最近、パートナーに求める条件の最たるものは、体力でも、登攀力でも、性格の一致でもなく、
山を分かっていること
であると、結論するに至った。性別及び年齢も、核心ではない。
検討事項その①体力 ・・・ 自分の体力を過不足なく、理解していること
もちろん、最低限の体力は前提だ。最低限とは、10時間の行動が最低10kg担いで普通の速度で歩けること。これは最低限なので、10kg10時間だと、山によっては、一緒に行くメンバーが、多少肩代わりしなくては、いわゆる山岳会が行くような山・・・昨日の深南部のような、危険のない山であっても・・・は、行くことができない。
若い人であれば、15kgくらいは担げないと山ヤ失格だ。これは何の自慢にもならない体力だ。
体力自慢は山ヤの誇りであり、山ヤであれば、誰しも体力自慢するものだ。たしかに体力はあって困るものではなく、超人的な体力があれば、すごい山ヤだ。
だが、体力は、ないならないで、その体力で済ませられる山に行けばいいだけのこと。10の体力があれば、10の山に行けばよく、20の体力があれば、20の山に行けるだけのことだ。
遭難ということを考えたとき、もっともリスクが大きいのは、10の体力しかないのに、20の体力が必要な山に行くということだ。
だから、いくら20の体力があっても、30の山に行けるという過信があれば、10の体力で10の山に行っている人よりもリスクが高い。
体力について、もっとも大事なことは、
自分の正確な体力を理解している、ということ
だ。
したがって、その理解のためには、安全・安心な環境で(例:山小屋のある縦走)、自分の限界を知る体験を積んでおかないといけない。つまりトップロープで登って自分のギリギリの限界値を知っておくということと同じだ。
最近15時間近くの行動を体験したが、その前までは、一日の行動時間としては、14時間の金峰・甲武信の縦走が私が自分をギリギリまで追い込んだ山だった。
一般に人は自分で自分を追い込むことは、なかなかできない。これは山岳会などの仲間が、非常に役立つシーンだ。歩荷山行、カモシカ山行などは、機会があれば、やっておくべきだ。
私の尊敬する、ある岳人に、15時間行動となった山行を話すと、彼は33時間行動の経験があるそうで、17時間行動へのチャレンジが提案された。
すこし話が逸れるが、どれくらい人は歩けるものなのだろうか?私が想像するには、15時間程度は、30代~40代の若い男性にはゆとりがあると思う。私自身、まだ限界とはいえなさそうだった。
無理して無理をする必要はないが、こうした自分の限界点を知るような行動の経験が、仮にピンチとなった時に、強みとして発揮されるのは間違いないことだろう。
検討事項その② 登攀力
登攀力も、山ヤの自慢項目に当たることが多い。 体力と同じで、確かに、登攀力もあって困らないものだ。
が、日本の山岳エリアに限れば、日本国内総5級、A1と言われた時代があるほどで、フリークライミングに転向しない限り、11以上の登攀力は、冗長になる。
もちろん、A1しないで登れれば、その方がギアの分軽いわけなので、楽ではあろう。A1を受け入れなくてはならない登攀力の人には、そのギアの重さ分の歩荷負担が来るわけだからだ。
余談になるが、登攀力は、年齢による恐怖の感じ方、経験による恐怖の感じ方も影響する。危険を体験したことがない段階では、恐怖心がないため突っ込む判断をしがちだ。
その段階の登攀力は、真の登攀力とは言えない。
その段階の登攀力は、真の登攀力とは言えない。
プロテクションの重要さやロープワークの重要性が身に染みて分かるようになるには、怪我の経験や失敗の経験による振り返りが必要だ。
私は今この段階にいるため、必要以上に、用心をしている。私自身の観察に寄れば、初級のルートに行けるようになったくらい・・・つまり、現段階の私の段階・・・が、もっとも滑落による遭難死を起こしやすい。それは限界に行くことを良しとする、一種のヒロイズムに染まるからだ。また、なかなかルートに出れず、不満を貯める時期でもある。
危険が身に染みる経験が、ある岳人の身に起るかどうか?は運だ。
起った出来事が経験になり蓄積するかどうかは、その人の内省次第だ。色々な出来事が起ったとしても、そこから反省を引き出さなければ、経験として蓄積しない。
たまたま起った出来事を深く振り返り、出来事から意味をくみ取るかどうかは、知性と資質だ。
そうした意味で、山ヤが登攀力を正確に評価できるようになるまでには、
・経験
・運
・資質(知性)
の3つが揃う必要がある。このうち、山岳会が用意してやれるのは、経験だけだ。平たく言えば、1から10を知る人もいれば、10から1しか引き出せない人もいる。
経験があっても、そこから学ぶ姿勢が欠けた人であれば、「おれは強運だ」などの、合理的な関連性が見当たらない、見当違いな結び付けをしてしまう。
それは元々高い自己評価(根拠のない自信)がある人に多い。そうなると、落雷予報があるにも関わらず出かけて行くような、いわゆる”無謀”登山者を作ってしまう。
一方、死なない程度に危険な目には遭っておかなければ(言い換えれば、運がなければ)、経験を積んでいる途中で死んでしまう。
超絶登山を繰り広げ、将来を嘱望された、若い岳人の多くが、何でもない初級ルートの、核心部ではなく、ただの樹林帯等で転落死している。
例えば、今冬起った大学生の阿弥陀北陵の遭難事故も同じようなケースに入ると思われる。阿弥陀山頂でのホワイトアウトが、良く知られたリスクであることを考えると、ちょっと待つという知恵さえあれば、ワンビバークで済んだ可能性が高い。
資質はさらに得難い。高い知性が必要だ。客観的で、冷静な分析力が必要だからだ。
私が尊敬する山やは、学歴等をあらかじめ聞いて選別したわけではなく、単純にその人の山に魅かれて慕っているだけだが、しばらくして明らかになることの結果としては、高い学歴を有し、高度な職業を持っていた(持っている)人が多い。それは偶然の一致とは思えない。
検討事項その③ 経験
経験もまたあっても邪魔にならないモノとされている。しかし、”経験”がどのように作用するのかは、本人の資質次第だ。
経験があるがために、経験がない人より危険になっている場合もある。
したがって、体力、登攀力、経験のどれも、パートナーの必須条件とは言えない。
したがって、体力、登攀力、経験のどれも、パートナーの必須条件とは言えない。
■ ヤマを分かっている人
では、山を分かっている、とは、どのようなことだろうか?
それは一度山行を共にすると分かる事が多い。それらは、装備の選び方から、計画の立て方、山行中の行動、ビレイの仕方、発言など、すべてに現れる。
それは一度山行を共にすると分かる事が多い。それらは、装備の選び方から、計画の立て方、山行中の行動、ビレイの仕方、発言など、すべてに現れる。
例えば・・・だが、尾根の下りはじめは、大概ぼんやりしており、尾根が顕著になってから補正すればよい。そんなことは、山ヤならだれでも知っている。ある岳人は、地図読みは、「間違いを内包しながら進む」と表現していた。
つまり、すべてに正解を求める臆病な人は山ヤには向かない。
リーダーがミスをしたときに怒りだすメンバーは、単純に山ヤではない。”お客さん”だ。リーダーは神ではないのだから、すべての責任をリーダーに負いかぶせることはできないのは、たとえガイドであっても分かり切ったことだ。ミスを指摘してやれなかった自分を恥じるべきだ。
ビレイで人を引っ張る人は、ロープが出る山には行ってはいけない。まだ人工壁での下積みの経験が足りていない。(私自身も連れて行ったことがあるので反省中) ビレイ中にロープを手から離してしまう人も同じだ。
ビレイで人を引っ張る人は、ロープが出る山には行ってはいけない。まだ人工壁での下積みの経験が足りていない。(私自身も連れて行ったことがあるので反省中) ビレイ中にロープを手から離してしまう人も同じだ。
自分の寝食を担いで山に行くことは基本のキであるので、自分個人の、単体の荷物を担げない人は、端にその山には登る資格が足りていない。コッヘル程度、テントの一部程度の共同装備負担で文句をいう人は、自分が資格未満で登っていることの自覚がない。その人は自分で担いで行ける範囲の山に行くべきだ。
これは万人に通じ、山の本当の魅力は、「誰かに登らせてもらった5級より、自分で登った4級の方が面白いだろ」というメスナーの言葉にも現れている。逆に言えば、良かれと思って、連れて行ってやると、その人の本当の意味での、山の喜びを奪ってしまう。
何かの本にあったが、トンネルで、ライトを点灯しない人は山には向いていないそうだ。トンネルのライトは自分のために着けるものではない。対抗車により早く気が付いてもらうためにするものなのだ。したがって、自分さえよければ良いというような人も山には向いていない。
例えば、落ちそうなときは、「頼むよ」とか「落ちるかも」と言うことが重要だ。
例えば、落ちそうなときは、「頼むよ」とか「落ちるかも」と言うことが重要だ。
また競争心が強い人も山には向かない。誰かが行ったから、私も、となるのだが、山は天候や季節によりさまざまに条件が変わり、予想以上に易しい(難しい)ケースもある。それが面白さであり、日本中どの山にも登れるのが基本的には山ヤとしては当然のことなので、山を知らない人たちの評価ですごいとされている、ある山に登れたからと言って、自慢にも何にもならない。競争心は、自分との戦いに向けるべきだ。
分かっていない自分が分かっていない人も山に向かない。ナルシストは山を背景にした写真に納まりたいだけの人だし、女性にもてたいという動機は入門者には良いが、山ヤとして成長するための推進力とはならない。山は山の良さを知ること自体が、山の面白さだからだ。
人は山と向き合っているようで、自分と向き合っている。そのことが分からない人は、すべからく山ヤではないだろうと思う。そのことは、”山は自己満足”という単純な言葉で、伝統的に教えられている。
■ ダーティ行為
最近読んでいる本に、ダーティ行為、と称される行為がリストアップされている。これらは、健全な自尊心を損なう行為として挙げられているものだ。
が、山ヤとしての資質の判断にも非常に役立ちそうだ。
≪ダーティ行為リスト≫
1)自分がされたら嫌なことを人に対して行うこと
・活躍している後輩に辛辣な嫌味や皮肉を言って傷つける
・他部署の人を困らせようと、申請書類が滞るような嫌がらせをする
・気に入らないことがあると、仲間外れにする
・人の話を聞かず、自分の愚痴ばかり
・たまに親切にしたと思ったら、恩着せがましく金品の見返りを要求する
→ 山に落とし込んだら
・一斉メールからその人だけを除外し、山行を知らせない
・自分の荷物を人に担がせる
・必要なギアを教えない
・ラッセルを交代しない
・使っていない食事代を請求する
・ビレイでクライマーを引っ張り落とす
・ビレイでクライマーを引っ張り落とす
2)ダメージを与えたり、悪い方向にいくことを見て見ぬふりすること (行動しないこと)
・目の前にお年寄りが来たのに席を譲らず、寝たふりをする
・いじめられている同僚を見ても、見て見ぬふりをする
・飲酒運転を止めない
・つり銭が多くても返さない
・隠ぺいを知っていても、見逃す
・けんかを止めずエスカレートさせる
・自分の作業が終わっても人の作業を手伝わない
・自分だけ知っている得な情報を独り占めし、分けようとしない
・スランプで悩んでいる部下を指導することなく、放置する
→ 山に落とし込んだら
・無謀な山行計画を指摘しない
・危険と分かっているダメビレイを指摘しない、教えない
・危険と分かっている突っ込む行為を指摘しない
3)意図的に行われる間違った行い
・雨の日に人の置き傘を持ちかえる
・常習的遅刻
・困っている人からの相談に、自分が役立つと分かっていて応じない
・会社の備品を家に持ち帰る
・人が近づいてくるのを知りながら、エレベーターのボタンを急いで押す
・接待費の流用
・割り勘のちょろまかし
・商品のメリットだけを説明して、デメリットを説明しない
→ 山に落とし込んだら
・自分が教わった登山技術を後輩に教えない
・山岳会の良いところだけを言って、悪いところを教えない
・人が苦労して調べて行った山に、便乗する
・行きたいと言っているルートを盗んで、断りなく抜け駆けして行く
・これみよがし登山を行う
・これみよがし登山を行う
4)道徳的価値観に反して社会全体へ行われる不正行為
・確定申告の経費割増
・ポイ捨て
・静かな場所で大声で話す
・公共の場所を汚す
・交通違反を勲章にしている
→ 山に落とし込むと
・役得のもらいっぱなし
・山でトイレットペーパーを捨てる
・山でウルサイ
・山でゴミを捨てたり、登山道に大便をしたりする
・凍傷を自慢話にしている
例えば、道徳的価値観の違反があっても、たいていの場合は、温情主義により、許されているが、それは、ある意味では、2)行動しない、というダーティ行為に当たる。
そのあたりの線引きは、非常に難しい。
が、しかし、自尊心を損なう行為である、ということが言われているため、自分自身の自尊心を自ら傷つけていないかどうか?、が、判断に迷った場合の線引きの参考になろう。
自分で自分に恥じない自分でいることは、各人の責務であるのだ。
自分で自分に恥じない自分でいることは、各人の責務であるのだ。
■ 自分自身に対して行われる不正義
・過剰なカロリー摂取や不健康な暴飲暴食
・生活水準をはるかに超えた散財
・不衛生な環境で生活する
・セクハラをされているのに我慢する
・自分へのご褒美を我慢する
・体調不良があっても、多忙を理由に病院へ行かない
・受け取るべき報酬やお礼を受け取らない
・言いたいことがあっても周囲に気を使い、自己主張しない
→ 山に落とし込むと
・山と向き合っていない
・力量以上の山に行き、それを自分で認めていない
山と向き合っていない人は、”後ろめたい気持ち”を持っている。後ろめたい気持ちは、人によっては、”過信”となり、人によっては”謙虚さ”となる。
正直さ、という美徳を身に着けていない人には、ビッグマウスとなって表現されるようだが、事の根っこは同じだ。
自分自身への背徳行為なのである。しかるに、他者がいくら当人をほめたたえたところで、一時しのぎにしかならず、本当の意味での自尊心はその人自身が、自傷行為、つまり上記に記載したような内容の行為を辞めない限り、根本のところは正されない。
そういう意味では、大言壮語癖(山ヤの自慢話癖=ヒロイズム)は、悲痛な悲鳴とも言えるわけで、気の毒であると言う見解も成り立つのかもしれない。
私が思うにはそういった心性、心の性質は、感染力が高く移りやすい。近寄らないことも含め、良識に属すかもしれない。
幸いなことに、私が今までパートナーを組んだ人は、素晴らしい人ばかりでそのような心性の人はいない。
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