Friday, April 12, 2013

山を学ぶということ


昨日は友達とクライミングジムに行って、ボルダリングを久しぶりにしました。

私の中では、「これって登山とどう関係があるのかしら?」以上終わり・・・、であったボルダリング・・・。

ボルダリングにはボルダリングの世界があるようで、6時半にはほとんど誰もいなかったのに、店を出た9時ごろにはどんどん人が集まっていました。なんとなく、知っている人がいないと居づらいだろうな~って感じ。世界が出来上がっていそうでした。

そして初心者もそうでない人も課題が置いてあるのは同じ壁なので…なんかピンクテープばかりで、ごめんなさいって感じ(笑)?

■ プロセス重視

私が思うには、ボルダリングも、「何を」ではなく「いかに」を競うゲームです。
という意味は、○○が登れた、登った、のが重要なのではなくて、「キレイに」「無駄な力なく」登れたかどうかが重要ってことです。

登山も同じ。○○のピークを踏んだというのは評価されない。○○尾根を歩いたが評価されるわけです。
「What」ではなく「How」の世界です。

そういえば、ヨガもバレエもそうですね・・・ヨガは普通のことを丁寧にやることに意味がある世界です。
バレエは難しいことをさもラクラクそうにやることに意味がある世界。

どのアクティビティも、「結果」ではなく「プロセス」を重視することが共通項。

■ 雪と岩はどう連絡しているのでしょうか?

クライミングの世界は、一般登山者には、敷居が高い。だってね、一般道に出てきます?壁。出てこないですよ。

だから、山のベテランが「最近の登山者は岩登りの基礎も知らない」と嘆いたところで…基礎を授けてくれる場所がないですからね。そりゃ一般登山者に無理な相談ってもんです…

ので、奥穂とかで岩をけり落として後ろの人に当ててしまう人も出てくるわけですが…それに渋滞も…
私は、そんな話を聞いてて、夏の奥穂、北穂、前穂には行かなくていいや~と思いました(笑) いや、前穂は夫が行きたがったから行ったんですが。北穂なんかすごい渋滞で最悪そうでした。

渋滞している山はもう山ではなくなっていそう… 

去年は、前穂に行って、「吊り尾根に行けばよかったのに~」と言われたのですが、なぜ?
そういう欲が私にはイマヒトツ欠けているようで、その時の目標到達点は前穂だったから、その時は満足だったのです。 夫も特に岩場に目覚めた!と言うことはなかったみたい。 

でも、雪の稜線を山頂から眺めていると、「次はあそこを歩きたいな~」とか思ってしまいます。冬の八ヶ岳天狗岳では、縦走する人たちを見て「来年はあそこへ」と思ってちゃんと達成しました。

だから、たぶん私は雪が好きなんであって、岩が好きなんじゃないんだと思うんですよね。見ても歩きたくならないわけですから。でも歩きたくなる人はきっと私が雪の稜線にうっとりするような感じに思うのだろうと。

私はそういうわけで、岩登りにはイマヒトツ魅力に開眼していませんが…なぜかジム通い開始です(笑)

まぁ腕力がつけばヨガで生きるからいいかな。

■ アイスクライミング

同じ登る系でもアイスクライミングはちょっと面白かった。うーん?なんで? 握力がないので、ほとんど登れなかったのですが、帰りは運転が怪しいくらいアックスを握っていましたが…

BGMが好きなんですかね? カッ、カッカッ。 カッ、カッカッ。そんな感じ。

まぁ登れなくても、アイスキャンデーの場合、上からロープでツラれているので(^^;)、落っこちないという安心感? 

それにそんなに複雑なムーブも要求されない。ま、体験クライミングレベルで知っていることなので、本当は色々な要求があるのかもしれませんが。

ボルダリングとはだいぶ登り方が違うようです。

アイスクライミング: 内股、壁と空間を開ける、背中は反る
岩壁         : 外股、壁と空間を開けない、背中は通常は丸まっている

共通なのは 腕を伸ばす、と言うことくらいですね。 

正直、岩登りのムーブが一体どうアイスクライミングに生きるのか、イマイチ、不明。
それに、冬の山には行きたいけど、滝を登りたいか?はイマイチ不明。

■ 体験の濃度

大体、山を教えてもらわなきゃ~と思った経緯というのは、

 ・教わるに適したところと、
 ・連れて行ってもらう

に適したところがそれぞれある、と思ったからです。

今山を学ぶには、3つの選択肢があります。

  ①山岳会に所属する
  ②講習会に出る
  ③優れたガイドにつく

①はほぼ機能していませんし、③はお金がかかりすぎます。ガイド山行は私には1年に一回のご褒美山行ですね。それにガイドはガイドであって講師ではないという問題があります。もちろん、ガイドさんが主催する講習会もときどき開催されています。そういうのは良いかもしれません。

ただガイド山行にはツアー山行と同じ問題がありますね。ガイドさんに山に連れて行ってもらうと、自分の実力以上の山に行けることです。

ツルネ東稜もそうだし、黒平もそうですね。

今、自分で行くなら、旭岳稜線は外すし、黒平もロープがいる箇所があったので、補助ロープを持っていくかな。ただ支点の選び方が分からないかもしれません。 その山行では、歩けた、という経験にはなっても、対応力はついていないのです。そこを誤解するリスクがある。

つまり、その山行は、次には自分で行ける、と言うことは前提には組まれていないし、組まれるべきでもない。
登山目的が、「講習」ではなく、「交流」だったり、「体験」だったりするわけですね。

ので、将来こんな山をやれるようになりたいな、という夢を温める場です。

けど、その山を歩けたからといって、すべての危険要素を自力解決できる力はついていないワケなので、結局はそれは実力以上の山なのです。

というわけで、そういう山に自分で行けるようになる力は、やはり「講習」を目的にしたところで学ぶべきでしょう。講習を目的にした場では山には行かないかもしれませんが、特定の技術についてはしっかり身に付きます。

昔は山岳会で、普通に自費で何度も山岳会の山行に参加していれば、経験が積み重なって、時々は支点作りも任されるようになったりして、徐々に”技術”が身についていったのだと思います。

今、そうした仕組みは壊れているので、楽しむことを主たる目的としているガイド山行で、ひとつひとつの濃度の薄い体験を積み重ねることで山の技術を身に着けようと思ったら、時間もかかるし、ひと財産かかってしまいます。

■ 濃度が薄い経験は危険だ

濃度が薄い体験というのは、たとえば、ガイドさんからクローブヒッチとムンターを教わってその場で使えたとしても、実際に支点にクローブヒッチで自己確保しろと言われても、デキナイと言うようなことです。

あるいは同じケースに陥った時に、その技術が応用できるか?というとできない。

でも、一度でも山で使った経験があると身についていない技術が身についている気分になってしまいます。
それは、自分では踏めないピークを踏んで、自分で登った山だと勘違いしてしまうのと似ているかもしれない。

下駄を履かせてもらって登った山や先輩が提供してくれる安心の傘の下で積み重ねた技術?には、そのような、勘違いリスクがあります。

自主山行では、自分の実力が10だとすると8の山にしか行けない。10の山に行けるのは、自分の実力が12にプッシュされてからです。

12にプッシュするのは、講習と自分であるくトレーニングの山しかないな、と思うのです。

■ 山の神様はどこへ連れて行ってくれるんでしょ?

というわけで、講習会の門をたたいたら、開いたので・・・そのための準備をしないといけないわけですが・・・なんだか、岩と雪はどうつながるのか分かんないので・・・とりあえず雪山への憧れを温めにまた山に行きたいな~。

まだ雪があるところといえば、上越の方とかなので、ちょっと北上しないといけないですね…


No comments:

Post a Comment