Monday, October 20, 2014

読了『そこに山がある』今西錦司

■ 読了『そこに山がある』今西錦司

私は登山では、過去の優れた岳人のものの考え方に、触れるのも重要なことだと思っています。

ところが、最近は、どのような分野であっても、断絶の時代。母から娘に受け継がれてきた、家庭料理だって、断絶に憂き目にあっていますが、事態はそれに限ったことではありません。

日本では戦後60年で、ありとあらゆる文化的な活動が、伝統の断絶の憂き目にあっています・・・。

どのような分野においても、昔は、何にも考えなくても、年配者から若年者への知のバトンタッチが脈々と受け継がれており、かくあるべしというロールモデルが得られたものでしょうが、今の時代は、自ら求めなくてはなりません。

それで、ちょっと気になった名前の著者は、とりあえず、検索することにしています。それで、読んでみようと思ったら、3~4冊本を借りてきます。

この本は、そのうちの、取りかかりとして読みやすい一冊でした。

この本を読んでいる限り、山を取り巻く状況は、実は今とあんまり変わりがないようで、そのことにびっくりしました。山って進化していないんだなぁ・・・。

たとえば、自然保護されねばならなくなったような山は、実はもう山としてのありがたさを失っているのではないか?という指摘。そして、そのような山に訪れるという、山を知ろうともしない一般大衆の波のこと・・・。

今西錦司さんは1992年に亡くなっています。この本は、1973年にまとまられています。40年前。私が1歳の頃。すでに新聞社の連載記事になって、その後、書籍にまとめられた本です。うーむ。10年ひと昔といいますし、ネットの世界はドッグイヤーと言いますが、その反対語ってあるのでしょうか… スネークイヤー?あんまり山の事情は変わっていないのらしいのが、かなり驚きです。進化が遅い世界です。

気に入った部分を抜き出します。

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道のあるところだけを登るのが山登りではない。がけにあおうが、密林に出くわそうが、どんなところが出てこようとも、そこを自由自在に歩けてこそ、初めて一人前の山登りということができるのである。

そのためには基礎訓練をしっかりやって、あらゆる技術を身につけておく必要がある。だから我々の学生時代には、ひとつの特技だけを身に着けたスペシャリストになることを避けて、オールラウンドの訓練をやるようにやかましくいったものだ。たとえば岩登り専門の人は、岩ばかりを求めて山を忘れてしまう。

一口に山と言っても、道標があり、登山道がちゃんとついている山もあれば、また炭焼き、樵の通る道を利用できるだけ利用し、最後は道なき道をかき分けて登らなければならない山もたくさんある。

山に登ってもすっきり登れることもあるし、つまずくときもある。いくら前もって資料をたんねんに集めたからといっても、それで百発百中とはいかないところに、いつまでたってもやめられない学問や登山の面白みがある。長年の経験がものをいうということもあるが、これはどこまでも理屈ではないと私は思っている。
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なるほど、私はこのような思想を、図らずも受け継いでいるようですね。ふーむ。

(念のため、断っておくと私がすでにそのようなスキルを身に着けているという意味ではありません。単純に尊敬する山ヤがマタギめいた人だと言うことです)

■ 創造的な登山

最近、私はふと思うのですが、達成感による登山いうなれば、スポーツ的な登山。

というのは、案外限界がすぐに来てすぐに飽きてしまうものではないのか?と。

自分のスキルをどんどん高めて、登れる山が増えるのは楽しいことです。スポーツは、単純に気持ち良くて、さわやかですよね。

しかし、クライミングの本などを見ても、大体どんなところでも登れるスキルと言うのは、創建な男性なら、身に着けるのはそう難しいことではなさそうです。ある程度、登れるようになったら、後は現状維持で良さそう…ある種の倦みというものが生まれてくるもののようです。

というわけで登山という趣味を長く続けて行くための秘訣は、もしかしたら、達成感にあまり重きを置かない、ということかもしれません。

達成感=垂直方向の進化ですね。では、水平方向の進化、行ったことのある山をどんどん増やす、という方向はどうでしょうか?これも、すぐに資金的な限界が来そうです・・・(汗)。山コレクター、ルートコレクターは師匠も嫌っているのですし、私も行ったことがあるだけの場所をいくら数で増やしても・・・、と思います。

となると、限られた資金で、出来るだけ、味わい深く、山を愉しもう、と思うと、どうしても、何かを深める方向にしか進化しようがありません。

深めるには、知識を深める、か、観察眼を深めるか、自らの感受性を鋭くしていくか、どれかしかないですし・・・。

私は日本の自然は再生力が強く、諸外国に比べて多産なので、自然観察的な方向に進化して行くのが良いような気がしてきます。山岳部出身で学者に進化した人たちは、結構、楽しそうにしているしなぁ。

なにしろ、自然はどこに行っても自然ですが、その語りかけるところを読み取れない人には、全然、自然は語りかけてきません(笑)。一方歩けば1時間の道で、2時間も3時間も楽しめる人もいます。
ある程度、学術的な視野で、自然を見ることができるようになる、というのは、山という趣味を長く愉しみ続ける秘訣でもあるかもしれないと最近、水を試し中です。

自然への観察眼を磨くと言うことですね。まぁ、私はまだ山に倦む、というような、そんな段階にいないので、あんまり今から心配しなくても良いのですが、周囲の人たちを見ていて、そんな感想を得ています。






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