今朝は、ちょっと沢の調べもので忙しかった。行く場所が決まり、リーダーから連絡が来る。
そこに行けるかどうか?
その判断から、自分持ちだ。自分だけでなく、連れて行く人がいれば、その人の分もある。今回は夫も連れて行きたいと思っていたので、夫が歩けるかどうか?を見極めなくてはならなかった。
■ 調べないでいいことが分かるということ
実は、昨日の倉岳山は調べて行かなかった。
”オフ会”と聞いただけで、山としては、ものすごく簡単な所に設定されていることが、分かるからだ。
山域を把握し、地図を印刷して山としてはお終い。あとは、駅集合なので電車の時刻は調べた。
が、それ以上は調べない。
その山に困難な部分がなく、体力的にゆとりを持って歩けると分かっている以上、それ以上調べたからって、何も変わらない。
新しい山を発見する楽しみが調べて分減るだけだ。
一般道の山なら、登山口くらいは知っておかないといけないけれど、地図があれば、それだって、当日アタフタすれば済んでしまう。
できるだけ、たくさんの、新鮮な驚きを得たい。だから、できれば、何も事前情報が与えられない状態で行きたい。
もちろん、それができる環境下である、という前提で、だ。
それが分かっていたのは、オフ会に選ばれるような山である、ということと、オフ会に参加するだろうメンバーの脚力の様子、それに前に行ったことがある近郊の山(高川山)で山域の雰囲気くらいは分かっていること、があった。
■ 経験値の差
一方、夫の方は、「ええ~?そこ標高何メートル?往復何時間?!」と慌てふためいて調べていた。
いつも、私の山には彼は調べないでただついてくるだけ。
だから、いきなり知らない人と行くことになると、大慌てなのだ。
考えてみると、彼と私の山の経験値は大きく違う。特に、ここ3年ほど、私がアルパインに進んでからは、夫はまったくその領域には足を踏み入れておらず、まったく無知に等しい。
ときどき、山に連れて行く程度だったからだ。その場合も、私が既に行って良かった山に案内する、という形で、まったく未知のところに一緒に発見に行く、という体験は積み上げていない。
また、体力面でも、私が年間50~60山行をこなしているのに対し、夫は年間10山行、行けばよいほうだ。
だから、同じ時点で山をスタートしていても、まったく登山の理解度が違う。
でも、夫からは、私の方が経験が多く、判断の材料が多いことは分からない。
■ Grow Apart
英語で、Grow Apart という言葉があるが、それぞれ成長して違う道に進んでしまった、という意味だが、そんな感じだ。
私は一般登山から、アルパイン、アイス、沢、フリーと順調に(?)、困難度を上げてきているが、夫は違う・・・
しかし、それは、夫婦のきずなを深めていくこととしては、色々とまずいかもしれない。
夫と私には子供がいない、つまり、共同の成果物がない。家を建てる、子供を育てる、そうした共同作業がない夫婦には、かすがいがなく、かすがいとなりうるのは、互いへの愛情だけだ。
愛情はあっても、共通の基盤がなければ、人は孤独を感じることができる。夫は、孤独への感性が鈍く、ほっておくと、友達は一人もいなくなってしまう。孤独を感じていないのではない、孤独を感じる感性が鈍くなってしまっているのだ。だから、やはり唯一の親友として、夫婦のきずなは大事にしておかなくてはならない。
倉岳山の2万5千の地図を出していたのに、それを見ても、往復何時間くらいか、計算できない・しない彼をみて、「やっぱり一般登山からしないとダメかなぁ」と思った。
地図にルートがあれば、大雑把なコースタイムの計算はできる。 距離と標高差を見れば、大体分かる。
慣れてくれば、A4で1P印刷で収まる山=半日コースだな、と分かる。
標高がいくらかなんて、地図を見れば分かる。地図を渡されて、それを聞くのは恥ずかしいことだ。
しかも、夫は、わたしに向かって、「そんなことも調べないで行くの?」という顔さえしたのだ・・・はぁ~(ため息)。
彼に、先日、4月に一緒に行った兜山に一人で出かけてもらっていたら、どうやって登山口まで行ったのか、覚えていなかった。
登山口まで内から30分しかかからないことも知らなかったのだ。
私にいつも連れて行ってもらっているから。
■ 何が分かっていないのか分かっていないのが初心者
何が分かっていないのか、分かっていないのが初心者と言われる。
分かっていないことが分かっていない = とってもえらそー
とも言える。
というわけでエラソーな夫なのであった。