権現には7回も登っているのに、権現小屋も青年小屋も知らなかった。編笠山には一度も登ったことがない。それは別に選んだわけではなく、権現に登るのに忙しくて、ただ何となく、行ったことがなかっただけだ。
そうこうしている間に、小屋泊には懲りて、小屋泊そのものを避けるようになった。夏山の小屋は、ウナギの寝床だ。夏山ではなくても、2月の厳冬期の高見石小屋でさえも、満員で頭を踏まれる人もいるくらいの混雑だった。前の年は、夫と二人で貸し切りだったのに・・・。そのうえ、夫はストックの盗難に遭った。
そういうわけで、山小屋および混雑を避けるというのは、私たちの登山の第一命題になってしまった。
後立の縦走なんて、私はバイト特権としての、無料の小屋泊&タダ飯という特権を放棄して、テント泊縦走した。
■山小屋は環境に悪い
さらに一つは、小屋バイトを通じて、山小屋の罪深さを深く認識したと言うのもあった。
稜線の小屋は、なにもかも石油依存だ。
発電機を回せなければ、沢からくみ上げている水の供給が滞る。電力を使って、冷凍庫をつかっているからこそ、一度に100人、200人もの食事を用意することができるのだ。
ガスや灯油はヘリで持ち上げる。つまりヘリがなかったら、稜線の小屋は存在できない。
こんなことを書かなくてはいけないとは・・・ |
ヘリは2週に一回来た。しかし、ヘリが悪天候で飛べないと、野菜が供給されない。実は供給される野菜も、ヘリの倉庫の都合で、そもそもだいぶへたってはいる。しかし、それすらもないとどうなるか? 冷凍食品の解凍品になるのである。つまり、冷凍というのは人類が誇る食品保存技術なのだ。電気さえあれば。
人類は電気に依存して生きているんだなぁと分かる。
電気への依存は、発電機の場合、石油への依存とイコールだ。つまり、それは山小屋の生活が石油依存だと言うことになる。たぶん、一般の都会暮らしの方が、一人当たり石油依存度は低いのではないだろうか?
つまり、山小屋暮らしは環境には逆行してしまう・・・
人は人が暮らすべき場で暮らすべき、なのだ、美しい山の稜線で毎日山を眺めて暮らしたいなどというものは、人としての度を越した願いなのだ、とその時、思った。
■ し尿問題
そして、し尿問題がある。山小屋のトイレは環境に悪い。のは、なぜかと言うと、それが分解されない稜線にあるからだ。
本来は、人間のし尿は、母なる自然界にお返しするもの。別に悪いものではない。
それが、悪くなってしまうのは・・・やはり、森林限界以上、つまり、人間が本来いるべきでないところに、人が長く居座り続けたい!と思うからであり、つまるところ、人間のエゴイズムに過ぎない。
山小屋は、森林限界より上ではなく、森の中にあるべきなのだ。要するに。
■ 山に選ばれる
『岳人備忘録』には、”稜線の小屋はすべて廃止すべきだ”という主張がある。
私も、山を愛するなら、その通りだと思う。
山は、人間に稜線には住んでもらいたくないのだ。これは稜線だけでなく、深海とか、宇宙とか、アメリカなら砂漠地帯とか、ありとあらゆる孤立した土地は、同じなのだろう。そうした場所は、たぶん神の領域で、人が足を踏み込みがたくしているのは、それは自然と言う名の神の意図なのだろう。
エベレストだって、自らをエベレストの自然環境に適応できるように訓練した人間しか登れないのだ。大抵の人はその途中で挫折してしまう。つまり、それが山から選ばれる、と言うことだ、と思う。
人間は自然の一部だ。だから、そこへたどり着ける人もいる。
けれども、自然の側が人間に合わせるのではない。個人としての人間の側が、自然の側に合わせなくてはいけないのだ。
人類は人類だけは自然界の掟から、免れ得ると思っている。
山小屋は、そうした山に選ばれていない人の入口になってしまう…とくに近年の暖房完備の至れり尽くせりの小屋はそうだ。
というわけで、私は山小屋の存在には、罪深き人間の物悲しさを感じた。
まるで、悪魔に魂を売ったかのように感じた。原罪と言うようなもの。人は人としての弱さがあるだけで、もう自然に反すのだ。
特に営業を主目的にする小屋ではそうだ。営業と言うのは、要するにお客さんの人としての弱さに付け込んで利便を売る活動だからだ。例えば、水を担ぎ上げるのが重くて負担だ、など。
しかし、人は人であることを辞められない。山小屋だって、人である限り、金銭には依存しなくてはならないし、そうなれば、営業は重要だ。
神谷さんという若い登山家が小屋でバイトして矛盾に思った時のことをサイトに書いている。
神谷さんという若い登山家が小屋でバイトして矛盾に思った時のことをサイトに書いている。
http://climbing.x0.com/special/yamagoya2004/yamagoya_goryu.htm
■ 幻滅
私は山小屋の仕事が嫌いだったわけではない・・・仕事そのものは家事と同じなのだから。
ただ、
・山小屋を宴会場所だと間違っていて、泥酔し白目をむいてのびたり、
・高山病で、ばてている仲間を見捨てて、山頂に出かけたり、
・小屋に20時についたものの、部屋まですらも歩けなかったり、
・120ミリの雨で出かけていく団体客が大量のごみを残して行ったり、
・あるいは、エベレスト登山家きどりで、初心者に無意味に山自慢しているお客さんたちが、水くださいと言って、水を入れる容器を用意していなかったり
と、平地と同じ日常を山小屋に要求してくるのがイヤだった。容器なんて一個洗うだけで貴重な水の浪費だ。水は1リットルいくらで売っているけれど、無限に供給されるわけではない。ヘリで担ぎ上げた石油が稼働してくみ上げた雪解け水だ。
ポットの湯が、「田んぼの水」だと言って突き返してきた人がいて、試しに同じ湯を他のバイトに飲ませてみたら、「なんのこと?」と言う顔をしていた。「別にふつうだけど」。
お客さんは、このお湯を沸かすのに、どれだけ大変かは分かっていないわけだし、バイトは朝暗いうちに起きて、まず湯沸しから始める。
その上、山小屋のバイトで入ってくる若い衆は、山を全く知らなかった。それも悲しい点だった。
山を知らないと言うのは、要するに、山小屋を利用しないような、自分だけの力が頼り、というような山を知らない、という意味だ。
山っていうのを、急登を登って一汗かいて、ビール一杯飲むのが山だと思い込んでいるってわけなのだ。
いい汗をかくのが山ではない。それは余禄だ。温泉も同じ。
本当の山には山小屋はないんだよ、ビールも担ぎ上げて、冷えていないのを飲まなきゃいけないんだよ。
そういう若い衆だから、「え?山小屋には電気来てないの?!」とか言いそうな感じだった。
これはコースタイムを半分で登ってくるような、山岳部系の若い衆でも同じで、結局、いわゆる、本格的な山、バリエーションをするような人でないと、山のことはみんな、全然分かっていない。
あるいは、私自身の落ち度で、原木に行く山域の選択を誤ったか・・・だ。私は自分が行きたいバリエーションルートのあたりの天候に詳しくなりたいというだけで選んでしまったので。
そうなると、結局、話が合うのは、”常駐さん”といって、小屋に詰めている遭対協の人くらいだった。
というわけで、私のバイト生活には全くいい思い出はない。憤怒と退屈と幻滅が彩る生活だった。
別に風呂に入りたいとか、おいしいものが食べたいとか、そういうことではなかった。
山にいて誰も山のことを見ていないし、山をリスペクトもしていないのがイヤだったのだ。
■ ロングトレイル
そういう訳だったから、とりあえず、私は山小屋は卒業したかった。
山小屋に依存せずに山に登れる力、をつける方が手っ取り早い。
幸い、テントはそう重くないし、5泊程度の食料なら、担げないわけでもない。
それ以上の日数になれば、食料は、もう担げるものを食べるしかない。
実は、自分で食料も家も担いで歩き、外部の施設に依存しない、という意味では、加藤芳則さんが提唱した、ロングトレイルがその流れを汲んでいる。
テントを背負って、毎日自分が担いだ食べ物だけで、2週間から1か月、長いときには、数か月も歩くのだ。
今ではその後継者は、たぶんシェルパ斎藤さんだ。
先日、そのシェルパ斎藤さんのカフェに立ち寄ったが、「登山界の人からは見下されている」と奥さんが話していた。単純にロングトレイルは、ピークを目指さないから、だろう。
が、何週間も、自前の食料だけで歩けるか?歩けない山ヤが多いだろう。だから、なんで蔑視されるのか分からない。
1週間の山歩きまでは、なんとかなりそうな推測が私くらいの登山経験でも想像できるが、2週間はすごい。人生観が変わりそうだ。
■ 山小屋リスト
というわけで、ぐだぐだと長くなったが、山小屋に興味がなくなった理由とその経緯の話でした。
しかし、青年小屋の楽しげな様子を見て、考えを少し変えても良いと思った。ここでは全部歩荷で食料を担ぎ上げている。ヘリは使っていない。
…ので、またシュウマイを食べたくなったら行ってもいいな~と思っています(笑)。
野川かさねさんと、小林百合子さんが、『山と山小屋』という本を出しています。この本は賛否両論ある本で、アマゾンでは、評価が分かれています。
私は、この文章は山の良い面だけしか伝えておらず、山に叙情的なポエティックな想いしか持たない、頭がお花畑な人を作ってしまう…と思ったので、高く評価はしていない派です。
ただ、この本に掲載されている山小屋と趣味が合うみたい…。あらっ?! 涸沢に行った時は、泊まるなら(泊まらないけど)、涸沢ヒュッテより、北穂小屋に泊まりたいと思いました。
ので、この本にあるリストは、ちょっと要チェックかもしれず、有望な小屋として、備忘録しておきます。
八ヶ岳
奥秩父・奥多摩
北ア
丹沢
山小屋では、朝日小屋、船窪小屋にも興味があります。女性の小屋番さんの小屋っていうのと、奥まった場所にある小屋だから。丸川峠の小屋にも一度泊まってみたいのですが、近すぎて行く理由が難しいです・・・
注:写真と文章は何の関係もありません。
ヤブ山でケーキ |
お客さんは、このお湯を沸かすのに、どれだけ大変かは分かっていないわけだし、バイトは朝暗いうちに起きて、まず湯沸しから始める。
その上、山小屋のバイトで入ってくる若い衆は、山を全く知らなかった。それも悲しい点だった。
山を知らないと言うのは、要するに、山小屋を利用しないような、自分だけの力が頼り、というような山を知らない、という意味だ。
山っていうのを、急登を登って一汗かいて、ビール一杯飲むのが山だと思い込んでいるってわけなのだ。
いい汗をかくのが山ではない。それは余禄だ。温泉も同じ。
本当の山には山小屋はないんだよ、ビールも担ぎ上げて、冷えていないのを飲まなきゃいけないんだよ。
そういう若い衆だから、「え?山小屋には電気来てないの?!」とか言いそうな感じだった。
これはコースタイムを半分で登ってくるような、山岳部系の若い衆でも同じで、結局、いわゆる、本格的な山、バリエーションをするような人でないと、山のことはみんな、全然分かっていない。
あるいは、私自身の落ち度で、原木に行く山域の選択を誤ったか・・・だ。私は自分が行きたいバリエーションルートのあたりの天候に詳しくなりたいというだけで選んでしまったので。
そうなると、結局、話が合うのは、”常駐さん”といって、小屋に詰めている遭対協の人くらいだった。
というわけで、私のバイト生活には全くいい思い出はない。憤怒と退屈と幻滅が彩る生活だった。
別に風呂に入りたいとか、おいしいものが食べたいとか、そういうことではなかった。
山にいて誰も山のことを見ていないし、山をリスペクトもしていないのがイヤだったのだ。
■ ロングトレイル
そういう訳だったから、とりあえず、私は山小屋は卒業したかった。
山小屋に依存せずに山に登れる力、をつける方が手っ取り早い。
幸い、テントはそう重くないし、5泊程度の食料なら、担げないわけでもない。
それ以上の日数になれば、食料は、もう担げるものを食べるしかない。
実は、自分で食料も家も担いで歩き、外部の施設に依存しない、という意味では、加藤芳則さんが提唱した、ロングトレイルがその流れを汲んでいる。
テントを背負って、毎日自分が担いだ食べ物だけで、2週間から1か月、長いときには、数か月も歩くのだ。
今ではその後継者は、たぶんシェルパ斎藤さんだ。
先日、そのシェルパ斎藤さんのカフェに立ち寄ったが、「登山界の人からは見下されている」と奥さんが話していた。単純にロングトレイルは、ピークを目指さないから、だろう。
が、何週間も、自前の食料だけで歩けるか?歩けない山ヤが多いだろう。だから、なんで蔑視されるのか分からない。
1週間の山歩きまでは、なんとかなりそうな推測が私くらいの登山経験でも想像できるが、2週間はすごい。人生観が変わりそうだ。
■ 山小屋リスト
というわけで、ぐだぐだと長くなったが、山小屋に興味がなくなった理由とその経緯の話でした。
しかし、青年小屋の楽しげな様子を見て、考えを少し変えても良いと思った。ここでは全部歩荷で食料を担ぎ上げている。ヘリは使っていない。
…ので、またシュウマイを食べたくなったら行ってもいいな~と思っています(笑)。
野川かさねさんと、小林百合子さんが、『山と山小屋』という本を出しています。この本は賛否両論ある本で、アマゾンでは、評価が分かれています。
私は、この文章は山の良い面だけしか伝えておらず、山に叙情的なポエティックな想いしか持たない、頭がお花畑な人を作ってしまう…と思ったので、高く評価はしていない派です。
ただ、この本に掲載されている山小屋と趣味が合うみたい…。あらっ?! 涸沢に行った時は、泊まるなら(泊まらないけど)、涸沢ヒュッテより、北穂小屋に泊まりたいと思いました。
ので、この本にあるリストは、ちょっと要チェックかもしれず、有望な小屋として、備忘録しておきます。
八ヶ岳
- しらびそ小屋
- 高見石小屋
- 黒百合ヒュッテ
- 青年小屋
- 縞枯山荘
- 山びこ荘
奥秩父・奥多摩
- 雲取山荘
- 三条の湯
- 金峰山小屋
- 甲武信小屋
北ア
- 燕山荘
- 涸沢小屋
- 北穂小屋
丹沢
- 花立山荘
- 三角点・かげ信小屋
山小屋では、朝日小屋、船窪小屋にも興味があります。女性の小屋番さんの小屋っていうのと、奥まった場所にある小屋だから。丸川峠の小屋にも一度泊まってみたいのですが、近すぎて行く理由が難しいです・・・
注:写真と文章は何の関係もありません。
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