Wednesday, July 23, 2014

若い人の山岳会離れ

今日は辛口批評です(笑)

■ 若い人の山岳会離れについて

若い人が山岳会離れを起こして久しい…という嘆きは、私のような登山新参者でも、少なからず耳にします。

ちなみに私自身は40代に入ったばかりの、登山歴4年の女性登山者です。

登山を始めた当初は、「山ガール」と呼ばれていました(汗)。山ガールブームについては全く知らずに、山梨生活をエンジョイするためという理由で、登山を始めりましたが、順調に山が成長した結果、今は誰も「山ガール」と呼んでくれません・・・(^^;)。

おそらく、昨今の登山ブームで、10人登山を始めれば少なくとも1人は私のようなガチに進化するでしょう。そうなった場合、私のような登山者は行くところがなくて困るんじゃないか?と思います。

(ちなみにガチの中では一年生のひよっこです)

■ 微妙な40代

登山の世界で、”若い”と言えば、本来はたぶん”35歳以下”を指すのだと思いますが、現状を見回すと40代前半は、相対的な都合で、”若い”に入ってしまいます。というのは、山岳会は高齢化が進んでいるからです。

ちょっと話は逸れますが、40代が若いか若くないか?は、グレーゾーンです。

”まだ若いんだから頑張る”から、”もう若くないんだから無理をしない”へ、移行するべき年齢ですが、そのタイミングは、日ごろの肉体のメンテナンスによりけりで、個人差が大きいようです。中高年というのは、要するに個人差が大きい世代なのです。

■ 若い人に問題があるのか?

話を戻しますと、”若い人の山岳会離れ”というものは、基本的には

 ”若い人の側に原因(問題)がある”

という目線で語られることが多いように思いますが、最近、それには疑問を持ち始めています。

というのは、私が参加した山岳総合センターの講習会など若い人だらけだからです。

山を学びたいというニーズはある。意欲もある。

それは確実に真実です。

ということは、そのニーズに単純に山岳会という枠組みが答えられていないだけではないのだろうか…?

■ 若い人が多い会 

若い人が一杯の山岳会も、実はあります。 講習会の修了生が作った会も昨今は目立ちます。

こうした山岳会は新しい形態の山岳会と言え、希望がある形態です。なぜなら、

山を学びたい!

という一つの共通目的でつながっているからです。 技術志向、とも言えますね。

もともと講習会仲間ですから、意欲、という面で、すでに選抜を受けており、学ぶ意欲がなく、連れて行ってもらいたいだけの人は除外されています。

既存の山岳会で問題となる、ただ連れて行ってもらいたいだけの人がたくさん入会してきてしまう、という欠点をあらかじめ除外できます。

そして、技術レベルも、同じ内容の講習を受けているということで、最低限相手が何を知っているか?は、共通の理解があります。たとえば、セルフはメインロープで取る、というようなことを知らない、というようなことはない、というような意味合いです。講習内容は、身についている程度の差はあれ、項目としては共通理解なので、何を後輩に伝えていくべきか?も共有しています。

≪今までの山岳会の問題点≫
・連れて行ってもらいたいだけの人が入ってきてしまう
・技術伝承が個人任せ、運任せ
・結局、同人化してしまわざるを得ない

≪講習会→山岳会のメリット≫
・意欲の無い人が最初からいない
・タダ乗り派が最初からいない
・ある程度教育内容がフレームワーク化する

今までの山岳会では、教育システムが、口承(笑)で、何をどう具体的に新人に教えるのか?決まっていない会が多いようです。

基本的に、教え好きな人がボランティアで教えるに任せる、ということであり、技術と言っても、間違って覚えたことが、そうとは分からないまま、そのまま継承されてしまうことも多かったようです。昔はインターネットありませんしね。

そういうわけで、きちんと教えられていない人は、教えることができない。教わっていないから教えられない。

それはその人のせいではありませんね~! 

しかし、登山を教える、ということについては、大まかな枠組みさえ、曖昧なようです。

それは、やはり、率直に言ってしまえば、手抜きが積み重なったということのようですが、個人で出来ることは少ないので、組織と言うメリットが生かせなかった、ということなのでしょう。

組織の在り方が、個々人の努力任せだった、と言えるかもしれません。個々人が趣味に割ける時間が時代背景的に少なくなった結果、個の弱体化がそのまま組織の弱体化となったということでしょう。

今は山岳会の中心メンバーとなるような年齢の人が山に行きづらい時代なのです。残念ながら。

■ たとえば…

それゆえ、登山において新人の目で見ると、はてな?な事態が頻発します。

たとえば、夏の雪渓歩きです。

先輩Aの指示: 軽登山靴+前爪ありの10本爪アイゼン以上 + ピッケル
先輩Bの指示: アプローチシューズ+アイゼンなし+ピッケル無

全く同じ雪渓を歩くのに、ここまで指示が違う。

師匠によると、昔は、夏山一般道の雪渓をアイゼンなしで歩けないようでは、バリエーションルートに出てくる急な雪渓などこなせない、との考えが一般的だったのだそうです。

私も実はその意見に賛成です。

というのは、岩場に行くアプローチは非登山道なんです。非登山道でありながら、登山靴はかさばるので、アプローチシューズで行くのが普通です。私や相方なんて、クロックスで歩いています(笑)。
急斜面なので、歩くの、結構大変です。(雪はありませんが)

要するに、より困難な道を、よりプアな道具で歩けるだけの脚力が前提です。たとえ靴に泥が入って、不快であっても、ザックの重さとの兼ね合いでアプローチシューズや場合によっては、クロックスが合理的選択です。

そういう風に、バリエーションに出る状況というのは、ただ単純に非一般道を登山靴で歩きます、というようなワンランク難易度が上がりました、という状況ではなく、現実に巡り合う状況的には、もっと過酷です(笑)。ワンランクではなく、3ランクは困難度が上がった感じがします。

なので、一般道の登山は、やっぱり単純に練習の場、と化してしまいます。

バリエーションから見ると、整備された登山道は、本当にすごく歩きやすいからです。スパッツがいるほど草が生えていることもないし、道はよく歩かれて、尾根がえぐられて、明瞭です。足を置く石も豊富。

だから、非一般道を歩くことに慣れてくると、一般道くらいは運動靴で歩けてしまいます。私は、鹿柵のボランティアなどをしに行くときは長靴です。靴底はペラペラ。

翻って、夏の雪渓ですが、私は、雪渓、登山靴だけでも歩けます。スプーンカットを丁寧に拾っていけば、傾斜が緩い夏の雪渓に、アイゼンが不要なのは分かります。でも、私も、6本爪アイゼンを装着しますが、別にアイゼンがないと歩けないからではなく、そのほうが脚力をセーブでき、一般道を歩くような登山では別にザックが重いわけでもないからです。 

ちなみにピッケルは要らず、ストックです。傾斜が緩いので、ピッケルでは地面に届かず杖にならないからです。こけてから停止することを考えるピッケルより、コケない装備のストックが有効な斜度だと思います。斜度的に転ぶリスクが限りなく小さいからです。

しかし、同じ雪渓でも、靴底が柔らかいアプローチシューズでは、ピッケル無しに歩く気がしません。転ぶリスクが一気に高くなるからです。特に下山はかかとを雪面にけり込むキックステップなど、靴底が柔らかい靴ではできない。靴底が柔らかい靴は、基本的にはフリクションを効かせる靴だからです。おなじアプローチシューズであっても、靴底が硬いタイプであれば、歩けると思います。

しかし、普通、ここまで説明してくれる人はいませんね。 アプローチシューズを持ってこさせる前に、説明する人もいないし、ピッケルかストックかを主体的に考えさせる人もいない。

なので、指示を受けた側は主体的に自分で判断しなくてはいけません。

すると、どういうことが起るでしょうか?

先輩Aにも先輩Bにも服従しなかったということになります。 そりゃどっちの先輩も面白くないかもしれませんね~。

しかし、よく考えてみると、”山は自己責任”。 考える人は歓迎のはずです。

登山教育で最も重要なのは、たぶん、”自分で考える”ということであり、登山界では”自分で考えない”ことについての嘆きが、360度方面から聞こえてきますが、アカウンタビリティ(説明)がなされない状況下で、いざ”自分で考える”タイプの人がいると、このような結末になります。

私が思うには、こうして、若い人は立場がなくなっていくということになるのではないか?

それはもともとの原因をただすと、説明が不十分である、ということに尽きるわけです。

■ アカウンタビリティの時代到来?

私がここで主張したいのは、

 合理的で論理的な説明が不足している

ということです。根拠の説明、ということです。

若い人が多い会は、よく見ていると、説明が豊富で、根拠が明確な会です。つまり分かりやすい。

また、人気がある山岳ガイドは、くどいほど説明が丁寧です。説明のパワーで納得性を高めています。

考えてみると、言葉は何のためにあるか?それは、分かりづらいことを説明するためですしね。

若い人がついて行く岳人はどのような人物か?を観察していると、やはり、指摘が論理的である、ということに尽きると思います。

そういう意味では、今山岳会に起きていることは、山岳会離れ、ではなく、

 山岳会の淘汰

なのかもしれません。 

年齢が上だからとか、過去の実績、ではなく、キチンと技術を伝えられる、現在も実力者である、という、根拠に基づいている、ということであれば、本来、与えられるべき正当な評価が、選抜の根拠であるということであり、それって実は歓迎できる流れではないでしょうか?

■ 更新情報

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