Thursday, December 11, 2014

初冬のイチョウの木

朝起きる。熱いコーヒーを淹れ、自分で焼いたパン(パン焼き器だけど)を厚切りトーストにして、自家製のぶどうジャムをたっぷり塗って食べる。

最近、またプチ模様替えをした。今回は、寝ているとベッドから、窓の外が見える。今、イチョウの木が真っ黄色に色づき、我が家の前の、イチョウの木の紅葉は見ごろだ。

この木には野鳥が住んでいて、うちのベランダにも餌を置いておくと、立ち寄って行ったりする。野鳥と言っても、どこにでもいる、声がしわがれてるさい鳥代表のヒヨドリだ。餌をおねだりしに来たりするのでかわいい。でも、あまりベランダに入ってもらうのに慣れてもらうと、吊るしている干し柿までつついてしまうと困るので、頻繁に餌を置くわけにも行かない。

距離感が大事なのは人間同士だけじゃない。ヒヨドリさんとの関係だって、程よい距離感が重要で、それはより事態を高い視野で見ることができる側、つまり人間の側がコントロールしなくてはならない。ということは、これがノブレスオブリージと言われることの本質だろうか?

ぎんなんの葉が、ハラハラと落ちると思ったら、ヒヨドリが中で遊んでいる。ヒヨドリは人間が自分を見ているとは、まったく想定だにしていないだろうなぁ…。時々、思うのだが、人と神との関係も、このようなものなのではないだろうか?だとすると、神には人間に対して、ノブレスオブリージがあるはず、となる。しかし…

ヒヨドリはすごく幸福そうだ。枝から枝へ、飛び移ってただその小さな飛翔を愉しんでいるように見える。無邪気だ。紅葉したぎんなんの葉に、上からも下からも、右からも左からも囲まれて、黄色い光の中で遊ぶ。こんなことは小鳥にしかできない。人間がツリーハウスを作りたいのは、小鳥の気分を味わいたいからではないだろうか?私も小鳥気分になって、葉っぱに囲まれて一日を過ごしてみたい。

ヒヨドリ達が、枝から枝へと飛び移るにしたがって、ハラハラと葉が落ちる。今、紅葉は絶頂期。しばらくすると、この木は、枝だけになってしまう。そうなると目の前に見えるのは、うらびれた、ぼろアパートの壁と一年中開くことのない、朽ちた窓だけだ。だから、こうして葉が美しいときにそれを寝起きに眺められる位置にいるのは正しい(笑)。

落葉。落葉樹の葉にとって、落ちるのは必然で、問題はいつ落ちるかに過ぎない。それでも、窓の外から見ている鑑賞者の人間にとっては、できるだけ長く葉っぱたちには枝についていて欲しい。

葉っぱの一枚一枚は、すべて形が違うと言われている。石ころの一つ一つもそうだし、山の一つ一つもそうだ。よく人の個性に例えられる。人間の一人ひとりだって、どんなに似ていて、どんなに気が合っても、それぞれ違う。

しかし、そのことをして、個性の尊さを叫ばれても、なぜだか、すこしはぐらかされたようで、ピンとこない。のは、いくら葉っぱが一枚一枚違う形であっても、やっぱりそれは、たくさんのイチョウの葉の一枚でしかなく、その個性によって、貴重性が増すわけではないからだ。他の葉より大事な葉っぱになるわけではない。

ヒヨドリが歩いた枝からだけ、葉がハラリハラリと落ちていく…。

人の寿命というものも、また、こういうものかもしれない、と思う。ただそれは何らかの偶然に起因するだけなのでは? そして、そこに生と死の因果関係など基本的には存在しないのでは?

弟は24歳で死んだ。彼は青年期の絶頂期にあったし、肉体的には水泳の選手で県大会に出るほど創建で、身長は私より30cmも高い、強くたくましい青年だった。ただ夜、お休みと普通に寝て、起きたら死んでいたのだ。

たまたまヒヨドリが乗った枝のイチョウの葉が、他の葉より先に落ちてしまうのと、何か違いがあるのだろうか?

だとすれば…かなりの暴論だが… 「セルフを取って」と言われて、セルフを外してしまうような人が、自ら墜死しても、そのパートナーには何の責任もないのだと考えることも可能かもしれない。

しかし、人はそのようには出来ていない。

山は自己責任と強調される。 

セルフを取ってと言われて解除してしまうような人は明らかに勉強不足だ。反論の余地がない。

同じように、懸垂ができると言っても、すでにセットされたロープに確保器を通すだけのことを指していたり、ビレイができると言っても、形だけで確保器が上下反対だったり、だらりんロープどころか、地面についていたりしているのも、どう見ても明らかに認識不足だ。

そうした人がたとえば、命を懸けて連れて行ってくれたリードクライマーの先輩を落としても、ヒヨドリが歩いて落とした葉っぱのように、早いか遅いかだけのことだ、と言ってしまえるのかもしれない。

人間は誰も自分の寿命をコントロールできない。健康診断を受けたり、毎日ジョギングしたり、身体によいと言われているものを食べたりと、命に責任をもっているつもりだが、実はもっていない。

それでも、逆は可能なんだな、不思議なことに。つまり、命を粗末に扱うことはできる。毎日タバコを吸ったり、浴びるほどの酒を飲んだり。危険だと言われることをわざわざしたりだ。人間とはそのようなものだ。

一体なんでそういう人はそうしているんだろう?実際、登山をする人には多いことだ。カッコつけたいから、と以前言われたことがあるが、カッコつけることは、真っ黒な肺になって肺がんリスクを高めることより重要なのだろうか?

私にはそれは単純に言い訳に思える。本当は、愛する人から愛されないとき、自分を痛めつければ、その人が気が付いてくれると思っているのだ。問題はその人が愛されたいと願っている一人…往々にして自分自身…が決して振りむかないことなのかもしれない。

今日は初冬の冷たい雨が降っている。御坂道は先週ー4℃で凍っていた。3台の玉突き事故をみた。今日は帰りは夜中の12時近くにそこを通ることになる。が、私の車は街乗り用なのでスタッドレスを履いていない。御坂道、通れるだろうか。





2 comments:

  1. で、事故らんと帰らはりました?

    沢登りとかスノーボードとかの友達を亡くしてまして
    そいつらではなく自分が死んでても おかしないな と思ってますので
    葉っぱが落ちる落ちないの差のくだりのところの お話は よく分かる気がします。

    ReplyDelete
    Replies
    1. 昨日は、気温が高くて、4℃だったので、なんとか事故にならず帰ってきました。御坂道、ホント
      事故が多くて、昨日もハザードの車を1台みたんですよ~。

      山をしていると、友人を亡くすことがあって、とても悲しいですね。

      お互いに自分がそうならないために、気を付けましょう!

      Delete