Saturday, November 14, 2015

一番弱い人がそのパーティの実力です

■ 一番弱い人がそのパーティの実力

一般にリーダーとなる人の思考は、

(メンバーA) + (メンバーB) + (メンバーC) + (メンバーD) = (パーティの実力)

というものだと思う。

例えば、

・メンバーAは、若くて担げるし歩ける。 メンバーB,C,Dの分を少し担がせよう。
・メンバーBは、突破力があって登れる。核心部はメンバーBにリードさせよう。
・メンバーCは、地図読みができる。よし、先頭はメンバーCに歩かせよう。
・メンバーDは、歩けず担げず、読図もできないが、このメンバーが揃えば、なんとかなるだろう。

と、このように考える。各メンバーのスキルを持ち寄れば、全体として一つの完成した岳人ができる、という発想だ。

つまり、この例だと、メンバーA+B+Cで、一人前。 メンバーDはゴマメ。

パーティの実力は? 

 (一人前) - (メンバーDの実力不足分) = (パーティの実力)

だ。分かりづらいので、暫定的に、数値を与えておくと、100の実力が必要となる山に対して、

 (メンバーA+B+Cの実力の総和)=120 (メンバーDの実力) = 80
 
 120-(100-80) = 100

となるわけだ。 100だからギリギリ行けるだろう、という判断になる。 

■ 一番弱いメンバーがパーティの実力

山の掟は、色々あるが、

 一番弱い人がそのパーティの実力

というものがある。

これは山の必然で、弱い人にはどんなに強い人が無理を強いても、無理は無理。

その無理が限界を超えると、機能停止に陥るので(一度夫はGWの仙丈ヶ岳でそうなった)、結局は無理を強いないことがパーティ全体のメリットに利することになる。

となると、上記の思考は覆されることになる。

実は パーティ全体の実力は、単純にメンバーDの実力 = 80 のほうなのだ。

これは、歩く速度にすると分かりやすい。

メンバーA、B,Cがいくら早く歩いても、メンバーDが到着しなければ、パーティが到着したとはみなされない。

■ 地図読み特例

ところが、なぜか地図読みや、突破力には特例を設けてしまうのが、人の情、だ。

地図読みはメンバーのうち一人が確実なら、あとのメンバーは後ろをついて歩くだけで歩ける。

しかし、この戦略が、ピンチに弱いことは、各種の遭難事例で明らかだ。

その地図読みできるメンバーが行動不能に陥ったら?途端にパーティ全体が行動不能に陥る。

こちらの遭難事例の反省でも出ていたが、

 各人一人一人が登山に必要なすべてのスキルを身に着けようとしていることが大事

だ。

まったく地図読みができない人を地図読みの山にいざなうのは、その人を危険に陥れる行為であるので、自粛しないといけない。

逆に地図読みできないのに行く人は、自分がどのような立場であるのか(相当なチャレンジ、あるいはゴマメ、お試し体験)を自覚していないといけない。

■ クライミング特例

この特例は、突破力にも適用されるようだ。 だれか一人、突破力のある人がいれば、その人にリードしてもらえば、他のメンバーは確保付で通過すればよい、という考えだ。

これも、地図読みと同じで、それぞれのレベルで良いから、全くできないというのではなく、少しでもできるように努力をしている、という状態であることが山の基本だ。

最低限、自分で自分のケツが拭ける、くらいはマナーとして身に着けている状態でなくてはならない。(スイマセン、汚い言い方で、でも先輩がそう教えたんです・・・^^;)

自分のケツが拭けるとは、 自分のセルフビレイが取れて

 自分の安全は自分で確保できる

ことを意味し、懸垂下降が必要な山でいきなり懸垂の仕方を習うことではない。もしそうだったら、その人はまだその山へ行く最低限の要件を満たしていない。

■ 歩荷力特例

これは、歩荷力にも適用される特例のようだ。歩荷力が無くなったら、無くなったなりの小さい山に行くか、歩荷しないで良いように軽量化するか、食べるものをドライフーズに変えるかすればよい。

無理して大きい山に行きたいのは、なんでなんだろうか?

 行きたい山ではなくて、行ける山に行く

と言うのが山の掟の一つにあるんだが・・・

■ 運転特例・美人特例

他には運転特例、がある。運転をしないと言う特例だ。私は運転特例をありがたがるタイプではない。

あとは、美人特例。 男性クライマーが女性クライマーを好きになってくれると、色々なことが免除されるようだ。例えば、ロープワークゼロで何年もずっとセカンドでバリエーションに行きつづける、など・・・。

この特例は、普通の山でも同じで、そういう立場に長くいた女性は、自分が他のメンバーの危険を察知してやる立場にあるとは、想像もつかない。かしづかれるのに慣れてしまっているのだ。

例えば、男性でロープワークの経験が浅いメンバーのノットをチェックしてやる必要があるとは、気が付かない。

登山歴30年で自分で懸垂で降りてくるのに、あとのメンバーのノットを見てやる、ということは全くできないというか、しない。しないのは、自分はその役目があるとは考えていないことを意味する。

■ 楽しいことがなぜか苦い薬になっている?

山をしているのに、

・地図読みしないで済ませよう
・クライミングしないで済ませよう
・基本のノットを知らぬ、存ぜぬで済ませよう

というのは、そのようなスキルが不要の山にしか行かないということを意味する。

ということは、山岳会に入らなくてもいける山でいい、ということを意味する。

じゃ入らなくてもいいのでは?

にもかかわらず、山岳会に入る、ということは、その人の真の動機は、なんだろうか?

■ 楽しい

でも、私が思うには、

・地図読みは楽しい
・クライミングも楽しい
・ロープワークも楽しい

全部楽しいんだけど・・・。

なんでみんな楽しいことから逃げ回って、人にさせて山に登ろうとするのか?

そこのところが謎だ。

≪山の掟≫
・一番弱い人がそのパーティの実力
・コンパスの使い方や地形図の読み方など基礎的な技術を、各人が身に着け、個人レベルで安全な登山ができる事が大事
・自分の安全は自分で確保する
・行きたい山ではなく行ける山に行く

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