今日は大方の人が休みは終ってしまったと思うのに大ピーカンで夏全開!という感じです(^^;)。
夫と同じ部屋にいるのに、彼は汗をかいておらず、私は大汗をかいています・・・すると、アトピーが出て、かゆい・・・ので、イラッチのスイッチが入ります・・・(汗)。
■ 滑落
滑落して側頭部を打ったので、しばらく固いモノが噛めないでいました。今日、やっと好物のバゲットが噛めるようになっていました(^^v) バゲットサンドのランチにしました。
滑落したのは、岩でもなく、ただの岩場へのアプローチです。大方の見方では、前日の登山の疲れがあるところに、下山で緊張の糸が途切れ、ちょっとバランスを崩した、というもので、疲れと不注意の重なりに極言できそうです。
が、単純に通常は滑落は起らないような、非常に簡単な場所。そんな場所で、後ろ向きに斜面をでんぐり返る、という経験から学ぶべきものは…
1)危険はどこかしこにある
ということと
2)危険は受容しないと山になんか登れない
の2点です。
ハッキリ言って滑落した場所は誰も危険だと感じることはなさそうな場所でした。一般登山道でも、あの程度の場所はどこにでも出てきます。あんな場所で危険だ、危険だとロープを出していたら、一般登山道のどこでもロープを出さないと行けなくなり、登山が成り立ちません。
ので、2)危険は受容しないと…につながるのですが、これまで危険だと思っていなかった場所に危険が見えるようになりました。
年上の先輩登山者も、経験値が増えるにしたがってより慎重になった、と言っています。
私はもともと十分ビビりなので、これまでも10の力で8の山に登るようにしています。
が、今では、それでも、見えていると思っていたリスクも十分は見えていなかったのだ、ただ運がよくて事故を起こしていなかったのだ、と反省しました。
■ ビビり癖をつけない&判断を学ぶ
それでも翌日クライミングに行ったのは、一度の失敗(滑落)で、ビビり癖をつけてはいけない、と思ったからです。
そもそも、滑落したのはクライミングと関係ない場所でしたし、登攀中でもなんでもありませんし。ビビると腰が引けるので、ビビッていない時より余計危なくなってしまいます。
最近思うのは、危険がよく見えていないことによる勇気(というか大丈夫という自信)は、本当の意味での勇気なのだろうか?ということです。
これまで私がつけていた自信は、つまり”危険が良く見えていなかったことによる自信”である可能性もあります。
”易しいピッチはフリーソロ”におけるフリーソロ、危険か危険でないか?の判断は、状況次第ですが、そこには客観的な指標がないので、非常に難しいです。
私が思うには、そういう判断こそ、先輩から学ぶべきことなのかなぁ…と。
ただこれくらいはフリーソロ、に対しての、岳人のうぬぼれ交じりの憧れは根強い・・・と思います。
たとえば、阿弥陀南陵3P目、フリーソロで行ってしまう人は多いようで、ヤマレコの記述もそうしたものが多いです。そればかりか、そうした無謀さを賞賛する向きさえあります。
以前、それらの記述を見て、私もフローソロで平気だなと思い、単独で行こうとしたら、師匠にいさめられた経験があります。
■ チャレンジ山行とご褒美山行のバランス
登山は一種、息を止めての潜水に似ているところがあります。
気力の充実が、山の重要な要素であることは否めません。気力の充実は、体力の充実から。
しかし、山は一方で自分を追い詰めるMな活動なので、潜水に例えると、ギリギリまで息を止めておく、という美学があるのも、事実です… チャレンジ山行ですね。チャレンジ山行には、最新の注意を払い、軽量化し、計画を練りに練って望みます。
しかし、息を止めすぎると死にます。つまり、山行失敗。敗退ならまだしも、頑張りすぎて、滑落となったら、目も当てられません。というか、昔の人はそれに美学を見出していそうですが、私は趣味なので、そういう気分にはなれません。
■ 年間スケジュール
それは一回の山行におけるギリギリ度合いのことですが、それだけでなく、連続的な活動のバランスというものもあります。
当然ですが、ずっとチャレンジ山行だと疲れます。チャレンジは必要ですが、より良き登山ライフは、無理のない計画から。
年間を通して、オンシーズン、オフシーズン、プレシーズン、という発想です。私は夏は体調が悪いことが多いので、基本的にオフシーズンとすべきだと最近改めて結論しました。以前より、夏はオフ、なのですが。
夏はチャレンジ山行ではなく、ご褒美山行にするべきなのです。
■ 未知に対する恐怖
どんなに簡単なハイキングであっても、やはり最初は怖い、と感じるもの。私は、近所の茅ヶ岳だって怖いと思っていました。でも、北岳は小屋があり、多くの人が入るので、怖いと思ったことはありません。
怖さには色々な質がありますが、単純に、身体的なリスクがなく、ただ知らないから怖い、というだけのことであれば、それは岳人なら乗り越えないといけないもののような気がします。
たとえば、お化けを怖がるような怖さです。具体的な根拠がない、怖さと言ったらいいでしょうか。
私は、ひとけのない山では、山での犯罪が怖く、基本的に単独の時は人の多い、目撃者という意味での、人がいる山を選んで入っています。
なので、藪山というのは、基本的に志向できません。
単独が好きで、出来れば一人で歩きたいのですが、その場合は、わざわざ人に目撃されるように、小屋などでは、自分を印象付けることにしています。
でも、地図読みができないと自覚がある人が、踏み跡も薄い、とガイドブックに書いてあるような山に入るのは、単純に無謀ではないかと思います。
■ 山に行った回数 100回
最近、ヤマレコの記録を見たら、なんともうそろそろ、ヤマレコを書き始めてから”山で過ごした日数”が96日でした!
山に行った回数は76回。
ヤマレコを書き始めたのは、登山を開始してから2012年7月5日の両股小屋の記録からです。それ以前に20座は行っているので、すでに100回は登頂したでしょう。
山で過ごした日数は小屋バイトが入れば、とうの昔に、100日は超えていたと思います。
山の事故の遭遇は、一つには確率だという指摘もあります。たとえば、10年バリエーションをやると、1回は臨死体験、という人もいます。
となると、私は、100山行で一回目の臨死体験をした?ことになります。
長く山をやっている人は、一度大きな怪我をしている人が結構いらっしゃいます。
ただそうでない人もいます。その差はやはり、その人にとっての安全マージンが薄いか厚いか?ではないかと思います。
私は、どちらかというと、自分だけの時は、安全マージンを厚く取るほうです。よく時速100km出せるのに、ゆっくりと走りたがる車に例えられます。
が、逆に、誰かと居るときは、無理を無理と感じとれないことが多いようです。それは、やはり見栄っ張りだから、かもしれませんね。
やはり、それは、誰にとっても、自分自身を客観視するのは難しいと言うこと。防ぐ手段としては、その難しさに自覚的になるか、信頼のおける人に指摘してもらうか、どちらかしかありません。
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