■ 幸せは小さなところに転がっている
今日は雨・・・昨日はなんだか、ほっこり満足感に満たされた。
普通に岩トレしただけ、だけど、その”小さな、些細なこと”が、とても幸せだった。
友達が「チャレンジアルパイン借りてきて~」と言う。そういうのも好ましい。
岩トレしませんか~というので、来てくれたことも、とても好ましく、他の人にも声を掛けたが、来た人はいなかった。
来た人がいなかったのは、”予定が合わない”だけで、別に大したことではないが、岩トレは相手がビレイやロープワークが確実で、互いにミスをカバーし合える仲、関係性でないとできない。
だから、山ヤを目指している人にとっては貴重な機会だ。その関係性がここちよかった。
■ 当たり前
友達は、大きな山自慢をする人ではないし、怖いときは怖いという。互いに無理を要求していない。
彼は初めての岩場だったが、普通にマルチの壁をリードしていた。そこは私も初めてでもリードしたような場所だから、彼だって出来て当然で、ごく普通の対応をしてくれただけだけれど、ごく普通が本当に山の世界では得難いことだと分かってきつつある・・・。
ロープワークやビレイも含め、出来て当たり前のことが出来ていて、ストレスがない、ということは、山の世界では本当に得難いことなのだ。
当たり前が心地よかった。
まぁ、私が初めてでもリードするくらいの壁なので、彼がオンサイトできるのは普通だが、とても安定感のある登り方で、見ていて安心。
易しい壁であっても、例えば、女性の後輩にオンサイトさせられるか?というと、行くと本人が言っても、させられない。
まだ人工壁で5.7で落ちる人には自分が落ちるかどうか、察知せずに墜ちる、不意墜ちの危険があるからだ。一度トップロープで登ってもらってから、ならいいけど。
男性でも、リードの心理的負担が苦手そうだったり、せっかく登れても、作ってくれる支点が怪しげだったりしてはセカンドが危険に晒されてしまうし、クライミング経験が浅く、ちょっと太っていて、私がビレイで墜落を止めれない可能性があると、私がリードするほうが総合的に見て、安全だと判断してしまう。
どちらがリードするのが全体として安全かしら?と見たときに、私の方がむしろ安全な関係性との相手では、終始緊張して、相手の安全を見守ってやらなくてはならないので、イコール関係ではない。つまりパーティとして見たときは、実力拮抗型ではない。
■ 大人は何倍も時間がかかる
イコール関係と言っても、最低限の一番易しいところが普通にリードでき、トップロープが張れさえすれば、いいだけのことで、それはそんなに高い要求ではない。
たぶん、10代の男性として、クライミングをスタートしたような人たちは、1か月ですぐマスターしてしまうような程度の話だろう。
大人になると1年10か月かかる(笑)が、時間がかかっても、できるようにはなるし、時間は、充分あるのだし、時間がかかることは、問題ではない。
それより、必要な時間をかけないことが問題だ。みなせっかちすぎるのだ。
山の安全に必要な態度は、
段階的に成長する
ということで、それはせっかちとは逆行する価値観だ。急いではならぬ。しかも、歩みを止めてもならぬ。
■ 充足と感謝
昨日は、過去の自分を振り返って、友達と個人で岩トレができるレベルに到達したことについて、感謝の気持ちが一杯に湧いてきた。
色々な人の助力あってこその、今、だ。師匠にはとても感謝している。山岳会の先輩にもとても感謝している。
与えらているという運命の流れにもとても感謝している。
それは、いつも、私がヨガを教えるときに感じる気持ちだ。
そういう感謝の気持ちがわいてこない山もある。
■ 山を辞めたくなる時
このまま、このような山行に付き合っていたら、死の危険に晒されるのかもしれないと感じる山行もあるし、出来て当然のこと、例えばビレイができていないとか、そういう点が見えて、これに一緒に行っていたら、殺されてしまうかも・・・と危機感がビンビンになってしまう山行もある。
そういう時は山を辞めたくなる。
人の心と言うのは、私がコントロールできることではない。自分のことは自分でコントロールできるが、あぶないビレイを改めない他人はコントロールできないし、その人のビレイで登らなければならなくなることがあるかもしれないと思うと、気分が暗くなる。
こんな調子でやっていてはいつか死ぬ、と感じると、”山は、もう辞めた方がいいよ”という、山からのメッセージかもしれない・・・、と思う。
楽しいはずの山が、ギリギリスレスレの山になってしまう・・・のは、人の心が山行を作り出すからだ。
■ 気分=未来予測
人間と動物の違いは、未来予測だ。動物は完全に”今”に生きていて、人間と違い、知感できる時間のスパンがすごく短い。動物にとっては、今日は今日だけしかなく、明日は知感できないのだ。
だから、喜びも悲しみも長続きしない。動物は完全に今に生きている。赤ちゃんも、だ。
人間は、時間と言う感覚を持つため、未来を予測し、未来の予測が現在の自分に影響を与える。
未来が明るいと感じることは、希望を感じることだし、未来が暗いと感じることは、絶望ということだ。
希望を感じれば、人間は行動し、絶望すれば死に至る。すべてが観測、予測、つまり、主観に寄っている、ということなのだ。
登山や沢、クライミングは、危険を含む遊びで、その危険をリスク回避するためには、段階的ステップアップが必要だ。
なのに、段階的ステップアップの行程・・・成長するためのベルトコンベアーに乗っていない、と感じさせられると、そのベルトコンベアーから降りなくては・・・と感じさせられる。
■ ヤマには順序がある
山には順序というものがある、とベテランは言う。
その順序が分かりやすく示されることがあまりないのだが、例えばこういうことだ。
阿弥陀北稜に行きたければ、最初は中央稜、その前は赤岳。赤岳に登っている間に、広域概念をマスターしていなくてはならない、していない場合はずっと赤岳・・・赤岳に行けたら、ちゃんとクライミングジムに通ってクライミング力をアップする。
まずは遊歩道の山から登って体力をつける。何時に登頂して、何時に降りるか?経由地点は何時に経由しているべきか?そうしたことが自分で判断できるようになるのが大事。一般ルートの山に登るということは、山の広域の概念を把握するためにやることなのだが、山が楽しいと普通は自然とそうなるはずだ。
例えば、八ヶ岳に一回行って気に入った私たち夫婦は、八ヶ岳の全体の図をずっとトイレの壁に張っていた。
北アに興味がわいたときは、北アの全図を壁に張っていた。計画書を書くときに、概念図を書くこともあり、それは役に立つけれど、そうでなくても、地図を勝手に見たくなったのだ。
そういう風に一般登山者としてマスターすべきことをマスターしている、ということは、バリエーションへ行く前には、普通のこと。
それがない人がメンバーにいると不安に襲われる・・・。一番弱い人がそのパーティの実力と言うのが山の掟だからだ。
何年も登山をしていて2万5千の地図を持ってもいないし、知りさえもしない人がいると不安に襲われる。
その人のレベルの山しかできない、ということと同じ意味だからだ。
そうでなければ、つまり地図読みが必要な山にそのままの状態で行ったりしていれば、山の順序を逸脱している、というサインだ。つまりとっても危険だということだ。
■ けっきょくは価値観の差
そうした、山の順序を外すという、逸脱がなぜ起こるのか?と考えると、多くの人は、その順序を踏まずに、つまり実力UPという手続きを踏まずに、山に行くこと=幸せ、と感じているようだ。
それは本人にとってもとても危なく、、死の危険がある山をしたがっている、という意味なのだけど・・・。
手っ取り早い成功、インスタントな成功を求めている、ということになる。
そういうインスタントな成功を求めるのは、80年代的な価値観、高度経済成長期の価値観のように思える。努力なしにみなが勝ち組になれた時代だった。
数を追う登山、つまりどうせ行くなら、たくさん行った方が得、という考え方や、標高を競う登山、つまり、どうせ登るなら高い山を、という思考、グレードを競う登山・・・も同じかもしれない。
皆が穂高に行くから行きたい!という思考は、隣の誰かが部長になったから、俺も部長にならねば、という思考と何か違うのだろうか?
下界ではそうしていても、ラットレースに参加しているだけで、死なないが、山でそうした思考を展開すると必ず死が待ち受けている。
何個も山に行っても、内容が薄ければ、みな同じような印象の山になってしまう。一つ一つの山を印象深く覚えていない。
もし自分にそれが起りそうになったら、それは良くない兆候だ。
もちろん、百名山してもいいのだが、一つ一つ丁寧にこなして行った結果としての百なら、安全でもあり、そして意味もあるだろうが、目標としての百は危険だ。スタンプラリーと言われるが、やはりスタンプラリーにしてしまうと、実力が伴わなくなってしまう。
■ スキルアップはマナー
山のサイズで、どうだ!と自慢したかったら、エベレストに登るしかなくなる。が、それができないと、山の数で他人にどーだ!と言いたくなるのかもしれない。
山には他人との競争はイラナイ。
だから、基本的に、ドーダ理論で登る人は山ヤではない。
私は日本の山の自然が美しいと思う。
その山に安全に登るのに、技術が必要なら、身につけなくてはならない。
だから、身に着けようとして、そして、それは時間がものすごくかかる・・・けれども、登山をしているなら、常により安全をめざす必要がり、そのために自分自身のスキルを伸ばそうとするのはマナーだ。
安全のためだから仕方がない。
スローなステップアップ・・・そうやってやるべきことをすべてやっても、危険をゼロにできないのが山。