こんな古いハーケンにも幾多の戦歴があるに違いない |
子供の頃は、いとこのお兄ちゃんのお古の服を着ていたから、よく男の子と間違われたのですが、皆が心配するほどトラウマになっていません(笑)。
女の子らしさが否定されることは、あまりショックではなく、それより、いとこのお兄ちゃんのを着ているほうが誇らしかったのです。
高校では、近所のお姉さんのお古の制服をもらいました。袖口も裾も擦り切れていて、私には大きすぎて、ぶかぶかでしたが、それも気にならず・・・。近所で評判の才女のお姉さんのお古だったので、そのお姉さんのモノをもらったということが、後継者っぽくて、ちょっと誇らしかったのです。
妹はそんな憧れはもっていないようなので、アンティークやお古に抵抗がないのは、長女だからかもしれません。
私の憧れは、母親から娘へと代々受け継がれるウエディングドレスです。
若いころ、2年ほどアメリカで世話になったユダヤ人の一家では、くたびれてボロボロになった、リネンのテーブルクロスやテーブルセンターが、ここぞ!という場面では、銀食器と一緒に出され、厳かな雰囲気とともに、伝統を感じさせてくれました。憧れます。我が家にはそういうものはありません・・・。
そういう訳も合って、アンティークショップめぐりは、私のアメリカ生活の最大の趣味でした。実は、そうした店で働いた経験さえもあるくらいなのです。(日本ではアンティーク趣味はお預けです)
海外でのアンティークは自分のルーツを表現することで、日本のアンティーク趣味は単なるステータスシンボルなのとは少々意味合いが違います。日本では骨董というのはお金持ちの酔狂なので、すっかり興味を失いました。
お古って、くれた人の愛情がこもっている。だから好きです。先輩から、もらったモノを長く使っています。
母から中学生の時にもらったお古のシルクのセーター 24年
先輩から大学の頃にもらったコーヒー豆の保存缶 20年
先輩からもらったHMS式カラビナ 1年
師匠からもらったアックスの脱落防止コード 半年
先輩からもらった岩場ルート集 4か月
先生からもらったビレイ用グローブ 2か月
大事にしています。
こういうプレゼントって、誕生日プレゼントのような、折り目にもらうものではない。
のは、どうしてかなぁ・・・? そして、そうした宝物は、大抵、人から見たらツマラナイものです。
■ 年季が入ったものはカッコいい!
なので、ハンマーが必要な時は、先輩から借りていき、クラスメートと違って、年季が入ったものを持っている時は、ちょっぴり”えっへん”な感じでした。
講師一怖いという噂の村〇先生にも、「お、いいのをもってるじゃないか!」と言われました。
というわけで、棒フレンズが、「もはやアンティークだね~」と、言われると、なんだか、ちょっとさみしくなります… 先輩が棒フレンズを喜んでくれた時はうれしかったです。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきたかもしれない、カムなのになぁ・・・。そのカムに、込められた数々の経験さえも否定されてしまうような・・・一抹の寂しさ。
■ 永遠なのは時
しかし、物はモノに過ぎないのも真実。すべてのモノは、ゆくゆくはその役割を終え、捨て去られて行く運命です。
人間のカラダだって、古くなったら、私たちは古い体を捨て、新しい体に乗り換えるのだそうです。
でも、永遠にあるもの・・・は、そのモノが思い出させてくれる、過ごした時間や、込められた思いの貴重さ、大切さ、です。価値はそこにあるんですよね。
決してモノ本体ではない・・・でも、私たちはモノがないと、その一瞬一瞬の、価値ある時の思い出を忘れてしまうんですよね・・・
人は、前に進まないといけない、というのも真実ですし・・・。私は、お勤め時代に来ていたスーツや必要だった辞書類を捨てた方がいいのかしら・・・とたまに思いながらも結論が出ず捨てていません。
前に進まなくてはいけないという思いと、過去の思い出の間で、いつも揺れ動いています。なかなか、英語の本などは捨てれません。というか捨てなくていいのかも。しかし、未練がましいかもしれません。
■ 新しいもの
とはいえ、新たに揃えるときは、今手に入るベストのものを手に入れるほうが良いと思います。
大事なことは、新しいものを取り入れるときも、将来、思い出して、にっこりすることができる、大事な思い出と一緒に取り入れることかもしれません。
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