今日は甲府は風が強い。朝、晴れていたときは、「あちゃ~」と思った。今日はスキーの初心者講習を受けたいと思っていたからだ。
でも、風が強いので、行かなかったことがなんとなく正当化できた(ホッ)。
せっかくもらった割引券、期間が2月一杯で、割引が使える間に行っておきたいと思ったのだった…でも今週は天候が悪く、機会が限定されている・・・。残念賞だ。
■ 春の訪れ
甲府は、もう梅の花がほころび始め、春の気配だ。
このところ、野菜の傷みが早い。直売所にも大した野菜は売っていない。甲府で、野菜が豊富なのは、12月。寒さが本格的になったころ、寒気に晒されて甘みが強くなった野菜がズラリ並ぶ。
今の時期は過渡期にあたり、人参からは根っこから葉が生えてくるし、ジャガイモは古いのは芽がでて、新じゃがは小ぶりで水っぽい…。今こそ、保存しておいたカボチャでも食べるのが良いのかも?という感じ。
仕方ないので、豆をよく煮ている。キャベツはちょうど旬なので、よくお好み焼きを焼いている。春野菜の季節まで、もう一息。
春は苦みを食べろ、と良く言われる。暖かい里山では、もうフキノトウが出始めたそうだ。スプリングエフェメラルの季節も近い。
■ アイスゲレンデメイト
今年はアイスが充実していないせいで、冬を満喫した気分がしない。
自業自得か?と考えてみれば、そうも言えなくもない。
去年、与えられた機会を、”全くの登山初心者の人をゼロからアイスクライミング仕様に育てる、やりがいのあるチャンス”とでも捉えていたら、今年ゲレンデアイスくらいはできただろう。全部トップロープを私が張ってあげて・・・、だろうが。
しかし、それを私はしなかった。なぜだろう?
■ 好子・嫌子
心理学では、行動を促す要因を、好子(こうし)、行動を停止させる要因を、嫌子(けんし)というそうだ。平たく言えば、アメとムチ。
ある同じ一つの行動を起こすにも、その人によって、何がアメとなり、何がムチとなるかは違う。
(登山に行く)や(ゲレンデメイトを育てる)などという行動を起こすにも、ある人にとって、アメになることが、同様に他の人にとってアメになるとは限らない。
人はそのアメとムチを生い立ちから後天的に学ぶ。それで、状況を、子供時代の心理的パターンで認識しやすいのだそうだ。へぇ~。
■ 嫌子 = お姉ちゃんにフリーライド、親を心配する子供、足踏みさせられる優等生
私の場合は、私が陥りやすい、否定的な心理的パターンの一つ、それは、”お姉ちゃん”だ。
大体、おねえちゃんというのは、年上なので、親からは良く働くことを期待され、下の面倒を見る、中間管理職に当たる。
年齢の序列は年功序列、会社と違うのは新人が入らないので、序列が一切変わらないことだ。私も最初は、幼い弟や妹の面倒を見ることはあまり不満に思っておらず、夕食の支度も掃除も洗濯もやっていたが、私が8歳で始めた家事も、妹は8歳になってもやらないし、やる必要自体が起きない。
同じことを私は7年も続け、受験に際して、私自身の当然の権利として、学業を優先し家事をしないと宣言したら、家族から猛反発を喰らい、おかしさに気がついた。そうか、彼らにとって私から家事サービスを受けることは当然の権利となっていて、これは一生続くんだと理解した。
フリーライドだ。妹も弟も年少である限り、寄生虫のように私の労働に寄生することができる。それを理解した途端、お姉ちゃんと言う心理状況は、私には一切何も行動につながらなくなった。このケースだと家事を一切放棄した。
アイスクライミングで初心者をゼロから育てることは、この心理ケースに当てはまった。私には、どういう羽目になるか、行動しなくても予想がつく、と思われた。
他の人にとっては、この状況は、異なる働きをするかもしれない。
仮に「〇〇さんがいなきゃクライミングできません」とか「教えていただいて本当に感激です!!」とか、目下の人からの称賛に飢えている人がいたら、うまく行くのかもしれない。
教えるということは二度学ぶということだし、実際に育って自分のパートナーになってくれれば、これ以上知識のすり合わせをする必要もない、最強のパートナーだ。何しろ自分が知っていることを全部教えているわけだからだ。(そうすると立ち去られることは恐怖になるだろう。それまでに投資した労力や時間が自分には還元されないで、立ち去られることになるからだ。)
だが、私にはそうした称賛の言葉は、「ん?」という警戒として働き、相手の狙いどうり(?)には、働かない。
私は頼りにされるという賞賛では動かない。不必要な称賛=ボラれそうと警戒、という心理図式になっている(笑)。
この2年ほどで、頼りにならない親を心配する子供という心理状態も私には嫌子として働くということが分かった。
頼りにならないので、自分が何とかせねば!という気持ちは、半ば心理的パニックを呼び起こす。緊急時として認識されるのだ。
相手の責任領域まで踏み込んでも、私が何とかしなければ、他に事態を正しく認識し、なんとかする、行動力がある相手がいないと感じさせられるのは、すごく負担だ。
強く行動を起こすが、それはなんとかしなくては!という危機感からだ。危機感に動かされるのは、あまり気持ちの良いものではない。
私は私自身の危機を自分の力で乗り越えるのは得意らしいが、自分より優れているはずの相手(親、上司、ガイド、先輩)の危機を救うのは、まったく得意ではない。
■ 好子 = 良きライバル、知的探求、ユニセックス
では、一体どんな心理要因が私に行動を起こさせるアメとなるか?だが、過去を振り返ると
1)「お主、やるな」系
学生時代は、高校時代を除いて、親友のほとんどが男性だった。最大の親友は、小・中・高、同じで、中学まで互いの存在を知らず、噂だけは互いに知っていただけだった。どうもすごいヤツらしいという噂だ。会うまでは、あっそ!と思っていた。学生なので、要するに勉強が出来るだけだ。勉強ができるだけのヤツは尊敬に値しない。
が、出会ってみたら、勉強というより、相手の知性や賢さにノックアウト。二人ともが同時にノックアウトされたので、友情は長く続き、大学時代を終えるまで、互いにライバルとして、相談相手として活用し合う仲だった。
だいぶ外野には冷やかされたが、別に互いを恋人候補として見たことはない。私は特に女性らしさを表に出すタイプではない。女性だから、敢えて女性らしさを強調しなくても、それは出るが、例えば、特段にか弱さや可愛らしさが武器というタイプではない。
なので、彼に彼女ができたらその相談とか、私は結婚前に夫に会ってもらって「どう思う?」なんてこともあった。この彼のおかげで私は中学時代はサッカーグループで紅一点。大体、話をしていたのは、哲学とか、勉強の話、主に論戦だ。
そういうわけで、男女間の友情は成り立つ派。 というかそれ以外あるの?派。
2)右腕 系
私は矢面に立つより、有能な助手か参謀として役立つ。これは九州では男を立てることを強く要求されるため。
副委員長とか、副会長が適していて、トップは大事な時に時々出てきてくれる程度でいいんだがな~な感じ。正直、小学生時代から、公衆の面前でスピーチしていて、あがるということはない。が、矢面に立つのは交代交代くらいがいい。単純にめんどくさい。おだてられて登るタイプではない。難しい局面は渡すのでお願いね、って感じ。
女性は大体群れたがる習性?があるが、その群れの外側ではなく、私は群れを作らないのに、群らがられる方だ。が、中心はダメで、自ら座を降りる。持ち上げられるのは居心地が悪い。太陽ではなく、月。目立ちたがり屋では決してない。ときどき勘違いして、中心人物を求められて当惑する。
3)1対1
基本的に1対1の関係がもっとも心落ち着く。参謀タイプだからだ。複数の人といるときも、誰かの参謀であると自分を位置づけている。誠意を捧げる相手は、一人に集中したいタイプだ。
私は初孫で世話を焼かれすぎた子供だったので、心理的に相手のアテンションをひとり占めしたいというニーズはあまりない。場の中心人物でいないと不安と言うことはなく、むしろ、世話を焼かれすぎるとウザいというタイプだ。贅沢に育ちました(笑)。
1対1が好きなのは逆に、相手が私のアテンションをひとり占めしたいと考えている時に、それをかなえられるからだ。夫は私と二人きりだと満足そうに一人遊びをしています(笑)。
あとは、職場の花、とか、キレイどころ、という立場には全然向いていません。それは我が家では妹の役目だったからです。という理由で、モデルとして写真にとられるのはキライですが、サブリーダーは上手に努めます。
■ 嫌子
1)さっさと成長したい(イラッチ)
弟と妹がいた関係だろうが、自分より進捗が遅い人のために待たされるのは好きではありません。日本の学校教育は飛び級がなくて不満だった。
同じ理由で、逆にさっさと進んでいる人に対しては羨望がある。一人っ子で、中学で大学レベルの数学をマスターしている子がいましたが、非常に羨ましく思った。私にとってマイペースというのは、人より早いという意味で、マイペースで進みたい、という気持ちは強い。
まぁどうせ、私は同じ投資をされても、そこまでの才能はなかったと思うが、スカートの裾を家事や学校での公務に押さえつけられて、時間を自分のために使ってはいないという気持ちは常にあった。
2)自分を後回しにする癖
私は多忙な子供だった。常に義務に常に追われたので、義務を果たしたのち、自分の勉強をやってよい、と考える悪習が付いたのも事実で、自分の用事を後回しにする癖がある。
これは大人時代の早期に気が付き、反省中ですが、なかなか治りませんねぇ。悪い癖です。
やりたいことと義務をワンセットで考えているのです。現実は必ずしもそうとは限らない。
3)仲間意識
私は少数の強いきずなで結ばれた仲間と過ごすのを好み、広く浅くは苦手だ。というのは、大体、周辺の人間(弟と妹)は、世話を焼く対象で、助けてくれる対象ではなかったからだろう。
常に助ける側であれば、人が寄ってきたときに、仲間と言うより、あ~また何かを頼みに来た、という印象になります。私の印象はそっち側だ(笑)。スイマセンね。
■ 行動しない理由(言い訳?)
これらは生い立ちが教えた行動様式なので、容易に覆すことができないのかもしれない。
ハイキングのグループを作ろうかと考えることもあるし、そうしてほしいという声をたまにもらったりもするが、登山について、興味や関心がない相手を登山の世界に紹介しても仕方ない。
ので、あまり食指をそそられてはいない。
・人を育てるということが面倒、つまり私自身が怠惰なのが一つ、
・まだ初心者の分際で人を育てるなんておこがましいという謙虚な思いが一つ、
・自分は誰にも育てられずに自分で勝手に育ってここまで来たんだから、そっちも自立しなさいよという嫉妬が一つ、
・さらに同じ事実から派生して、私にできる程度のことは、当然他の人にも同じことができるはずだ、という期待が一つ、
と、計4つの想いが混在している。どれも私に行動を起こさせるほどの強さがない。拮抗中。
真実の話として、私ができた程度のことは誰でもできます。山岳総合センターの講習会に出るのも誰でも出来るし、ガイド主催のアイスクライミング講習会にでるのも誰でもできる。
その前後の予習復習のブログも大した内容をやっているのではないのは、このブログを見ても分かるでしょう。
というわけで、結論は、自分のエンジョイ山ライフを、自分自身を核に構築しても、見返りが少なく、前進はしないな~という気がしている。
これは実はヨガも同じことで、ヨガの方では、すでにパイロットテスト済みだ。
というわけで、行動を起こさない、行動が起らない、理由と言うのはこういう中身になっています。分析終わり。
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