■ 毎日天気が悪い
週末の山の行先を思って、悶々としている。
今週は毎日天気が悪く、少し見えた晴れ間もあっという間に、雲が流れてきてしまう・・・。
これでは今年は、年末も悪そうだと思い、予定の山から、雪がありそうな山へ色々と予定を変更して、山小屋の検索が忙しい・・・
■ 罪悪感
山梨のお天気は、歩けないほど悪いわけではないのに、なんとなく、足が向かない。
先週末も、わらじ納めの山が流れてがっかりしたのだし・・・。下調べもしてあるのだから、その山に自分で行けばいいのだが、自分で行く山はトレーニングということになっているので、なんだか、後ろめたい。
これを裏返すと、どうも、知らない山に行くのはご褒美ということになっているらしい・・・。
その後ろめたさ・・・は、罪悪感、とも言える。
この感覚がどう作用しているか?というと、どうも、なにかに、かこつけたがっているらしい。例えば、”誰かを連れて行く”など。大義名分。そんなことをする必要はないのに・・・。
行きたければ行き、行きたくなければ行かない。それだけのシンプルな活動だ。
いつのころからだろう?長女の宿命なのか、私は自分自身が純粋に楽しめることを自分の為だけにする、ということができない体質になってしまったのだ。
姉、班長、委員長、キャプテン・・・いつも誰かの世話をする役目を与えられてきた。役目を離れ、一個人として、単純に楽しむということは、特別なご褒美で、それは自分を甘やかすことだ、ということになってしまった。
でも、そもそも、登山は趣味なのだから、誰かを連れて行ったからと言って、例え、自分の練習にはならないロープワークを教える会のようなものでも・・・そもそも、”余暇活動”であることには変わりない。
楽しみのためにやる、という話は、連れて行く側でも、連れて行ってもらう側でも、代わりはないのだ。当然のことだけど。
ところがやっぱり、自分で自分のために時間を使うということには、”罪悪感”があるし、人を連れて行くときは、”自らの社会的義務を果たした感”があるのだ(笑)。人間というのは、おかしなものだ。
逆に、トレーニング名目で山に行くと、それは、なんとなく、自分に良いことをしたような、スッキリした気分になる(笑)。気分上々。変なの。
まぁでも、変だからと言って、その変なのが私だということらしい。だとしたら、仕方がない。
・・・ということで、自分の取説。
・どうもトレーニングをしたがっているらしい
・一人で山に行くのは、なんとなく後ろめたいらしい
そういう訳だから、今はトレーニング用のアクセス至便の山を探している(笑)。何しろ、冬タイヤではなくても行け、冬季封鎖にならない山が良い。
■ ルートコレクターになってはいけない?
一人で歩くとき、初めての山に次々と行きたくないのは、別の理由もある。
・ルートコレクターになりたくない
・おなじ初めてなら、”初めて”に触れる喜びを誰かと分かち合いたい
・知らない場所が単純に怖い
・めんどくさい
「ルートコレクターになってはいけない」は、師匠からハンドダウンされた思想だが、今は山へ向かう足を押しとどめる要因になってしまっているかもしれない。ただのルートコレクターに陥るのは嫌だなぁと思っている。
山をスタンプラリーにしては、消費欲望で山を汚してしまう、と思えるのだ。なんというのだろうか、買い物かごに入れるような山をしたくないな~という思いがある。つまり、消化していないのに、次から次へ、という山だ。
しかし、山に行った結果として、ルートコレクションになってしまうことには寛容であるべきだろう。
なぜなら、単独だと非一般ルートを歩くということは安全管理上難しいので、一般ルートをただ数こなすことになり、必然的にルートコレクションになってしまう。
■ 未知を分かち合う
二つ目の理由は、夫と初めての山を分かち合いたいという思いがあること。
夫と、というのは、特に夫と、という意味で、他の人でも良いのだが・・・。でも、筆頭は夫。山の良さの一つは、未知を共有できることにあるから。
山は片方が行ったことがあると、どうしても、なんとなく、ときめきが薄れる。互いに初めての山だと、ときめきが倍増。知らないところに行くというだけで、ときめく。わくわくする。
うん、私は、”未知”が好きなのだ。知らないところへ行きたい。
■ 怖さとめんどくささ
ときめきに対するトレードオフは、知らないところへ行く”怖さ”。知らないところへ行くのは、たぶん誰にとっても怖い。
私も行ったことがない山は怖いのかなぁ・・・。一人で厳冬期にテント泊するのは怖かった。4人で厳冬期に誰もいない山中に泊まっても怖くない。一人でも4泊5日の夏山縦走は怖くなかった。一人で、厳冬期の稜線をテント泊で進行するのは怖い。夫についてきてほしいなと思う。夫でなくてもいいのだけれど、私がお世話をしてあげなくてもいい誰か。
でも、これは厳冬期のテント泊に限った話で、日帰りの山が怖いという気持ちはないような気がする。
山と言うものは、あるとき、行きたいという気持ちが高まって、それが心の中で、怖いという一線を越えてしまう気がする。それが山切れになったときかなぁ・・・と思うのだが。
私の初めての山切れは、単独の北岳で、12月に行った大菩薩嶺で、テント泊の八つだった。
どこかにたしかに怖いという気持ちはある、と思う。
だから、ケツを歩いてくれる先輩には感謝しているのだ。一番いい先輩はケツを歩いてくれる先輩だ(笑)。男性だって、愛犬と歩いていたりするんだし。先輩にとっては目新しさもない場所を一緒に歩いてくれる人は本当にいい人だ。
それより大きな精神的障壁となっているのは、めんどくささ、だ。
一人で行く=トレーニングということを考えると、初めての場所は、トレーニングにしては、ちょっとめんどくさいということがある。
(面倒だ)というマイナスと、(初めて行くというときめき)というプラスが、単独だとトータルでプラスにならない。正当化できない、と感じてしまうのだ。マイナスが大きく、プラスが少なく感じるということ。
というわけで、色々な想いが錯綜して、シンプルでないことになってしまっている。
その上、シンプルでないことが私は好きではない。
■ 自分を許す
というわけで、こんな感じに”歯止め”を掛かっていて、なんとなく、すっきりしない。
行きたい山が無いということ以外にも、天気が良くないということもあるが、それは小さな障害だ。
この歯止めを取り去ったら、どうなってしまうのだろう?
おそらく、歯止めというものは、自分を”罰している”ことになるのかもしれない。
つまり、私は、自分を許していない。
それじゃ、どうしたら、自分で自分を許せるのだろうか?
■ お正月
それにしても、お天気が悪く、アイスも雪もパッとしない・・・。
アイスは今年は特に悪そうだ・・・例年今ぐらいからシーズンなのだが・・・。
今年のお正月のプランも・・・”うーん・・・”だ。
晴れたら山、そうでなければ山の予定を立てる、そんな生活を是としている。
週末の山はどうしようか? お正月は、さて、どうしようか?
山を愉しむということは、実はアイディア勝負なのだ。ただガイドブックをなぞるだけのことにはすぐに飽きてしまう。
飽きたとき、その飽き対策として、誰かと行くいう方向に行く人もいるし、自分を向上させるという方向に行く人もいる。花という方向もあるし、クライミングという方向もある。
なんだか、クリエイティビティの挑戦状をもらっているような気がする。
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