私はヨガを教えているのですが、ヨガでは
今を生きる
ことを重視します。
今を生きるということはどういうことなのか?
それは 今しかできないことをする、という意味なのですが、過去にとらわれない、未来にとらわれないという意味が強調されます。要するに心配しないってことですね。 後悔と心配は時間の無駄。
自分の心象風景に、囚われない、ということが大事です。
山梨では、20年ほど続けた趣味のバレエが環境的にあまり充実しておらず、依然と同じようにレッスンを取れないので、私はバレエにこだわることを辞め、山梨でいちばん有利に余暇を楽しめる活動として、登山を考えました。
選択肢は個人によって違うと思いますが、地方都市では多くの人が、仕事より、余暇に時間を費やすゆとりがあるようです。私も都会に戻れば仕事に忙殺される生活が待っています。
なので、私にとっては登山というのは、今という時間だけでなく、地の利を生かす、という活動です。
今ある条件を生かす。
そこが根本的な思想です。
■ 手放す
最近、今を生きるということは、季節を大事にすることに通じると思い始めました。
多雪の今年は多雪の時にしかできない、八ヶ岳イグルーとか魅力的でしたが、タイミングが合わないまま、季節が終わり、ちょっと残念です。
まぁそれは仕方がないですね。仕方がないなと、あきらめるのは、たぶん
手放す
というヨガの教えです。
■ 囚われないで生かす
人間は誰しも年を取ります。 20歳から体力は下り坂に入るので、20歳以上の誰しもにとって、老いという、くだり列車に乗っている、ということはまったく同じです。その意味では60代も40代も一緒です。
人は年を取ると、欲が出るようです。それは、残された時間をカウントしてしまうせいですが、そのカウントする行為も、実は未来に囚われている。
なぜなら、人の寿命は人間の意のままにはならないからです。捕らぬ狸の皮算用と同じです。死は明日かもしれず、30年後かもしれません。それは60代でも、40代でも、じつは20代でも、子供でも同じことです。
なので、死については、考えることをやめるのが、囚われないということです。
その一方で、明日死んでもいいように、今日という日を十分に生きるというのも大事です。たとえば愛する家族に愛情を十分伝えておくとかですね。 山に行く前はちゃんと家族をハグしてから出かけましょう。
■ 必要なものは与えられる
欲は人間の命そのものです。
いい面に出れば、生きる意欲として前向きな活動になり、悪く出れば、単純に、煩悩です。
無理をして山に行かなくていい・・そう思えなくなったら、ちょっと気を付けた方がいい。無理こそが人生の質を落とす元凶です。無理も時間の無駄です。無理をすると何でも遠回りになります。
山は逃げない、というと、「山は逃げないけど、体力は逃げる」と答える人は多いです。
たぶん、ヨガ的には、逃げた山は行かなくていい山です。
必要なものは与えられる
からです。
■ 別のチャレンジ
人に知性が与えられているのは、無理をするためではなく、無理なく充実した生を生きるためにどうしたらいいか?考えるためです。
体力的敷居を下げ、若い人に歩荷してもらって、宿泊日数を多めに取って行ったら、どうでしょうか?
若いときには若い時の山があり、そういう若いときには見落とした魅力が山にはいっぱいあると思います。
価値観をスライドさせるというのは、体力的困難に挑むのとは全く違う、大変難しいチャレンジです。
私は30代後半で山を始めていますが、最初の頃は霧ヶ峰を一泊二日です。
それで十分、山自体は楽しめたのですが、大型バスで乗り付ける中高年が不快でした。騒々しくウルサイく、競争的価値観を山に持ち込むからです。
混雑は、あまり快適でなかったので、それを避けるためにスキルアップを目指しました。
≪おばちゃんが団体で登ってこれない山に登れる自分になる≫
が、そういう外的要因がなければ、普通に霧ヶ峰を散策するので何の問題もなかったように思います。
私にとっては、騒々しい山が不快だったこと、は、ステップアップしなさいという進路を示されたということです。
年を取った人にとって、体力的に厳しいな、と感じるということは、別のタイプの山をしなさい、という進路を示されたということです。
■ 多種多様な山を味わう
槍穂だけが山でなし、大きな山でなし小さな山の魅力を情報発信できるのは、時間リッチな人だけの特権です。
今は価値観が多様化せず、一様です。それは、多様な山の良さ、素晴らしさ、価値観を示してくれる、立派な岳人がいないからなのではないでしょうか?
今、ルートコレクターと百名山コレクターに終始し、山の文化が貧困化している原因は、そこではないでしょうか?
山は逃げないが体力は逃げる、というセリフには、囚われの心を感じます。
何事もバランス… 大事なことは、何も所有しないことでなく、何にも所有されないことです。
つまり、山を所有しない(=山に行かない)必要はなく、山に所有されない(=行けないことを過度に残念がらない)事です。
■ 山だけが人生ではない
人生にはその時々にやらねばならないことがあり、たとえば子育てが山より低い地位にあることは、やっぱり山に囚われている、ということしょう。子育てを放棄して山に向かうのはおかしい。
■ 祝福
そうしたことを総合的に考えると、今、山を私が優先できるのは、大変稀有な状況であり、とても感謝しています。祝福されていると思います。
ヨガをしていても同じように思います。ヨガを教えることができることは私には祝福です。
その人が価値を置いたものに時間を費やすことができる人生は幸福ですね☆
幸せの記録 |
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