■ リスクに近づいて行く遊びと怖さを乗り越える喜び
同じ危険にも、ある人はある程度のゆとりを持って近づいて行くけれど、他の人は、ゆとりなく、ギリギリまで近づいていく。
近づく距離と近づくリスクの大きさ。リスクにはギリギリ近づけば、近づくほどやり遂げたときの感動が大きいのは当然のことだ。
近づく距離と近づくリスクの大きさ。リスクにはギリギリ近づけば、近づくほどやり遂げたときの感動が大きいのは当然のことだ。
サイズに関しては、最初は小さなリスクしか取れなくても、段々と大きなリスクを取れるようになっていく。それが”成長する”ということだ。
たとえば些細な点で言うと、最初は雨の日、というリスクさえも取れないけれど、雨合羽を着るとか、どの程度の雨なら歩ける、とか分かるようになれば、つまりリスクが取れる範囲について理解が深まれば、雨の日だって歩けるようになる。
でも、近づきすぎれば死んでしまうし、大きすぎても死んでしまう・・・
一方で、怖いという気持ちを乗り越える、ということは大事なことだ。健全な強い心を作ると思う。
■ 自然と接する
でも、近づきすぎれば死んでしまうし、大きすぎても死んでしまう・・・
一方で、怖いという気持ちを乗り越える、ということは大事なことだ。健全な強い心を作ると思う。
■ 自然と接する
私が思うには、大昔は人というものは、自然界のリスクを避ける方法をよく知っていたのではないか?と思うが、現代社会ではそうではない。
私は大阪にいるころは、普通にOLでお勤めがあったので、雨が降っても傘さえイラナイで、地下鉄の通路から直通で、空調されたインテリジェントビルの中だったから、ひどいときは、暗くなっても気が付かなかった。
そういう生活が幸せかと言うと、絶対に違うような気がするが、当時はそれしか選択肢がないのだから、それしかないわけだ。
単純に日が登り、日が沈むと言う程度のことでさえ、自然とはまったく切り離されていたのだった。寒い暑いも同じこと。都会では自然環境には影響されないで、人間生活が進む方が良いという前提が働いた社会に組み込まれて生きている。
そういう生活が20年も続いたせいで、自然に接するだけでいいな~と思った。登山の持つ、人間本来の生きる力を使う・・・ということが、気に入ったから、登山を始めたのだと思う。
登山は自分と自然との対話のゲームなので、お隣の誰かとの競争ではないところも気に入った。
自分自身の物語を紡ぐことができる。
■ それで気に入ったはいいのだけれど・・・
昔は山登りは、結婚したら辞める…というくらい危険だったそうで、「イマドキは昔と違って、そうではない」と聞いていた。
そうか~と思って、楽しく登山を楽しもうと思ったら、一人で山に登っていると、”危ないアブナイ”の大合唱をされる・・・ので、それじゃ、アブナくないように登山を勉強しようと思った。
それで講習会に出た。一番ちゃんとしている講習会だと思う。
ところが、それじゃ全然あぶなくなくはならなかった。”あぶなくない”ためには、仲間が必要だと言われたから、そうかと思い、山岳会の門をたたいた・・・
ところが、それじゃ全然あぶなくなくはならなかった。”あぶなくない”ためには、仲間が必要だと言われたから、そうかと思い、山岳会の門をたたいた・・・
・・・ただ、それだけのことなんだけど・・・
ところが、始めたら、「昔は危なかったが、今は・・・」というのは嘘なんじゃないか?と思った。
”本格的な登山”という、”本格的”という形容がつく登山を始めた、ちょうどその時、知人の一人が亡くなった。
アイスクライミングに行きたいな~と思い、先輩にそういえば去年一緒に行き損ねた人は・・・と問い合わせたら、なんと!その人は、亡くなっていた…。しかもご近所の富士山で。私が冬山の合宿に行っていたとき。
今年のGWは、リーダー講習で同期だった人が亡くなった。
今年のGWは、リーダー講習で同期だった人が亡くなった。
・・・(汗)。 まだ2年しか、正確に言うと、山岳会に所属した期間は、まだ1年と3か月しかたっていないのに、知人レベルであって、遠い知り合いとは言え、3人も亡くなっている・・・。
・・・ということは、やっぱり”本格的な”がつく登山は危険なのではないだろうか?
私は単純に楽しく安全に山に登れたらいいと思っているだけなのに・・・。夏山の一般道は、暑いし、人が多いし、快適ではなく、楽しい道ではないような気がするし、オイルサーディンの缶詰みたいに押し込まれる山小屋ではなくて、楽しいテント泊とか、詮索好きでおせっかいなおばちゃんがいる山頂ではなくて、静かな山頂とか、そういうものを求めただけなんだけどなぁ・・・(汗)。
ロープがあれば安心、と聞いていたけど、ロープがあっても、やはりそれを使うのが人間である限り、今度はヒューマンエラーの問題が起きるのだから、それもやっぱり安心とは言えない。
おまけにルートは一般道並みの渋滞で、先着順の取り合い。
おまけにルートは一般道並みの渋滞で、先着順の取り合い。
・・・とまぁ、もろもろの要素を考えると、静かな山頂って、ほんとに昨今は得難いものなのだなぁと思う。
■ やっぱり死ぬ?
昨日は、海外遡行同人と言って、海外の沢を遡行する人たちの集まりを教えてもらって、沢登りの大ベテランたちの集まりに、出かけてきた・・・
・・・参加者はハッキリ言って大ベテランの方たちなので、わたしにとっては雲上の人。まぁ、登山を初めて間がなく、あまり深く知らないからこそ参加できる、というのが正直なところだ。
しかし、びっくり仰天な会だった。
おおむね、初心者の私は、楽しい沢の話を聞かせてもらった。
が、話を聞いて、「やっぱり登山は今でも死ぬ世界なんだ・・・(汗)」と思った。
■ 海外
韓国の沢は、とても良いそうで行ってもいいかもな~と思うようになった。
私はもともと外国への志向が強く、外国語学部の卒業だし、お金を貯めては海外に行くというような生活は、率直に羨ましいな~と思うし、実際自分もそうしていた。英語ができるので、たまに「旦那さんは外国の方ですか?」と聞かれたりもしていた。
でも、行きたいのはなぜか?というと、海外の〇〇という場所に観光で行きたい、のではなく、そこで暮らしたい、というほうが強い。サンフランシスコに暮らしたことがあり、水が合っていたので、一時は、そこへ”帰る”気でいたくらいだ。
というわけで、海外へは大いに興味があるが、特定の個人的な思い入れの場所が既にあり、未知の場所を探して、海外へ行きたいという訳ではなく、今ある生活を充実させたいから、趣味として登山をしている。
SFで暮らすことを夢見ていたことからすると、今の生活自体がセカンドベストなわけで、ベストを求めるのが生きると言うことだ、という価値観から見ると、すでに挫折した人生の上に何を築いても一緒ということになる。
SFで暮らすことを夢見ていたことからすると、今の生活自体がセカンドベストなわけで、ベストを求めるのが生きると言うことだ、という価値観から見ると、すでに挫折した人生の上に何を築いても一緒ということになる。
■ 女性的な沢
沢を志向する女性がどこかにいないかしら・・・というわけなのだが、あまりいないんだなぁ。
男性と女性では、山登りで求めるものがやっぱりちょっと違う。
大体において、観察によると、男性のほうがより登攀的。単刀直入なチャレンジを求めている。
私の場合は、短くて登攀的な場所よりは、長くても良いので景色が良いところ、美しいところ。
しかし、景色が良いところに行くには、登攀要素がある、どこかを突破しないと、たどり着けなかったりもするんだな。
・・・というわけで、どちらかというと、やむを得ず、という形で、登攀を食わず嫌いで苦手にしていては、良いものを見損ねるから、というので、クライミングもしている。
・・・というわけで、どちらかというと、やむを得ず、という形で、登攀を食わず嫌いで苦手にしていては、良いものを見損ねるから、というので、クライミングもしている。
■ 原風景
沢はとってもキレイだと思う。子供の頃、菊池渓谷という景勝地に年に一回行っていた。水の中に入りたいな~と思ったのに、アブナイからダメ、というのが、とても残念だった。
菊池渓谷は、母が好きな場所で、わたしにとっては、母親との良い思い出の場所だ。森の中での散歩が好きなのも同じ理由ではないかと思う。
私にとっては母親への想いと言うのは敗れた恋と同じことだ。失恋と同じ。
子供というのは、100%親のことが大好きだと思う。どんな子も、どんな変わった親のことも、100%受け入れて丸ごと愛している。Unconditional Loveと言うけれど、それを実行しているのは、親から子供への愛ではなく、子供から親への愛のほうだと思う。
そういう愛情が受け入れられ、幸せだったと感じた頃の記憶、まだほんの幼いころの記憶、それが私が沢のきれいな青い淵を眺めていたいと思う理由だと思う。
私が沢に対して思っているのは、あくまで透明で済んだ青い淵、清廉な水の沢であって、暗く、険しいゴルジュと奥にそびえる大滝登攀ではない。
大滝と行かなくても、小滝位でも、滝の傍はマイナスイオンが一杯でいいなぁ・・・とは思うけれど、クライミングに達成感を求めているか、挑戦を求めているか?というと求めていない。
ただクライミングして、登れれば当然うれしいし、デキなかったことができるようになるプロセスを味わう経験は誰にとっても、自己肯定感につながるものだと思う。
私は比較的に自己肯定観の強い人間だなと思うのだが、振り返ってみると、それは出来るようになるまで繰り返すという、結構しつこい性格だからで、失敗しないからではない。
ただクライミングして、登れれば当然うれしいし、デキなかったことができるようになるプロセスを味わう経験は誰にとっても、自己肯定感につながるものだと思う。
私は比較的に自己肯定観の強い人間だなと思うのだが、振り返ってみると、それは出来るようになるまで繰り返すという、結構しつこい性格だからで、失敗しないからではない。
もともとは、景色の良い綺麗な所に行きたい、それだけの話だったんだけどなぁ・・・
そういう経緯で登山をしたいなと思っている人も命がけで登山をしている人も、山と言うのは平等に等しく危険・・・
だからこそ、襟を正して、ちゃんと登山について学ぶという作戦をとったはずなのになぁ・・・
そういう経緯で登山をしたいなと思っている人も命がけで登山をしている人も、山と言うのは平等に等しく危険・・・
だからこそ、襟を正して、ちゃんと登山について学ぶという作戦をとったはずなのになぁ・・・
でも、やっぱり死んでしまうかもしれない。
・・・なんというか、とほほ、な気分だ。
でも死について一言言うなら、人は山で死ななくても、交通事故でも、自宅でも、死ぬのだし、いかに死ぬかについては、人には選べない。弟のように、ただおやすみなさいと寝て、次の朝、死んでいることもある。
初めまして。海外遡行同人の総会に来られていたんですね。
ReplyDelete当方、台湾の沢の最初の発表で成瀬さんと一緒に行ったものです。
数ヶ月前に何かのきっかけで、このHPにヒットし、それからちょくちょくと見させて頂いています。
海外遡行同人の総会に、このHPを書かれている方がいらしたとは驚き&嬉しくて、コメントを書かせて頂きました。総会ではお話しが出来なくて残念。
また機会が御座いましたら是非一緒に沢に行きましょう!
当方も拙いブログを書いております。「山やへの扉」というブログです。お時間がありましたら覗いてみて下さい。
コメントありがとうございます! 実は私の方も、「山やへの扉」を時々拝見しています!うろ覚えだったので、成瀬さんの報告を伺いながら、これってどこかで読んだような・・・と思ったりしていました。帰ってブログを見直し、やっぱりそうだ~と思った次第です。
Delete当ブログを読んでいただいて恐縮です。初心者の戸惑い日記です(^^;) もし機会がありましたら、沢お願いします☆ 経験がある方と同行頂くと本当に勉強になります。