■ やっと寒く・・・
今日は甲府は寒い。やっと干し柿作りができる!と喜んでいる人は多いのではないだろうか?
今年は、干し柿の品種の、百匁柿は豊作らしいが、お天気が秋らしく乾燥せず、干すに干せなかったのだ。
今日は我が家でも、買ってあった百匁柿をたくさん、つるした。
百匁柿は高級柿で、干していない状態でも1つ100円もする。
山梨は、外からの情報が入らないし、自分のところの情報も外へ出て行かない、孤高の土地柄で、その影響か、良さをよく知られていない。
冬にお天気が異様に良いこともそうだし、干し柿が長野のものなどと比べて異様に大きく、おいしいこともそうだ。
自然を起点にするものは、流行がなく、陳腐化の影響を受けづらい。
■ 中高年登山というジャンル
無名山塾の、『岩崎元郎校長の決定版 登山学―ヤマケイ・無名山塾カルチャー教室リーダー養成講座より』を図書館で借りてきているので、パラパラとめくっている。
最近、山には、”中高年登山というジャンル”がある、ということを理解した。
いわゆる”中高年登山スタイル”で登っている登山者は、いわゆる山ヤとは、全く違う価値観で動いている人たちだ。
私は40代で、中高年というくくりに入る。しかし、現代の60代以上の人たちがやっている登山と、私の山はまったく違う。同じ山に行っても行動様式が全く違う。
それで改めて、この本を読んでみたのだが、視点的に同じ問題意識に基づいていると感じたが、驚愕しているのは、2002年と言う古さだ。13年前だ。13年も前から続く問題だったのだ。
問題意識は、易しい語り口で語られてはいるが、何に基づくかというと、
誰もリーダーとなりたがらない = リーダー = ババ引きのババとなっている点
だった。中高年登山は、リスクを取りたがらない、楽しいだけ、受け取るだけ、というスタイルだ。
そうなった歴史的経緯は、
登山者増加
↓
スキル不足の危ない登山者増加
↓
アブナイからお金を払っても、しっかりしたリーダーに着いた方がいいですよ
↓
ガイド登山ではなく、なぜか団体ツアー登山になってしまった = かけ違い
↓
”危ない”部分は正せず、ツアー登山増加
↓
依存性 & 無謀性 増加
↓
結果として、毎年 中高年登山者の遭難増加
となっているらしい。言い出しっぺは岩崎元朗師匠だったようなのだ(笑)。
したがって、現在、登山ジャンルとしての”中高年登山”は、かなり高リスクジャンルに入っている。
この本の奥付を見ると、発行は2002年で、連載はその頃だから、すでに13年ほど昔に問題意識となり、その反省はおそらくないまま、永久的にリスクが温存されている状態と思われる。
2002年時点で50~60歳だった人は、13年後は63~73歳となる。73歳はおそらく多くの人が現役を退きリタイヤしていると思われるが、63歳はまだ健在と思われる。
10年あれば相当な経験が蓄積できると思われるが・・・。
(楽しい)&(受け取るだけ)が、一つの物事の陽の局面とすると、陰の局面は、(無謀)&(依存) だ。
誰も無謀登山、依存登山を推奨した訳ではないのに、歴史経緯的にこうなってしまった・・・ということが、人間の近視眼を物語るものであろう・・・。登山のマイオピアだ。
■ 下部組織にハイキングの会
山岳会に、60代以上の登山初心者が増えて、山岳会が山岳会ではなく、ハイキングの山しかできない状況に陥ってしまうのも、今に始まったことではないらしい。
岩崎さんの本では、山岳会に別組織としてハイキングの会が立ち上がった、という状況も書かれている。
登山、ではなく、中高年登山というジャンルの登山を志向する人が増えた結果、ハイキングの会が必要になったということなのだ。
前穂北尾根に行きたい人と、大菩薩嶺に行きたい人では、話が全然かみ合わないからだ。
それは当然の流れだと思う。一つの団体で済ませようとする方が無理があり、その無理がどう反映されるか?というと、山行が危険になる、ということだ。
つまり、大菩薩嶺でハイキングすることが登山だと思っている人を、前穂北尾根に行くような世界に連れて行ってはいけないのだ。
しかし、日本では悪平等主義がはびこっているので、一つの団体だと切り分けが難しくなるのだ。
やはりアルパインを志向する本来の山登り、オーソドックスを行く人たちと、中高年登山は、混ぜてはいけないのだ。
■ 正確にリスクを見極められなくなっている
一方、アルパインクライミングについても、山の人たちの間でも誤解は深い。
例えば、ロープワークについては、ロープと言うのは、初心者ほど必要なギアだ。ロープは文字通り命綱なのだから、落ちる可能性が大きい初心者ほど必要なのは道理だ。
しかし、山の世界ではなぜか、ロープがいる=本格的、イラナイ=初級という思い込みが根強く、初心者の人ほど、ベテランがロープ無しでは通らないような、危険な一か八かをロープもつけずに行っている。
それは、頑固な思い込みによるもののようだ。(そして人は誰でも年を取るほどに頑固になる)
そのような思い込みの一つに、クライミングは危険、というものがある。 おかしなことに、クライミングより、むしろ危険な沢登りで、そう発言する人がいたりもする。
沢は外的危険が大きい。外的危険は、人間がコントロールできない危険だから、外的危険が大きいことは、より危険だということだ。
アイスクライミングについても同様の誤解が根強い。現代はアイススクリューなどのプロテクションが発達したので、沢登と比べるとアイスの方が格段に安全だ。
何より大切なのは、プロテクション・・・中間支点やアンカーで、沢ではハッキリ言ってプロテクションは取れないと思った方が良い。
滝の中では、自分でプロテクションを設置することは、ほぼできないし、あってもハーケン(錆そう)や、木の根だったりだ。
フリーのクライマーから「滝って何でプロテクション取るの?」なんて不思議そうに聞かれる・・・そりゃそうだよな~と思う。あんなの、プロテクションのうちに入らないかもしれない。
■ 鳥瞰図を持つこと 全体像をつかむこと
先日のことだが、山で軍手をしていたら、おじいさんから「山で軍手をしてはいけないよ」と注意を受けた。
山では木綿ではなく化繊・・・というのは、言われることだが、焚火をするなら軍手がないと何もできない。化繊ではあっという間に火がついて燃えてしまう。
ウエアも同じで、火の粉が散るようなときは、木綿のシャツ一枚上に羽織って、化繊のウエアを火から守らなくてはいけない。
しかるに、「山で軍手をしてはいけない」というのは、そのおじいさんのやっているレベルの山では真実だが、道なき道を行き、焚火で暖を取り、調理をするような山では、全く反対のアドバイスが的を得ることになる。
山では、基本的に年功序列は成立しない。山をより深く理解している方が、アドバイスを与えることが良いのだが、これは基本的に日本人が感じる文化的快適ゾーンではない。
それは、クライミングにも、テント泊にも、読図にも言える。
全体像をよりよく知ろうと努力をすることで、本を読むだろうし、より経験の大きな者を探したりもするだろう・・・何より、よく意味を考えるようになるだろう。
日本では知識偏重と言われるが、それは、思考を伴わない単一の知識の受け売りが危ないという意味だ。
経験への強すぎる依存も見受けられる。
知識を軽んじ、経験を重んじるのは、たぶん、背後に思考の怠惰がある。どちらも思考という努力を放棄している点、単純さ、盲信を後押ししている点が知的怠惰なのだ。
そういう意味で知的怠惰を起こさないことが、山では安全につながる、と感じた。
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