■ 自立したら飯の食い上げ?
人と人は協力しなければ生きていけない。 これ当然。自立にこだわり何でも一人では、一匹狼になってしまう。
何より、岩は一人では絶対に登れない。(稀に登る人もいるが)
最近、
共依存(依存する人に依存される人が依存している)と、
相互依存(欠けているものを補い合う関係)が、
どういう風に異なるかを考えていて、ひらめいた。
共依存 → ポジティブな発展性がない
相互依存 → ポジティブな発展性がある
共依存の代表的な関係は、アルコール依存患者の例で、アルコールに依存する患者を世話する役の人は、その世話に実存を依存しているという関係にある。
アルコールでなくても子供などの無力な者、非扶養者や、ペットに依存する人もいるし、俺が(私が)面倒を見てやらなければ…という思いに自分の存在理由を見出す人は多い。そうすると、相手の自立は自分の生きがいの喪失になり、自立は促されない。
登山にも似ているところがある。
”連れて行く”ことをメインとする活動、たとえば、団体ツアー登山、ガイド登山などは、相手が自立してしまうと、自分は飯の食い上げになり、参加者が自立しないことが促されてしまう。
私はこのパワーバランスは、現代の登山にとって、登山自体の価値を脅かす構造だなぁ…と思う。
■ 自分で自分の首を絞めているガイド規定
団体であろうが少数であろうが、パーティの総指揮官は商業登山の場合、ガイドだ。
一説には、ガイドの倫理規定が、客の安全(言い換えれば山では全存在)に責任を持つのがガイドである、と規定しているそうだ。
そうすると、ガイドの倫理規定の立場からすると、ガイドつき登山というものは、対象者に非自立者を求める活動になってしまう。平たく言えば、盲目追従登山。金魚の糞型登山とも言う。
考えてみれば、他人の実存について全責任を持つなど、そんなことは、そもそも神でない限り、無理な相談なはずだ。 だが、そうなっているらしい。
すると、道は二つに分かれる。
ガイドになる → 山は自己責任の世界から外れる
ガイドにならない → 山は自己責任の世界にとどまる
優秀な山ヤであっても、”君子危うきに近寄らず”と思う、賢い人は、自己責任の原則が生きている世界に留まる選択肢を取る。
引率者は神ではない…とわかっていても、山を生業にしたいと強く願うほうが勝る山ヤは、自らの身をリスクにさらしても、引率することを選ぶ。
しかし、自らをリスクにさらしても、実力の範疇にとどまろうとするために、ガイドレシオ1:3程度のガイディングしかできない。
一般的に山岳会でも、先輩が連れて行ってくれるのは1:3が限界で、ハイキングでも1:5なんてない。5人も人がいたら、先輩は2になる。つまり、引率者1に客40人などという団体ツアーが、いかにアリエナイか、ということだ。
というわけで、顧客の身について責任を持とうと思っている良心的なガイドは、ガイドとしては儲からない、ということになる。
このことを裏返すと、その山行について、無責任であれば無責任なほど儲かる、ということであり、これは、経済的利益が倫理的にあるべき姿をゆがめる、という典型的な例になってしまっている。
平たく言うと、正直者ほど馬鹿を見る世界ができあがっているのだ。
それも、これも、ガイドの倫理規定の立場がガイドに神を要求していることを発端にしている。
何が言いたいかというと、何かが構造的に間違っている、ということだ。
本来のスタート起点は、山は自己責任、であろう。 ついでに言えば、人生そのものだってつねに自己責任なのだ。
■ 登山客にも利益はない
この構造は、実は、登山者にも利益はない。
というのは、人数が多ければ多いほど、サービスは手薄になるからだ。10人の面倒をみるのと、3人の面倒をみるのでは内容が全然違う。
少ないほうが良いサービスが得られる。
一方、多くなると、リスクが増えるので、サービスの提供側はそのリスク分の料金上乗せをしなくてはいけない。
となると、価格も大きくなり、あまり少人数のツアーと比べて安くなるというメリットはない。
なのに団体ツアーが消えることはない。のは、みなと同じでいたいという群集心理が根強いから、としか思えないのだが、どうなのであろうか?
■ 山にとっても、いいことはない
3人のパーティが10組より、30人のパーティが一組来る方が、山自体にもオーバーユースのデメリットが増える。
山小屋は利用者が多いほうが喜びそうなものだが、意外にそうではない。
なぜなら、団体客と言うのは、基本的に迷惑客なのだ。マナーがなっていない客が団体は多い上、ピークが重なり苦労や余計な労働が増えるので、山小屋もしぶしぶだが宿泊料を払ってもらう以上受け入れないわけにはいかない、という感じだ。
というわけで、受け入れ側や山環境も受け取るものが多いわけではない。得は少なくともしていない。
■ 儲かるのは企業だけ
企業が主催しているツアーでは、基本的にはガイドには日当が支払われるだけだ。多少人数UPによる色付けがあっても、それは組織内に留まらせるという目的を果たす目的のみに使用されるインセンティブなわけで、決して、ガイド側のメリットを考慮してのことではない。平たく言うと、利益を山分けするわけではない。
ので、結局は、この現在の構造で、利益がある当事者は?というとツアー会社だけなのである。
ツアー会社の中でも誰が儲かっているのか?というと、結局はその会社のオーナーであり、株主なわけで、従業員では決してない。
・登山者
・引率者
・山そのものの環境
・山小屋
・ツアー主催者
結局、この構造で利益が一極に集中するのはツアー主催者のみなのである。
山小屋は客が来てくれたら利益になるのだが、結局、引率者に与えられるインセンティブと同じで、利益のおこぼれを与えられるにすぎず、この構造が崩壊しない程度に飼い殺し、維持されるだけである。
ありていに言ってしまえば、札束で頬を叩かれ、Noと言えなくされている状態だ。
というわけで、団体ツアーと言うものは、
無垢で無知な(言い換えれば、登山を行う実力も、体力も、資格も無い、ということ自体にも無自覚な)登山者から、金銭を吸収し、山岳地帯という自然環境に負担を掛け、本来、受け取るに値しない金銭的対価を吸収する活動、ということになる。
事実1)登山者は無料で登る人もいる場所に大きな金額を払う。
事実2)山の環境は蹂躙されている
事実3)しかし、その利益は山環境を守ることには還流されない
事実4)関係者はこのパワーバランスをわかっているが身動きできない
事実5)一番損をしているのは、神の役を日当程度で負わされるガイド自身と本質的に預けられない命を預ける羽目に陥る客である
そういうことは、別に業界に深くかかわらなくても、登山をしなくても、一般的な見識があれば、一目瞭然、である。
このような状況が明らかな中で、私は登山2年目頃にやたら人から「ガイド資格を取ったらどうか?」と言われ、その人の見識を疑いました…ババを引けと言っている…(汗)?
それとも、私のことを、相当なバカ、だと思っているのでしょうか・・・(^^;) 困りましたね。ババだけは人生で引きたくないものです(笑)。
■ とはいえ、こういう人々をどうしたらいいのか?
私は登山の初期に、大手のツアー会社主宰の地図読み講習に行きました。
そこで出会った登山者たちは目を疑う内容でした…。
まず、平地も歩けないような人たちが来ます。平地でも息が上がり、平地でも地図をまともに見れないような人が来ます。
地図は北が上って習わなかったの?というような感じです。
なので、そういう人は、そもそも山に行くこと自体が間違いなのではないだろうか?と思いました。
しかし、行きたいという気持ちがあるから、市場があるわけです。
つまり、観光旅行と同じです。
ここで、登山をスポーツととらえると失敗します。 登山は歩く観光です。
しかも商業登山に置いては、歩くという基本能力があやふやな人が歩く観光。
というわけで、ウォーキングラリーと同じセーフティネットが必要で、その役割をしているのが山小屋ということになります。つまり、山小屋はマラソンの補給所と同じです。
とはいえ、大挙して山にやってくる人々… その8割は、歩くだけの体力がなく、地図を読むことができない人たちです。
一体どうしたら良いのでしょうね? 全然私には分かりません。
私は賢い山ヤは近づくべからず、というわけで、私の師匠のような、熟達者がガイドになることはなく、若い人が(騙されて)ガイドになっているような気がします・・・
ホントのところはどうなんでしょうか?
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