスできる者になってきている。
同じようなことがクライミングにも言えるんじゃないかなという気がしている。
名称はともかく、私はコーヒー歴が長く、おいしいのとそうでないのが分かってしまう・・・。
甲府では、サードウェーブコーヒーの代表格は、寺崎コーヒーさんかな、と思う。出来て1年半くらい?草分けはビジョーさんではないか。寺崎さんができてから、あちこちに小さなカフェが目立つようになり、どこも共存共栄で流行っているようだ。
甲府に来た5年前は甲府にはスタバは2件、駅前と繁華街にあるだけだった。今では、アチコチにドライブスルー型のスタバができ、6件もあるが、コーヒー業界は飽和していないようだ。
ちなみにサードウェーブがスペシャルティとすると、スタバはまだセカンドウェーブなんだが・・・梅田にスタバが出来て、行列を見たのは、私が大学生の頃。
社会人で本町OLをしていた頃は、スタバは朝から勉強する社会人でいっぱいだった。ドトールはサボっている営業マンが行く場所のイメージだった。
そんなことを言いたかったのではないが、甲府にいると、大体大きな流れが来るのが20年くらいずれているのでは?というのは、このような事情による。
それでも最先端の流れは流量としては少なくても、ちゃんとある。
登山の世界にも、山岳界に若い人が来ない・・・とは言う。
でも、変化の兆しはきちんとある。ちゃんと山に向き合っている若い人もいる。
ただ、同じコーヒーを飲むでも、昔の純喫茶に誰も足を運ばなくなったみたいな感じなんじゃないかと。
純喫茶 → ドトール → スタバ → サードウェーブコーヒーショップ
飲んでるのは、コーヒー。でも、体現している価値観は全然違う。全体に、健康志向化、健全化、環境志向の強まりがある。
新しいワインは新しい革袋に入れないといけないってことなんじゃ?
コーヒーが不良が飲むもの、とか、カッコつけるためのもの、退廃やニヒリズム、という部分がだんだん少なくなって、明るく、健全で、リラックスできる者になってきている。
同じようなことがクライミングにも言えるんじゃないかなという気がしている。
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| 山の本特集をしてほしい・・・ |
Thursday, July 16, 2015
オーダー
■ オーダー
オーダーというのは、
歩く順序
という意味です。
■ 2番
2番目が
一番弱い人
と決まっています。
1番目がサブリーダー、ラストがリーダーです。(逆もアリ)
■ 思い出
私と夫は雪山で、登山を始めました。ピッケルが必要な天狗岳くらいはすぐに自分たちで行くのも、問題がなくなり、その後、ピッケルの使用法を知るために教えを乞うたガイドさんの案内で、ツルネ東稜に行くことになりました。
ツルネ東稜は、旭岳の稜線でアンザイレンが必要です。
それでその時の順序には、私は、非常に疑問を感じたので、ガイドさんには文句を言ったのでした。
その時のオーダー
トップ ガイド
2nd 60代ベテラン女性
3rd 私 30代女性 初心者
ラスト 夫 40代男性 初心者 高所恐怖症
何がおかしかったか?というと、その60代の女性は、雪稜クラブという東京の山岳会に所属していた人で、高所登山の経験もあるベテランだったからです。20代から山をしている人です。
夫は高所恐怖症で、いくら男性と行っても、3年前の当時から、持久力では私の方が勝っていたくらいです。まだ靴も冬靴のちゃんとしたのは履いておらず、適当なのでお茶を濁しいている時代です。
その夫がラスト?
私が考えた正しいオーダーは
トップ ガイド
2nd 夫 40代男性
3rd 私 30代女性
ラスト 60代ベテラン女性
です。 パーティの中では夫が一番弱かったからです。ラストは、経験者が務めるべきだと思いました。
■ 性別の色眼鏡
その時も思ったのですが、性別の色眼鏡は、男性の方が強いのではないでしょうか?
特に高齢のベテラン女性については、評価を誤っていると思います。
■ 突破力だけではない登山力
登山の力は、登りの瞬発力だけではないです。ほとんど、登りの瞬発力だけで登山力を計っているのではないか?と思います。
馬力だけなら、若い男が一番になって当然です。 でも、その人たちは、どこへ向かうべきかの判断が正しくなく、兎と亀ではありませんが、非効率的なルートファインディングをするので、余計時間がかかったりします。たとえば、とても歩くべきでないような藪に突進したりです。 山の斜面を延々とトラバースしたりです。
山ではそういう無駄や危険を避ける知恵が重要。 クライミングと同じで、
どう省力するか?
は、力の弱い者ほど良く考えている、と思います。 ボルダリングだけやる人は力任せのクライミングになりやすい、のと同じで、若くて力一杯の人は、突進力だけの登山になりやすいのです。
必要もなく無駄に労力を使うような山は、知性がないと思います。
この時はアンザイレンしたので、歩きは遅く、何が核心か?というと、心肺機能ではなく、アイゼンで、雪の岩稜を歩く、技術力でした。
■ 見栄っ張りな男性?
それなら、余計、ベテランの方が上で、初心者の40代の男性で、しかも高所恐怖症で、その場にいること自体を怖がっている夫の方が、弱いことは確実でした。
それなのに、夫がラストなんて・・・
実際にも夫は怖がって、3rdの私にツメツメで歩いてきたので、とても危なかった。夫の顔をアイゼンで蹴らないか、というくらいでした。
権現へ行くまでに長い梯子があったのです。あの記憶があるので、夫には、冬の甲斐駒は無理だな~と思います。何しろ黒戸尾根、ハシゴだらけですもん。
その時リーダーを務めてくれた人は、男性の見栄について、配慮してくれたのかも知れません。
でも、私が夫を好きなのは、夫が見栄っ張りではないからなのです。
私は外国に若いころ少し暮らした経験があるからかもしれませんが、ホントに日本の男性って、めんどくさいな~と思います。本人も生きづらそうですし・・・ 何が何でもオイラが一番でなくてはならないなんて、ホント大変ですね。
オーダーというのは、
歩く順序
という意味です。
■ 2番
2番目が
一番弱い人
と決まっています。
1番目がサブリーダー、ラストがリーダーです。(逆もアリ)
■ 思い出
私と夫は雪山で、登山を始めました。ピッケルが必要な天狗岳くらいはすぐに自分たちで行くのも、問題がなくなり、その後、ピッケルの使用法を知るために教えを乞うたガイドさんの案内で、ツルネ東稜に行くことになりました。
ツルネ東稜は、旭岳の稜線でアンザイレンが必要です。
それでその時の順序には、私は、非常に疑問を感じたので、ガイドさんには文句を言ったのでした。
その時のオーダー
トップ ガイド
2nd 60代ベテラン女性
3rd 私 30代女性 初心者
ラスト 夫 40代男性 初心者 高所恐怖症
何がおかしかったか?というと、その60代の女性は、雪稜クラブという東京の山岳会に所属していた人で、高所登山の経験もあるベテランだったからです。20代から山をしている人です。
夫は高所恐怖症で、いくら男性と行っても、3年前の当時から、持久力では私の方が勝っていたくらいです。まだ靴も冬靴のちゃんとしたのは履いておらず、適当なのでお茶を濁しいている時代です。
その夫がラスト?
私が考えた正しいオーダーは
トップ ガイド
2nd 夫 40代男性
3rd 私 30代女性
ラスト 60代ベテラン女性
です。 パーティの中では夫が一番弱かったからです。ラストは、経験者が務めるべきだと思いました。
■ 性別の色眼鏡
その時も思ったのですが、性別の色眼鏡は、男性の方が強いのではないでしょうか?
特に高齢のベテラン女性については、評価を誤っていると思います。
■ 突破力だけではない登山力
登山の力は、登りの瞬発力だけではないです。ほとんど、登りの瞬発力だけで登山力を計っているのではないか?と思います。
馬力だけなら、若い男が一番になって当然です。 でも、その人たちは、どこへ向かうべきかの判断が正しくなく、兎と亀ではありませんが、非効率的なルートファインディングをするので、余計時間がかかったりします。たとえば、とても歩くべきでないような藪に突進したりです。 山の斜面を延々とトラバースしたりです。
山ではそういう無駄や危険を避ける知恵が重要。 クライミングと同じで、
どう省力するか?
は、力の弱い者ほど良く考えている、と思います。 ボルダリングだけやる人は力任せのクライミングになりやすい、のと同じで、若くて力一杯の人は、突進力だけの登山になりやすいのです。
必要もなく無駄に労力を使うような山は、知性がないと思います。
この時はアンザイレンしたので、歩きは遅く、何が核心か?というと、心肺機能ではなく、アイゼンで、雪の岩稜を歩く、技術力でした。
■ 見栄っ張りな男性?
それなら、余計、ベテランの方が上で、初心者の40代の男性で、しかも高所恐怖症で、その場にいること自体を怖がっている夫の方が、弱いことは確実でした。
それなのに、夫がラストなんて・・・
実際にも夫は怖がって、3rdの私にツメツメで歩いてきたので、とても危なかった。夫の顔をアイゼンで蹴らないか、というくらいでした。
権現へ行くまでに長い梯子があったのです。あの記憶があるので、夫には、冬の甲斐駒は無理だな~と思います。何しろ黒戸尾根、ハシゴだらけですもん。
その時リーダーを務めてくれた人は、男性の見栄について、配慮してくれたのかも知れません。
でも、私が夫を好きなのは、夫が見栄っ張りではないからなのです。
私は外国に若いころ少し暮らした経験があるからかもしれませんが、ホントに日本の男性って、めんどくさいな~と思います。本人も生きづらそうですし・・・ 何が何でもオイラが一番でなくてはならないなんて、ホント大変ですね。
Wednesday, July 8, 2015
入会希望者と
■入会希望者と山登り
今日は入会希望の人と、山登り。御坂山岳会に入会希望者が来ることは少ない。
御坂山岳会では入会希望者を募っているが、HPのアクセス頻度が極端に低いため、まったく人の目に触れていない。
ので、入会者は年に1人二人いるのだが、基本的には口伝えの人脈に因る。
HPのアクセス頻度が高まればいいのか?というと、それはそれで悩ましく、現在のところ指導者層の厚みの問題もあり、たくさん来ても、指導ができるかどうか?という問題もあって、積極的拡大路線を取っていない。のは、まぁ良いことのような気がする。
・・・というのも、友人が立ち上げた会は、数名で立ち上げ、20人を超えたそうなのだが、大きくなると、4~5名のグループが常時4つ、5つ動いているような形になり、バラバラの4つの団体が寄り集まっているという状態で、一つの山岳会を名乗るのも意味が見いだせなくなってくるのだそうだ。
「大きくしすぎないほうがいい」と言っていた・・・。たしかになぁ・・・。たくさん来ても面倒が見きれない。
基本的には、御坂山岳会は良い会だ。ただ指導者不足という絶対的な事実は否めないので、
・山についての指導はよそで受けてくるか、
・山岳会に属してから、よそで受けるか、
・主体的になり、自ら学ぶか、
どれかの必要がある。
■ 振り返ると分かる長い道のり
今日来てくれた人は、平日の休みに、単独で日帰りの近所の山に行っていたりするのだそうだった。
単独、日帰り、低山、平日、とくれば、近、短、安を旨とする、私の山と近くないでもないと思うのだが、やっぱり近いようで、全然近くない・・・。
振り返ると分かる、成長の長い道のり。
登山を始めて5年、本格的登山へ移行して2年。まだまだ、ひよっこだが、その地位を得るのさえも、非常に莫大な思考と適切に配備された経験と、数々の講習会費用が必要だった。
おおよそ講習会やギア代は100万円を下らない程度かかっている。
しかも、私はヨガを夜に教えている以外は専業主婦なので、持てる時間資産をほぼ登山に全投入している、という具合。
しかも、最近は、中毒にかかっているんじゃないか?何か怪しい脳内物質が分泌されているのではないか?と不安になる傾倒度・・・頻度も頻繁だ。休みは全部山に行っていて、去年の山行数は60山行。 200座はすでに突破した。
やっぱまずいんじゃないんですかね?と自分でも思わないでもないのだが・・・ まぁ暇だしなぁ。
今私が分かっていることを、全く白紙の人に分かってもらおうと思うと、それはかなり大変だ。
今日来てくれた彼は、地図は市が無料で配っているような概念図だった。ぜんぜんダメ。
だが、それで用が済んでしまう昨今の山。だから当然、今まで登っていても問題ないだろうし、今から先もそれをしても問題は起らないだろう。
だよなぁ。
レインウェアは2度しか着たことがないと言う。
だよなぁ・・・。
私も登山を始めた頃は、晴れの日しか山に行かないことにしていたので、レインウェアは長いことお守り状態だった。
沢ではレインウェアは比較的良く着る。それにすぐ痛む。
大菩薩は一周しても3時間なので、時間が余り、今日はクライミングも紹介しても良いとは思ったが、まだ入会希望の段階だし、会を知ってもらってからの方が良いだろうと思い、辞めておいた。
手ごろに見えた大岩があったので、ボルダ―という言葉を紹介した。ジムのホールドを登るのが、ボルダリングじゃなくて、河原にあるボルダ―を登るのがボルダリングと言う話。
彼はジムのホールドを登るのがボルダリングだと思っていた。やっぱりなぁ。知ってるわけないよなぁ。
でも、一般登山者の世界では知ることがないのは当然の帰結だ。
一方で”登山”と言った時、整備された登山道を登るだけが登山だと思ってもらったら困る、と言うのも事実。
一般登山者はまるで本当の登山から目隠しされているような立場だ。
その目隠しを取りたいと思うか思わないか?が、本格的がつく登山へ移行してくるか来ないかの違いかもしれない。
・・・が、そのコストは高く、メリットは小さい。
本格的登山を知ってしまうと、一般道を歩く登山が色あせて見える。ある意味、楽しさがそがれる。
レインジャーに参加して、費用をもらわないと北岳なんて登る気になれないくらいだ。
さらに言ってしまえば、本格的登山を知ったところで、一般道を歩く登山と大して変わらぬ帰結になってしまうのも事実。
それだけ安全管理がネックで、山自体を登る体力や知力、技術があっても、正しく安全管理するには、経験が必要で、難しいと言うことだ。
私の最も難しい雪山は、アルパイン初心者の頃に師匠に連れて行ってもらった甲斐駒から向上していない。したがって自分で行ける山は雪の赤岳止まりだ。ああ、ジョウゴ沢があったか。あまり、大きくない山だけれど。
・・・結局、なかなか自分で行ける山の最大値は、向上しない。 初心者ルートが渋滞するのはそのためだ。
結局雪の赤岳止まりか、と言うことになる。自分で行ける山が雪の赤岳から向上しないことは、多くの人にとって失望になるだろう。
多大な努力と、その努力をもってしても届かないと言う失望・・・
そして、色あせる一般登山。”本格的登山”のコストは高く、メリットは少ない。一方一般登山のコストは安く、メリットは大きい。
それなら、長い間一般登山を愉しんだほうが楽しいのではないかという気がしないでもない。
クライミングや沢をするようになると、やはり一般登山は、トレーニング程度の山の地位に貶められてしまう。山小屋には長らく止まっていない。泊まりたいとももはや思えない。
山に甲乙つけようというのではなく、山との対話が少なすぎるように感じてしまうのだ。
今日は入会希望の人と、山登り。御坂山岳会に入会希望者が来ることは少ない。
御坂山岳会では入会希望者を募っているが、HPのアクセス頻度が極端に低いため、まったく人の目に触れていない。
ので、入会者は年に1人二人いるのだが、基本的には口伝えの人脈に因る。
HPのアクセス頻度が高まればいいのか?というと、それはそれで悩ましく、現在のところ指導者層の厚みの問題もあり、たくさん来ても、指導ができるかどうか?という問題もあって、積極的拡大路線を取っていない。のは、まぁ良いことのような気がする。
・・・というのも、友人が立ち上げた会は、数名で立ち上げ、20人を超えたそうなのだが、大きくなると、4~5名のグループが常時4つ、5つ動いているような形になり、バラバラの4つの団体が寄り集まっているという状態で、一つの山岳会を名乗るのも意味が見いだせなくなってくるのだそうだ。
「大きくしすぎないほうがいい」と言っていた・・・。たしかになぁ・・・。たくさん来ても面倒が見きれない。
基本的には、御坂山岳会は良い会だ。ただ指導者不足という絶対的な事実は否めないので、
・山についての指導はよそで受けてくるか、
・山岳会に属してから、よそで受けるか、
・主体的になり、自ら学ぶか、
どれかの必要がある。
■ 振り返ると分かる長い道のり
今日来てくれた人は、平日の休みに、単独で日帰りの近所の山に行っていたりするのだそうだった。
単独、日帰り、低山、平日、とくれば、近、短、安を旨とする、私の山と近くないでもないと思うのだが、やっぱり近いようで、全然近くない・・・。
振り返ると分かる、成長の長い道のり。
登山を始めて5年、本格的登山へ移行して2年。まだまだ、ひよっこだが、その地位を得るのさえも、非常に莫大な思考と適切に配備された経験と、数々の講習会費用が必要だった。
おおよそ講習会やギア代は100万円を下らない程度かかっている。
しかも、私はヨガを夜に教えている以外は専業主婦なので、持てる時間資産をほぼ登山に全投入している、という具合。
しかも、最近は、中毒にかかっているんじゃないか?何か怪しい脳内物質が分泌されているのではないか?と不安になる傾倒度・・・頻度も頻繁だ。休みは全部山に行っていて、去年の山行数は60山行。 200座はすでに突破した。
やっぱまずいんじゃないんですかね?と自分でも思わないでもないのだが・・・ まぁ暇だしなぁ。
今私が分かっていることを、全く白紙の人に分かってもらおうと思うと、それはかなり大変だ。
今日来てくれた彼は、地図は市が無料で配っているような概念図だった。ぜんぜんダメ。
だが、それで用が済んでしまう昨今の山。だから当然、今まで登っていても問題ないだろうし、今から先もそれをしても問題は起らないだろう。
だよなぁ。
レインウェアは2度しか着たことがないと言う。
だよなぁ・・・。
私も登山を始めた頃は、晴れの日しか山に行かないことにしていたので、レインウェアは長いことお守り状態だった。
沢ではレインウェアは比較的良く着る。それにすぐ痛む。
大菩薩は一周しても3時間なので、時間が余り、今日はクライミングも紹介しても良いとは思ったが、まだ入会希望の段階だし、会を知ってもらってからの方が良いだろうと思い、辞めておいた。
手ごろに見えた大岩があったので、ボルダ―という言葉を紹介した。ジムのホールドを登るのが、ボルダリングじゃなくて、河原にあるボルダ―を登るのがボルダリングと言う話。
彼はジムのホールドを登るのがボルダリングだと思っていた。やっぱりなぁ。知ってるわけないよなぁ。
でも、一般登山者の世界では知ることがないのは当然の帰結だ。
一方で”登山”と言った時、整備された登山道を登るだけが登山だと思ってもらったら困る、と言うのも事実。
一般登山者はまるで本当の登山から目隠しされているような立場だ。
その目隠しを取りたいと思うか思わないか?が、本格的がつく登山へ移行してくるか来ないかの違いかもしれない。
・・・が、そのコストは高く、メリットは小さい。
本格的登山を知ってしまうと、一般道を歩く登山が色あせて見える。ある意味、楽しさがそがれる。
レインジャーに参加して、費用をもらわないと北岳なんて登る気になれないくらいだ。
さらに言ってしまえば、本格的登山を知ったところで、一般道を歩く登山と大して変わらぬ帰結になってしまうのも事実。
それだけ安全管理がネックで、山自体を登る体力や知力、技術があっても、正しく安全管理するには、経験が必要で、難しいと言うことだ。
私の最も難しい雪山は、アルパイン初心者の頃に師匠に連れて行ってもらった甲斐駒から向上していない。したがって自分で行ける山は雪の赤岳止まりだ。ああ、ジョウゴ沢があったか。あまり、大きくない山だけれど。
・・・結局、なかなか自分で行ける山の最大値は、向上しない。 初心者ルートが渋滞するのはそのためだ。
結局雪の赤岳止まりか、と言うことになる。自分で行ける山が雪の赤岳から向上しないことは、多くの人にとって失望になるだろう。
多大な努力と、その努力をもってしても届かないと言う失望・・・
そして、色あせる一般登山。”本格的登山”のコストは高く、メリットは少ない。一方一般登山のコストは安く、メリットは大きい。
それなら、長い間一般登山を愉しんだほうが楽しいのではないかという気がしないでもない。
クライミングや沢をするようになると、やはり一般登山は、トレーニング程度の山の地位に貶められてしまう。山小屋には長らく止まっていない。泊まりたいとももはや思えない。
山に甲乙つけようというのではなく、山との対話が少なすぎるように感じてしまうのだ。
Monday, July 6, 2015
マッターホルングラス?!
■ たまたま見つけた変なもの・・・
たまたまアマゾンで変わったモノを見つけた。
その名も
マッターホルン・グラス。
グラスの中に、マッターホルン型のグラスが形成されているのだ。
ミルクを入れれば、雪山?!
他にも、見つけてしまった・・・
■ 富士山・グラス
こちらはグラスの底に富士山が浮かび上がる仕組みなので、洗いやすいかな?
こころもち、マッターホルンより、完成度が低い気がするが・・・
■ ビールで富士山
ビールで富士山型というのを発見した。 こちらはなかなか完成度も高そう。
しかし、飲みにくそうではある。
■山男へのプレゼントにいかが?
山男へのプレゼントにいかが?と締めくくりそうになるが・・・ 山男の心の琴線にはこれらのグラスでは触れられないだろう・・・
なにしろ3800円。それだけあれば、何が買えると思っているんだ?!と怒鳴られること、間違いない(笑)。
真面目な山ヤ相手に、何を贈っていいか分からないときは、最新型のカラビナか、スリングを贈っておけば間違いない。
カラビナには用途があるので、そうと知らずに山用でないモノを買っても仕方ない。分からなかったら、ダイニーマのスリングがもっとも無難だ。
たまたまアマゾンで変わったモノを見つけた。
その名も
マッターホルン・グラス。
グラスの中に、マッターホルン型のグラスが形成されているのだ。
ミルクを入れれば、雪山?!
他にも、見つけてしまった・・・
■ 富士山・グラス
こちらはグラスの底に富士山が浮かび上がる仕組みなので、洗いやすいかな?
こころもち、マッターホルンより、完成度が低い気がするが・・・
■ ビールで富士山
ビールで富士山型というのを発見した。 こちらはなかなか完成度も高そう。
しかし、飲みにくそうではある。
■山男へのプレゼントにいかが?
山男へのプレゼントにいかが?と締めくくりそうになるが・・・ 山男の心の琴線にはこれらのグラスでは触れられないだろう・・・
なにしろ3800円。それだけあれば、何が買えると思っているんだ?!と怒鳴られること、間違いない(笑)。
真面目な山ヤ相手に、何を贈っていいか分からないときは、最新型のカラビナか、スリングを贈っておけば間違いない。
カラビナには用途があるので、そうと知らずに山用でないモノを買っても仕方ない。分からなかったら、ダイニーマのスリングがもっとも無難だ。
Sunday, July 5, 2015
(今ある危険以上に山を危険にする人) → (危険にしない人)へ、いかに転換してもらうのか?
■ 山の危険 vs 人の危険
昨日は、沢に行っていた。初めて歩く人と一緒だ。用事があって山梨付近を通るハズだったのだが、雨天で流れ、結局沢のために来てもらった格好になってしまった。深謝だ。
そして、一緒に行った沢は、脆くて危険もあったが、一緒に行った人はその危険をそれ以上にする人ではなかった。どういう意味か?
(今ある山の危険)を(それ以上危険)にしない・・・そういう人は少ない。
(今ある山の危険)が10だとする。 それをザイルを出さないで突破すると、スリップのリスクからは身を守られていない。だから、リスクは20に増える。
ザイルを出せば、少なくともスリップで死ぬリスクは無くなる。人間は高いところから、落ちれば死ぬのが当然なのだから、物理の法則からは身を守るのが普通のことだ。
(今ある危険以上に山を危険にする人)もいる。例えば、分かりやすい例で行くと、雪の赤岳に6本爪アイゼンで来る人などだ。 もっと分かりやすい言葉では、山を舐めている、という.。もちろん、当人は分かっていないだけで、舐めているつもりがない、というのが根本的原因だ。
私が今、悩んでいるのは、
(今ある危険以上に山を危険にする人) → (危険にしない人)へ、いかに転換してもらうのか???
ということだ。
■ 山はわざわざ危険にしなくても、危険
山は、わざわざ難しくしなくても、すでに危険だ。その危険を実際の山以上に大きくしない、ということが大事だ。
いや、大事だという言葉では、生ぬるいかもしれない。そうでなくては、時間の問題で必ず山で死ぬというくらい、はっきりしていることだと思う。
山はそもそも危険なので、その危険に丁寧に対処していても、運が悪ければ死んでしまう。
昨日は脆い山だったが、私がスリップしなかったのは、運が良かったということもできる。とはいえ、スリップの確率を下げる努力はしている。下山では、沢靴のフエルトの摩耗を減らすため、私はいつも履いていた下山用の靴を履いたが、雨で、濡れた道では、スリップしやすかったので、途中で沢靴に履き戻り、念のために持ってきたチェーンアイゼンを付けた。これはもろい泥つきを高巻くことがあれば、使おうと思って持ってきたが、昨日は雨だったので、尾根の方もグランドが緩くなっていた。
こういう風に、事故というのは、予想して出会う確率を減らすことができるし、本当に仕方ない事故と言うのは、そうやって確率を減らしても起る。
そのような事故と、本来ザイルを付けるべきところでつけなくて墜ちる事故とは本質が違う。
■ 男性の心理
時々思うのだが、男性は、山を実際の山以上に、困難に見せることで、自分の凄さをアピールしたい、という心理ニーズがあるのかもしれない。
そうではなく、山の危険に、しっかり向き合い、危険に対処できる術を身に着けてもらうには、どうしたらいいのだろうか?
というのも、私は女性だからなのだ。山の世界は8:2で男性が多い。特にアルパインになると、もう女性は数える程度しかいない。
ところが、男性は一緒に行く女性の前で、カッコつけたいという心理ニーズを押さえるのがとても難しいらしいのだ…。でも女性であると言うことは変えられないことだ。
したがって、男性の側に、そうした気持ちを捨ててもらうことが、一番山を安全にする。双方にとってそうなのだ。
昨日一緒にヤキチ沢に行ってくれた人は、そういう心理ニーズを超越した人だったので、一緒に行ってもらい、ただ山を愉しむことができた。
そうでない人と行くと、私の方が安全管理しなくてはならなくなる。要所要所で安全管理するように、アドバイスをするのはいいのだが、そのアドバイスを聞かないので、聞いてもらうためには、どうすれば良いか?と頭を抱えなくてはいけない。
山というのは、冒険だ。冒険には当然危険が付きまとう。山が持つ本来の危険性よりも、登山者が加担することで危険が増してしまっては、冒険ではなく、死ぬために行くもの、になってしまう。一か八か登山という訳だ。
■ 一人の方がむしろ安全になってしまう
だから、誰と行くかで、実際山の危険度は違う。
例えば、滝を前にして、ザイルを出すべきか出さざるべきか、判断する、という初歩のステップ1を分かっていない人と行くと、危険は増える。
支点をいい加減にしか作れない人と行っても危険は増える。
私は少なくとも、私の危機管理センサーのアラームが起動されない人と山に行きたい。それは最低限の要求だ。
そうでなくては、一人で行った方がより安全、ということになってしまう。
もちろん、人には失敗や間違いがあり、それは成長過程では避けることができない。
たとえば、支点は、2点から取る、ということが基本だが、カムなどの不安な支点の場合は、3点にするなど数を増やす。
しかし、初心者が間違って、2点からしか支点を取っていなくても、たいていの場合は、大きな事故につながらない。なぜなら、そのような稚拙な安全対策に対する思想(つまり技術)しか、まだ身に着けていない人には、後続が歩けるような場所(つまりそもそも支点が要らない場所)でしか、支点構築をさせないからだ。
つまり、これが行ける山に行く、という意味だ。しかし、そのミスから学ばないと、いつまでたっても行ける山は大きくならない。
より大きな危険を取りたいのであれば、その危険を冒すためには、より強い安全対策を施せるようにならないといけない。
だから、より大きな山に行きたければ、小さなミスから学ばなくてはならない。それは山から送られたメッセージだ。
私が疑問なのは、なぜ、その点がそんなにも理解が難しいのだろうか?ということだ。山との自己対話している人なら、必ず分かる点だからだ。
昨日は、沢に行っていた。初めて歩く人と一緒だ。用事があって山梨付近を通るハズだったのだが、雨天で流れ、結局沢のために来てもらった格好になってしまった。深謝だ。
そして、一緒に行った沢は、脆くて危険もあったが、一緒に行った人はその危険をそれ以上にする人ではなかった。どういう意味か?
(今ある山の危険)を(それ以上危険)にしない・・・そういう人は少ない。
(今ある山の危険)が10だとする。 それをザイルを出さないで突破すると、スリップのリスクからは身を守られていない。だから、リスクは20に増える。
ザイルを出せば、少なくともスリップで死ぬリスクは無くなる。人間は高いところから、落ちれば死ぬのが当然なのだから、物理の法則からは身を守るのが普通のことだ。
(今ある危険以上に山を危険にする人)もいる。例えば、分かりやすい例で行くと、雪の赤岳に6本爪アイゼンで来る人などだ。 もっと分かりやすい言葉では、山を舐めている、という.。もちろん、当人は分かっていないだけで、舐めているつもりがない、というのが根本的原因だ。
私が今、悩んでいるのは、
(今ある危険以上に山を危険にする人) → (危険にしない人)へ、いかに転換してもらうのか???
ということだ。
■ 山はわざわざ危険にしなくても、危険
山は、わざわざ難しくしなくても、すでに危険だ。その危険を実際の山以上に大きくしない、ということが大事だ。
いや、大事だという言葉では、生ぬるいかもしれない。そうでなくては、時間の問題で必ず山で死ぬというくらい、はっきりしていることだと思う。
山はそもそも危険なので、その危険に丁寧に対処していても、運が悪ければ死んでしまう。
昨日は脆い山だったが、私がスリップしなかったのは、運が良かったということもできる。とはいえ、スリップの確率を下げる努力はしている。下山では、沢靴のフエルトの摩耗を減らすため、私はいつも履いていた下山用の靴を履いたが、雨で、濡れた道では、スリップしやすかったので、途中で沢靴に履き戻り、念のために持ってきたチェーンアイゼンを付けた。これはもろい泥つきを高巻くことがあれば、使おうと思って持ってきたが、昨日は雨だったので、尾根の方もグランドが緩くなっていた。
こういう風に、事故というのは、予想して出会う確率を減らすことができるし、本当に仕方ない事故と言うのは、そうやって確率を減らしても起る。
そのような事故と、本来ザイルを付けるべきところでつけなくて墜ちる事故とは本質が違う。
■ 男性の心理
時々思うのだが、男性は、山を実際の山以上に、困難に見せることで、自分の凄さをアピールしたい、という心理ニーズがあるのかもしれない。
そうではなく、山の危険に、しっかり向き合い、危険に対処できる術を身に着けてもらうには、どうしたらいいのだろうか?
というのも、私は女性だからなのだ。山の世界は8:2で男性が多い。特にアルパインになると、もう女性は数える程度しかいない。
ところが、男性は一緒に行く女性の前で、カッコつけたいという心理ニーズを押さえるのがとても難しいらしいのだ…。でも女性であると言うことは変えられないことだ。
したがって、男性の側に、そうした気持ちを捨ててもらうことが、一番山を安全にする。双方にとってそうなのだ。
昨日一緒にヤキチ沢に行ってくれた人は、そういう心理ニーズを超越した人だったので、一緒に行ってもらい、ただ山を愉しむことができた。
そうでない人と行くと、私の方が安全管理しなくてはならなくなる。要所要所で安全管理するように、アドバイスをするのはいいのだが、そのアドバイスを聞かないので、聞いてもらうためには、どうすれば良いか?と頭を抱えなくてはいけない。
山というのは、冒険だ。冒険には当然危険が付きまとう。山が持つ本来の危険性よりも、登山者が加担することで危険が増してしまっては、冒険ではなく、死ぬために行くもの、になってしまう。一か八か登山という訳だ。
■ 一人の方がむしろ安全になってしまう
だから、誰と行くかで、実際山の危険度は違う。
例えば、滝を前にして、ザイルを出すべきか出さざるべきか、判断する、という初歩のステップ1を分かっていない人と行くと、危険は増える。
支点をいい加減にしか作れない人と行っても危険は増える。
そうでなくては、一人で行った方がより安全、ということになってしまう。
もちろん、人には失敗や間違いがあり、それは成長過程では避けることができない。
たとえば、支点は、2点から取る、ということが基本だが、カムなどの不安な支点の場合は、3点にするなど数を増やす。
しかし、初心者が間違って、2点からしか支点を取っていなくても、たいていの場合は、大きな事故につながらない。なぜなら、そのような稚拙な安全対策に対する思想(つまり技術)しか、まだ身に着けていない人には、後続が歩けるような場所(つまりそもそも支点が要らない場所)でしか、支点構築をさせないからだ。
つまり、これが行ける山に行く、という意味だ。しかし、そのミスから学ばないと、いつまでたっても行ける山は大きくならない。
より大きな危険を取りたいのであれば、その危険を冒すためには、より強い安全対策を施せるようにならないといけない。
だから、より大きな山に行きたければ、小さなミスから学ばなくてはならない。それは山から送られたメッセージだ。
私が疑問なのは、なぜ、その点がそんなにも理解が難しいのだろうか?ということだ。山との自己対話している人なら、必ず分かる点だからだ。
Friday, July 3, 2015
不安を解消する登山?
今日は甲府は結構な量の雨ふり…どんよりではなく、ハッキリとした雨の日だ。
雨の日は、家の中で片づけ物がはかどる。片づけ物を済ませたら、なんだか成し遂げた気分だ。それで、ご褒美に映画を見る。
■ アメイジンググレイス
昨日は『アメイジング・グレイス』を見た。
アメイジンググレイスという名の讃美歌は、アメリカにいたら、しょっちゅう聞かされる音楽だ。
この歌の歌詞が、奴隷船の船長だった人が悔い改めて作った歌詞だと言うことは知っていた。当時の奴隷貿易が、人を人とも扱わない非人道的で悲惨な仕打ちだったのも知っていた。奴隷は海に投げ捨てられていたそうだ。家畜以下の扱い。(でも人道的に扱ったとしても、奴隷貿易はおかしい)
植民地のプランテーションが労働搾取以外の何物でもないことは知っていた。当時は砂糖は奴隷の血で出来たものだったのだ。
先進国の議場で、搾取のほうが人道より上になってしまうことの理由が、「どうやってイギリスは食べていくんだ!」という漠然とした経済不安であることも知っていた。
が、その歌詞を作った人がジョン・ニュートンという名の人で、改心して牧師になり、孤独で貧しい生涯を送ったことは知らなかった。
その牧師がウィリアム・ウィルバーフォースという教え子に奴隷解放という天令を伝達し、政治家となった彼がイギリスにおける奴隷解放運動の先鋒だったことも知らなかった。
奴隷解放が成し遂げられるまでに20年の月日を要し、その実現に史上最年少、つまり実力者のイギリスの首相ウィリアム・ピットが親友であった背景があったとも知らなかった。
どこかで一つ歯車が途切れても、奴隷解放は遅れただろう。たとえば、ジョン・ニュートンが教え子にアメイジング・グレイスを教えなければ?教え子が政治家の道を進むように励まさなければ?ウィルバーフォースに妻がいなければ彼は健康を維持できず死んでしまったかもしれない。親友ウィリアム・ピットの実務の手腕が無ければ、議会でこっそり法案を通すことができなかったかもしれない。とまぁ、こんな感じに、色々な点で、運命の歯車が動いているので、それがなんとも不思議な気分だった。
この当時イギリスは奴隷貿易を経済基盤として、繁栄を享受していたそうなのだが、奴隷貿易が廃止されても、イギリス経済が破たんしたとは歴史の教科書には書いていない。こういうことから今の日本が学べそうなことはいっぱいあるような気がする。
それにしても、資本家 vs 労働者(単純労働者)という世界の、基本的な労使の構図は、隷属&酷使(他の言葉を使えば効率化)であって、共存共栄ではなく、人道か?経済メリットか?という問いに対する答えは、今の現代においても、いまだに出ていないのだと思った。
もちろん、奴隷制度がなりふり構わず横行していた時代と違って、今の時代は少なくとも先進国では、基本的人権が守られているということに法制上はそうなっているけれども、実際は、”サービス残業”に代表されるように、言葉がマイルドになっただけで、無賃労働という搾取の本質が変わらぬ日常であることは誰もが知っている。
…というようなことを考えた映画だった。
■ 現代的な解
人道主義
自然保護
などといった正論は、大人になるにつれて、かっこわるいもの・・・と位置付けれれるようになる。
それで、経済的メリットを他の何もかもに優先する思考回路が大人だ、ということに落ち着くのだが、結局、そうしたものにかじりつく、根本的な理由は、
不安
でしかないようだ。”持てる者”は”持たない”ことが怖いのだ。 資産家は破産が怖い。まぁ怖くない人がいたら不思議だ。
持てる者 → 持たざる者への移行
と言う視点で見ると、現代日本はそのような状況にある。
で、ここで私は登山の出番かな~と思う訳なのである。
登山というのは、持たざることの疑似体験、だから。 電気のない生活。自分の背負える荷だけを背負って歩く生活。自分の歩ける距離だけを歩く生活。
ほんの1日でも、そういう生活をすることで、自分の力以外のものに頼らなくても意外と大丈夫なんだな・・・と思うことができる。
最初は一日10kmしか歩けなくても、20kmくらい誰でも歩けるようになる。
1日20km歩けると分かっていたら、会社にいる時に電車が止まっても、20km離れた自宅に帰ることくらいできるだろう。普段は電車を使っていても、いざとなれば電車に依存しないでいい、と知ることは安心につながる。
今まで依存していたものが、”無くては生きていけない”から、”あればあったで便利なもの”程度にランクを下げる。
それは、自立が増し、自由が増すということなのだ。
経済的に自分が立ち行かなくなるのではないか?という不安という足かせが無くなれば、大義名分に生きたくない人などいないだろう・・・と思うのだ。 どうだろうか?
そう言う意味では、例えば、電力会社の”電気がないと大変なことになりますよ”というようなタイプの漠然とした脅しに屈しない、強い人間を、登山という体験が、小さなことからコツコツと積み上げている、ということは言えなないだろうか?
雨の日は、家の中で片づけ物がはかどる。片づけ物を済ませたら、なんだか成し遂げた気分だ。それで、ご褒美に映画を見る。
■ アメイジンググレイス
昨日は『アメイジング・グレイス』を見た。
アメイジンググレイスという名の讃美歌は、アメリカにいたら、しょっちゅう聞かされる音楽だ。
この歌の歌詞が、奴隷船の船長だった人が悔い改めて作った歌詞だと言うことは知っていた。当時の奴隷貿易が、人を人とも扱わない非人道的で悲惨な仕打ちだったのも知っていた。奴隷は海に投げ捨てられていたそうだ。家畜以下の扱い。(でも人道的に扱ったとしても、奴隷貿易はおかしい)
植民地のプランテーションが労働搾取以外の何物でもないことは知っていた。当時は砂糖は奴隷の血で出来たものだったのだ。
先進国の議場で、搾取のほうが人道より上になってしまうことの理由が、「どうやってイギリスは食べていくんだ!」という漠然とした経済不安であることも知っていた。
が、その歌詞を作った人がジョン・ニュートンという名の人で、改心して牧師になり、孤独で貧しい生涯を送ったことは知らなかった。
その牧師がウィリアム・ウィルバーフォースという教え子に奴隷解放という天令を伝達し、政治家となった彼がイギリスにおける奴隷解放運動の先鋒だったことも知らなかった。
奴隷解放が成し遂げられるまでに20年の月日を要し、その実現に史上最年少、つまり実力者のイギリスの首相ウィリアム・ピットが親友であった背景があったとも知らなかった。
どこかで一つ歯車が途切れても、奴隷解放は遅れただろう。たとえば、ジョン・ニュートンが教え子にアメイジング・グレイスを教えなければ?教え子が政治家の道を進むように励まさなければ?ウィルバーフォースに妻がいなければ彼は健康を維持できず死んでしまったかもしれない。親友ウィリアム・ピットの実務の手腕が無ければ、議会でこっそり法案を通すことができなかったかもしれない。とまぁ、こんな感じに、色々な点で、運命の歯車が動いているので、それがなんとも不思議な気分だった。
この当時イギリスは奴隷貿易を経済基盤として、繁栄を享受していたそうなのだが、奴隷貿易が廃止されても、イギリス経済が破たんしたとは歴史の教科書には書いていない。こういうことから今の日本が学べそうなことはいっぱいあるような気がする。
それにしても、資本家 vs 労働者(単純労働者)という世界の、基本的な労使の構図は、隷属&酷使(他の言葉を使えば効率化)であって、共存共栄ではなく、人道か?経済メリットか?という問いに対する答えは、今の現代においても、いまだに出ていないのだと思った。
もちろん、奴隷制度がなりふり構わず横行していた時代と違って、今の時代は少なくとも先進国では、基本的人権が守られているということに法制上はそうなっているけれども、実際は、”サービス残業”に代表されるように、言葉がマイルドになっただけで、無賃労働という搾取の本質が変わらぬ日常であることは誰もが知っている。
…というようなことを考えた映画だった。
■ 現代的な解
人道主義
自然保護
などといった正論は、大人になるにつれて、かっこわるいもの・・・と位置付けれれるようになる。
それで、経済的メリットを他の何もかもに優先する思考回路が大人だ、ということに落ち着くのだが、結局、そうしたものにかじりつく、根本的な理由は、
不安
でしかないようだ。”持てる者”は”持たない”ことが怖いのだ。 資産家は破産が怖い。まぁ怖くない人がいたら不思議だ。
持てる者 → 持たざる者への移行
と言う視点で見ると、現代日本はそのような状況にある。
で、ここで私は登山の出番かな~と思う訳なのである。
登山というのは、持たざることの疑似体験、だから。 電気のない生活。自分の背負える荷だけを背負って歩く生活。自分の歩ける距離だけを歩く生活。
ほんの1日でも、そういう生活をすることで、自分の力以外のものに頼らなくても意外と大丈夫なんだな・・・と思うことができる。
最初は一日10kmしか歩けなくても、20kmくらい誰でも歩けるようになる。
1日20km歩けると分かっていたら、会社にいる時に電車が止まっても、20km離れた自宅に帰ることくらいできるだろう。普段は電車を使っていても、いざとなれば電車に依存しないでいい、と知ることは安心につながる。
今まで依存していたものが、”無くては生きていけない”から、”あればあったで便利なもの”程度にランクを下げる。
それは、自立が増し、自由が増すということなのだ。
経済的に自分が立ち行かなくなるのではないか?という不安という足かせが無くなれば、大義名分に生きたくない人などいないだろう・・・と思うのだ。 どうだろうか?
そう言う意味では、例えば、電力会社の”電気がないと大変なことになりますよ”というようなタイプの漠然とした脅しに屈しない、強い人間を、登山という体験が、小さなことからコツコツと積み上げている、ということは言えなないだろうか?
Wednesday, July 1, 2015
沢を忠実に詰めるということ・生きる自信をつけること
■ 山ヤを尊敬します☆
今日は甲府もウットオシイ梅雨って感じのお天気です。
山ヤの価値観、というものを考えています。というのも、ある沢を調べていたら、誤記かなぁと思える記述があったので、良くその沢を知っていそうな人に問い合わせたら、
沢を忠実に詰めるということは、流れ出しの最高標高点を目指すということだ
と教わり、さすが山ヤが言うことは違うなーと、納得を深めています。
先日、ナメラ沢に行ったのですが、その源流である西破風山ピークを詰めず、なんだか物足りない思いをしました。なんとなく、これではナメラ沢を知ったことにならない、という気がしたのです。
でもまぁ、その日の翌日も沢山行予定でしたし、軽めで終わりたいという気持ちもあったので、まあいいか、とりあえず偵察ということで・・・と終了。
でも、同行者は何という山に詰める沢かさえも知らずに来ていて、なんか違う・・・と違和感を覚えました。
というのも、登山という活動の骨子は、ピークを目指す、だからです。
岩も沢も、尾根も、雪もアイスも、ピークを目指す手段の多様化(派生ルート=バリエーション)にすぎません。そこのところが分かっていないと、登山をしている、とは言えないのです。
山岳会にいる、ということは、尾根を歩いている段階で、そうしたことが分かっていて当然です。一つの尾根を歩けば周辺の概念が頭に入り・・・と言う具合なので、沢を詰めることが、ピークを詰める手段の一つの派生形と言うことが分かっていれば、山頂がなんていう場所なのか知らない、ということはないハズです・・・で、あれ?思ったより初心者なのかな?大丈夫なのかな?と思いました。
私の方は、その沢はピークへ到達しなかったので、ちょっと消化不良な感じ・・・。でもまぁ、ナメラ沢が一人で行ってもいいような楽勝沢と分かったことが収穫です。
■ ドラマが楽しい
やはり沢は、
ちょっと水の冷たさにドキドキする入渓から、
木陰の沢の涼しそうな様子、
一転して困難を強いられる滝場の突破や高巻きのスリル、
そして滝上に出てくるご褒美としての美しい景色、
山頂へのつまらないことが多いツメ、
そのつまらなさを取り戻させてくれる山頂での達成感、
下山で尾根を降りるときのむずかしさ、
それから、途中での地図読みでのシナリオ先読み、
その後、終了点での不安、ちゃんと戻れた時の安堵、
・・・・こうしたものが、全部揃って楽しさだなぁ・・・という気がします。
もちろん、その時の目的に合わせて、おいしいとこどりができるということは、沢の全体像を知っているからこそできる、上級テクだ!と思います。
最近、一般道が楽しくないのは、そういう”ドラマ”が全然ないからです。
もちろん、景色は次々変わっていくのですが、まるで、車窓から眺める景色が変わる、というような感じで、山と係り合っている、と言う感じが全然足りません。
しかし、尾根は登山の基本で、しかも時々は歩かないと体力も弱るので、尾根歩きはトレーニングか偵察なので、ノルマ終了というような気分です。だから、誰かと歩こうかなという気になってしまうんです…。
尾根を歩くこと自体を目的とすることはできない体質になってしまいました…(汗)。縦走も同じで、なんだか退屈だな~と思ってしまいます。
一方、沢の方はまだ何も知らないので、水線入れたり、トポを地図に書き写していると、わくわくしてきます。そこには未知のドラマがいっぱいあるからです。
考えてみれば、3年前は、縦走に同じようにワクワクしていたんですよねぇ… 最近、普通の山に足が向かないのは、ノルマだから、というわけです。
ノルマには弱い私です・・・
■ 道具依存症は尊敬できない
一般に、文明の利器に頼らないで、登山するほうが、道具を使ってする登山よりも困難です。したがって、より敬意に値すると考えています。
例えば、2万5千の地図だけで、現在地を同定できるほうが、GPSで現在地を同定するより、当然ですが難しいです。
ですから、GPS依存症は、山ヤとしてはNoNoです。山ヤをめざしているんでない?それなら結構。
GPSは電池がなくなれば、ただの重しです。GPSはまさかの事態に陥った時のための保険とするべきで、人の歩いた後の軌跡を使って、GPSをナビに使うなど、山ヤとしてみたら、とんでもないと思います。何が面白いのか、全然わかりません。
私も夫も体力のない、へなちょこ登山者ですが、初期の時期からGPSをナビに使ったことはありません。現在地が分かりにくいときに見るか、分岐などで確認で見たりする程度でしたし、最近は間違いながら進むのに慣れたので、全く見ないで、家に帰ってトレースを見て、要所要所の判断を反省しています。
もちろん、本来はクライミングに来ているのに、目的の岩が見つからずに右往左往している時にGPSと座標で見つけてくるとか、そういうのは別です。何をしに来ているのか?というとクラミングに来ているのですから。私も見つけにくいなと思った岩場の座標は取ってあったりします。
■ 生きる力を確認する
都会生活が長いと、自然とは切り離された生き方をしています。空調の効いた部屋で、昼も夜も蛍光灯の光に照らされています。
すると、人間の体内時計やメタボリズム、精神状態もおかしくなってくるみたいで、都会にいると原因不明の不調に長いこと悩まされます。それは都会でなくても甲府でも同じみたいで、ヨガの生徒さんには、身体の不調の話をよく聞かされます。
私は幸いなことに体の不調からは、ずいぶん解放されました。サプリメントも飲んでいないし、薬も買わないし、化粧品も買いませんし、衣類も登山の物を買うくらいです。
それでも悲しきかな、お勤めの人と同じように確実に8時間はPCの前に座っているような気がしますが・・・(^^;)
登山の魅力の一つは、今まで依存していた文明の利器に依存しなくても、意外に大丈夫だ、と分かる、と言うことがあると思います。
例えば、トイレ。トイレがない生活など考えられない!と思っているのが普通ですが…青空トイレ、慣れると、普通のトイレより清潔かも???
今の時代は、みな先行きに不安を持っていると思います。何しろ、年金制度は破たんすることが確実です。自分が年を取った時、どうやって生きていけばいいのか?
そんなことを心配するのは早すぎる、と分かってはいても、日本の未来が明るく感じられる要素が少ないために、漠然とした将来の不安に包まれた社会である、というのは言い得ています。
人間は希望さえあれば、現状が幸福でなくても生きていける動物らしいですが(たとえば、ナチスの迫害に耐えた記録、『夜と霧』に描かれています)、現代はその全く逆です。
生まれたときから裕福で飼いならされ、生き物としての野性や生命力は弱くなっている。現状は幸福でも、将来に希望が全くない時代です。
これは個人の問題ではなく、時代の背景がそのような時代にあると言うことです。そのような時代的な不安を払しょくする一つのよすが・・・として、今、自然回帰の流れがあるのでしょう…
将来、現金収入が得られなくなるかもしれない、自分の肉体と自然が与えてくれる土、水、日の光だけで、生きていかなくてはならないかもしれない…そんな風に考える人は少なくないようです。
若者の新規就農の動機は、およそ、そのようなものではないでしょうか…
そういう目で見たとき、登山と言うのは、ありとあらゆるアウトドアアクティビティの基本で、もっとも一般の人にとって取り付きやすいもの、入門的位置づけである、ということが言えると思います。
自分のカラダと判断力だけで自然と対話する… 自分が背負えるだけの荷と今ある知恵だけで、なんとか山に行って帰ってこれた、そういう成功体験によって皆が得たいと思っているもの…それは
生きる自信
いや、もっと言えば、何があっても
生き抜く自信
なのだと思います。
今日は甲府もウットオシイ梅雨って感じのお天気です。
山ヤの価値観、というものを考えています。というのも、ある沢を調べていたら、誤記かなぁと思える記述があったので、良くその沢を知っていそうな人に問い合わせたら、
沢を忠実に詰めるということは、流れ出しの最高標高点を目指すということだ
と教わり、さすが山ヤが言うことは違うなーと、納得を深めています。
先日、ナメラ沢に行ったのですが、その源流である西破風山ピークを詰めず、なんだか物足りない思いをしました。なんとなく、これではナメラ沢を知ったことにならない、という気がしたのです。
でもまぁ、その日の翌日も沢山行予定でしたし、軽めで終わりたいという気持ちもあったので、まあいいか、とりあえず偵察ということで・・・と終了。
でも、同行者は何という山に詰める沢かさえも知らずに来ていて、なんか違う・・・と違和感を覚えました。
というのも、登山という活動の骨子は、ピークを目指す、だからです。
岩も沢も、尾根も、雪もアイスも、ピークを目指す手段の多様化(派生ルート=バリエーション)にすぎません。そこのところが分かっていないと、登山をしている、とは言えないのです。
山岳会にいる、ということは、尾根を歩いている段階で、そうしたことが分かっていて当然です。一つの尾根を歩けば周辺の概念が頭に入り・・・と言う具合なので、沢を詰めることが、ピークを詰める手段の一つの派生形と言うことが分かっていれば、山頂がなんていう場所なのか知らない、ということはないハズです・・・で、あれ?思ったより初心者なのかな?大丈夫なのかな?と思いました。
私の方は、その沢はピークへ到達しなかったので、ちょっと消化不良な感じ・・・。でもまぁ、ナメラ沢が一人で行ってもいいような楽勝沢と分かったことが収穫です。
■ ドラマが楽しい
やはり沢は、
ちょっと水の冷たさにドキドキする入渓から、
木陰の沢の涼しそうな様子、
一転して困難を強いられる滝場の突破や高巻きのスリル、
そして滝上に出てくるご褒美としての美しい景色、
山頂へのつまらないことが多いツメ、
そのつまらなさを取り戻させてくれる山頂での達成感、
下山で尾根を降りるときのむずかしさ、
それから、途中での地図読みでのシナリオ先読み、
その後、終了点での不安、ちゃんと戻れた時の安堵、
・・・・こうしたものが、全部揃って楽しさだなぁ・・・という気がします。
もちろん、その時の目的に合わせて、おいしいとこどりができるということは、沢の全体像を知っているからこそできる、上級テクだ!と思います。
最近、一般道が楽しくないのは、そういう”ドラマ”が全然ないからです。
もちろん、景色は次々変わっていくのですが、まるで、車窓から眺める景色が変わる、というような感じで、山と係り合っている、と言う感じが全然足りません。
しかし、尾根は登山の基本で、しかも時々は歩かないと体力も弱るので、尾根歩きはトレーニングか偵察なので、ノルマ終了というような気分です。だから、誰かと歩こうかなという気になってしまうんです…。
尾根を歩くこと自体を目的とすることはできない体質になってしまいました…(汗)。縦走も同じで、なんだか退屈だな~と思ってしまいます。
一方、沢の方はまだ何も知らないので、水線入れたり、トポを地図に書き写していると、わくわくしてきます。そこには未知のドラマがいっぱいあるからです。
考えてみれば、3年前は、縦走に同じようにワクワクしていたんですよねぇ… 最近、普通の山に足が向かないのは、ノルマだから、というわけです。
ノルマには弱い私です・・・
■ 道具依存症は尊敬できない
一般に、文明の利器に頼らないで、登山するほうが、道具を使ってする登山よりも困難です。したがって、より敬意に値すると考えています。
例えば、2万5千の地図だけで、現在地を同定できるほうが、GPSで現在地を同定するより、当然ですが難しいです。
ですから、GPS依存症は、山ヤとしてはNoNoです。山ヤをめざしているんでない?それなら結構。
GPSは電池がなくなれば、ただの重しです。GPSはまさかの事態に陥った時のための保険とするべきで、人の歩いた後の軌跡を使って、GPSをナビに使うなど、山ヤとしてみたら、とんでもないと思います。何が面白いのか、全然わかりません。
私も夫も体力のない、へなちょこ登山者ですが、初期の時期からGPSをナビに使ったことはありません。現在地が分かりにくいときに見るか、分岐などで確認で見たりする程度でしたし、最近は間違いながら進むのに慣れたので、全く見ないで、家に帰ってトレースを見て、要所要所の判断を反省しています。
もちろん、本来はクライミングに来ているのに、目的の岩が見つからずに右往左往している時にGPSと座標で見つけてくるとか、そういうのは別です。何をしに来ているのか?というとクラミングに来ているのですから。私も見つけにくいなと思った岩場の座標は取ってあったりします。
■ 生きる力を確認する
都会生活が長いと、自然とは切り離された生き方をしています。空調の効いた部屋で、昼も夜も蛍光灯の光に照らされています。
すると、人間の体内時計やメタボリズム、精神状態もおかしくなってくるみたいで、都会にいると原因不明の不調に長いこと悩まされます。それは都会でなくても甲府でも同じみたいで、ヨガの生徒さんには、身体の不調の話をよく聞かされます。
私は幸いなことに体の不調からは、ずいぶん解放されました。サプリメントも飲んでいないし、薬も買わないし、化粧品も買いませんし、衣類も登山の物を買うくらいです。
それでも悲しきかな、お勤めの人と同じように確実に8時間はPCの前に座っているような気がしますが・・・(^^;)
登山の魅力の一つは、今まで依存していた文明の利器に依存しなくても、意外に大丈夫だ、と分かる、と言うことがあると思います。
例えば、トイレ。トイレがない生活など考えられない!と思っているのが普通ですが…青空トイレ、慣れると、普通のトイレより清潔かも???
今の時代は、みな先行きに不安を持っていると思います。何しろ、年金制度は破たんすることが確実です。自分が年を取った時、どうやって生きていけばいいのか?
そんなことを心配するのは早すぎる、と分かってはいても、日本の未来が明るく感じられる要素が少ないために、漠然とした将来の不安に包まれた社会である、というのは言い得ています。
人間は希望さえあれば、現状が幸福でなくても生きていける動物らしいですが(たとえば、ナチスの迫害に耐えた記録、『夜と霧』に描かれています)、現代はその全く逆です。
生まれたときから裕福で飼いならされ、生き物としての野性や生命力は弱くなっている。現状は幸福でも、将来に希望が全くない時代です。
これは個人の問題ではなく、時代の背景がそのような時代にあると言うことです。そのような時代的な不安を払しょくする一つのよすが・・・として、今、自然回帰の流れがあるのでしょう…
将来、現金収入が得られなくなるかもしれない、自分の肉体と自然が与えてくれる土、水、日の光だけで、生きていかなくてはならないかもしれない…そんな風に考える人は少なくないようです。
若者の新規就農の動機は、およそ、そのようなものではないでしょうか…
そういう目で見たとき、登山と言うのは、ありとあらゆるアウトドアアクティビティの基本で、もっとも一般の人にとって取り付きやすいもの、入門的位置づけである、ということが言えると思います。
自分のカラダと判断力だけで自然と対話する… 自分が背負えるだけの荷と今ある知恵だけで、なんとか山に行って帰ってこれた、そういう成功体験によって皆が得たいと思っているもの…それは
生きる自信
いや、もっと言えば、何があっても
生き抜く自信
なのだと思います。
Monday, June 29, 2015
最近のあれこれ
今日は甲府は良いお天気でした☆ しかし、お山の方を見ると…厚い雲に覆われて、山頂からの展望はなさそうな気配。
こういうお天気の日は、標高が低い山でのクラッギングがよさそうです。今日などは三つ峠が良かっただろうな~と思いました。
■ イドログリップ?
笛吹川領域のような花崗岩の岩には、フエルトソールより、ラバーソールのアクアステルスのほうがフリクションが良いそうなので、買い揃えたいのですが、もしかして、アクアステルスソールって廃盤化???
カモシカでは、セールでガイドテニー(アプローチシューズだが、ソールがアクアステルス)が7000円であったので、買っておけば良かったかなぁ…。
丹沢の沢では、フエルトソールは信頼性バッチリでしたが、ナメラ沢では、寝ている滝でも、ちょっとフリクションが信じられない感じでした…。
ゴムのソールだったら、何でもいいという訳でもなさそうだしなぁ… 今置いてあるのは、イドログリップというソール。
こちらにインプレッションがあった。
■ ウエットスーツ
今日はサーフショップにウエットスーツを見に行った。山梨は海がない。だから、サーフショップってあるんだ~とびっくり。いやあって助かったんですが。
大阪にいた頃は、GWは宮古島でダイビングに行くのが夫との恒例のGWの過ごし方になっていた。その時はダイビングは、ぜーんぶ借りて済ませていたし、そういうものだと思っていた。何しろ年に1回しかダイビングしないのだし…。今回は、なしでもいいかもなぁ… 寒いかなぁ…。
フルスーツではなく、重ね着の発想で、ベストとかを考えた方が沢での用途は広いかもしれない。
昨日、不動沢の源流で裸足で遡行しようとしたら、10秒とはつけていられない水の冷たさだった…うーん。
ライフジャケットはやたらネットで安いのがあるので、購入予定。しかし、もしウエットスーツを買うならば、無料で貸してくれるそうだった。
■ 『「教える技術」の鍛え方』 樋口裕一
私は教える立場に立つことは、若いころから頻繁で、そう教えるのが苦手な方とは思っていないが、それでも、アルパインクライミングは、ちゃんと教えないと危ないし、命に係わるのに、教えても教わらない人が多いことに危機感を感じて、読了した。
ある友人が言っていたが、アルパインはちゃんと自ら学ぶことができない人は向いていない・・・と。・・・というか、向いていないという言葉が生易しいかもしれない・・・向き・不向きではなく、死の危険がある。
この本に書いてあることは、すべて納得できることだった。
役立ったのは、教わる人には2タイプあるというところ。理論派と実践派。理論派は全体像を把握して、位置づけてやっとわかるようになるのだそうだ。私だ。
実践派は、まず実践から、だそうなのだが、山の世界では、実践派のやり方で教えられていると思う。そのやり方でやると、長い間、経験者の同行がないと、全体像が分かっていないために冒すミスのリスクを補てんすることができない。おまけに連れて行ってもらっているのに、自分の実力だと誤解しがちだ。
それでも、学ぶ相手にあわせて教えるしかないのだそうだ。
■ 山用の車が欲しい!
もうすぐ、2台も車検がくる・・・
甲府では、車がないと生活が成り立たない。現に今日もサーフショップへは車で出かけた。トマトを買いたい!と思っても、車で出かける。
1年目は1台しか車がなく、家に監禁されているような気になって、発狂しかけた(と思う)。最近は、なぜか、そう車で出かけないでも済むようになったのだが、それでも車がある、というだけで、行動の自由があるという心の担保になっているような気がする。
それで、一人一台がいるのが山梨の暮らしだ。まったくエコではないが仕方がない。おまけに今年は2台いっぺんに車検(--;)。
最初の一台を購入した時は、夫の通勤用で、ほんの20分ほど運転するだけだったし、一生に一回買うだけのことだと思っていたので、実用を度外視しても良いだろう、と、夫に好きな車種を選んでもらった。完全に車体デザインの好みで選んだ形だ。それで、ラシーンフォルザになった。
この車は四駆だが、燃料食い。でも林道で立ち往生している普通車などを見ると、四駆で良かったなと思う。クロスオーバーSUVという、なんちゃって四駆らしいが、それでも雪道走行では全然違った。
しかし、購入した時点で10年ものだったラシーンも、7年乗って、17年…。
用途的にも、何を車に求めるのか、はっきりしてきた。
現在、後継車種のエクストレイルに乗り換えるべきか検討中。私は山でJAFを呼ぶのは嫌なので、ぜひ中古でいいから購入したい。一方、夫は、いつかラシーンは100万円出しても買えなくなると言う・・・ホントかなぁ?
最近彼とは山に行く機会が減っているので、まぁイラナイと言えばイラナイ。大体、私の軽自動車でも行けるような低山が私のメインフィールドになりつつあるし…。
とはいえ、車中泊ができる車があれば、夫と前夜泊の山が充実する、ということは言える。夫婦円満のために買ってくれないかなぁ…。
ラシーンは良い車で愛着もあったので、譲れる人がいたら譲りたいと思っている。ただもらう方も四駆が好きで、形が好きでないと車検代もかかることだし、タダでもらっても得はないかもしれない。愛着がキーワードだろう・・・。
修理に関してはそんなにかかる車ではなく、7年で、バンパーの交換(自分でぶつけたせいで)とか、その程度。
■ 空き地
最近、空家法が改正になったらしく、放置された空家の打ち壊しが近所では多い。たぶん戦後のどさくさに紛れて、勝手に占拠したのだろうと思われる、どぶ川沿いの家や線路ギリギリに立つ家が多い。植物に冒されている!と言う感じで、崩壊寸前だ。放置したら危ないよな~というよりも、ほとんど倒壊状態の家もあった。
ところがそれらが最近、バンバン壊されている・・・ ビックリ仰天な内容も見る。
壊されている様子を見ていると、中はすごいゴミ屋敷になっているのもあった。業者さんも辟易している様子だった。
他の一件は壊してみたら、意外に大きな家だったが、床下から河原に降りれる階段が付いていて、ちんまりした家庭菜園にたどり着くようになっていて、見た目に相当なボロ家だったのに、なかなか良い生活が営めそうだった。いちじくや夏みかん、かきの木が植えてあって、今の時代にそんな生活をしようとすると、一体いくらかかるんだ?という感じ。しかし、どぶ川に直接家の中から降りるのは、まるで山間地の家のよう・・・。
そういう家が一杯どんどん壊されていく。甲府は空家率が高く、4分の1は空家。それなのに、山を切り開いて、振興住宅地が作られる。あの空家のあった上に新しい家が建つのかなぁ…。
以前山梨育ちの人と知り合いだったのだが、その彼も中心街で育ったのに、家は新興住宅地に買っていたから、やっぱりクルマ社会では不便なのだろう…というわけで、建たないかもなぁ。
・・・という状態で最近、甲府では建設(?)ラッシュ…
■ うるさくてビックリ仰天の子供の家
その一環で、長らく空家状態だった、マンションの前の家も、空き家状態が解消され、リフォームした家に家族が越してきたようだ。しかし、問題が…声が筒抜けなのである。
その筒抜け具合が尋常ではない。家族の普通の会話が丸ごと全部聞こえる(汗)。何もかも筒抜けと言うやつだ。向こうは分かっていないのかもなぁ…。
ちょうど空の駐車場を挟んでいるから、音が太鼓のようになるってわけだ。
その様子を聞いていると、子供が野生のままでビックリ仰天。泣きわめいている。わがまま放題だ。
米国滞在時、私はベビーシッターをしていたから、2~3歳の子供、6歳、11歳の男の子などのお世話の経験があるが…こんなにワイルドではなかったし、特にしつけを必要とするような子は、いなかった。
大人を困らせるようなことがあっても、楽しいから、というのが理由で、楽しすぎてボールを投げてと言い続けるわんこのようなもので、自覚なくくたびれてしまう、というのがほとんどのケース…
こんなに子供がいる生活が大変そうなのは、一体なんでなんだろう…とはいえ、子供が大キライな子供だった子供時代を思い出した…弟と妹の世話をさせられていたので、子供嫌いに育ったのだ…そう言えば、弟や妹はこんな調子だったなぁ…。
その後、アメリカに行って、子供嫌いを返上したハズだったのだが、このお向かいさんの子だくさんの家庭生活の様子を、心ならずも毎晩立ち聞きせざるを得ないようになって、子供嫌いの理由をしっかり思い出しそうだ(汗)。
なんなんだろうなぁ、この日米差は。日本の子供は異様に情緒不安定なんだろうか?
こういうお天気の日は、標高が低い山でのクラッギングがよさそうです。今日などは三つ峠が良かっただろうな~と思いました。
■ イドログリップ?
笛吹川領域のような花崗岩の岩には、フエルトソールより、ラバーソールのアクアステルスのほうがフリクションが良いそうなので、買い揃えたいのですが、もしかして、アクアステルスソールって廃盤化???
カモシカでは、セールでガイドテニー(アプローチシューズだが、ソールがアクアステルス)が7000円であったので、買っておけば良かったかなぁ…。
丹沢の沢では、フエルトソールは信頼性バッチリでしたが、ナメラ沢では、寝ている滝でも、ちょっとフリクションが信じられない感じでした…。
ゴムのソールだったら、何でもいいという訳でもなさそうだしなぁ… 今置いてあるのは、イドログリップというソール。
こちらにインプレッションがあった。
■ ウエットスーツ
今日はサーフショップにウエットスーツを見に行った。山梨は海がない。だから、サーフショップってあるんだ~とびっくり。いやあって助かったんですが。
大阪にいた頃は、GWは宮古島でダイビングに行くのが夫との恒例のGWの過ごし方になっていた。その時はダイビングは、ぜーんぶ借りて済ませていたし、そういうものだと思っていた。何しろ年に1回しかダイビングしないのだし…。今回は、なしでもいいかもなぁ… 寒いかなぁ…。
フルスーツではなく、重ね着の発想で、ベストとかを考えた方が沢での用途は広いかもしれない。
昨日、不動沢の源流で裸足で遡行しようとしたら、10秒とはつけていられない水の冷たさだった…うーん。
ライフジャケットはやたらネットで安いのがあるので、購入予定。しかし、もしウエットスーツを買うならば、無料で貸してくれるそうだった。
■ 『「教える技術」の鍛え方』 樋口裕一
私は教える立場に立つことは、若いころから頻繁で、そう教えるのが苦手な方とは思っていないが、それでも、アルパインクライミングは、ちゃんと教えないと危ないし、命に係わるのに、教えても教わらない人が多いことに危機感を感じて、読了した。
ある友人が言っていたが、アルパインはちゃんと自ら学ぶことができない人は向いていない・・・と。・・・というか、向いていないという言葉が生易しいかもしれない・・・向き・不向きではなく、死の危険がある。
この本に書いてあることは、すべて納得できることだった。
役立ったのは、教わる人には2タイプあるというところ。理論派と実践派。理論派は全体像を把握して、位置づけてやっとわかるようになるのだそうだ。私だ。
実践派は、まず実践から、だそうなのだが、山の世界では、実践派のやり方で教えられていると思う。そのやり方でやると、長い間、経験者の同行がないと、全体像が分かっていないために冒すミスのリスクを補てんすることができない。おまけに連れて行ってもらっているのに、自分の実力だと誤解しがちだ。
それでも、学ぶ相手にあわせて教えるしかないのだそうだ。
■ 山用の車が欲しい!
もうすぐ、2台も車検がくる・・・
甲府では、車がないと生活が成り立たない。現に今日もサーフショップへは車で出かけた。トマトを買いたい!と思っても、車で出かける。
1年目は1台しか車がなく、家に監禁されているような気になって、発狂しかけた(と思う)。最近は、なぜか、そう車で出かけないでも済むようになったのだが、それでも車がある、というだけで、行動の自由があるという心の担保になっているような気がする。
それで、一人一台がいるのが山梨の暮らしだ。まったくエコではないが仕方がない。おまけに今年は2台いっぺんに車検(--;)。
この車は四駆だが、燃料食い。でも林道で立ち往生している普通車などを見ると、四駆で良かったなと思う。クロスオーバーSUVという、なんちゃって四駆らしいが、それでも雪道走行では全然違った。
しかし、購入した時点で10年ものだったラシーンも、7年乗って、17年…。
用途的にも、何を車に求めるのか、はっきりしてきた。
現在、後継車種のエクストレイルに乗り換えるべきか検討中。私は山でJAFを呼ぶのは嫌なので、ぜひ中古でいいから購入したい。一方、夫は、いつかラシーンは100万円出しても買えなくなると言う・・・ホントかなぁ?
最近彼とは山に行く機会が減っているので、まぁイラナイと言えばイラナイ。大体、私の軽自動車でも行けるような低山が私のメインフィールドになりつつあるし…。
ラシーンは良い車で愛着もあったので、譲れる人がいたら譲りたいと思っている。ただもらう方も四駆が好きで、形が好きでないと車検代もかかることだし、タダでもらっても得はないかもしれない。愛着がキーワードだろう・・・。
修理に関してはそんなにかかる車ではなく、7年で、バンパーの交換(自分でぶつけたせいで)とか、その程度。
■ 空き地
最近、空家法が改正になったらしく、放置された空家の打ち壊しが近所では多い。たぶん戦後のどさくさに紛れて、勝手に占拠したのだろうと思われる、どぶ川沿いの家や線路ギリギリに立つ家が多い。植物に冒されている!と言う感じで、崩壊寸前だ。放置したら危ないよな~というよりも、ほとんど倒壊状態の家もあった。
ところがそれらが最近、バンバン壊されている・・・ ビックリ仰天な内容も見る。
壊されている様子を見ていると、中はすごいゴミ屋敷になっているのもあった。業者さんも辟易している様子だった。
他の一件は壊してみたら、意外に大きな家だったが、床下から河原に降りれる階段が付いていて、ちんまりした家庭菜園にたどり着くようになっていて、見た目に相当なボロ家だったのに、なかなか良い生活が営めそうだった。いちじくや夏みかん、かきの木が植えてあって、今の時代にそんな生活をしようとすると、一体いくらかかるんだ?という感じ。しかし、どぶ川に直接家の中から降りるのは、まるで山間地の家のよう・・・。
そういう家が一杯どんどん壊されていく。甲府は空家率が高く、4分の1は空家。それなのに、山を切り開いて、振興住宅地が作られる。あの空家のあった上に新しい家が建つのかなぁ…。
以前山梨育ちの人と知り合いだったのだが、その彼も中心街で育ったのに、家は新興住宅地に買っていたから、やっぱりクルマ社会では不便なのだろう…というわけで、建たないかもなぁ。
・・・という状態で最近、甲府では建設(?)ラッシュ…
■ うるさくてビックリ仰天の子供の家
その一環で、長らく空家状態だった、マンションの前の家も、空き家状態が解消され、リフォームした家に家族が越してきたようだ。しかし、問題が…声が筒抜けなのである。
その筒抜け具合が尋常ではない。家族の普通の会話が丸ごと全部聞こえる(汗)。何もかも筒抜けと言うやつだ。向こうは分かっていないのかもなぁ…。
ちょうど空の駐車場を挟んでいるから、音が太鼓のようになるってわけだ。
その様子を聞いていると、子供が野生のままでビックリ仰天。泣きわめいている。わがまま放題だ。
米国滞在時、私はベビーシッターをしていたから、2~3歳の子供、6歳、11歳の男の子などのお世話の経験があるが…こんなにワイルドではなかったし、特にしつけを必要とするような子は、いなかった。
大人を困らせるようなことがあっても、楽しいから、というのが理由で、楽しすぎてボールを投げてと言い続けるわんこのようなもので、自覚なくくたびれてしまう、というのがほとんどのケース…
こんなに子供がいる生活が大変そうなのは、一体なんでなんだろう…とはいえ、子供が大キライな子供だった子供時代を思い出した…弟と妹の世話をさせられていたので、子供嫌いに育ったのだ…そう言えば、弟や妹はこんな調子だったなぁ…。
その後、アメリカに行って、子供嫌いを返上したハズだったのだが、このお向かいさんの子だくさんの家庭生活の様子を、心ならずも毎晩立ち聞きせざるを得ないようになって、子供嫌いの理由をしっかり思い出しそうだ(汗)。
なんなんだろうなぁ、この日米差は。日本の子供は異様に情緒不安定なんだろうか?
Saturday, June 27, 2015
最近うれしかったこと二つ
■ 最近うれしかったこと 2つ
最近の成長を感じる山の出来事、2つ・・・
その1) 青笹尾根の地図読み。次に出てくる地形についてのシナリオ想定が出来ていた!
その2) 板敷渓谷での滝の直登。未知の滝で、私が提案したラインをベテランが採用してくれた!
二つとも、些細な、ちょっとした達成感だ。でも重要なスキル。その1)は、道迷いを事前に防ぐ防御力がまた一つアップした、ということだった。その2)は、岩の弱点を見る目が、少しだけど向上した、ということだった。
私はまだ判断力の面で、自分で下した判断では、行き詰まる可能性がぬぐえず、一人では沢には行けない。でも、着実に成長している、ということが感じられて、うれしかった。努力が実ることを感じるのは、うれしいことだ。
■ 成長の物差しの、どのあたりの登山者か?
去年の成長の軌跡をまとめた記事がちょうど6月にあり、色々と振り返っています。
最近、一緒に行った人が、最低限分かっているはずのことも分かっておらず、「こんなことも分かっていないのか・・・」とびっくりしたのですが、仕方がないのかもしれないなぁ・・・と。
一緒に行くことになる人には、何が出来て何ができないのか、ちゃんとその人に聞いてからですね。
(もちろん、ブログなどできちんとその人の様子が分かる場合は除きます。このブログは、口頭では伝えづらい、登山者のありのままの姿を伝える目的もあって書いています。)
会の人も、他会の人も、一緒に行くとなった時、自分の経験を具体的に述べるのを避けているようなそぶりが少し感じられました・・・ 一方、逆に積極的に自分の現在の登山者像を伝えてくれる人もいます。
自分の登山経験を開示したがらないそぶりが見えたら、ちょっと警戒した方が良いという経験になりました。
普通は
「今度、一緒にアイス行こうね~」
「でも、私まだリードはできないんですよ~」
「私も今ちょうど擬似リードに進んだくらいだから、大丈夫ですよ~」
などと言う風に互いのレベルの伝え合いが、自然と発生します。そう言うケースは大丈夫なケースという意味かもしれません。
「岩は前からやっている」・・・等々、漠然としていると、良いほうに解釈するのが人間のさが。
私の場合は全くの初心者なので、わたしより理解がおぼついていないとは、想定できず、当然、まったくの初心者の私よりも、理解が進んでいるもの、と想定していたら・・・、あれま!ヌンチャクを掴みながらリードしている・・・(汗) ビレイしてもらったら、リードクライマーを引っ張り落とす・・・(汗)
・・・ということは、ずぶの素人、つまり、何にも分かっていないのと同じ・・・(^^;)。まだアルパイン0.5です。それだったら、最初からそうと言ってくれた方が、そう思って付き合う分、随分マシです。
カムの支点を2点でしか取っていなかった時点で推して図るべしだったのかもしれませんが。
・・・が、初心者が初心者です、と言わないのは、それがどのようなレベルなのか、自分で客観的に位置づけできなかったのかもしれませんね。
人の成長はそれぞれのスピードでなされるもの。
去年の今頃の自分の成長の軌跡を振り返ることで、
どの段階にいる人なのか?
そのころには、自分はどんな失敗をして学んだか?
を振り返り、
「まぁ仕方ないかもな~」
と思えるようになる・・・?かもしれない・・・??です。
これはクライミングに対する理解だけでなく、地図読みも同様で、”本格的”登山の、”本格的”という字が付くような登山を初めて間がない人は、いくら一般登山での経験が長くても、まったく白紙と同じことのようです・・・。
だから、沢をしたいと言う人が、地図読みの素養が全く無くても普通かもしれない????
■ ツアー以下
私は沢については、ツアーで奥多摩の海沢(泳ぐような沢です)へ行った後、労山の登山学校での講習会で、後藤ガ イドの講習会で東沢 釜の沢に行きました。そのため、
・防水パッキングの方法
・足ごしらえ
・ラン チ
・救急セットに 真水
・徒渉の仕方
・二股での枝沢と本流の確認方法、
・巻くか巻かないかの判断、
・沢での生活技術、
・常に沢の様子がうかがえるようにして退路を準備しておくこと、
・増水時の退路用にフィック を張ってから就寝すること、
・焚火の仕方、
・睡眠にシュラフカバーだけを使う習慣、
・下山時の地図読みも核心であること、
・地図の防水加工の必要性
・トポの読み方
・下山時の靴の携帯、
など、とおり一般のことは、一通り教わってから、山岳会を検討しました。講習会であり、ツアーではないので、装備負担もあり、当然それくらいの役割が担えるくらいの知識、沢入門書は読んでから行きました。マナーです。
しかし、会山行で参加する人は、連れて行ってもらえる期待、ですので、役割を担うという意識は薄く、そのため、事前予習は全くなく、自ら入門書を読むことさえない、それが普通のようです。防水パッキングさえ知らず、いきなり沢!です。
となると、滝の前で登攀方法を検討し、アンザイレンする、というような初歩的な所が抜け落ちてしまうのは、ある意味、当然のことなのかもしれません・・・(--;)
会で連れて行く側の先輩たちだって、ツアーではないのですが、懇切丁寧な事前周知などやりようがないでしょう。 そういえば、雪山のバリエーションに、装着方法を知らないでワカンを持ってきた人がいました・・・
そう言う調子で、何も知らない、知る必要がないと思っている人と、沢に行くと、初級の沢でもすごく危険です・・・。
この記録は、25歳、38歳、40歳の男性三人が本間沢に行った記録ですが、私たちが難なく超えることのできるF9 25m樋で、25歳の若い男性がフリーズし、37歳の男性は、スタンスがなく、手だけで登る羽目になっています。沢で3点支持を無視した、そのような登りはありえません。私たちが巻いたF10では、一人がセミになり、上からザイルを垂らしてもらう窮地に。地図読みさえできれば楽勝の詰めも、突っ込む一方のルートファインディングの為、落石ガンガンコースに入ってしまったようです。
まさしく、初級の沢なのに Xマーク付き(Xは岩のレイティングで危険なルートについているマークです)・・・。
自分が何を分かっていないのか分かっていないのが初心者だ・・・と以前、他の会の代表が言っていましたが、まったくその通りの様子で、つっこんで行ってしまう・・・のは、この記録にある人たちだけでなく、山岳会に所属している新人さんも同じです。気持ちだけが先走っているのです。
うーん、アブナイ!! しかし、こういう人たちは危ない目に遭って、やっと分かっていなかったことが分かるらしいです(--;)。
しかし、そのやり方では、分かった時点で一巻の終わりという人も確率の問題ですから含まれてしまいます。
きっと三つ峠の初心者講習で、「セルフとって」と言われてセルフを解除して、死んでしまう人はそういうタイプの死に方なのかもしれません。
そう言う意味では、登山の適性と言うのは、自覚力、というものが大きくかかわってくるのかもしれません・・・自覚がない人には、いくら教えても、自覚は生まれません。
よむべき本(たとえば『生と死の分岐点』)を渡しても読まないし、間違いを指摘しても直さないのです。
そう言うことを分かっているから、先輩たちは無駄な努力はしないのかもしれませんね・・・
■ 成長の軌跡 自分の今を把握するために
今年も成長の軌跡をまとめておくべきだと思ったので、続きをまとめました・・・。
こちら。http://stps2snwmt.blogspot.jp/p/httpstps2snwmt.html
登攀力は長い間の課題ですが、急にアップするのは無理だし、大量の努力をしても、ほんのちょっとしかアップしないのが登攀力です。
なおかつ、早くアップしたところで、成長する楽しみが早く無くなってしまうので、ゆっくり頑張ります☆
最近の成長を感じる山の出来事、2つ・・・
その1) 青笹尾根の地図読み。次に出てくる地形についてのシナリオ想定が出来ていた!
その2) 板敷渓谷での滝の直登。未知の滝で、私が提案したラインをベテランが採用してくれた!
二つとも、些細な、ちょっとした達成感だ。でも重要なスキル。その1)は、道迷いを事前に防ぐ防御力がまた一つアップした、ということだった。その2)は、岩の弱点を見る目が、少しだけど向上した、ということだった。
私はまだ判断力の面で、自分で下した判断では、行き詰まる可能性がぬぐえず、一人では沢には行けない。でも、着実に成長している、ということが感じられて、うれしかった。努力が実ることを感じるのは、うれしいことだ。
■ 成長の物差しの、どのあたりの登山者か?
去年の成長の軌跡をまとめた記事がちょうど6月にあり、色々と振り返っています。
最近、一緒に行った人が、最低限分かっているはずのことも分かっておらず、「こんなことも分かっていないのか・・・」とびっくりしたのですが、仕方がないのかもしれないなぁ・・・と。
一緒に行くことになる人には、何が出来て何ができないのか、ちゃんとその人に聞いてからですね。
(もちろん、ブログなどできちんとその人の様子が分かる場合は除きます。このブログは、口頭では伝えづらい、登山者のありのままの姿を伝える目的もあって書いています。)
会の人も、他会の人も、一緒に行くとなった時、自分の経験を具体的に述べるのを避けているようなそぶりが少し感じられました・・・ 一方、逆に積極的に自分の現在の登山者像を伝えてくれる人もいます。
自分の登山経験を開示したがらないそぶりが見えたら、ちょっと警戒した方が良いという経験になりました。
普通は
「今度、一緒にアイス行こうね~」
「でも、私まだリードはできないんですよ~」
「私も今ちょうど擬似リードに進んだくらいだから、大丈夫ですよ~」
などと言う風に互いのレベルの伝え合いが、自然と発生します。そう言うケースは大丈夫なケースという意味かもしれません。
「岩は前からやっている」・・・等々、漠然としていると、良いほうに解釈するのが人間のさが。
私の場合は全くの初心者なので、わたしより理解がおぼついていないとは、想定できず、当然、まったくの初心者の私よりも、理解が進んでいるもの、と想定していたら・・・、あれま!ヌンチャクを掴みながらリードしている・・・(汗) ビレイしてもらったら、リードクライマーを引っ張り落とす・・・(汗)
・・・ということは、ずぶの素人、つまり、何にも分かっていないのと同じ・・・(^^;)。まだアルパイン0.5です。それだったら、最初からそうと言ってくれた方が、そう思って付き合う分、随分マシです。
カムの支点を2点でしか取っていなかった時点で推して図るべしだったのかもしれませんが。
・・・が、初心者が初心者です、と言わないのは、それがどのようなレベルなのか、自分で客観的に位置づけできなかったのかもしれませんね。
人の成長はそれぞれのスピードでなされるもの。
去年の今頃の自分の成長の軌跡を振り返ることで、
どの段階にいる人なのか?
そのころには、自分はどんな失敗をして学んだか?
を振り返り、
「まぁ仕方ないかもな~」
と思えるようになる・・・?かもしれない・・・??です。
これはクライミングに対する理解だけでなく、地図読みも同様で、”本格的”登山の、”本格的”という字が付くような登山を初めて間がない人は、いくら一般登山での経験が長くても、まったく白紙と同じことのようです・・・。
だから、沢をしたいと言う人が、地図読みの素養が全く無くても普通かもしれない????
■ ツアー以下
私は沢については、ツアーで奥多摩の海沢(泳ぐような沢です)へ行った後、労山の登山学校での講習会で、後藤ガ イドの講習会で東沢 釜の沢に行きました。そのため、
・防水パッキングの方法
・足ごしらえ
・ラン チ
・救急セットに 真水
・徒渉の仕方
・二股での枝沢と本流の確認方法、
・巻くか巻かないかの判断、
・沢での生活技術、
・常に沢の様子がうかがえるようにして退路を準備しておくこと、
・増水時の退路用にフィック を張ってから就寝すること、
・焚火の仕方、
・睡眠にシュラフカバーだけを使う習慣、
・下山時の地図読みも核心であること、
・地図の防水加工の必要性
・トポの読み方
・下山時の靴の携帯、
など、とおり一般のことは、一通り教わってから、山岳会を検討しました。講習会であり、ツアーではないので、装備負担もあり、当然それくらいの役割が担えるくらいの知識、沢入門書は読んでから行きました。マナーです。
しかし、会山行で参加する人は、連れて行ってもらえる期待、ですので、役割を担うという意識は薄く、そのため、事前予習は全くなく、自ら入門書を読むことさえない、それが普通のようです。防水パッキングさえ知らず、いきなり沢!です。
となると、滝の前で登攀方法を検討し、アンザイレンする、というような初歩的な所が抜け落ちてしまうのは、ある意味、当然のことなのかもしれません・・・(--;)
会で連れて行く側の先輩たちだって、ツアーではないのですが、懇切丁寧な事前周知などやりようがないでしょう。 そういえば、雪山のバリエーションに、装着方法を知らないでワカンを持ってきた人がいました・・・
そう言う調子で、何も知らない、知る必要がないと思っている人と、沢に行くと、初級の沢でもすごく危険です・・・。
この記録は、25歳、38歳、40歳の男性三人が本間沢に行った記録ですが、私たちが難なく超えることのできるF9 25m樋で、25歳の若い男性がフリーズし、37歳の男性は、スタンスがなく、手だけで登る羽目になっています。沢で3点支持を無視した、そのような登りはありえません。私たちが巻いたF10では、一人がセミになり、上からザイルを垂らしてもらう窮地に。地図読みさえできれば楽勝の詰めも、突っ込む一方のルートファインディングの為、落石ガンガンコースに入ってしまったようです。
まさしく、初級の沢なのに Xマーク付き(Xは岩のレイティングで危険なルートについているマークです)・・・。
自分が何を分かっていないのか分かっていないのが初心者だ・・・と以前、他の会の代表が言っていましたが、まったくその通りの様子で、つっこんで行ってしまう・・・のは、この記録にある人たちだけでなく、山岳会に所属している新人さんも同じです。気持ちだけが先走っているのです。
うーん、アブナイ!! しかし、こういう人たちは危ない目に遭って、やっと分かっていなかったことが分かるらしいです(--;)。
しかし、そのやり方では、分かった時点で一巻の終わりという人も確率の問題ですから含まれてしまいます。
きっと三つ峠の初心者講習で、「セルフとって」と言われてセルフを解除して、死んでしまう人はそういうタイプの死に方なのかもしれません。
そう言う意味では、登山の適性と言うのは、自覚力、というものが大きくかかわってくるのかもしれません・・・自覚がない人には、いくら教えても、自覚は生まれません。
よむべき本(たとえば『生と死の分岐点』)を渡しても読まないし、間違いを指摘しても直さないのです。
そう言うことを分かっているから、先輩たちは無駄な努力はしないのかもしれませんね・・・
■ 成長の軌跡 自分の今を把握するために
今年も成長の軌跡をまとめておくべきだと思ったので、続きをまとめました・・・。
こちら。http://stps2snwmt.blogspot.jp/p/httpstps2snwmt.html
登攀力は長い間の課題ですが、急にアップするのは無理だし、大量の努力をしても、ほんのちょっとしかアップしないのが登攀力です。
なおかつ、早くアップしたところで、成長する楽しみが早く無くなってしまうので、ゆっくり頑張ります☆
アンコントロールなチャレンジ=無謀
■ 幸福を実感中
昨日は、冷たい雨がしとしとと降り続く日で、梅雨を実感する寒い日だった。その雨で、去年、モロクボ沢に出かけたときのことを思い出した…
あの時は、狭い車で車中泊して切なかったけど、良く考えれば、あれが幸福と言うことの意味なのだろう。まだ山岳会への例会参加は3度目くらいで、先輩たちにとっては私は見知らぬ他人に近かった。
最近思う。幸福って、懸命ってことなのかも…って。いわゆるゲラゲラ笑うようなことが楽しいってことではなく、時が一瞬に感じてしまうような、懸命さで生きている時、それは人生が充実している、っていうことなのだろう。
登山を初めてから、時がたつのが早い。甲府に来てもう5年目とは信じられない。1年も短いようで遠い…。あれから丸一年たったとは…。自分自身の登山者としての成長には感慨深いものがある。
≪関連記事≫
去年の今頃の成長の振り返り
■ 登山者としての成長の複合的な形
一つ一つの山行では、何を具体的に学んだ、と言えるのかは、凄く曖昧だ。モロクボ沢は大増水していて、そして、私はロープをザックに入れ忘れた。沢の具体的な内容は、もう覚えていない。
≪配慮に気がつく能力≫
けれど、よく考えれば、モロクボ沢は、私のために師匠がよく配慮して選んでくれていた。私は今でも丹沢のことは全然知らない。家から遠いから、同じ時間で行くなら八ヶ岳のほうに出かけてしまう…が、最近、レスキュー講習で丹沢に行って、多少土地勘ができた。すると、私の自宅からの距離にも配慮して、モロクボ沢を選んでもらっていたんだなぁと分かるようになった。当時は、師匠が、モロクボ沢を選んだ理由は分からなかった。
こうしたことは自分が逆の立場をやるようにならないと気付くことができない。
≪ピークを大事にする≫
モロクボ沢では、ピークを踏まなかった。沢の源頭を詰めるのを避け、短縮コースで帰ってきた。私は、もちろん地図やトポを持って行き、地形の理解をしてから行った。それくらいは登山者として当然のことだ。が、しかし、何という山に登る登路として、魅力がある沢なのか?は知らずに行った。
だからピークを詰めないことには異論はなかった。
一般的には、ピークを大事にすると言うことは山の基本だ。
むろん沢においても、沢山行いう山行物語は、ピークを詰めると言うハイライトなしには成立しない。そのことには当時は無頓着だった。
≪行動様式の継承≫
もちろん、山行はテーマによりけりで、このモロクボ沢は、初心者の私に沢を紹介すると言う、目的(師匠とは初めての沢)であるのだから、美味しいとこどり、が正しい戦略だった。
振り返れば、私もその通りの行動様式を取っている。初心者を連れて行った伝丈沢では良いとこどりで、ピークを踏むことよりも、焚火の楽しさや沢のキレイさを味わってもらうことを主眼にした。
初心者と行く場合の別の戦略は自分が連れて行けるもっとも大きい山に連れて行くと言う戦略だ。
厳冬期金峰山は私が初心者を連れて行けるもっとも大きな山だ。これも師匠から受け継いだ行動様式だ。考えてみれば、先輩が連れて行ってくれた前穂北尾根はこれに当たる。
≪必要な経験を与えるという高い視野≫
こう言う風に登山者としての成長には、”今この登山者に必要な経験は何か?”と考える思考回路が必要だ。その発想を持っている人は少なくなった。それがおそらく師を持つ、ということの最大のメリットなのだろう。
昔ながらの山岳会は、伝統的にそういう発想をしていたようだが、最近はそのような発想はしない。おそらく、このような発想で、山行計画を立てる、ということは、同じように育てられた人しかできないモノの見方なのだ。
山ヤ教育が廃れ、すでに何十年もたっている状況では、ステップを踏んで成長させる、というオーソドックスなスタイルは、やりたくでも人材の面でできないのだ。
≪山ヤ道先行者を信頼する≫
もちろん、当時でも師匠がおそらくさまざまな配慮をしてくれているだろう点は分かっていたし、ルートの選択にも、全幅の信頼を置いていた。
沢自体が初心者である私には、師匠がやってくれたように「この時期の初心者に良い沢山行は何だろうか…」と考え、無数にある沢の中からその登山者の成長段階に即した計画を立てる能力はないということは明瞭で、その点については最初から全幅の信頼を置く。
大抵の場合、私はベテランと行くときには、その計画に異議を唱えない。これが大事なことのように思える。
最初から、疑ってかかる人を連れて行きたい人はいない。その上、その態度は裏を返せば、値踏みであり、ガイド客待遇を期待しているということだ。自分自身も安全管理に協力する気がない、と言う意味だ。だから、相手が載ってこなかった時点で、その山行に対する実力が備わっていなかったと言う意味だ。山を知らなければ、自分が行けるかいけないかも分からないのだから。
まったく初対面の相手であっても、一緒に行くベテランが選んでくれる山は全面的に信頼している。それは山ヤだったら分かるからだ。連れて行く相手に対して、どれほどの責任感が必要かを・・・命の危険があると言うことが分かっていれば、連れて行ける確信がなければ、連れて行けるなんて発言はできようもない。
もちろん、信頼しているからと言って調べないで行くと言うのは違う。Trust But Checkが基本だ。多くの人はどうもそれが逆になっている。Untrust Because No check 調べないから、どのような性格の場所かを知らず、それが不安となり、不信感を駆り立てる。調べれば大抵は不安は解消するものだ。
それにそもそも、登山においては、行ける山というのは、連れて行く人の技量で決まリ、連れて行かれる人の技量で決まるものではない。
連れて行ってもらった山は自分の力量の山ではなく、復習山行をしてやっと自分の山になるのに、その点について、無理解な人が山岳会でさえ多いのは驚きでしかない。
≪リスクを大きくしていくか、未知を大きくしていくか≫
しかし、振りかえてみると、雪では、無数にある山について、ステップアップするという視点を持って、選んできたと思う。現在のスキルで行ける山ということだ。ステップを外していない。
雪ではリスクを大きくしていくのではなく、未知を大きくしていく方向に収まった。近所の小さな山にも未踏のルートは一杯あった。
おなじことを沢でしようと思っている。小さくて易しい沢でもいいから、人の歩かないルートを狙いたいな、と思っている。師匠はこれをロマンと表現していた。
ビッグネームになりたいと願いさえしなければ、山は今でも楽しい冒険フィールドをたくさん用意してくれている、と思う。
■ アンコントロールなチャレンジ=無謀
去年の6月ごろの成長を振り返ると、遠方からのゲストも来ていたりして、すごく忙しい月だった。またザイルパートナーを得て、初めて初心者だけで、小川山のマルチピッチに行けるようになっていた。人工壁に通い、リード練習していたし、クライミングについての基本的なことの理解と、ビレイ技術が身に付いた。今年は2年目で、A1を覚える時期にきた。
初心者は、山での判断は、第一にどうすればもっとも安全になるか?と言う発想で行うべきだ。
それは図らずも登山の歴史をなぞることと同じになる…つまり初登スタイルと同じことになる。
まずは考えられるもっとも安全な手段、もっとも臆病なスタイルで貫徹する。
そうして、安全に登ることをマスターしてから、その安全の枠を外し、リスクに近づいて行くべきだ。
つまり、墜落の危険があるところではザイルを出すという基本ができてもいないのに、いきなりフリーソロで、墜落リスクを甘受しながら登る、というようなスタイルは慎むべきだ。
つまりノーマルルートもできないのに、いきなりバリエーションはしないのと同じことだ。
それは、コントロールされたチャレンジではない。

無謀とチャレンジの違いは良く議論される。おそらく、この辺に違いがあるのだろう。
無謀とは、同じ個所をより安全に通過する方法があるにもかかわらず、その方法が何かであるか?を知らずに挑むこと。選択肢が与えられている状態に気が付かず、選択せずに選ぶこと。
チャレンジとは、その場での選択肢については分かっているが、あえてリスクの大きいほうを選ぶこと。
大きな違いは自覚だ。無謀な人は多くの場合、無謀であることを自覚していない。したがって悪気が一切ない。
本間沢F9でザイルを出さずに登ってしまった人もそうだし、ロープワークが未熟なのに四尾根に行くことを主張する人もそうだし、ビレイがまだできないのに、三つ峠に行きたい人もそうだ。
その地に行くために必要なスキルを身に着けてから行くと言う発想がない。
そのような人から、距離を置くことは、登山者としての生き残りには必要な知恵かもしれない。
なぜなら、そうした彼らには悪気がないためだ。
昨日は、冷たい雨がしとしとと降り続く日で、梅雨を実感する寒い日だった。その雨で、去年、モロクボ沢に出かけたときのことを思い出した…
あの時は、狭い車で車中泊して切なかったけど、良く考えれば、あれが幸福と言うことの意味なのだろう。まだ山岳会への例会参加は3度目くらいで、先輩たちにとっては私は見知らぬ他人に近かった。
最近思う。幸福って、懸命ってことなのかも…って。いわゆるゲラゲラ笑うようなことが楽しいってことではなく、時が一瞬に感じてしまうような、懸命さで生きている時、それは人生が充実している、っていうことなのだろう。
登山を初めてから、時がたつのが早い。甲府に来てもう5年目とは信じられない。1年も短いようで遠い…。あれから丸一年たったとは…。自分自身の登山者としての成長には感慨深いものがある。
≪関連記事≫
去年の今頃の成長の振り返り
■ 登山者としての成長の複合的な形
一つ一つの山行では、何を具体的に学んだ、と言えるのかは、凄く曖昧だ。モロクボ沢は大増水していて、そして、私はロープをザックに入れ忘れた。沢の具体的な内容は、もう覚えていない。
≪配慮に気がつく能力≫
けれど、よく考えれば、モロクボ沢は、私のために師匠がよく配慮して選んでくれていた。私は今でも丹沢のことは全然知らない。家から遠いから、同じ時間で行くなら八ヶ岳のほうに出かけてしまう…が、最近、レスキュー講習で丹沢に行って、多少土地勘ができた。すると、私の自宅からの距離にも配慮して、モロクボ沢を選んでもらっていたんだなぁと分かるようになった。当時は、師匠が、モロクボ沢を選んだ理由は分からなかった。
こうしたことは自分が逆の立場をやるようにならないと気付くことができない。
≪ピークを大事にする≫
モロクボ沢では、ピークを踏まなかった。沢の源頭を詰めるのを避け、短縮コースで帰ってきた。私は、もちろん地図やトポを持って行き、地形の理解をしてから行った。それくらいは登山者として当然のことだ。が、しかし、何という山に登る登路として、魅力がある沢なのか?は知らずに行った。
だからピークを詰めないことには異論はなかった。
一般的には、ピークを大事にすると言うことは山の基本だ。
むろん沢においても、沢山行いう山行物語は、ピークを詰めると言うハイライトなしには成立しない。そのことには当時は無頓着だった。
≪行動様式の継承≫
もちろん、山行はテーマによりけりで、このモロクボ沢は、初心者の私に沢を紹介すると言う、目的(師匠とは初めての沢)であるのだから、美味しいとこどり、が正しい戦略だった。
振り返れば、私もその通りの行動様式を取っている。初心者を連れて行った伝丈沢では良いとこどりで、ピークを踏むことよりも、焚火の楽しさや沢のキレイさを味わってもらうことを主眼にした。
初心者と行く場合の別の戦略は自分が連れて行けるもっとも大きい山に連れて行くと言う戦略だ。
厳冬期金峰山は私が初心者を連れて行けるもっとも大きな山だ。これも師匠から受け継いだ行動様式だ。考えてみれば、先輩が連れて行ってくれた前穂北尾根はこれに当たる。
≪必要な経験を与えるという高い視野≫
こう言う風に登山者としての成長には、”今この登山者に必要な経験は何か?”と考える思考回路が必要だ。その発想を持っている人は少なくなった。それがおそらく師を持つ、ということの最大のメリットなのだろう。
昔ながらの山岳会は、伝統的にそういう発想をしていたようだが、最近はそのような発想はしない。おそらく、このような発想で、山行計画を立てる、ということは、同じように育てられた人しかできないモノの見方なのだ。
山ヤ教育が廃れ、すでに何十年もたっている状況では、ステップを踏んで成長させる、というオーソドックスなスタイルは、やりたくでも人材の面でできないのだ。
≪山ヤ道先行者を信頼する≫
もちろん、当時でも師匠がおそらくさまざまな配慮をしてくれているだろう点は分かっていたし、ルートの選択にも、全幅の信頼を置いていた。
沢自体が初心者である私には、師匠がやってくれたように「この時期の初心者に良い沢山行は何だろうか…」と考え、無数にある沢の中からその登山者の成長段階に即した計画を立てる能力はないということは明瞭で、その点については最初から全幅の信頼を置く。
大抵の場合、私はベテランと行くときには、その計画に異議を唱えない。これが大事なことのように思える。
最初から、疑ってかかる人を連れて行きたい人はいない。その上、その態度は裏を返せば、値踏みであり、ガイド客待遇を期待しているということだ。自分自身も安全管理に協力する気がない、と言う意味だ。だから、相手が載ってこなかった時点で、その山行に対する実力が備わっていなかったと言う意味だ。山を知らなければ、自分が行けるかいけないかも分からないのだから。
まったく初対面の相手であっても、一緒に行くベテランが選んでくれる山は全面的に信頼している。それは山ヤだったら分かるからだ。連れて行く相手に対して、どれほどの責任感が必要かを・・・命の危険があると言うことが分かっていれば、連れて行ける確信がなければ、連れて行けるなんて発言はできようもない。
もちろん、信頼しているからと言って調べないで行くと言うのは違う。Trust But Checkが基本だ。多くの人はどうもそれが逆になっている。Untrust Because No check 調べないから、どのような性格の場所かを知らず、それが不安となり、不信感を駆り立てる。調べれば大抵は不安は解消するものだ。
それにそもそも、登山においては、行ける山というのは、連れて行く人の技量で決まリ、連れて行かれる人の技量で決まるものではない。
連れて行ってもらった山は自分の力量の山ではなく、復習山行をしてやっと自分の山になるのに、その点について、無理解な人が山岳会でさえ多いのは驚きでしかない。
≪リスクを大きくしていくか、未知を大きくしていくか≫
しかし、振りかえてみると、雪では、無数にある山について、ステップアップするという視点を持って、選んできたと思う。現在のスキルで行ける山ということだ。ステップを外していない。
雪ではリスクを大きくしていくのではなく、未知を大きくしていく方向に収まった。近所の小さな山にも未踏のルートは一杯あった。
おなじことを沢でしようと思っている。小さくて易しい沢でもいいから、人の歩かないルートを狙いたいな、と思っている。師匠はこれをロマンと表現していた。
ビッグネームになりたいと願いさえしなければ、山は今でも楽しい冒険フィールドをたくさん用意してくれている、と思う。
■ アンコントロールなチャレンジ=無謀
去年の6月ごろの成長を振り返ると、遠方からのゲストも来ていたりして、すごく忙しい月だった。またザイルパートナーを得て、初めて初心者だけで、小川山のマルチピッチに行けるようになっていた。人工壁に通い、リード練習していたし、クライミングについての基本的なことの理解と、ビレイ技術が身に付いた。今年は2年目で、A1を覚える時期にきた。
初心者は、山での判断は、第一にどうすればもっとも安全になるか?と言う発想で行うべきだ。
それは図らずも登山の歴史をなぞることと同じになる…つまり初登スタイルと同じことになる。
まずは考えられるもっとも安全な手段、もっとも臆病なスタイルで貫徹する。
そうして、安全に登ることをマスターしてから、その安全の枠を外し、リスクに近づいて行くべきだ。
つまり、墜落の危険があるところではザイルを出すという基本ができてもいないのに、いきなりフリーソロで、墜落リスクを甘受しながら登る、というようなスタイルは慎むべきだ。
つまりノーマルルートもできないのに、いきなりバリエーションはしないのと同じことだ。
それは、コントロールされたチャレンジではない。

無謀とチャレンジの違いは良く議論される。おそらく、この辺に違いがあるのだろう。
無謀とは、同じ個所をより安全に通過する方法があるにもかかわらず、その方法が何かであるか?を知らずに挑むこと。選択肢が与えられている状態に気が付かず、選択せずに選ぶこと。
チャレンジとは、その場での選択肢については分かっているが、あえてリスクの大きいほうを選ぶこと。
大きな違いは自覚だ。無謀な人は多くの場合、無謀であることを自覚していない。したがって悪気が一切ない。
本間沢F9でザイルを出さずに登ってしまった人もそうだし、ロープワークが未熟なのに四尾根に行くことを主張する人もそうだし、ビレイがまだできないのに、三つ峠に行きたい人もそうだ。
その地に行くために必要なスキルを身に着けてから行くと言う発想がない。
そのような人から、距離を置くことは、登山者としての生き残りには必要な知恵かもしれない。
なぜなら、そうした彼らには悪気がないためだ。
Friday, June 26, 2015
久しぶりのボルジム
■ 高さが怖い
昨日は久しぶりに(9か月ぶりくらい???)に、ちゃんとボルジムへ。本当はシーズン初めの4月にするべきだったなぁ・・・
クライミング自体が久しぶりという訳ではない、ということもあるが、そう”オールリセット”はされていなくて、良かった~。
昨日は、ジムは忙しい日で、ビレイヤーを待つ必要があり、その間にウォームアップのボルダリングの課題ばかりをしたので、17本も初級の課題を登ってしまい、やっとリード壁に着いた頃は、相当腕が来ていたと思うのだが、そうでもなかった。
リード壁は5本。パンプしたのはリード壁で、なんでパンプするかと言うと、「墜ちる!」と言う思いが体を強張らせ、腕が引きつけの体制になってしまうのだった。だから1本目の方がスムーズで、2本目はムーブが上手く行かず。3本目で思ったように登れた。高さが怖いのだ。
でも、外の岩で高さが怖いという恐怖のラッシュに襲われたことはないんだけど…一体なんでなんだろう???
例えば、本間沢のF9 私は目視で15mくらいと思った滝、実は25mあったけど、別に怖くない。ロープの必要性も理解できるけど、ロープがなければ決してトライしない、というほどの怖さのものでもない。これと比べると10mくらいのジムの壁の上部のほうが怖いんだけど…、一体なんでかなぁ?露出感かなぁ・・・。
岩で心から怖かったっていうのは、まだない。登れなくて墜ちる、というのは、あるけど…。最初の離陸で一歩が登れないってのもある。
でも大抵、核心は一歩で、その後は問題なかったりする。私はまだセカンドしか大体のルートで登れないので、Aゼロ。Aゼロしないで行くと墜ちる。
そういう感じで、結局、昨日は、ボルジム課題17本、リード5本、トラバース2、して、3時間。手のひらに豆が三つできた。
・・・けど、やっぱりボルダリングジムの課題ができるようになって、今ある私の登山の何に役に立つのか、良くは分からなかった(汗)。
■ コピーする能力
ほとんどピンクとピンク黄色課題しか登っていないので、登攀グレードの面で見ると、ハッキリ言って、ずぶの素人の時と全然変わらない(^^;)。全くの初心者の時でさえ登れた課題ばかりだ。
昨日は、今日が初めてデースという初心者の女の子3人組が来ていて、同じような課題をしていたので、私も初めての時、他の人に教わったから、教えてあげた。
とりあえず、ムーブは私の方が良いのは分かった。でも、そんなの、すーぐ追い抜かれちゃうような話だしなぁ。1年前と同じ課題でも、楽は楽だ。
初心者の時は、正対しか知らないので、彼女たちも例にもれず、被った壁で墜ちていたので、フリを教えてあげたら、ぎこちないけど、ちゃんと出来ていた。
お手本を正確にトレースするというのは、子供の方が上手く、バレエってほとんどそればっかり。やって見せられたことを、自分がコピーしてやってみる。それは得意不得意があるみたいで、3人の中でもすぐできる子とすぐできない子がいた。
見た動作をコピーして再生する能力は、若さに依存する。
随分昔だが、中2の頃に、母親にテニスの素振りを教えたのだが、あまりに下手くそで、ビックリ仰天した。今思えば、母はその当時、今の私より若い。が、「歳だから仕方ない」と、14歳の私は思っていた…
この日は、60代の男性初心者もクライミングに来ていて、同じことを教えた。・・・が、やっぱりサッパリな感じだった。
■ 年齢??
オジサンは、「トップロープを勉強したくて来た」のだそうで、なんだかそのセリフを聞いて、まだ分かっていないのかもなぁ、大丈夫なのかなぁ、と思った。
年齢が高くても、私の知っている、平塚のほうの会の人たちは、リタイヤしてからクライミングを始めて立派に登っている。私なんかよりうんと上手だ。
だから、年齢であきらめる必要はないと思う。
でも・・・登れる人でも、アンザイレンのエイトノットを見ていたら、締めこむところをわざとふんわりゆるゆるにしていて、「あら…(汗)」と思った。
締めなくてもどうせローワーダウンで締るんだし、結束は摩擦力で締めるものなのだから、いくら解きやすくしたいと言っても、これではダメだ。
で、クライミング歴6年でも、”勉強不足”なんだなぁと思った。その人はクライミング歴6年ほどだったから。
若くても若くなくても、外に行くならロープワークをまずは確実にしないと、単純なポカミスで死ぬようなことになる。そんな無駄な死は、犬死、というようなことになる。
■ 全体像を理解しようという努力
クライミングに関しては、全体像がそもそも分かるのに、きちんと自分で勉強する必要があるみたいな気がする。
それは、なんだかOSの理解と似ているような気がするなぁ…。
イマドキ、誰だってコンピューターを使うのだが、基本的な原理を知らない人は、ウィンドウズが絶対だと思っている。世の中には、スーパーコンピューターもあれば、メインフレームもあり、マイコンもあり、まったくOSを搭載しないダムコンピュータ(ダム=バカ)もあり、それぞれのOSを持っていると言うことを理解していない(まぁしないと使えないわけではない)。
すべてのプログラムが、0と1だけで成り立っている、ということも同様だ。なぜ0と1の世界に、グレーゾーンができるのか、ということも理解されていない。
ハッキリ言って、こういう理解は、ただネットを使っているだけ、アプリを使うだけならイラナイ。
だけど、本質的なことが分かっていない、ということはできる。
プログラミングするようになって、初めてコンピュータを使っている、ということができるようになるんだが…。世の中では、そのことが理解されていないせいで、コンピュータの側に使われているのに、使っているつもりになっている。
パソコンの世界も、黎明期は誰もが本質を理解して使っていた。30年たって、今では理解していない人の方が99.99%みたいな世界になってしまった。
今ではDOS窓って言っても知っている人もいないし、コマンドラインを打ち込める人もいない。
でも、私が中学生でパソコンを使っていた頃は、自分でプログラムを組まないと、”コンピュータはただの箱”だった。それが本質だ。
そういうことが分かってアプリを使うのと、そうでないのとでは、行為の質に差がある。
それと同じようなことを、昨日は考えた。
本質を理解しないのは、60歳のオジサンも若い女性3人組も同じだけれど、どちらがより危険かというと、若い女性三人組の無邪気より、オジサンのリスクが大きいような気がした。
OSが何かも分からないのに、プログラミングの世界に行こうと思ってます、みたいな…。
何しろ、わたしに向けてエライ自慢話してたからなぁ・・・有名なガイドを知っているとか言って。
それで私の方もこの人を知らなければモグリ、というような人の名を挙げて見たんだが、オジサンは知らなかったし。
昨日は久しぶりに(9か月ぶりくらい???)に、ちゃんとボルジムへ。本当はシーズン初めの4月にするべきだったなぁ・・・
クライミング自体が久しぶりという訳ではない、ということもあるが、そう”オールリセット”はされていなくて、良かった~。
昨日は、ジムは忙しい日で、ビレイヤーを待つ必要があり、その間にウォームアップのボルダリングの課題ばかりをしたので、17本も初級の課題を登ってしまい、やっとリード壁に着いた頃は、相当腕が来ていたと思うのだが、そうでもなかった。
リード壁は5本。パンプしたのはリード壁で、なんでパンプするかと言うと、「墜ちる!」と言う思いが体を強張らせ、腕が引きつけの体制になってしまうのだった。だから1本目の方がスムーズで、2本目はムーブが上手く行かず。3本目で思ったように登れた。高さが怖いのだ。
でも、外の岩で高さが怖いという恐怖のラッシュに襲われたことはないんだけど…一体なんでなんだろう???
例えば、本間沢のF9 私は目視で15mくらいと思った滝、実は25mあったけど、別に怖くない。ロープの必要性も理解できるけど、ロープがなければ決してトライしない、というほどの怖さのものでもない。これと比べると10mくらいのジムの壁の上部のほうが怖いんだけど…、一体なんでかなぁ?露出感かなぁ・・・。
岩で心から怖かったっていうのは、まだない。登れなくて墜ちる、というのは、あるけど…。最初の離陸で一歩が登れないってのもある。
でも大抵、核心は一歩で、その後は問題なかったりする。私はまだセカンドしか大体のルートで登れないので、Aゼロ。Aゼロしないで行くと墜ちる。
そういう感じで、結局、昨日は、ボルジム課題17本、リード5本、トラバース2、して、3時間。手のひらに豆が三つできた。
・・・けど、やっぱりボルダリングジムの課題ができるようになって、今ある私の登山の何に役に立つのか、良くは分からなかった(汗)。
■ コピーする能力
ほとんどピンクとピンク黄色課題しか登っていないので、登攀グレードの面で見ると、ハッキリ言って、ずぶの素人の時と全然変わらない(^^;)。全くの初心者の時でさえ登れた課題ばかりだ。
昨日は、今日が初めてデースという初心者の女の子3人組が来ていて、同じような課題をしていたので、私も初めての時、他の人に教わったから、教えてあげた。
とりあえず、ムーブは私の方が良いのは分かった。でも、そんなの、すーぐ追い抜かれちゃうような話だしなぁ。1年前と同じ課題でも、楽は楽だ。
初心者の時は、正対しか知らないので、彼女たちも例にもれず、被った壁で墜ちていたので、フリを教えてあげたら、ぎこちないけど、ちゃんと出来ていた。
お手本を正確にトレースするというのは、子供の方が上手く、バレエってほとんどそればっかり。やって見せられたことを、自分がコピーしてやってみる。それは得意不得意があるみたいで、3人の中でもすぐできる子とすぐできない子がいた。
見た動作をコピーして再生する能力は、若さに依存する。
随分昔だが、中2の頃に、母親にテニスの素振りを教えたのだが、あまりに下手くそで、ビックリ仰天した。今思えば、母はその当時、今の私より若い。が、「歳だから仕方ない」と、14歳の私は思っていた…
この日は、60代の男性初心者もクライミングに来ていて、同じことを教えた。・・・が、やっぱりサッパリな感じだった。
■ 年齢??
オジサンは、「トップロープを勉強したくて来た」のだそうで、なんだかそのセリフを聞いて、まだ分かっていないのかもなぁ、大丈夫なのかなぁ、と思った。
年齢が高くても、私の知っている、平塚のほうの会の人たちは、リタイヤしてからクライミングを始めて立派に登っている。私なんかよりうんと上手だ。
だから、年齢であきらめる必要はないと思う。
でも・・・登れる人でも、アンザイレンのエイトノットを見ていたら、締めこむところをわざとふんわりゆるゆるにしていて、「あら…(汗)」と思った。
締めなくてもどうせローワーダウンで締るんだし、結束は摩擦力で締めるものなのだから、いくら解きやすくしたいと言っても、これではダメだ。
で、クライミング歴6年でも、”勉強不足”なんだなぁと思った。その人はクライミング歴6年ほどだったから。
若くても若くなくても、外に行くならロープワークをまずは確実にしないと、単純なポカミスで死ぬようなことになる。そんな無駄な死は、犬死、というようなことになる。
■ 全体像を理解しようという努力
クライミングに関しては、全体像がそもそも分かるのに、きちんと自分で勉強する必要があるみたいな気がする。
それは、なんだかOSの理解と似ているような気がするなぁ…。
イマドキ、誰だってコンピューターを使うのだが、基本的な原理を知らない人は、ウィンドウズが絶対だと思っている。世の中には、スーパーコンピューターもあれば、メインフレームもあり、マイコンもあり、まったくOSを搭載しないダムコンピュータ(ダム=バカ)もあり、それぞれのOSを持っていると言うことを理解していない(まぁしないと使えないわけではない)。
すべてのプログラムが、0と1だけで成り立っている、ということも同様だ。なぜ0と1の世界に、グレーゾーンができるのか、ということも理解されていない。
ハッキリ言って、こういう理解は、ただネットを使っているだけ、アプリを使うだけならイラナイ。
だけど、本質的なことが分かっていない、ということはできる。
プログラミングするようになって、初めてコンピュータを使っている、ということができるようになるんだが…。世の中では、そのことが理解されていないせいで、コンピュータの側に使われているのに、使っているつもりになっている。
パソコンの世界も、黎明期は誰もが本質を理解して使っていた。30年たって、今では理解していない人の方が99.99%みたいな世界になってしまった。
今ではDOS窓って言っても知っている人もいないし、コマンドラインを打ち込める人もいない。
でも、私が中学生でパソコンを使っていた頃は、自分でプログラムを組まないと、”コンピュータはただの箱”だった。それが本質だ。
そういうことが分かってアプリを使うのと、そうでないのとでは、行為の質に差がある。
それと同じようなことを、昨日は考えた。
本質を理解しないのは、60歳のオジサンも若い女性3人組も同じだけれど、どちらがより危険かというと、若い女性三人組の無邪気より、オジサンのリスクが大きいような気がした。
OSが何かも分からないのに、プログラミングの世界に行こうと思ってます、みたいな…。
何しろ、わたしに向けてエライ自慢話してたからなぁ・・・有名なガイドを知っているとか言って。
それで私の方もこの人を知らなければモグリ、というような人の名を挙げて見たんだが、オジサンは知らなかったし。
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