Friday, December 19, 2014

学費ローンの返済に思う

今年も育英会の奨学金の返還の時期が来た。

大学を卒業して、何年になるだろう…。私は両親から大学に出してもらうことは、期待できないと心配して高専に進みたかったのに、周囲に押されて普通高校に進んでしまった。その学校は進学率100%で就職の道はなかった。一方、実家は、私学の高校生を二人抱えて期待できず、それで自力で夜学に行った。夜学は5年制なので、ストレートに卒業しても、5年かかった。在学中は最終学年を除いて、フルタイム勤務で働きながらだったので、常時時間に追われた。

3年目で休学して、2年間アメリカに渡った。語学を習得したかったから。この2年は人生でもっとも幸せな時間だった。アメリカではスレスレの生活だったけど、したいことをしていたので幸せだった。

ただ、2年、これで遅れたので、卒業はさらに遅れて、トータル7年かかった(汗)。小学校より長く、学校にいたことになる(笑)。帰国したら、学内に知っている人は、ほとんど誰もいなくなっていた。教務課の人が、おかえり、と言ってくれた。

帰国後、教官に外国人の先生を選んだ。授業は英語での討論で週に2冊の読書が最低必要でレポートはA4 4ページが最低ラインだ。卒論も手を抜けなかった。語学系学部はどこも同じで、出席率に厳しい。それで、生活のための仕事にはそんなに精を出せなかった。卒業したタイミングも悪く、就職氷河期。

卒業年前年の就職率は先輩たちで25%だった。同級生で、まともな就職ができた人は、外務省の一人と教職についた一人くらいだ。一般企業に行って、まともに就職できた人はいない。みな大学院に逃げ込むか、地元に帰って親元に身を寄せていた。どっちの選択肢もない同級生の一人は、バイトで入ったマツダの工場にそのまま勤め続けた。その後彼の訃報を聞かされた。自殺してしまったのだ。他の同級生は、民間の学生寮のまま、何年もバイトでファーストフードの店長を務めたが、正社員には登用されず、失意のうちに親元に帰った。農家を継いだのだと思う。

私も院をしきりに勧められた。が、卒論しながら、バイト生活は大変すぎて、これを続けるのは無理だと思った。学内には先輩がいっぱいいて、教授ポストは糞づまりだった。子供を3人抱えた助手がコマで教えていたが、妻の収入がないと生活が成り立たないと言っていた。ドイツ語科の友達は40社断られた後、ドイツに渡って就職した。

卒業時25歳だったので、一般社会では新人とは言えず、勤め先探しは難航した。たまたま仕事をしていた先の人が目を掛けてくれて、なんとかひねりこませてもらった形だ。だから、入社直後から即戦力扱いだった。派遣待遇でのスキル採用だった。その頃、小・中・高と同じ学校の地元の親友が、初出張で遊びに来てくれた。一緒に青春18切符する仲の人だ。彼は一ツ橋を出て、製造業の営業部に入った。私と製造業で同じだが、私は開発部で向こうは営業にいた。

当時、派遣は今のように”ちょっと高級なバイト”というくらいの”誰でもできる雑用をコストダウンするために派遣に置き換える”常套手段ではなく、プロでないとできない仕事の外注、という位置づけだった。第二新卒という言葉はまだない。派遣で行く人には、最低でも2年間の該当実務の実務経験とマイクロソフト製品が、よどみなく使えるという、まぁ常識的なITスキルを求められた。

ただ実際は、それさえできない人が行った先の既存社員の中には大勢いた。語学では、私は通訳経験があったけれど、単発なので経験値には換算されず、パソコンも同じだった。しかし、入ってみれば、私がワードやエクセルの使い方を教える側で、教わる側にいることはなかった。アクセスはゼロからデータベースを起こした。キーボードはブラインドタッチだった。中学生から学級新聞をワープロで作っているのだもの、当然か。入社して数年は家に帰るのは10時が普通だった。朝は8時半出社だ。

仕事を初めて1年目、26歳の頃、弟が24歳で亡くなった。弟には彼女が3人もいたらしくて、びっくりした。帰ったら、実家に弟の靴が150足も残されており、それにも驚いた。私はまだ長屋に住んでいた。トイレは共同で風呂なし。

弟が死んでから、しばらくして、妹が自殺未遂でICUに入った。それで妹を大阪に引き取ることになった。妹は短大を出て、地元で親元に住み、親が就職斡旋した会社で、デザイナーをしていたが、妻子ある人を好きになり、捨てられたのだった。私は長屋から抜け出して、恋人と二人、やっとトイレとお風呂がある、普通のマンションに入って、まだ同棲いくらも立っていないところだった。当時はまだ、よく友達が遊びに来てくれる家だった。大学の友達と週に一回クラブに通ったりしたけれど、アメ村のすごく安いところだ。一杯1000円くらい(笑)。妹は来て1か月くらいで、すぐ元気になった。そして、すごく元気に宮古島に旅立っていった。それから彼女は大丈夫だ。

子供の頃、自分ができることが弟や妹にもできると思ってはいけない、と言われた。それはただ年長さんだからだ。

6歳の頃に両親が離婚した。弟は4歳で母親が仕事のために出かけようとすると、泣き叫んで、嫌がった。この年齢の子供には、普通だ。それで私が抱っこしている役目になった。妹も弟も、母恋しく、別れるとき、すごく泣いた。妹は母親と間違えて、私の膝に攀じ登りたがった。でも、私も6歳なのだった。妹が鼻水で私の服を汚すので子供はキライだと思っていた。

母が帰宅して、お茶を入れてあげると、すごく喜ぶので、自然に夕食を作り始めた。8歳。でも、子供のことだから、味噌汁と卵焼き、ごはん、くらいのことだ。買い物にいく時間が、母親にないので、私が買い物に行く。八百屋さんが重いだろうと言って、みかんやさつまいもは配達してくれるときがあった。弟は6歳、妹はまだ4歳だった。その習慣は、私が15歳になるまで続いた。自宅に帰ると家事優先で、受験勉強をする時間は取れなかった。自宅に帰らず、友人の家で、夜は勉強会をして、夜中に帰り、朝は6時からパン屋でバイトしていた。だから、友人たちとは深い絆で結ばれていた。バイトは禁止の学校だったが、気にしている場合ではなかった。

24歳。私は大学生。同じ年齢で母は一人目の子供を産んだ。妹はICUに入っていた。弟は急死した。

28歳の時、私は研究所所属になった。個人事業主契約だった。母は3人目の子供を産んだ。妹は宮古島に移住した。都会は体質に合わないのだそうだ。その後、海外に渡った。

祖母は45歳で、”おばあちゃん”になった。母は当時24歳で初産だ。私は40歳を超えたが、子供は授からなかった。今後授かることはないのではないだろうか?

29歳で私は結婚した。母が人生のパートナーを失ったのは28歳。3人の子供を抱えた。祖母は、その時、50歳を超え、老いを目前にし、女ひとり生きていく決断をした。

父は、30歳。若干30歳の若者が、自分の夢を追っても、仕方がないのかもしれないし、まともな仕事がない地方で、収入が低いと言っても、仕方ないのかもしれない。

ただそれで生まれてしまった子供は、一体どうしたらよかったのだろうと思う。弟も妹も私も。そして母も。

それは創造性の課題なのだろうか?

父はその後、都会へ移住し、大きな会社に勤めて部長クラスまで、なんとか上り詰めた。再婚したが子供はいない。

祖母は長生きし、私は社会人で収入がある間はなんどか祖母の家に遊びに行った。私の結婚式にも出てれた。おと年他界した。35年の一人暮らしの末だった。祖母に新しい冷蔵庫を買ってあげて、3年目だった。エアコンも、入れてあげたかったが、私がお勤めを失ってから、だったので、そこまで、できなかった。

育英会の奨学金の封筒は、いつも私にこうしたことを思い出させる。あと何年あるかな・・・

山をめぐる自立は、人生の自立や役割分担と、とても似ている。

相手の立場に立ってみないと、その気持ちは分からないものだ。

そして、たいていが、その事には長い時間、気付かれないものだ。

無邪気な人は、いつでも無邪気なままだ。相手の立場に立つことがないと気が付かないのは、想像力の問題でもある。



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