伝統的に登山の世界では、
体力
が基礎能力として強調されてきた。たしかに歩けなくては話にならない。
しかし、
登山マインド
と言えるような基本的なマインドセット(モノの考え方)が無ければ、
- 登山に必要な体力や能力が十分にあり、
- 山岳会から十分な機会が与えられたり、
- 運よくベテランの専属パートナーになるなど、
成長の機会がふんだんに与えられても、その登山者は自立した登山者になれない。つまり、
- 万年セカンドであったり、
- 単独行ができなかったり、
- 一か八かの登山から抜け出せなかったり
する。これらは結果だ。
その理由は、性格によって異なる。代表的なものは「自信のなさ」と「根拠のない自信」である。
つまり
出来ていることを出来ていないと思う・・・・危険は少ない
出来ていないことを出来ていると思う・・・・危険は多い
という、事実の誤認に基づいているという点では、どちらも同じ。着地点も同じで、万年セカンドである。
したがって、登山教育においては、体力と並行して、登山マインドの育成が重要だ。
同じ知識や技能を学ぶにしても、その意味や目的を意識するのとしないのとでは、結果に大きな違いが出るからだ。
余談だが、どちらが安全かというと、もちろん、出来ていることを出来ていないと思う登山者だ。
■ 登山マインドとは何か?
登山マインドとは、結局のところなんだろうか?
リスクを慎重に評価しながら、前進する戦略を描けること
かもしれない。
これには登山レベルは関係がない。自然の中であれば、登攀であっても、ハイキングであっても、悪天候やコースタイムの管理、犯罪、動物との遭遇などの山特有のリスクから逃げることはできない。お天気はハイキングだからと言って、易しくはならない。
登山レベル1の遊歩道でのハイキングから、しっかり、リスクに向き合っていることが重要だ。そうでないとレベル1で、すでに挫折していることになってしまう。
逆に言うと、ハイキングの目的は、自然界の基本的なリスクを学ぶだ。
つまり、同じようにハイキングで、登山に必要な知識や技能を学ぶにしても、(自然界の基本的なリスクを学ぶのだ)と意識するのとしないのとでは、結果に大きな違いが出る。
なんとなく楽しく終わっただけだと、また行きたい!と思っても、自分で行ける!とはならない。
逆に言えば、自分で行ける!というレベルがその登山者の真の実力だ。
■ 登山マインドの育成のためには何をすればよいか?
登攀なり、ハイキングなり、何なり、山行に行くと結果は必ず二つに分かれる。
1)また連れて行って! ⇒ 万年セカンド
2)また自分で行きたい! ⇒ 自立した登山者
実際は、白黒とはっきり出るわけではなく、1回のリハーサルで次回から本番に進めるはずもないので、その間に小さくブレークダウンしたプロセスが必要で、そのプロセスを「また連れて行って」という言葉で、表現する登山者もいる。
しかし、万年セカンドと、自立した登山者の差は明瞭だ。いくら機会を与えても、自立しない人に欠如しているのは、自覚、だ。実力が十分にあるのにそれを自覚していない。または実力がないのにそれを自覚していない。
山岳会は、そうした人材の温床となってはいけない。逆でなくてはならない。
つまり、実力がある者には実力充分であり、自立の時がきたことを自覚させ、自覚がない者には身につけなくてはいけない技能を身に着ける動機を持ってもらわなくてはならない。
■ 自立した登山をするのに十分な能力とは?
どこから、自立した登山をするのに十分な能力がある、と言えるか? つまり、リーダーとなるのに十分な基礎能力があると言えるか?だが、これは
一般ルートをコースタイム以下で歩ける
だと思う。 (このラインには議論があっても良い。)
昨日、明昭山岳会のランク付けを見てそう考えた。
現代は、中高年登山が全盛だ。となると、多くの中高年はコースタイムで歩けない。それは山小屋でアルバイトをして理解したところとも一致する。また、実際、コースタイムで歩けない若い人も多い。だからコースタイム通り歩ける、というのは、基本的に偏差値50以上なのだ。もちろん、そのコースを踏破するのに必要なギアはすべて担げることが前提のタイムだ。
想像だが、これは昔の登山の世界で標準的とされた体力よりかなり下なのではないだろうか?
また、昨今のコースタイムは実際のところ世相を反映して、甘くつけれれているので、より客観的な指標とすると、
一般的な登山装備を背負って、300mの標高差を1時間で歩ける体力、
とする必要がある。
■ 必要な基礎能力
次に必要な基礎能力の開発に入らなくてはいけない。それは
登山計画を立てる (歩けるか?どうかの判断)
が最初のステップだ。このプロセスを欠いた人は行きたい山がない。
行きたい山がないと、計画が立てられない。
行きたい山が実力以上だと、その間を埋めるために努力することになる。これは良いことだ。というか、これこそが登山活動そのものだ。次が
地図読み (どこを歩くか?)
だ。地図読みができない人にクライミングを教えるのは、より小さなリスクをつぶす前に大きなリスクに対処することになり、危険をより大きくしてしまうので教えるべきでないかもしれない。私は教えるべきでないと思う。そうでないと、登攀では自立できても、地図読みの面で自立できない登山者を作り出してしまう。つまり北岳バットレスには行けるのに、自力で北岳ピークハントはできない、という登山者だ。こうなると、自己肯定感がもてなくなってしまう。
地図読みは奥が深い。なので、何ができれば地図読みができたのか?は言いづらく、ベテランは言い表すことができない。地図読みには、終わりがないからだ。
ただどこかで一線を引かないといつまでも、次のステップに進むことができないので、継続的学習努力は必要としても、
・地形図によって進路決定し、現在地の把握ができる
となったら、次のステップに進むようにしないといけない。 ここまでくれば一通りの知識がついているはずだ。つまり、磁北線って何?って言う人や尾根とコルが見分けられない人はいないはずである。
次は実際の山行。山行の途中でルート維持、ルート決定を行うことで、計画段階の思考の漏れを発見することができる。
この発見が、登山の喜びにつながるし、自分がよく学んだ、という自信にもつながる。また次回の山行につながる。PDCA(Plan⇒Do⇒Check⇒Assess)の流れが出来ていることが重要だ。
■ 意図をよく知る = 相手の立場に立つ
若いときに積雪期に北岳に行ったほどの実力がある人が、地図も読めない、というのは、何を示しているか?というと、登山教育の失敗を示しているのである。
(ただ断っておくが、一つのことができるようになるのに、1年かかっても、10年かかっても良いのである。地図読みが1年で出来る人もいれば、10年かけてやってもよいのである。重要なのは意図だ)
積雪期北岳に連れて行くのは、どんなに優れたリーダーであっても負担が重い。それなりに脚力があり、判断力も相応だ、と思った相手しか連れて行くことができない。だから、能力はあったということを示している。この人は、地図が読めないから、その点では基本的な登山能力に欠くが、それでも連れて行くのは、その登山者の、のびしろを取れる間に伸ばしておくためだ。誰しも、到達したことがない点は想像がつかないので、リスクへの想像力を伸ばしてもらうために連れて行くのだ。
つまり今できる体力で最も困難なケースを、普通は体験させてあげたいと思うものだ。それが親心、先輩心である。
親の心、子知らず、というが、登山も同じで、連れて行く方の心を連れて行かれる側は知らない。知識や登山マインドは後から育ってくる、と期待されているのだ。
つまり、この人はリーダー候補生だったから連れて行ってもらえたのである。
このブログでも何度も言っているが、登山は12の力をつけて、自力で10の山に登り、人を8の山に連れて行く活動だ。だから、一般縦走のリーダーになるには、初級のバリエーションでなんとかセカンドを務められるくらいの実力が必要だ。そうでなければ、縦走時になんらかの突発的なことが起こった場合に対応ができない。
しかし、期待に反して、登山マインドが育っていないと、連れて行った側の努力は水泡に帰してしまう。
この経験が重なると、連れて行く側は連れて行く努力をしなくなる。
そして、登山者の性格などの質の問題に問題が転嫁されてしまう。
しかし、才能や質、性格などに転嫁してしまうと、一切の努力は今後無駄だということになってしまう。
私の個人的な信念として、大抵のことは、能力の問題ではなく、方法論の工夫で乗り切ることができると思っている。
多くの人が自立できないのは、思い込みの結果だ。
ものの見方の転換(よくパラダイムシフトと言われる)が起らなくてはならないのだ。
自信がないのであれば、何ができれば自信ができるのか?を問う。そうすれば、性格の問題ではなく、技術の問題に落としこめる。
出来ていないことを出来ていると思っているのであれば、出来ていないことを、誰かが指摘しないといけない。出来ていないことをできることに変えるのは、単純な技術的問題だ。
傍から見て、どんなに小さな成功、達成であっても、それらを積み重ねることでしか、人は根拠のある自信を積み重ねることができない。
根拠のある自信を積み重ねることができなければ、その人は自己肯定感を持つことができない。
自己肯定感は人の幸福感に強くリンクしているので、登山で自信を積み重ねてきた人には、自己肯定感による幸福感が強い人が多い。平たく言えば、やればできる、という根拠を持っているのだ。
実は逆の事例も多く起っている。根拠のない自信(末っ子で可愛がられた人や甘やかされて育った人、大きなラッキーを受け取ってそこから学び損ねた人に多い)によって、周囲の人を危険にさらしていても、本人が気が付かないという事例だ。この場合は本人は自己肯定感が非常に強い。が強すぎて、実力未満なのを分かっていないのだ。
例えば、ビレイになっていないビレイで間違いに気づいていなかったり、赤岳に6本のアイゼンで来たりしてしまうと言うことだ。
この古典的事例の帰結は、『八甲田の雪中行軍』だ。認識不足が招いた過去最大級の気象遭難だ。これは、合理的根拠がなくリスクに備えていないのに、行ける、という判断を下した事例だ。
■ バランス感覚
どんなに優れた登山者でも、出来ていることをできないと感じたり、出来ないことをできると感じたりすることは人間であるかぎり当然ありうる。
そのため、バランス感覚は重要だ。自己チェックのみならず、他者の視点を入れようという姿勢がなくてはならない。バランスがとれているかどうかは自己と他者の二つの視点が必要なのだ。
自分でも5.9が登れると思い、実際に5.9が登れ、皆が見て5.9が登れれば、やはり、5.9が登れるのだ。登れないとすれば、リスクを取る勇気の問題かもしれない。
- バランス感覚の重要性を認識している
- 自己を客観視しようとする視点を十分持っている
- 他者の視点から自分がどう見えているか?を指摘を良く聞き入れる
登山と人生は似ている。
登山において、リスクを十分勘案しながら、前進して行く、ということは、人生において、何が犠牲で、何を得たいのか?勘案しながら、前進して行く、という事と相似形だ。
登山においては、自分に歩けると思うから、そのルートを選びチャレンジする者は幸福だ。一方、同じルートであっても、与えられたルートがきつすぎると言って文句を言っている者は不幸だ。やっていることは同じだ。
人生において、子供が二人欲しいから、子供二人の家庭を築く者は幸福だ。5人も子供ができてしまったから、経済的に重荷だと文句を言っている者は、不幸だ。自分が選択した人生であるにもかかわらず、その認識がないからだ。
人生の幸不幸は、選択に対する姿勢に左右されるものだ。
不満や不幸は与えられるのをただ待っているから起る。人生は、自分の選択の結果だと受け入れていないために起ることなのである。
自分にはきついと思うなら、その山を選ばなければ良く、また5人の子供の負担が自分には大きすぎると思うなら、作らなければよかったのである。
そういう意味で、人生の姿勢は、登山の姿勢に現れる。
その人がどういう登山をしているか?を見れば、その人の人生さえもが透けて見える。
登山とは実は恐ろしいものなのだ(笑)。
さらに、敢えて一歩先に進めば、逆に言えば、幸福でありたいと思えば、
自己選択
を受け入れるしかないのである。つまり、自立した登山者になる以外ないのである。
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