Monday, October 20, 2014

わらしべ長者

私は、実はちょっと変わった職歴を持っている。

初めての職場は、電機メーカーで、産業用ロボットの開発室だ。私は英文科の卒業なので、ちょっと違和感がある。弱小チームでの評価担当だった。

学生時代は、4年間、司書として大学図書館に勤めた。最後の一年は、通訳のバイトをしていた。通訳というのは、簡単なものから、プロフェッショナルなものまであるが、他の、より専門的な仕事の入り口になる仕事だ。クライアントは、より安い人を使いたがる。TOEICは750しかいらず、TOEICさえあれば誰でも入れる。

それで、学生の時、金網工場が、工作機械をドイツから輸入した際の、インスタレーションに通訳としてついた。その頃は、色々な学生バイトで食いつないでおり、、国際会議の事務方とか、企業のグループウェアの導入とか(懐かしのロータス1,2,3・・・)、企業内LANの導入、あるいは大学内で新入生にインターネットの使用法を教える講習の講師などをしていた。

それで、その金網工場が導入した工作機械は、直交型ロボットだったので、産業用ロボットの仕事が来た時に、直感的にできるな~と思った。

ロボットには原型となる型がいくつかあって、直交型、水平多関節、垂直多関節など…そういうことも、私は自分で調べるタイプで、先方は驚き、最初は意欲を買われたのだ。通訳者と言うものは徹底的に調べるのが仕事なのだ。何しろ、相手は通訳者は神のように何でも知っていると誤解している人たちが相手だから・・・

それは司書時代の得たスキルによる。図書館勤務時代、私は整理係りという部署にいた。その部署では、図書の整理、つまり、その本が歴史の本なら歴史に置き、経済の本なら経済の本に置く、というような仕事をしていて、この仕事には調査力が必要だった。

当時はまだGoogleはなく、地道に図書館のレファレンス室で、百科事典を引く。その他、よく分からない言語のもやった。アイルランド語とか、スウェディッシュとか。それで、分からなければ、専門家を呼んできて、教えてもらう。

大学図書館というのは、伝統的に、ネット社会的には一般家庭よりは進んだ環境だが、ネット社会の中では、非常に保守的で遅れている。

その遅れ具合がマッチしたというか、ロボットに入った時、ロボットのOSの世界は、IT関連の中では取り残されつつある、レガシー的な遺産だった。まだアセンブラの時代だった。

レガシー。 そう…私はなぜかレガシーと相性がいい。

実は、その後ロボットから、色々と紆余曲折あり、最終的には、メインフレームのソフトを販売する会社にいた。メインフレームは、死にゆくダイナソーに例えられる。最先端ではなく、レガシー。考えてみれば、昨今の山岳会と言うものも、レガシーに入るかもしれない。

ま、そういうわけで、通訳バイトしていたから、ロボットの仕事ができ、英語が話せたから、通訳ができたのでした(^^)。英語ができたのは、海外に自分で行ったからです。わらしべ長者です。

ロボットの仕事には4年半いて、最後の半年は、デキる師匠に弟子入りして、研究所所属になった。その間、磁気軸受とか、電動アシスト自転車等の仕事で、オシロで波形を取ったり、恒温室でテストしたり、簡単なソフトを組んだり、バグ出ししたり、仕様書を書いたりして、ソフト屋さんも、ハード屋さんも、めんどくさくて、したがらないような、助手的雑用を、英語も話せる、中途半端なエンジニアとして、楽しく仕事をしていたのでした。半田ごてとドライバーが板につき、一般職OLと違い、作業服に安全帽が誇りでした(笑)。作業服は正装と言って、はばからぬ師匠についていました。

あれを続けていれば、一体、何屋さんになったのだろうか…。今頃ラダーの専門家になっていたりして…。今でも、メーカーの人とは話が合います。日本のメーカーはどこも似ている。

その後、市場調査の会社に行ったが、結婚したら、海外に一か月に何度も行く仕事は、継続できなくなり、翻訳で食いつなぐ。一般職は、楽でいいなぁという印象。開発に戻っても、中間管理職みたいな、中途半端な立場だったし、もう少し専門性が強い仕事をしたいと、メインフレームのソフトウェア販売会社を見つけ、営業補佐兼マーケティング兼広報兼ライターみたいな仕事で、海外のソフトを見つけてきたり、営業用の資料を作ったりと、海外のエンジニアとの接点が多い仕事をした。英語も生かせるし、ITの基本的な知識も、貪欲な学習意欲も生かせた。私は呑み込みが何でも早いのが取り柄だ。

その後、福岡に夫が転勤になり、福岡では商社に勤める機会を得た。今、山梨での生活に生かされているのは、この商社での経験が大きい。

まず、予定を作る。出かけ、人に会う。それをレポする。その中から、やるべきこと=次の仕事を自ら作り上げる。テーマを持つ。

私は、女性であって良かったと思う。これだけ多彩な経験ができたのは、女性だからこそだ。

初めてのことに、何をしたらよいか分からない、ということは、今の私には、そんなにない。それは、今までの仕事のおかげだ。

エンジニアしか知らなかった頃は、営業で人に会うのが異様に怖かった。人に会うのは苦痛だったが、今は誰にでも気軽に声を掛けられる。

海外の未知の土地に出向くのは、学生の時から好きだったが、仕事で行くと、またこれが異なる…。

楽しく屋台でフォーを食べていたら、腹痛で明日の調査ができないかもしれない。ホテルは仕事場だ。ファックスがあり、LANが無料で使えること。そういう観点でホテルを選ぶ。さらに、運転手と通訳を雇ってくるにも、どの企業に出向いたら良いのか、を知るにも、JETROに出向かなくてはならない。営業に行くならアポ取りは女性の声が良い。けれど、出向くなら年上の男性とのペアが良い。

今はネットさえあれば、海外でも日本でも、情報格差はほとんどない。実際、私は、学生の20年前にTOEICを受けてから、あまり点数が落ちていないのは、日常的に英語に接して、ニュースの半分は、今でも、英語で読んでいるからではないか?と思う。不要な情報はカットし、必要な情報は、古かろうが新しかろうが取りに行く。

そうしたことは皆、仕事で学んだことだ。

仕事で学んだことがプライベートの充実に生かせる、というのは、ほとんど男性の生活には、ないのではないだろうか?

時々、男性にとっては、仕事は生活の時間を奪われるもの、否定的なものに感じられるときがある。あるいは家族という存在も、自分がやりたいことを実現するための、ちょっとした足枷せ、のように感じられるときもある。

しかし、実際は逆で、家族がいればこそ、頑張れる自分がいる。

誰かの役に立ちたい、と思うから、人は頑張れる。

けれども、やはり、そこには、人のために役立ちたい、という気持ちだって、本質的には自分自身のためだ、という基本がなくてはならない。

仕事をしていたとき、きっと、私は少し頑なだったかもしれない。頑張りすぎだ。

夫は、私が稼がなくても稼いでも、同じように私を愛してくれる。しかし、当時は、給与明細の額は、私の価値のようにも感じられた。

今グレードを追いかけている人は、グレードだけが自分の価値のように感じられているのではないだろうか。もちろん、楽しく追いかけている間はいいのだけれど、周囲の人に厳しく当たるようになったら、それは自分に厳しく当たりすぎているという傍証だ。

往時の稼ぎがないことに、罪の意識や残念な気持ちを、私は今も少し感じている。しかし、それは過去の駄賃のようなものだと分かる。成長するためには置いてこなくてはならないものなのだ。

たぶん、今は、頑張る動機が変わったのだ。以前は、自分を証明するために、頑張っていたのかもしれない。私は親のために役立つ娘であろうとした子供だったので、同じ方法で、夫をも愛そうとしたのかもしれない。

今は、そういう時代は、すでに過ぎ、私は自分に自分で十分、自分を証明したと思う。

では、なぜそれでも頑張るのか? 人は常に前進しなくてはならないし、それにはエンジンが必要だ。

それは、やっぱり、恩返しと言う感じだ。

だから、今私は、いつか後輩ができたとき、安全に連れて行ける、自分になりたいと思って、頑張っている。

今まで世話になった人たちや、師匠、先輩を、どこかの秘境に案内し、びっくりさせてあげたい。
あるいは、山の愉しみを失ってしまった人に、もう一度素晴らしい冒険を味わってほしい。

そういうのが頑張る動機だ。そういう意味では、私は行きたいところはもうない。

残念ながら、今現在、私は直接自分の職歴やスキルを生かすような仕事はしていない。

ただ色々と振り返ってみると、日曜プログラマーレベルのIT力は、ブログに生かされているし、調査力は、山の予習で行かされている。山行を企画したり、リスク管理したり、自分の役割を考える、そういう、”考える力”は、これまでの仕事で培ってきたものだ。

つまり、今までの経験は、みな山で開花しているってことなんだよな(笑)

ま、何か得をしたような、損をしたような、よく分からないような気持ちだが、とりあえず、甲府にいる間は、私の職歴をどうにかしようという試みは、あまり発展性が見込めないので、これで良しとしている。
 

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