Monday, April 22, 2013

自立した登山者であることは特権かもしれない


■ 自立した登山者

今日は久しぶりに寒い日でした。山に行きたくなった…けれど、山の準備をしていたら、古い友人から電話がかかってきてしまったのでした。

彼は昔すごろく小屋で働いていたことがあるため、北ア事情に詳しいわけなのですが、非常に否定的な目を都会からの登山者に向けています。

私に言わせれば、登山者に都会からの登山者かそうでないか、という区別はあまり関係がないのではないかと思うのです。

意味がある区別があるとすれば、自立した登山者とそうでない登山者です。

そして、最近思うのですが… 自立した登山者である、ということは、一つの特権であるのかもしれません。

というのは、自立した登山者であろうとしても…たとえば73才ならどうでしょう… いくら優しい山でもリスクをゼロにはできません。うっかり足を岩角にひっかけないとも限りません。

年齢というのは抗することができないもの…だからその人を責めるわけにはいかない。

ただ余談ですが、そうした年齢によるリスクをテイクしてまで山に行くことは、ある種の煩悩のような気がしないでもないです。山を良く知るとリスクテイクできないことが明白になるから…たとえば、昔バットレスに登るようなハードな山をしていたような人は高齢になると山には寄りつかなくなります。それは、山のリスクについて良く知っているからですね。

だから、山を若いころやっておらず、80才を過ぎて山登りを始めた人のような人のほうが、むしろ、どんどん山に行ってしまう傾向があるようです。

けれど、年齢を重ねていることを責めることは誰にもできません。誰だって年を取る。

あるいは、地図を読もう、という意思があったとしても、それに伴う勉強をする時間と能力という、両方の資産が揃わないことには、地図は読めるようにならない。

意思があってもどうしようもないケースもあります。意思だけで開ける道ではないのが、登山という道みたいです。

ということを色々考え合わせると… 自主山行で山に行ける、ということそのものが、非常に恵まれた状況にあるということなんだろうな、と思い至ったわけです。

自主山行が可能な人は、どんどん勝手に地図を読み、ガイドブックを調べ、好きな山に通うべし。

ついでに言うなら、私の場合、優れた指導者、というものにも、思いのほか恵まれてしまっているようです。

■ フィジカル要素は一面に過ぎない

アルパインクライミングから、フィジカル要素だけを抜き出したものが、スポーツクライミングです。

結局、アルパインクライミングとスポーツクライミングの差は、そこに冒険の要素があるかないかだ、ということになります。

スポーツクライミングは冒険的要素はほとんどなく、いうなれば、誰かの後ろをついて歩くだけの登山と同じです。赤い布を追いかけていくだけの登山と同じなわけですね。

おそらく、ツアーやガイド登山というものは、登山という総合芸術…一つの山行を成り立たせるために天気を読み、季節を読み、地図を読み、リスクを管理し、体調を管理し、行程を管理し…から、フィジカル要素だけを抜き出したもの。

つまり歩くだけ。 

もちろん、歩けなければ話にならないのが登山ですが、歩けるだけでも話にならないのが登山。

スポーツクライミングで登れたグレードがその人の実力ではないように、人の後ろをついて歩くだけの登山で登った山が、その人の実力ではない。

■それでも行かないより行った方がよい

ただ…フィジカル要素だけを抜き出したものであっても、山に行かないよりは、行ったほうが良いのではないかと…

私が思うには、73才にとってはどんな低い山でも、山に行くのは、相当な冒険ではないのかと。

登山の良さは、どんなレベルの登山者であっても、何らかの冒険があり、なんらかの成長がある、という点なのではないかと思うんですよね。

■ 考えるスキルを使って、判断の成否を問うゲームが登山

私が登山が好きなのは、自然が好きということもありますが、色々な要素が絡み合って、”考えるというスキル”がフルに生かせるからですね。考えるのが大好きなのです。

その前の趣味のバレエも、考えるというスキルが重要視されるものでした。バレエはダンスなので、フィジカルなものですが、たとえばずっと同じステップを繰り返すために考えなくても踊れるようなサルサとは違い、バレエは制約が多く、使う筋肉まで指定されているので、考えない人は上達しません。まぁ一定レベルを超えると、感性のほうがより重要になり、考えすぎるのも上達を妨げますけれど…(笑)

その「考える」というスキルは、何に用いられるか?というと登山の場合、リスク回避です。

判断、ということですね。 判断をするゲームなのです。判断の成否を問う、それが面白いわけです。

なので、その判断を人に預けてしまう、ということは、一番面白いところを預けてしまうことになり、全然楽しくない…ので、ツアーなどに参加しても、むしろめんどくさいだけです。

むろん、判断には、直観とか、そういうものも含まれているわけです。私が最も判断に直観を使うのは、行きたい!という衝動のようなものです。そういうのが湧かない山には行かない。行きたい!という衝動が山に行く動機です。どうしてそんなに行きたくなったのかは行ってからわかる感じ。

■ 無難すぎる現代社会へのアンチドート

そして、私が思うに、登山の最大の魅力は、冒険的要素にあるのではないかと。

正確に言えば、冒険的要素をいかに自分のスキルアップで排除していくか?というところにあるのではないかと。かつては冒険だったことが、スキルアップすれば、もはや冒険ではなくなる。

私が19の時にパリに一人で出かけたとき、それは冒険でしたが、今一人でパリやアメリカに行っても東京に出かけるほどのことでしかありません。それは、中学2年生の時博多に行くのが冒険であっても、大人になればそれは冒険ではなくなるのと似ています。

現代社会は、平たく言えば、ぬるま湯です。無難、ということで言えば、人類史上これほどに困難がない時代もないでしょう…その弊害は逆にいうと、言い尽くされていることですが、生きている実感が得づらいのです。まぁ簡単に言うと、厳しい状況や困難な状況、打開すべき状況、そういうものが必要なのですよね。しかれたレールの上を歩きすぎている。それは退屈につながります。

それはちょっとでも冒険をしてみると、誰だって、生き生きとしてくることからわかります。ホントはみんな冒険大好きなのです。

登山では大の大人が子供に返ります。それは登山が小さな冒険だから。冒険を犯さないことを旨とする日常の反対側に位置するから。

そういう意味では、リスクを取るという冒険が欠如した現代社会に丸め込まれた人間たちにとって、唯一、本来の人間らしい姿を取り戻すよすがが登山なのかもしれません。

だから、冒険を犯すことをよしとしない日本人ほど、登山という冒険にバンバン出ていくべきだと思うんですよね。

そうした活動からその人の生き方そのものが変わらないとも限らないわけなのですから。

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