■ 野遊び的登山
昨日は、とても楽しい登山だった。
そのせいで、今日はぐっすり寝て、そして、吉凶の良い夢を見た。自転車、りんご農園、夫、崇拝者、足元を見られるトラブルの上手な挽回。なんと夢の中で、銀行にさえ行き、敵から塩を送られた。夢は大抵、予言的なものだ。
昨日の大室山は、楽しかった。
どうして、その大室山がそんなに楽しかったのだろう?と考える・・・それは、
野山遊び
ではないか?と思う。
■ 登りは自由を獲得した
昨日は、登山道の無い山。地図読みの山。
気持ちが良かったのは、登りは、全く地図を見る必要がなかったこと。自分が思ったように歩いたら、自分の思ったように出た。
テープの類はぜんぜん見ようともしなかった。が、私が選んだところをテープが追いかけてきていた。テープの類はまったくあてにも参考にもしていない。ただ保証として機能しただけだ。
下りは一つ降りる尾根を間違えたが、間違えたというよりも、そもそも間違えないように注意しなかった。気ままに降りてきたのは、失敗込だからだ。ああそうか、と分かった、に近い。
下りも自由になるには、まだ少し練習が必要だが、登りはもう自由の身だ。
■ 空間認識
またぎのオジサンたちは、野山を駆け回って獲物を追いかけるときに、いちいち地図を見て現在地を分かっているだろうか?
そんなことはしていないだろう。たぶん尾根と大木や露岩、特徴のあるブッシュなどの代表的なランドマークが頭に入っているのだろう。
子供の頃、誰しも追いかけっこをして遊んだと思う。その時、道迷いを心配して遊んだだろうか?そんなことはしないと思う。
校庭のどこにブランコがあって、どこに大きな楓の木があり、どこが土俵なのか、そんなことは隅々まで知っていて、子供は現在地がどこか?なんて不安に思っていない。上級生になったら、「そろそろチャイムがなりそうだから、あまり遠くまで遊びに行かないでおこう」なんて考えることができるくらいだ。
別に校舎が見えていなくても平気だし、道なんてない。垣根や花壇もあまり境界線と思っていない。
子供のころ、何で現在地を認知していたか?というと、大木だったり、遊具だったりのランドマークであり、ランドマークとランドマーク間の位置関係であり、大まかな方角だった。
それは田んぼで遊ぶときも同じで、いちいち「この田んぼは3つめの田んぼ」なんて考えていない。青い屋根の家が前にあるから、ここだ、と分かっているだけだ。家からどれくらいの距離か?も分かっているし、途中にあるドブをどこで渡るのが一番楽かも分かっている。植木屋さんの林は見通しが悪いが、林の中でかくれんぼして遊んでも、外に出るまでの距離が分かっているから、迷子にはならない。
そういう空間の認知の仕方、それが愉しさの秘訣のような気がする。そこが裏庭になった感じだ。
人が一つの山に通う時、それは裏庭になる楽しさを味わっているのではないだろうか?自由自在に歩き回る感覚だ。
■ 空間認識の喪失と再獲得
学校の遠足で行った河原で、背丈以上の葦の草原に入り込んで遊んだことがあった。
強烈に面白かった。私の後ろに皆がムカデ競争みたいに連なって、葦をかきわけ、かき分け進んだ。縦横無尽に歩きまわり、最後はちゃんと集合の野っぱらに出たときは、達成感が快感だった。何しろ背丈より高い、密集した草の中だったから。
後になって本を読んで、そうした人間の背丈より高い葦原に、小さな子供が入ってしまい、親も見つけられず、死んでしまうという悲劇がよく知られていることを知った。
アメリカの大平原で葦原に入っていってはいけない。私は同じように自分の背丈以上あり、前後が全く見通しゼロの葦原で遊んで、楽しかった。あの時の楽しさは、探検とスリルを楽しんでいたと思う。でも迷子にならなくて良かった。先頭だったから責任は重大だ。
この葦原では空間認知の喪失と発見を繰り返すのが楽しかったのだ。
昨日の山では下山に当たる。下山では自分がどこにいるのか分からなかった。
でも、特段不安はなく、下れば町に降りれるということは分かっていた。新しい道を試したかったのだ。私と夫はよくこういうことを近所の場所でやっている。だから、自分がどこにいるかワカラナイ、ということに不安はない。
福岡にいたときも、近所の田んぼや用水路をそうやって散歩と称して探検に出かけた。現在地が分からなくなっても、知っているところに到達した地点で、ああここに来るのか、と分かる。それが楽しい。たぶん、あそこらへんにつくんじゃないか?と予想して、当たるともっと楽しい。
その楽しさは何と表現したらよいだろうか? 探検?一回わからなくなるのだ。そこが重要な気がする。 知らないところに行くのだから当然か。
■ アラートされていないこと
色々と、類似した楽しい体験を思い出してみたが、要するに昨日は、野山を探検する楽しさ、だった。それもあまり私のリスク管理能力が発動されることなく。
リスクに対して、極端にアラートされていないことは楽しさの要素の重要な部分だと思う。
アブナイから、アレしちゃダメ、コレしちゃダメ、と釘を刺されると、子供は面白くない。大体、釘を刺してくるのはお母さんだ。
自分のやりたいことを阻害する敵、は、いわゆる”ママゴン”であり、”学校の規則”とやらだ。それは、大体ホンネは、自分勝手なアブナイの大号令が多い。
私にとっては登山では
・一人で〇〇に行ってはいけない(危ない)
・登山ツアーに参加しないといけない(危ない)
・高額な〇〇という洋服を着ないといけない(危ない)
・〇〇というグレードが登れないと〇〇はいけない(危ない)
などであった。 結局、それらは ”不必要な脅し”で、正解は
・一人で行ける山もあれば、辞めた方が良い山もある
・登山ツアーへの利益誘導
・購入への利益誘導
・クライミングへの利益誘導
であった。 結局、自分に利益になるように誘導するため、損得のために”あぶない”が使われていた。 「あなたのためだから」というCMがあったがアレだ(笑)。
■ 頼りないリーダーがストレス
アラートされていないと楽しいということを裏返すと、リスク管理について登山の初心者の私が、とやかく言ってやらねばならない、ということ自体がストレスに感じている、ということだ。
私はリスク管理を人に任せたいわけではない。
が、自分で自分の心配をするだけで十分ではなく、相手の身の安全までを心配してやらなければならないような、言うなれば、”頼りない”人と山に行きたいわけでもないってことなのだろう。
■ 子供時代のトラウマ
私が、リスク管理に長けるようになったのは、トラウマの過去のせいだ(笑)。
我が家は母子家庭だったが、母はお嬢さん育ちの人だった。田舎の出だが、その地では知らぬ者がないほどの裕福な家に生まれたそうだ。後先を考えずにお金を使うことがあった。
中学に入ったころ、レーザーディスクが開発され、テープからCDに切り替わった。この時は高額なレーザーディスクプレイヤーが来た。そんな高級機器を持っているのは、近所でも我が家くらいだった。ワープロも同じで、来たのは、14歳の時。そんなものが使いこなせる人はうちにはいない。営業マンにうまいことほだされてしまったのだろう。
子供心にも、こうした高額出費は、意外だ。さらにいえば、意外を通り越して、「大丈夫なのだろうか?」につながった。まだ、経済的には無力な子供の時代に、私に危機感を抱かせた。開花した能力は、「このままではマズイのではないか?」と予測する能力だった。
後年、その予測は的中したので、私は悪い予想は的中するかもしれない、ということを学んだし、頼りとするべき人が必ずしも頼りになるわけではない、ということも学んだ。”子供は心配しないでやるべきことをやっていればよい”という大人の常套句も信用はしていない。思考停止は常に危険だ。大人を信じたところで、実際のトラブルは自分に降りかかる、ということも学んだ。
・リスク(物事がどう進むか?)は事前に予想できる
・頼りとする人が頼りになるとは限らない
・それで起きたトラブルは自分にも降りかかる
山での遭難に当てはめると、決断はリーダーの責任になるわけだが、リーダーが判断し、メンバーとしてそれに従い、実際にリーダーの判断が間違っていた場合、決断したのがリーダーだから、と言って、リーダーが責任を取れるのか?というと取れない。腹が減り、凍傷になるのは自分だ。
判断する責任はリーダーにあるが、結果責任はチーム全体が負うのだ。
判断するのはリーダーでも凍傷に成ったり、低体温症で死んだりするのは、チームの中で、弱い人であるのが常だ。
余談だが、国の政治も同じ。リーダーは判断する責任を負うが、その判断の結果起ったことの結果について責任は国民全員が負う。
不必要なダムをつくる決断をするのはリーダーだが、その結果、無駄遣いしたお金を誰が出すのか?国民全員だ。
つまり、判断は委託、結果責任は共同責任、が世の習わし、だ。
■ ストレス源
というわけで、私のリスク認知力、が優れるのは、後天的な学習の結果だ。逆に言うと、
頼りにならないリーダーについて行かなくてはならない立場に陥るのが、最もストレス
になる。これは女性だったり、若年だったりするとそういう立場に追い込まれることが多い。社会は、男性で、年齢が高いほうがより判断力に優れるという前提で動いているが、それが必ずしもそうでないことは、学校生活から明らかだろう。判断力に優れる人は子供にもいるし、女性にもいる。しかし、社会は実態と同じようには動いていない。
大人になり、会社に勤めるようになったが、上司が思うように動かなかったことがあった。
あるソフトウェア製品があり、それは日本市場を席巻できるようなポテンシャルを持っていたので、大きな業績巻き返しが計れそうだった。しかし、営業攻勢を上司が掛けない。私がいくら進言しても無駄だった。
1年たって、その製品は商売敵が、会社ごと丸ごと買収してしまった。つまり、その製品の営業権を買い取るだけでなく、製品開発の技術力丸ごとを社員を含め、買い取ってもいいくらい、将来性、見込みのある技術だったのだ。
私は業界に入って1年、会社は何年も細々としていたが、製品の目利き、ユニークさで知られていた。メジャーにのし上がるチャンスだったのに、みすみすそのチャンスに気も付かずに、棒に振ったのだった。チャンスの女神に前髪があっても後ろ髪はない。
なので、リスク、だけでなく、チャンスにも私は目ざとい。
リスクの把握がネガティブな未来の予想だとすると、チャンスの把握はポジティブな未来の予想だ。
そして、どちらにしても、リーダーと見解が一致していないことは私にとってストレスになる。
リスクの把握=ネガティブな未来予想
チャンスの把握=ポジティブな未来予想
■ 論理的判断と認知的不協和
そうなると、そのストレスを避けるにはどうしたらいいか?ということになる。
こうした未来予想は、志向性があるものではなく、論理的判断でしかない。クリティカルシンキングができていれば、大抵の人は同じ結論に陥る。
どうでもいいが、トポに書いてあることを「まさか本当に〇〇があるとは・・・」と言っていた人がいたのだが、どうしてトポに書いてある事実をゆがめて理解することができるのだろう?
それは認知的不協和と言われている心理現象だ。都合の良いように事実をゆがめて解釈する。
例えば、タバコはがんのリスクを4倍に高める、ということが事実として知られているとなると、禁煙は、嗜好性のある選択肢ではなくなる。健康を守りたい人にとっては、喫煙は不合理な選択となる。
そこで、「タバコを吸っていても長寿の人もいる」と反論したりする。感情的反発だ。これが認知的不協和。
基本的に図星のことは、怒りで反応する。逆に言えば怒りが湧いてきたときは、「図星なんだな」ということだ。
そうした感情的反発で行動を決定する人は、心が幼い人だ。憎めないが尊敬は得られないだろう。
山では感情で考えるより、合理的に考えるほうが危なくない。
■ シナリオ想定力の強さが経験値に現れる
3ピッチを登るのに2時間半かかっていたら、6ピッチなら5時間かかるだろうと予測するのは、合理的だ。そこからコースタイムが出て、日暮れまでに終れないなら、ビバークになる。
そうすると、ビバークは、forcedビバークではなく、forecastビバークになる。それを予測しない人は多い。
そうした、計画段階で最初から見えているリスクを予測しないリーダーの元では、私はストレスに晒されるだろう。
リーダーには、少なくとも自分と同等か、自分より優れていることを期待しているからだ。
言いたくない言葉だが、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。6ピッチ登ってみて、「あれ?日が暮れちゃった。ビバークしなきゃ」と言うのは愚者であり、「このあたりで15時になっているはずだ。地図上で幕営地候補を見ておこう」と思うのは賢者だ。登山では、
シナリオ想定力
と言われている。
シナリオ想定力は登山経験の豊富さで強化される。逆に強化されていない人は、登山歴40年と言っても、素人と同じだ。
だから、登山歴の長さで説得されて、リーダーシップを受け入れてはいけない。あくまで自分の目で見て判断して、その人のリーダーシップを受け入れなくてはならない。
私は、予想できるリスクが手当されていないのは嫌だ。分かっていてドツボにわざわざハマりに行くということ。これは冒険でもなんでもない。ただの愚行だ。
登山は予想のつかなさに、自分をゆだねてみる勇気を試される場
ではあっても、わざわざ愚かさを体験しに行く必要はない。
お酒を大量に飲めば判断力が落ちる。子作りすれば子供ができる。子供を産めば育てなくてはならない。これらには経験はいらない。要るのは常識だ。物事はその通りにしか進まない。物事がそのことわり通りに進むのは、不運であるとは言えない。何と言えるのか?後先考えずに、ただ欲望のままに動いた、とは言えるかもしれない。
■ 破天荒について考えてみる
破天荒とは、「今まで人がなし得なかったことを初めて行うこと」。
そうした豪傑と言える歴史上の人物に大食漢や好色家が多かったりしたのは、事実であるかもしれない。
が、大食や好色をしたからと言って豪傑にはなれない。破天荒が行えるともいえない。だから、逆は真なり、とは言えない。
偉業を伴わない、ただの酒好きや好色を正確に表す言葉は、なんだろうか? ”放蕩”であって、”破天荒”ではない。
破天荒な大男にあこがれる場合、最も、模倣が簡単なのが、大食、飲酒、喫煙、女色だ。
これは男性がパワーを誇示したがっている、という意味なのだろうと思う。逆に言えば、平素でパワーを発揮していないということかもしれない。
もしかすると、職場での権限や家庭での威厳に、不満を感じているのかもしれない、ということがうかがえる。ま、余計なお世話だが。
■ 優れたリーダーと過ごすことが大事
私は最近、自分自身の登山者としての成長には、
どの山に行くかより、誰と行くかが大事
だと考えている。優れている、というのは、クライミング力でも、体力でもない。”頼りになる”も違う。”信頼関係”は、似ているがちょっと違う。
ピッタリ合う言葉がない。”敬意を感じる相手”は近い。が、それもピッタリではない。
何をもってして、優れたリーダーとするのか?は、人によって議論を呼ぶものであっても良いと思う。
が、優れているということは、たいてい、議論を呼ぶまでもなく誰の目にも明らかであるような気がする。
ただ優しいだけの”係りの者”をリーダーとしてありがたがる人は、便利さを求めているかもしれない。そういう人はツアー利用者に多いだろう。リーダーという名の、便利屋さんを求めているに過ぎない。日本人は特に便利に弱い人種なので気を付けたい。
相手の判断力が自分より劣るかもしれないと心配している、ということは、関係性としては、”子供と親”の関係に陥っているということだ。
登山は、”互いに子供同士”でいれるとき、すごく楽しい遊びなのではないだろうか?
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