Friday, December 12, 2014

失われた山恋

■本を読まない

師匠を始め、古くから山を登っている人たちには、何かこう、山の現役世代への共通した不満があるような気がする。

それは、一つには、山を登る人が、本を読まない、という愚痴が端的に表している。

今の人は本を読まない…という不満だ。 けれども、実際、山の本自体があまり手に入らない。

図書館には、山の本、というカテゴリーがない。それに、私が借りてくる本は、大抵が図書館でも書庫に入っていて、書名をあらかじめ知っている人しか入手できない。例えば、シュイナードの『アイスクライミング』も書庫にあった。

一つの本を読むと参考文献が奥付に書いてある。が、そうした読み方は、大卒以上の人の読み方だ。というのは、卒論を書かないと奥付を見て参考文献を漁る、という経験をすることがないからだ。

実際、大卒でも学部卒だと、卒論を書くただ一回だけでそれをするので、そうした読み方には触れるだけで、血肉化はしない。

ので、院卒レベルの人だと、一つ本を読めば、次の本を数珠つなぎにする、という読み方ができる。が逆に言えば、それだけ、読むべき本を得てくる知的障壁が大きく、その障壁に今の時代の人は負けている、ともいえる。昔は登山はエリートの活動だったそうだし、昔のエリートは今のエリートより、エリート度合いも高そうだ(笑)。

それに、今は、山の情緒的な本はあまり人気自体がない。 『風雪のビバーク』と言っても誰も知らない。

当然、登山に青春を掛ける…みたいな若い人はあんまりいない。

でも、逆にいうと、青春を掛けられても困ってしまうのではないか?って気がしないでもないのだが、どうなのだろうか?

昔、登山をしていた人は、山がもっと身近になるようにと願ったハズだし、最初に「健康にいいよ」と誘ったハズで(笑)、実際それは、大衆化とスポーツ志向として、実現している。

願いはかなう、という言葉は、こうした結果を表現するためにあるのではないだろうか?モノゴトはあるがままに、すべてがつじつまが合って出来ている。

だから現状は、歴史の積み重ねであり、あるべくしてそうなっているので、そう簡単には変わらない。

ただ、おそらく、ベテランの愚痴は、もっと本質的なことの、一部の端的な現象であって、山の世界に起った、なんらかの変化、というのは、それはベテランが嘆くくらいなのだもの…、本質的に残念な変化なのだろう。

だって、60代、70代と言うベテランではなくても、「昔はよかったな」、なんて皆言っている・・・。

その、”良かった昔”って? と私が思ってみたところで、それは過ぎ去り、現代の登山者には手に入らない、と思う。

何しろ、私のような、どちらかというと古風な登山者にだって、その理想郷は遠い。

話がズレた。 失われたものが何なのか?考えてみる・・・、 

その「良かったな」の本質は… 山恋、というようなものなのではないだろうか?

不安におびえる山行ではなく、ワクワクするような山旅

■ 山恋

山恋… ある山にいても、たってもいられず、行かねばならない!というような強い想い。

そのために、自分は、一体何をしないといけないのだろうか?と人は考える…大きな目標と強い思いがあれば、人はそれに向かって、努力する。

たしかに、この2年に私が払った努力は、そのような性質のものだった・・・と、今振り返っても思う。

ロープウェイで登る雪山に代表されるレジャーとして矮小化された登山ではなく、直接、自然と対話し、向き合う登山。

ただ、それは、今では手に入らない。

いや正確に言うと、どちらかというと、背中の方が美人だ。あまり、美しくはない。

登山を取り巻く世界は、やはりどこも同じで、人間が作る社会だ。どうやっても、それは大きな目で見れば、極度に組織化され、何もかもが経済活動に置き換えられた現代社会と同じことになっている。

人々が山恋をしなくなったのは、たぶん、そうした結果が、勘の鋭い人にはあらかじめ予見できるからなのではないだろうか?

あらかじめ予見できる失恋。

それとも、その失望は、ちょっとした恋の試練なのだろうか?

どちらかは分からないが、どちらにしても、あまり期待を大きくしないことだ、と思うのは、弱い心が自衛しようとしているのだろうか?

まぁそうだとしても、弱い心を強がってみることにはあまり意味がない。

それより、そんなことはさておき、山恋は個人的なものでなくてはならないと思う。 

個人と山との関係であるべきだ。

逆に言えば、それ以外はみな余分なことだ、と言える。

≪おススメの本≫




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