■ 考え方に触れる機会を持つ
私は、夫と二人で登山を始めました。冬の天狗岳に個人山行で3度登り、3度目で、同い年の若いガイドさんに小屋で会い、そのガイドさんに、ピッケルの使用を薦められ、それを機会に、山の技術を取り入れるようになりました。
私は一人で高尾山にも登れない段階で、ガイド登山に進んだり、山岳会に所属しようとするべきとは思いません。それは動機が依存だからです。
しかし、動機が依存でない限り、早い段階で本格的に登山をしている岳人の考え方に接する機会を持つことを、一般登山者にはお薦めしたいと思います。
大事なのは、考え方に触れることです。 頻繁でなくても、また実在の人でなくてもいいのです。
■ 価値観が大事
思うに、登山をする上で、大事なのは、山の価値観を初期に植え付けてもらうことのようです。
そういう点で、初心者の間は、読書によって得る、山の価値観という知識(つまり山の哲学)が、だいぶ比重が重いです。
雑誌には、情報はありますが、哲学がないのです。やっぱり山野井さんの本を読むのがいいのかな(笑)?
地図読み講習では、地図読みを教わるのではありません。
自分でルートを設定して歩く山は、すごく楽しい山なのだ、ということを教わる
のです。
一般に一般登山者は山の愉しみ方を知りません。
山野井さんは「楽しいだけの登山」という書き方をしています。挑戦なし・リスクなしの、ドキドキハラハラがない登山のことです。スポーツに純化された登山、と言えるかもしれません。冒険なしの登山といえるかもしれません。
登山という趣味は、自然の中で、人間が自由と自立を獲得して行くプロセスです。
そう捉えないと、「一般道で目の前に道があるのに、なぜ地図読みのスキルが必要なのか?」分かるようになりません。
GPSという便利な道具があるのだから、GPSにナビしてもらえばいいんじゃないの?とばかりに、人間様が思考も主体性も放棄して、機械様に使われることへ何の懐疑心もわかない登山者になってしまいます。
未踏峰の初登に価値がない、と感じる登山者はいないと思いますが、多くの人が、本当のところで、なぜ初登に価値があるのか?を理解しているとは思えません・・・。なぜなら、9割の登山者が道なき道を歩いたことがないからです。
初登というような全く未知の場所へ赴く、そのような冒険がどのような心性を要求するものか?ということは、そういう人たちの想像の範疇を出てしまっており、漠然と「なんとなく、みんながすごいと言うから、すごいことなんだろう」程度の感覚しか湧きません。
しかし、たった一人で一度でも、この道があっているのかどうか?と不安を抱きながら、無名の尾根を降りたことがある人ならば、何日間にもわたるアプローチを正確にこなし、孤独に耐え、無事迷わず下山してくることの精神的冒険性が分かる。
つまり共感力も上がります。人々の、共感力の総和が、山の文化力、かもしれません。
だから、山の共感力がなくなり、価値観が共有されなくなると、登山界全体がレベルダウンします。
ただ、仮に全く地図読みの技術なしで、コンパスを持っても使い方も知らない状態で、そのような道なき道に挑む人がいるとしたら、それは単なる無謀になります。
登山者がまず第一に身に着けるべき価値観は、
自分でルートを設定し、それを現場の状況を読み取りながら、判断しつつ、切り開いていくことが、とても楽しい、
ということなのだ・・・ということを最近しみじみ感じます。 そうすれば、スキルを得たい!という気持ちは自然に湧き上がります。
これは人生も同じで、自分で自分の生きる道を決め、それを実際の状況の有利不利を見極めながら、自己決定して、人生を切り開いていく、
ということに通じるのではないでしょうか。そのような生き方ができるようになる、ということが登山の素晴らしい一面であるのではないか?と思います。
残念なのが、このところのガイドさんと言うのは、あまり収入がよろしくないので、山の価値観の発信者と言うよりも、単なるお金で買われた、しゃべって歩けるGPS程度のものに成り下がっており、山頂を金で売っていることです。
ガイドになるような方にはぜひ、自ら切り開く楽しみを伝播してもらいたいと思います。
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