Wednesday, June 24, 2015

Ignorance and pride

■ 長所をPRしているつもりで、欠点をPRしている

ずっと昔のことだが、

「長所をPRしているつもりで、短所をPRしていることになっていないか」

という自らの振り返りポイント(?)を本で読んだことがあった。

登山をしていると、このセリフを思い出すような事態によく遭遇する。

例えば突破力があるということをPRしたくて、ガンガン突っ込んでくれても、後続をきちんと確保できないなら、むしろアリガタ迷惑だ。後続は不必要なリスクにさらされてしまう。つっこんでくれないで、敗退した方がむしろいい。ノーザイルで行って落ちたらどうやって救助しろと・・・。

断っておくが、私は、基本的に

 善意

で色々なことが起っていると思う。 問題をややこしくしているのは、

 何が安全で何が安全でないか

を正しく分かっている人でなければ、

 善意が仇

になってしまうということだ。

例えば、リードのビレイで引っ張る初心者は多い。そのミス自体はありきたりなミスだ。

おそらくゲレンデでのトップロープのビレイで、テンションしまくりで引っ張ると登る人が楽だから、ガンガン引っ張ることが、親切なのだと勘違いしてしまったのだろう。

しかし、ご存じのようにリードのビレイで引っ張ると、落とされてしまう。

そのようなビレイをしているうちは、その人は 

 何が安全で何が安全でないかを分かっていない人

だ。この場合のような、(おそらく)善意で起こったことでも、命のリスクに晒されるような事であれば、命への責任という観点から、それは指摘され、是正されなくてはならない。

■ 人間関係 > 命の重さ ?

その指摘で、壊れてしまうような人間関係なら、それは最初から壊れた方が、命を守ると言う観点からすると、むしろ安全である、ということは、単純明快な道理だ。

誰だって、引っ張り落とされたら、たまらない。引っ張り落とすようなビレイヤーはイラナイ。

そうして、ひとつふたつと人間関係が消えていく・・・。と何も残らなかったりして・・・(^^;)

同人という言う組織では、自己責任が確立しているので、誰も救いの手は差し伸べない。

一方、山岳会には敗者復活戦が容易されていて、基本的には初心者の失敗は許されるものだ。だれもが成長過程なのだから。

ただ、命が大事か?人間関係が大事か?というと、命より大事な人間関係が、あるはずがない。

だから引っ張り落とすようなビレイをして、自覚なく、行ってあげているつもりの人、というのは、

オレと行きたったら命を掛けろ、と相手に迫っているに等しい。その傲慢に気が付いていない。

■ 真価が問われるとき 

誰しも、間違いは誰にでもあると分かっている。

だから、間違った場合に、

 どのような態度を示せるか?

というのは、逆の観点から見ると、人間の真価 = 誠意を示すチャンス、ということだ。そういう時にその人の真価が見えるというわけだ。

だから、間違いを正された場合は、良きにせよ、悪しきにせよ、人となりが出る。

■ 自信の大きさ

ふと思ったのだが、男性は、自分が発言している、正しい内容が、頭ごなしに全否定されるという経験をもったことがあるのだろうか?

最近、私がどの本にそう書いてあるのか、出典を引き合いに出して教えた山の知識が、頭ごなしに、「ごめんなさいね~」とあたかもこちらの勘違いで言っているかのように否定されて、驚いた。しかも、その人が引き合いに出した解は、登山界のものですらなかった。

何に驚いたか?というと、その確固たる自信の大きさだった。

これは私が否定されたのではない。山の教科書が否定されたのだ。

登山の教科書に書いてあることを否定するような自信というのは、よほどの登山経験・・・登山の教科書を書いてしまえるような・・・からしか生まれようがないと思うのだが・・・。

そうでないのであれば、逆に私が見くびられている、としか言えない。一体どっちなのだろうか?

しかし見くびるとして、何を根拠に見くびるのだろうか?

その他の色々な見聞を総合してみると、こうした強すぎる自信を見るのは、クライミングを含む”本格的な登山”について初心者の男性には珍しいことではない。歳をとっているか若いかは関係がないようだ。

例えば、前の相方は3人ものベテランが、「君たちには実力不足だよ」というルートをあきらめないで、困ったし、12をトライ中の若者は、まったく根拠なく「地図読み大丈夫なんですか」と言ってくる。彼はゲレンデしかしていないので、こっちが聞きたいセリフだ。

私に連れて行ってもらって安全管理してもらっているのに、なぜか連れて行ってもらっていると分かっていない人もいた。向こうが私を連れて行ってあげている気なのだった。私のロープで私の登山計画と道案内で登っているのに、だ。

■ 無知

これらのゆるぎない自信は、何に基づくのだろうか?

私には無知に基づくように思えた。

しかしながら、登山における登攀システムの選択など、分かっているか分かっていないかは、命に係わる大問題と言う気がする。

無知によって支えられている自信は、過信であって、

 その人を死に追いやるのではないか?

と言う気がするのだが・・・

まぁ人の問題であって私の問題ではない、と言うことは言えるかもしれない。


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