■ 心の整理
ゴールデンウィークの雪稜がひと段落したら、なんだか気が抜けたようになってしまった。
ピンク色に山が染まる時期の甲州高尾山は2年連続で取り逃しているし、ニリンソウが咲く裏山も言っていない。低山のスミレの散策も出かけていない。
でも、山に行く時間がなかったという訳でもない。
どうしていたのか?
私は、毎日、朝に、散策の時間とヨガの時間、日記に向かう時間を取っている。
山行が立て続けになり、その記録をまとめる時間などが増えると、こういう時間が押しつぶされるのが通常は普通だ。
だが、私はポリシーとして、そうした時間を決して押しつぶさないことにしている。
そういう中で、書きたいことを拾い出すからだ。
散策の時間のことを、ある本ではアーティストデート、と呼んでおり、日記に向かう時間をモーニングページと呼んでいる。
人生に愚痴はつきもので、その愚痴をどうしたらよいか?というと、すべてはモーニングページに吐き出すのである。日記は人に見せるものではないので、自分だけが分かれば良い。そうしたものをしていると、出会う人、誰彼、相手の立場も顧みずに、亭主の愚痴をこぼす、というような行為から逃れられる。
アーティストデートと言うのは、自分の内なる創造性と向き合う時間で、平たく言うと、三上と同じ。大体において良い発想は、厠の上、床の上、風呂の上と言われるが、リラックスした状態が、突破口をもたらすものだ。瞑想と同じ効果があると思う。
■ 原点を確認する時間
私の登山の原点を振り返ると、何か?
というと、それは 晴れた日に、おにぎりを持って、家の前の庭で食べること、だと思う。
家の中に退屈したら、ちょっと外でお弁当を食べる。それだけでお金を掛けずに充足した時間を得ることができる。
お日様が気持ち良い。風が心地よい。青い空が美しい。芝生がよい匂いだ、そんなこと。
人間の幸せなんて、本質的にはそういうことだ、と思う。
自然と共生した暮らし、というと、どこかの商業主義的なツアー会社のパンフレットのセリフのようで、反発してしまう。
というのも、こうしたことを提唱している雑誌やツアー会社のいう、”自然”って、全然、自然ではないことが多いからだ。
水道もトイレも完備の自然を自然と称す精神には疑問があるし、自然に対するメランコリックな誤解、著しいことが多い。
自然は美しいが厳しいのだ。二つの面の一面しか見ないような自然観には、疑問を感じる。
■ 厳しい面を教わる山
私が、今クライミングを中心に山生活を組み立てているのには、自然のこの2面性のついて、厳しい面に備えなくてはならない、という思いが反映されたものだ。
決してクライミングに自分の適性を見出して、生きがいを感じているのではない。
たぶん、私は、山ヤではない。 大概山ヤさんを見ていると、岩に恋に落ちているが、私は岩に恋におちそうではない。
ただ、山というか、自然との深いかかわりを今後も得ていくという進路は、疑う余地なく、すでに決まってしまった。
ので、岩やレスキュー技術は、やっておかなくてはならない必修科目という感じだ。 必修科目でも楽しんでやる方がよく身につくのはその通りなので、楽しむつもりでいる。
自然の良い一面については、1年目や2年目の登山中に十分与えられた気がする。 私は花も地質や植生についても、よく本を読んだので。
道なき道を行くのが、本格的な登山だ、といわれる。未知の対象が出てきたときに対応できなくてはならない。
本格的な登山を始める前に、準備すべきことは、いきなり非常に多くなる。一般道を離れ、さらに深い山の世界へ立ち入りたいと思えば、危険に備えなくてはいけない。
そこで出てくるのが、岩で、あって、沢だ。岩という要素だけが山ではないが、岩という要素がない山もないわけで。
が、私には岩登りの適性はあんまりないようだ。しかし、ここで山から跳ね返されているようにも思えない。
人が進む道には、人智を超える原理が働いているものなので、山がドアを開いてくれている限りは、その道を探検してみるべきだ、と思う。
そういうわけで、今は岩の時期のようです☆ 説明、終わり☆
備考:
今岩関係のことで練習したいのは、
・ビレイヤーの自己脱出
・カウンターラッペル(自分がフォロー側でそういう羽目になりそう)
です(笑)
追記。2017.5.これは、2015年10月ごろに達成しました。岩の時期を終わってフリーの時期に入りました。現在は岩と対話中。
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