Tuesday, August 5, 2014

瑞牆で滑落

■ 滑落

昨日、生まれて初めて滑落した。

…いや、転落というほうがより近い。というのも、おそらく2回転ほどしたからだ。

場所は瑞牆山、カサメリ沢、モツランドのすぐ下だ。トラバースで、切れている斜面の方に落ちた。

クライミング終了し、普通に歩き出し、あ、と思った時には、ギアやロープが詰まったザックは重く、体がザックに持って行かれ、回転運動を始めていた。後ろに引かれるように落ちて、横向きに転がり、倒木に馬乗りになって止まった。7~8mほど落ちているから、2回転くらいはしたと思う。

「すぐ動かないほうがいい」。

同行者が声を掛けてくれたので、しばらく倒木の上に馬乗りのまま。怪我はなかった。単純にびっくりしていた。

トラバースは怖い。落ちたらことだよな…と思うので、いつも用心して通っている。

岩場付近の登山道は、登山道とは言えない。整備されていない踏み跡だ。しかし、そこは難所とは言えない場所で、よくある平坦なトラバースだった。開けた場所で何もつかむものがなかった。

後ろを歩いていた先輩によると、つまづいた、ということらしいが、私はつまづいたとは思わなかった。

ただ、ほんの少しバランスを崩した拍子に、思いのほか、ザックに体がもっていかれ、普通なら、腹筋で押し戻せるところを、押し戻せず、ザックの重さに体が負けてしまったように感じた。ザックがなければ転んでいないと思う。

怪我は、鎖骨に切り傷を作っているくらいでほとんどなかったが、こめかみを強く打っていて、頭が痛い。ずきずきする感じだ。石に打ちつけていれば、ひどいことになっていただろう。河原へ落ちず、土砂の斜面で止まってよかった。倒木がなければ、引っかからず、沢まで落ちていたら、打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれない。

人はこうして滑落するんだ…と分かったような気がする。気の緩み、疲れ、足がもつれた、そういうのではない。

そういうのは、後から、なんとでも納得するために言えることだ。

そうではなくて、誰にでも転倒は起りうる、ということなのだ。

場所を選んだりできない。場所が悪ければ、死ぬということなのだ。

予防や対策できない。

こう言ってしまうと、人間の理性の敗北宣言をしているようだが。

今年冬山で、鹿島槍北壁を登攀後に天狗尾根で若い登山家が滑落死した。鹿島北壁をやるような人にとって、天狗尾根はハイキング道のはずだ。そんな、何でもないところで、なぜ彼は落ちたのか?分かるような気がした。

映画『黒部の太陽』の映像では、長々と続く歩荷隊列の中で、人夫が、ときおり、すっこーんと隊列から外れ、谷底に消えていく。

それと同じことが私に起きた感じだ。

■ 落ちたあと

落ちた後、私は正直言って、そっとしておいてほしかった。

ホンネは、”よしよし”さえ、してほしいくらいだったが(笑)、年下の男性の先輩に、それは要求できない。

精神的に動揺しているわけでは、なかったようだが、夫と一緒だったら、しばらく抱っこしていてもらいたかった。

怪我をしているわけではないし、歩けて話せるが、話すのはおっくうだった。

子供なら、えーん!と泣き出してしまうようなシーン…。大人になっても、めったに遭遇することがないので、別に心理的に動揺していても、おかしくなかった。知り合いの女の人で、ちょっと、なげしに頭をぶつけただけでも、大騒ぎして、慰めてもらっていた人がいた。私のは、それと比べると、うんと大騒ぎして良いアクシデントだったが、幸い、なんともなかった。 ただ、打ったところが、今でもまだずきずきしている。

同行者は気を使って、帰りの車でずっと話しかけてくれたので、困ってしまった。あまりしゃべりたくなかったのだ。

行きの車では、私の方が多弁だっただろう…のは、気を使ってのことだ。

口数が減ったのは、アクシデントがあったので、”気”を自分のコンディションの観察の方に向けたかったのだ。

どこが痛いのか、折れてはいないか、アチコチ観察眼を向ける必要があった。鎖骨は力を入れてみたら、ミシッとは言ったけど、大丈夫そうだった。昔から骨は丈夫だ。

車について、少し土で汚れたシャツを脱ぎ、もってきたきれいなTシャツに着替えた。乗って、お腹が空いていたので、シリアルバーをかじろうとしたら、顎に力が入らなかった。びっくりした。固いものをかじるのができなくなっていた。今も大きく口を開けるとこめかみが痛い。

竜王で、先輩と別れ、運転して、家に戻り、ベッドに横になった時は、ほっとした。別にどこも悪くないのだが、それでも休みたかったのだ。シャバーサナ。

氷枕を作り、こめかみに当てる。とりあえず、打ち身は冷やさなくてはならない。しばらく寝よう、と思ったが、眠れはしなかった。ここのところ、暑さで体内時計が狂い、全般的にあまり良く寝れない。寝つきが悪い。

考えが事故から離れないので、遠藤由香さんの古いクライミングの本を読んでいたら、気分が落ち着いてきた。

夫が帰ってきたときは、夫は私を見るなり、異変を感じ、「どうしたの~!?」と言ってくれたので、思いっきり甘えることにした。落ちた後は、たとえ何ともなくても、甘えたいものなんだな。

ここのところ、クライミングでも時々墜落している。 でも、ロープがあると、動揺は少ない。

今回は、ロープの無い、完全に自由落下の転落だった。重力には抵抗できない。無抵抗状態だった。

そんな転び方をするのは、たぶん、幼児の時以来だ。

■ 罰とみなす

人は自分に起こった出来事の意味を考える動物だ。

山が晴れていれば、山がおいでと言っているように感じ、転べば、山に追い返されたように感じる。

どれも実は、自分自身の主観のリフレクションに過ぎない。

が、私自身も人間であるからには、この意味づけと言う行為からは逃れられない。

罰? 警告?? 山から否定されている???

それとも、最近、山に行きすぎ(楽しみ)、私がなんらかの義務を怠っているのだろうか?

それとも、岩登りでは、ここぞという核心部で、力が出せないのは、自分に甘いからなのだろうか?

それとも、最近山登りが高度化し、それについて、何か傲慢なところがなかったか?

それとも、私は不寛容なところがなかったか?(自分に厳しい人は人にも厳しいものだ)

やはり、バリエーションのような”本格的な山”をやるには、私はまだ体力も技術も足りないのではないか?

ここしばらく瞑想の習慣が薄れている…だからだろうか?

やらなければ、と感じている強化訓練を、この暑さでしていない、だからだろうか?

私は何か自分の中の感情を否定したり、抑圧したりしているのだろうか?

それとも、それとも… ありとあらゆることを考えてみる…

■ 霊
 
古来の日本人は死んだ魂は山に帰っていくと信じていた。

低い山にはまだ生きていた頃の未練や雑念をもった霊が住み、高山に行けばいくほど、霊は浄化されてピュアなものになていくそうだ。

私自身は、霊というか気、ヨガでいうプラーナの存在は否定できないなと感じている。それが山に住むかどうかは別として。

死体と死んでいない体を分けるのは、プラーナの存在だし、気が弱った人と、気が充実している人とでは、見れば誰にでもわかる。 ”気”の存在は当たり前すぎて否定できない。

そうした霊が、ちょっと”気”が弱った者を目ざとく自分たちの世界に引き込もうとしているのだろうか?

この辺の岩で死んだクライマーの霊たちが、登る資格のない者を追い払おうとしているのだろうか?

■ 気、丹田

”気”が弱体化したとき、人の丹田からは力が抜けている。これはホントだ。

現代人は頭の方で色々考え、パッと見を取り繕ったりするので、弱った元気が見つけづらいが、お腹をちょっと触れば、本当の元気が分かる。

私のお腹は、というと、今日はふかふかで柔らかだった。”気”が弱くなっているのだ。それは知っていた。丹田に力が入らないと感じていた。

おと年に右足の内転筋の肉離れをやった時、わざわざ池袋のゴッドハンドに直してもらいに出かけたら、それを指摘された。お腹から力が抜けると、”気”が流れ出てしまうのだ。それでお腹の触診の方法を知るようになった。

丹田は、ヨガでは2番目のチャクラだ。最近チャクラの方面のことは、お留守にしていたのだが、私は、何か第二のチャクラを傷つけるようなことをしただろうか…?第二のチャクラは、オレンジのチャクラで生命力の源泉となるものだ。マグマのイメージだ。

不思議なことだが、経験則によると、ほとんどの人にとって、自分が生まれた誕生月は、体調が悪くなる。私は夏の暑さに弱く、誕生月の9月は、たいていが気分も体調も、一年で一番悪い。

そうしたことは、分かっているので、それなりに気を付けているはずだが、それでも夏は、どんどん私の体力を下降ラインに持って行く… 

でも、そうした体調の変化は、微細なものなので、他の人には見た目には分からない。私が調子が悪いと言っても、たぶん誰も信じない。

・鳳凰三山では中道の単調な登りが堪えた。
・師匠と行った沢では、大した重さでもないのに、体が振られてスピードが出せなかった。
・北岳では暑い中、18kgくらいの歩荷が仙骨に来た
・スカルパモジトでは、大樺沢の雪渓は歩けない
・岩4連チャンなどがあっても機会を逃したくないと出かけていることがあった

この日は、体力を使うコースのあとで疲れているかも?とは思ったが、先輩も集合時間を遅くしてくれたし、クライミングはあまり体力を消耗しないので、出かけることとした。 朝は食欲がなく、食べる気が起きなかった。が、岩はあまり体力を使わないので、軽い食事で良しとした。

そうした小さな兆候…体からの警告ともいえる…を軽視した結果なのだろうか?

■ 靴

私は今年がアルパイン一年生で、岩も始め、登山道でない道を歩くようになった。

ロープを出さないような山は、山ヤさんにとってすべてハイキングである、ということが、すごくよく理解できるようになった。 

一般道を歩く人たちには、さんざん高額な登山靴を薦めるのに、地面としては、より不安定な、非登山道を歩く本格山ヤさんたちは、運動靴みたいなアプローチシューズで、どれも歩きとおしてしまう。

私はそういう世界にはまだ慣れておらず、それを知ってビックリした。ザックが重ければ、靴も重いというのが、私が知っている世界だったからだ。

しかし、ギアやロープを背負った状態でも、アプローチシューズで、どこでも歩けないと、北岳バットレスには行けないと言うのなら、歩けないと行けない。

そのために必要な筋力が、これまでしっかりした登山靴で、整備された登山道をただ歩いて来ただけの私には、まだ身についていないのかもしれない。

これは沢でも感じるところで、沢のゴーロ歩きは、一般登山道とは全く違う。雪稜を歩けると言っても、雪稜では歩幅は自分で決められる。飛び石を伝うような沢の歩きでは、歩幅は自分の幅にはできないので、安定して歩きやすい岩を見出したり、あるいは、多少無理のある歩幅でも、安定したほうを選んだりしなくてはならない。

夏山の一般登山道を多少の歩荷重量で歩けると言っても、しょせん整備された登山道だ。ありとあらゆる体格の人に、ちょうど良い足場が、大抵すでに踏み固められ、用意されていて、体を不安定にさせるような要素は格段に少ない。

この間、千頭星山から御所山を歩いたが、私は歩けるが、登山初心者が歩くべき登山道とは、とても思えなかった。

一応一般道だがマイナールートだ。土砂の急な下りは、土砂が緩んでいて、踏んだらスタンスになっている石が動いた。高い笹に覆われた小道は、スタンスが見極めづらく、ここと思って置いたら、距離が近すぎたり、遠すぎたりした。踏めば崩れることが前提のザレもあった。つまり、”大地は動かない”という一般的な信頼を裏切るものだった。

私が入ろうしている世界は、基本的にはそのような、これまでの一般ルート登山の、基本的な前提を裏切る世界で、その世界に入る準備が、まだできていないのに、先を急ぎすぎているのかもしれない。

■ 癒し

というわけで、今日は、体と自分を出来るだけ甘やかさなくてはならない。

体に良い食事とお風呂、のんびりした時間だ。といっても、いつもやっているような気がしないでもないが・・・。

この日は、楽しい岩の日だったが、最後の滑落で、すっかり興ざめしてしまった。

カサメリ岩、モツランドのレーザーズエッジ、その近所の課題をそれぞれ登った。なかなか楽しいクライミングデーだったのに、最後の滑落で台無しになってしまったのが、残念だ。

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PS. レントゲンを取りましたが、何ともありませんでした。良かった~



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