今日は、疑問だらけです・・・
■ 本間沢での出来事
本間沢では、核心部でトップがザイルを出さずフリーソロして行ってしまった。後続は、二人目もフリーソロして、上り詰め、3番4番はタイブロックを使ったが、ラストはフリーソロ。ラストがアンザイレンしていないかったために、3,4番はロープが弛み、登るには、不必要に両手を空けなくてはならず、登攀難度は、ワンランクアップ。ラストは、アンザイレンして、最後に皆が登ってから登るシーンだが、そうせずフリーソロ。(これはラストは知らなくて当然の人だったので仕方がない)
つまり、へなちょこクライミングになってしまった・・・。
・・・のだが、この出来事は、一体どう因数分解したらよいのだろうか?
私から見ると、
・単純に、知識がないために、かかなくていい恥をかいたケース、
あるいは、
・無知がゆえにフォローが不必要なリスクにさらされたケース
と映ったが、そうではなく、
・リーダーシップの問題
とみなす人もいる。一つの物事に対して、その原因を判断するのは、判断する人の価値観であるので、
無知が問題だった と結論する人=知に重きを置く価値観の人
リーダーシップの問題ととらえる人=精神性に重きを置く価値観の人
であるのかもしれない。
現実は、ただ一つ。ザイルを出すべき場所で出さなかった、それだけだ。
それは、どうしたら回避できるのか??? それが切実な問題だ。
■ なぜ出さなかったのだろうか?
その人は、なぜ出さなかったのだろうか? その理由が問題だ。
1)ザイルを出すか出さないかの判断を滝下でしないといけないのだという知識(認識)がなかった
2)ザイルを出す箇所の条件自体を知らない
3)自分が先に行って、みんなを引っ張り上げてあげようという善意(=誤解)
4)フリーソロできるところはザイルが要らないという誤解
5)先輩を無視して行ってしまうというリーダーシップの問題
状況としては、場所は25mの滝で登攀は3級程度で易しい。難易度については、このサイトのF9を見てくれれば分かる。典型的な、”ロープは念のため”という場所だ。一目でフィックスでいいと分かるところだ。(そういうところでも、一般登山者は、フリーズして死ぬ目に遭っている。)
しかし、トップがフィックスを作ることや作り方自体も分かっているかどうか不確実だったので、確実に分かっていそうな人に、2番で行ってもらった。
結果、やはり、トップで行った人は、フィックスを作るという判断が出来ていなかった。
つまり、予想は当たっていた。セカンドは先輩だから当然、フィックスを張ってくれたが、その登攀システムについて、ラストも理解がなかったので、フィックスにしたのに、いかにも登攀しづらいロープワークになった。滝から私が叫んでも下では聞こえなかったのだ。
結果としては、3,4後続は必要のない危険に晒されたということは事実だ。
ザイルなんて、ないほうがいつだって登りやすい。その上、そのザイルが確実に安全を確保しているものでないのであれば、ただ邪魔なだけだ。
実際、私のつけていたロープは、中間者でタイブロックで登っているのに、たるたるで適度な張りがないせいで、両手を開けて、アセンダーを上に引かないと登れず、登攀はフリーソロより難しくなってしまっていた(^^;)。4番の後続も同じ。早く登れると言うのが、この登攀システムのメリットなのに。
フリーソロが凄いと言う至上主義の人のためにくぎを刺しておくと、この場合は、フリーソロのほうが凄い(=登攀が難しい)わけでは全然ない。弛んだロープを手繰らなければならない手間をかけながら登った人の方が、シビアな登攀を要求されてしまった。フォローの方が大変な目に遭っているのだ。(ラストの人は自分の方が登れるつもりで、得意げな顔でフリーソロしてきたので。)
じゃあ全員フリーソロのほうがマシだったというわけだが、ここは高さが25mあっても、登攀は3級くらいと易しいからいいが、今後滑落の危険が出てくるような所に、このスキルで遭遇したら、後続はひどい目に遭うということは、誰でも分かる。
しかもトップはフリーソロで行っているわけだから、自分がフォローをひどい目に遭わせたとは、よもや思ってもいないのではないだろうか???
ということは、トップはこの山行を自分の限界点とは考えないだろうと言うことも分かる。(実際もっと難しい滝もフリーソロできるだろうし、そんなことを言ったら、登攀力のもっと無い私だって、もっと難しい滝で、ロープをつけていたがロープに命を救われた経験はない)
■ 行動が示しているメッセージは何か?
しかし、このへっぽこ登攀の状況は、パーティで共有もされなければ、反省もされなかった。
ということが、なぜ言えるのか?
それは次に出てきた垂直の滝F10でも、トップが同じように行ってしまったからだった。
F9を彼が失敗ととらえなかった、ということを、行動そのものが示している。
F10は、どういう滝か?遭難も起きている滝だ。しかも垂直。おそらく登攀は、さほど難しくなさそうだけど、墜ちたら死ぬね~という場所だ。(事故例は、頭骨、腰椎突起の骨折と、右足靭帯の損傷)何しろ沢床は、土でも水でもなく岩なんだから。実際、墜ちた人の談話はこちら。
その判断がなく、またもや突っ込むトップ。しかも、2歩目くらいで墜ちている。
・・・という行動は、どういう思想に支えられた行動か???
その真の答えは、本人にしか、分からない。
ちなみに、私は一目で巻くことに決定した。こんな人のフォローで登って、こんな初級上くらいの易しい滝で落とされでもしたら、何がカッコ良いだろう?行きたい人は勝手にどうぞ。という訳だ。
それでもフィックスで上からスリングを垂らして登攀の補助は作った。結局彼らは巻いてきたのだが。
■ 看過して良いか?どうか?
この2度のフリーソロ行為は、仲間として見たときに、看過していい行為なのだろうか???
事実を整理すると、
1)結果オーライだった
2)とはいえ、フォローの方が大変
3)同じ失敗を2度繰り返していた
4)状況的に勝手に巻ける場所だったから良いが、そうでないシビアなケースだったら???
これを 看過して良いケースと考える人は、どのような根拠(あるいは価値観)に支えられて、そう思うのだろうか?
看過してはならないと考える人は、どのような根拠(あるいは根拠)でそう思うのだろうか?
私の見方でしかないが、看過して良いと考える人が根底としている思想は、”自分の責任ではない”、”山は自己責任”であるように思える。トップでフリーソロで行こうとした本人の責任という訳だ。
看過してはならぬ、と考える人が根底としている根拠は、”助け合い””仲間への思いやり”であるように思える。
これは私がそう思っているだけなので、そうではないと言う人もいるだろう。 たとえば、
看過して良い=些細な出来事に大げさすぎる、結果生きていれば問題ない
看過してはいけない=仲間には厳しくあるべきだ 他人の命を危険に晒すのは良くない
それを話し合う機会が昨今の山岳会には欠如しており、組織としての意思は形成されていない。
■ 失敗は、知識に落としこむ
一般論だが、失敗の指摘については、このようによく言われる。
1) 間違いが小さいうちに指摘するべき (タイミング)
2) 個人ではなく、事柄を指摘するべき (How)
3) どうしたら良いかを教えるべき (What)
今回のケースの場合、指摘のタイミングはどうあるべきだったのだろうか??いつ指摘すべきだったのだろうか???
第一点のタイミング滝下では、トップが滝下で判断をしなくてはならない状況で、判断をしないで行ってしまうというミスが発生した時には、すでに間髪を入れず、トップは登り出しており、指摘するタイミングを失っていた。
この行動は実は予想できることだった。で、私は予想できたため、少し前に、大げさだと思えるところで、「出して」と言っていた。そこで、みなで、どの滝と、どの滝で出そうかと判断するという行動様式を確立する時間がとれれば、後先、考えず行ってしまうというミスは防げただろうと思う。なにしろ、F9はガイドブックにだって出せと書いてあったんだし。
まぁとりあえずF9は、メンバー全員にとっての登攀力以下の滝だったし、スリップも起らなかったので、大事には至らず、事なきを得た。
第二のタイミングは、滝上だ。滝上に登ってホッとしたタイミングで、こういう場合(フィックスでアセンダー方式で登る場合)は、どうしたら、よいかを教えるべきだったのだろうか???
その時は、支点は一点しか取っておらず(まぁ大丈夫そうな立木だったが)私の目には、せっかくだったら、バックアップを取る方法や、支点構築の基本である、冗長性を教える良いチャンスに見えた。
現実は・・・というと、第二のタイミングも逃し、うやむやなまま前進となった。
ただ言うなれば、気の利いた人相手なら、指摘なんぞしなくても、正解を見せるだけで問題ない。F9では、ごぼうしようとしていたトップに対し、先輩はフィックスを工作してくれたのだし、それを見れば、登山を学びたいと言う思いがある人間か、普通に気の利いた人間ならば、自覚として、「あ、ちがったな」という意識が自然とわき起こる。
その「ミスしたな・・・」という意識が起っていれば、誰が何を指摘しなくても、後で反省し、次に恥をかくのを防ぐため、自分で登攀の方式を復習するなり、調べるなりする。
後で判明したことだが、その復習・・・自分はどうすれば良かったのか?を調べる・・・は、成されていなかった。それはなぜだろうか???
想定できる理由はなんだろうか???
それって、自分はあれでよかったと思っているということとは違うのだろうか????
■ 間違いは誰にでもある
間違いは誰にでもある、と言う記事に書いたが、間違いは、誰にでもある。
ただ、ハーケンを打たねばならぬと分かっていて打ち方を間違える失敗と、そもそもザイルを出さないといけないということを考えもしないで登ってしまう失敗には、なんだか本質的な違いがあるような気がする。
■ 厳しい世界
同人という世界と一般山岳会は、ある目的を持って山に登るということを目的にしている同人組織と、互いに安全を担保し合うために一緒に登ると言う一般山岳会以外にも、大きな違いがある。
同人 一人一人の自立が求められる
一般山岳会 非自立から自立への移行が求められる
同人 目的追求型
一般 楽しみと安全の追求
同人 パートナー発見の場 気が合えば同行し、そうでなければしない 任されている
一般 好むと好まざるとにかかわらず、同行 会山行は義務的(=教育目的だから)
一般に同人に来る場合に、”新人です、何も知りません”というのはない。会のやり方、特定の個人のやり方は知らなくても、クライミングシステム程度は知っていることが前提だ。一般的には、山岳会で、ある程度、登山技術を学んでから、行くのが同人組織だ。
しかし、昨今は、岩崎師匠も書かれているように、”オールラウンドな一般山岳会”の”取りとめもない会”への移行が著しく目立つと言われれ始めてからも、だいぶ時が過ぎている。
教育機能は、期待すべきでないと、岩崎さんの近著には、はっきり書かれている。登山技術は登山学校でまなぶべしと具体的には書かれている。
縦のギブ&テイクが存在しないから、というのがその理由だが、現実的には、山岳会の側から見ると、教育が必要だと言うのは分かってはいるが、そうは言っても、ない袖は振れぬ、というのが実情ではないだろうか?
私が聞くところによると、同人と言う世界は
フリーの岩場でボルトに掛けたヌンチャクに頼りながらリード
→ もう何も言わずに次回から一緒に行かない
くらい、あっけなく厳しい世界だそうだ。
ザイルの出し方も学ぶ前に、フリーソロで行けるから行ってしまい、フィックスも張れず、後続に余計な危険を背負わせてしまう人などは、二人目のパートナーが現れることは期待できないだろう。
何しろセカンドの確保があやふやなトップなんてありえないんだから。
一方で、この出来事は、同人ではなく、一般山岳会で起こったものであり、現実的には今の時代の人材難の山岳会で、そんなことをしていたら、誰も行く人がいなくなる。さらに言えば、一般山岳会は同人ではなく、助け合い&教え合いの精神を基盤とすべき組織形態だ。しかし・・・
本当の助け合いとは一体何をいうのだろうか????
このようなヒヤリハットをそのまま看過して、一緒に山に行きつづけることを言うのだろうか???
第四のタイミングは、山行後、ということになる。それでも誰も指摘しないのは、一体どういう価値観に支えられての行為なのだろうか???
うやむやなまま、自分の命だけでなく、他人の命を危険に晒すということが、そのまま続けられて、重大事故につながらないためには、一体何をすれば良いのだろうか?????
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大変参考になりました。
ReplyDeleteしかしながら、今回の件は下山後にでも本人に忠告すれば良いように思えるのですが如何でしょうか。タイミングは遅くても良いと思います。それが教育ってやつかなと思うのですが。
コメントありがとうございました。本人には随分前に忠告してあるのですが、どうすれば良いのかは今も分かっていないようです。
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