ヨガを教えることができることにとても感謝している。ヨガを教えることは、通常なかなか叶わないことだ。このような気持ちは、山岳会を率いるリーダーが持つ気持ちと同じかもしれない。
教えることができることへの感謝は、私がむしろ学ばせていただいている、ということによる。
■ 山との類似
ヨガを教える側は、自分のヨガはできない。そのことは、先生たちの間では良く知られている。
教える側は、指示を出さないといけないので、自分のヨガを深めることはできない。
観察力を内に向けることができず、指示を出したり、生徒さんのアライメントを直したり、と結構忙しい。自分のポーズなんて後回し。しかし、要所要所でポーズは見せないと行けないので、自分で自分のヨガをする時間を別に持つのだ。
というわけで、ポーズについてだけなら、生徒側でいるほうが、上達が早い。
どっこい、ヨガをする、ということは、ポーズに熟達する、ということではない。
・・・ということが、生徒でいる間は、分かるようにならない。
それは、山が、体力だけでない、スポーツではないということが分かるようにならないのと似ている。
ヨガはポーズをとることではなく、ヨガ的な生き方というものを行うことがヨガなのだ。だから仕事をしていてもヨガ的であればヨガをしていることになるし、それはカルマヨーガという名前が付いている。
ポーズはヨガの小さな一局面に過ぎない。トータルで座学や歴史、ヨガ哲学を含めて体系的に学んで、初めて、ポーズを取ることの意味が分かるようになり、レッスンを組み立てることができるようになる。
意味が分かる瞬間と言うのは、まったくコペルニクス的転換で、生徒としてヨガを教わっていた10年や20年の間、ヨガをしているつもりで、全くしていなかったんだな~と分かる(^^;)。
しかし、教えるときには、そうして学んだポーズ上の小さなコツが具体的な教えになる、ということも否めない。
ただ先生のあり方として、ヨガ的でない人、つまりヨギーでない人は、すぐにわかる。
それは山ヤも同じだと思う。
人の後ろをついて歩いていると、もちろん歩くことは上手になる。足はみな強い。でも、山ヤじゃない。
考え方が山ヤじゃないのだ。人の後をついて歩いているだけでは、山を分かるようには一生ならない。
自分で計画を立て、リスクを計算し、自分の力量を客観的に評価し、どういう山が登れるのか、判断するという経験を積んで行かないと、山行を企画することすらできない。
山をするとはどういうことか?の全体像も分かるようにならない。
ヨガと山の共通点はこれだ。
逆に言うと、何事も指示されてやっている間は、特定の限定された範囲の技術に強くなれるということだ。技が研ぎ澄まされるチャンスということだと思う。
ヨガの先生になると、ヨガポーズ自体の洗練度は、実はどうでもよくなる。
なぜなら、そのポーズをどう使うか?のほうが、ポーズが上手とかキレイであることより、大事だからだ。
山も、計画から、その岳人の山への想いが伝わる。山行計画は、岳人から山へのラブレターなのだ。
その愛の詩を理解できることのほうが、山ヤとして大事なことで、足が強いとか、体力がある、なんてことは二の次、三の次のことなのだ。
私の愛の詩 |
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