■ パーティの必要性
なぜ、山岳会が必要だ・・・と人は言うのでしょう?
それは、いわゆる ”冬山”が、パーティを必要とするからです。
しかし、ワカンが出て、ラッセルするような山・・・は、それが実行できる山岳会というのは、かなり限られます。
体力があるメンバーがいても、リーダーに相当の冬山経験が積み重なっていないとできない、
からです。
冬山が限定的かどうかは、会の冬山合宿の傾向を見れば分かります。過去には難しいところに行っていても、近年易しいところしか行けなくなっていれば、それは下降局面にいるわけですから、過去の山行例にある場所に行ける可能性はないでしょう。
となると、会内で冬山の質を向上させていきたいとなった場合、息の合った個人間で、となります。
個人で行ける冬山からスタート、となれば、小屋がやっている山域限定となり、それでは自分で仲間づくりをしての、個人山行と変わらない、ということになります。
となると、会の人とは行かないということになり、またまた本チャンと同じ結果になります。
■ 雪と沢
私は、雪と沢の仲間を求めて、山岳会に来ました。
沢は特殊分野と今でもされているので、沢山行がないのは仕方ないです。私も最初から沢山行は期待していませんでした。
しかし、昨今は、山岳会にも雪のノウハウは残っていないかもしれません。
それは新人教育のノウハウが残っていないのと同じような、仕方のない事情によると思われます。なにしろ、低落が叫ばれ始めてから、もう20年以上も経っているのです。
昨日、こちらのブログに、当ブログでも、考察した、今冬の学習院大学の阿弥陀北陵での遭難事件が考察されています。
こちらのブログによると、学習院大学の阿弥陀北陵遭難の反省点は、大きくとらえると
・山行計画をきちんと全員で吟味していない
・山行中の判断が強気すぎる (他パーティが引き返したのに引き返さない)
・事前学習がおろそか
・地図が読めない
・遭難しているという意識がない
・部員が意見を発信できない
・全員自立した登山者を目指していない
原因
安全性を十分に考慮せずに、最低限守らなければいけないルールを軽視していた。
対策
何よりも安全性を優先し、ルールは遵守する。
とまとめられています。
私が所属していた会ですが、死者は出さなかったものの・・・学習院大学とまったく同じ力学構造をもっています。
それが露呈したのは、同じく厳冬期の阿弥陀北陵の山行でした。私の会でも、6名で3人の凍傷者を出した山行です。遭難は他人事ではありません。
私自身も参加予定でしたが、幸運なことに、自分のパートナーが参加できなくなったので、参加を取りやめました。取りやめることができて、行く前からホッとした山行でした。
この山行は計画時点から、危ないことが分かっていたのです。まずは体力不足でした。北稜は初級とはいえバリエーションですから、赤岳より体力が要ります。でも、赤岳でも息切れして歩けなくなる人がいるのです。そうすると、バリエーションはチャレンジ山行の位置づけのはすです。
それなのに、一升瓶を担いでいくという楽勝モードでの”ご褒美山行”計画です。厳しいことになるだろうことは予想できます。
北稜は、普通は、一泊せず日帰りの山です。厳冬期の山中一泊は体力を奪います。
しかも、なおかつ、初心者を二人。先輩たちの負担は増えます。初心者は一人を連れて行くのに、二人の先輩の目が必要になります。
天候も悪いことが予想され、さらに、ガイドパーティが中止を決定した強風化の天候で、行動継続したそうです。
そもそも、全員にとってチャレンジ山行にも関わらず、チャレンジ山行だという認識がない。そのため、臆病に判断的できない。もちろん、プライドも邪魔をしているようでした。過信です。
装備不足なども、この会では指摘できないことが、別の山行ですが分かっていました。例えば、赤岳に6本爪アイゼンで行くような人も行者小屋待機ではなく、登らせてしまいます。それも人間関係の崩壊を恐れるためです。
でも、人間関係と命、どちらが大切でしょうか?その人がもし落ちてしまった時、装備不備を指摘されなかったことに感謝するでしょうか?
また、遭難間際であったことは、反省するどころか、武勇伝になってしまう・・・という結果でした。
そうしたことを改めることができる可能性ゼロ
ということです。
それは、別の沢山行で起った、ありがちで平凡な、ちょっとしたミスをきっかけにして、明らかになった体質でした。 ミス自体は、指摘と知識で治るようなものです。ミスすることより、大事なのは、その後どうなるかです。
間違いは誰にでもあることですから、死に至らない程度のミスは学ぶチャンスです。しかし、学ぶチャンスがいくら来ても、”学ばない”、”学びたくない”という意思を持てば、確率論では必ず遭難してしまいます。
遭難しないためには、行かない、という選択肢しかなくなります。
■ 山岳会の歩き方
つまり、その会に限らず、現在、昔から継続されている山岳会という社会は、おそらく
内部からの自浄作用は期待できない組織運営
がされてしまう傾向があります。 もっともマズイ点はこれです。
山岳会の歩き方、という指南がもしあるとしたら、わたしならば、新人にはこう指南します。
・自分の目で見て、アブナイと判断した人から、嫌われるように仕向けなさい(誘われては危ないから)
・適当な口実を作って、危ない山行計画には、何も言わず不参加にしなさい
です。
■ 未組織登山者のほうが安全なわけ
学習院大学の遭難で指摘されている問題点は、当てはまらない会は少ないのでは?と思います。
未組織登山者のほうが安全です。
というのも、自分で行くなら、つまり未組織登山者なら・・・山行計画は、かなり吟味されます。
行けるか?行けないか?の判断まで、自分でしないといけないからです。
体力に余裕があるか?ないか?の判断も自分でしないといけませんし、未知の領域に踏み込むのですから、誰それさんが行ったことあるから、自分は地図を読めなくても大丈夫だろうという甘い期待はありません。
というわけで、一般にパーティで行くよりも、未組織登山者の方が、基本的に山行計画に掛ける時間や吟味の度合いは、強いハズです。
■ 遠のく安全
つまりどのような意味かというと、自浄作用が組織に期待できない体質である限り、経験(山岳会においては歴史という)がある会であればあるほど、安心・安全からは、遠のく、力学構造になっている、という意味です。
発足したばかりの会であれば、経験がありませんし、経験がないことは全員が承知ですから、互いに相手を当てにせず、自分で調べていくと思います。
この力学は、歴史がある会であれば、あるほど、逆に働きます。
・先輩の誰かが指摘するだろう
・先輩が道を知っているだろう
・危なくなったら、先輩が何とかしてくれるだろう
と、こういうことになります。逆に先輩の側は
・前には(楽勝で)登れた
・俺だってまだまだ若いものには負けん
という思いがあります。でも、もしかすると、その”前”は・・・
・10年前
・そのときも先輩に連れられていた
かもしれません・・・
もちろん、内部にいる方のすべてが、過信があり、計画を立てないとか、地図が読めないという人材という訳ではありません。
オーソドックスに地図を読み、計画は念入りに概念図を作り、装備は吟味し、宴会ではなく、山に対面している人たちもいます。
しかし、ほんの少数であり、わたしと立場が似ていると言えるでしょう。つまり孤立気味です(笑)。
■ よく頑張ったな
私は山岳会には、1年半しか所属していませんが・・・振り返ると、一回目の山行の川俣尾根は、すでに道案内役でしたし、地図読みの伝達講習もし、先輩たちが連れて行ってくれなかった三つ峠は会で普通に行く内容となり、ビレイの不備もきちんと指摘し仲間としての責任を果したし、山行計画の吟味の必要性も指摘しました。不味い計画の時は代案を出しました。ギアの不足も指摘しました。山を分かっていない人にそれを指摘するのもしましたし、例え、分かっていない状態であっても、山行に連れて行ってあげる(ガイド状態もしくは育てる)と言うのも、やりました。
もう、やれることは、すべてやりきったなぁ~という感じなのです。
だから、すっきり感満点なのです。
これでは危ないよ、これではだめなんじゃない!と指摘するのは難しいことです。誰も引きたがらないババであると思います。
ただ何も成果なく、ババを引くとババ引き損ですが、ラッキーなことに、最近は別の縁で満たされていますので、そうした意味で、やはり会とのご縁は、引き際かなと判断しました。
しかし、私が選んだ道は、タイヘンな方の道です。
楽でない道を選んだということなので、これまで以上に気を付けて山に望まないといけません。
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