Wednesday, April 9, 2014

山のパートナー探し

■ しばらくは安泰です♪

私は雪の山に行きたくなり、一人や夫とふたりだけの山行では、行けないラッセルありの山にも、行きたくなってきた・・・というので、仲間を求めることになりました。1年掛けて模索。

で、めでたく山岳会に入会しました☆ これで、環境は整い、しばらくは安泰です♪

しばらくは、というのは、私はクライミング力&パワーが課題で、そして、クライミング力がつくには、結構、時間がかかる。最低、半年はかかるそうなので、ということは、最低限のクライミング力がつくまでは当分パートナーの心配はいらない(笑)。

やるべきことは筋トレです(笑)そして、経験を増やすために、ゲレンデでのクライミングに行くことです。

■ 自立と協調性

山というのは、一人で行って行ける山に行っている間は、協調性とか、協力すること、助け合うことの重要性はあまりわからない。

しかし、一方で、一人で行っている間に、自立するということを覚えなくては、一生山では使い物にならない。”お荷物人材”にしかなれない。

・自立
・協調性

の2点がポイントです。が、問題は、この2点は相反する性質にあるということです。

自立している人がなぜ自立しているか?というと自由を好むからです。

協調性がある人がなぜ協調性があるか?というと、自らの自立する能力不足の代償として協調性を発揮しているからです。

というわけで、山で必要な自立と協調性を見分けるポイントは

・不自由を安全の代償として受け入れる妥協
・自立できないから、つるんでいるのではないこと

です。すべてのメンバーが自立してなおかつ、互いの安全を担保し合うと理解している時、チームは最大に機能します。

逆に依存で成り立つとき、100%の力は発揮できない。足の引っ張り合いになります。

これは学校のクラスでも、会社でも、国でも同じですね。

■ 誰もが成長過程

しかし、自立にはプロセスが必要であり、誰もが成長過程を経て、いうなれば、誰かに教えてもらって、自立を獲得します。

子供が大人になるのと同じです。誰も子供がお荷物とは言わない。誰もが子供時代を過ごすからです。

さらに、お荷物かどうか?は相対的なものでもあり、実力を超える山に行くと、誰でもお荷物になります。

なので、行く山をよく吟味して、自分がお荷物でない山に一緒に行く、あるいは自分がお荷物にならないように準備していく、ということが大切です。

■ 依存と怠惰

人間は弱い。人間的な弱さは許されることです。 でも、それを間違う人もいる。

たとえば、誰でも読める地図。

地図を見ないで山に来る人の何がダメかというと、地図を見るという行為が、基本的に誰でも出来ることだからです。

誰でもできることをやってこなかったら、ただの怠惰です。でも、怠惰は人間の弱さ、誰にもある性質なので許されます。

許されないのは…地図を見ない自分を当然視することです。

ある山行のあと、「私には長かった」と企画した人に向けて、発言するということは、「あなたの選んだルートは私には長いのでもっと短くしてくれ」という意味です。

それは、行くか行かないかを選ぶのは自己責任ではないと考えているということになります。

あるルートを歩けるか歩けないかは自分で考えて自分で判断することです。

「私には長い」発言は、自分に合わせて相手がルートを選ぶべきだ、と言っているのと、結局は突き詰めれば同じになり、これは権利意識が背景にあるという意味になります。

歩けない方に合わせるのが当然だという権利意識ですね。それはダメです。

山行に参加するかしないか?は個人の選択責任です。

自分に合わせて相手がルートを選ぶべきだ、というのはガイドと客の関係です。ガイドはパーティの一番下端に合わせて歩きます。自分が一番弱くて、それでも弱い人に合わせて歩いてもらいたい、と思う人はガイド山行に参加しないといけません。

自分が一番弱いとき、苦しいのは当然。参加すると決めたのは自分だから仕方ない。「あーあ、この人のおかげで遅いよ」と思われるのは当然。

それが嫌なら参加しなければいいのであって、そう思われるのを受け入れるべきです。行くと決めたら頑張る。頑張っていることが見えれば、普通の人は、嫌がりません。頑張らないのが権利になったら行けない。

それは登山道が十分整備されていないと文句をいう登山者に通じます。嫌なら来なければいいだけなのです。

■ 山に自尊心 

山の仲間探しは難しい。たった一人の気に合う人を見つけるのは大変。

それは山登りする人みんなの思いらしく、そういう点を語っているウェブサイトなどを読むと、ふむふむと、つい読みふけってしまいます。

良きパートナーを得たいというときに相手の何を見るか?

それは人それぞれだと思いますが、私は、山にプライドと虚栄心を持ち込んでいない人が好きです。

というか、日常生活でも、自尊心に問題がない人が好きです(笑) 

自尊心に問題があると、腫れものに触るように扱わねばならず、めんどくさいからです…。

自己顕示欲でいっぱいの人は、褒めてあげないといけないので大変です・・・。

■ 気の合う女性の傾向

大体の傾向として

 ・仕事を持っている、
 ・一人暮らし、または既婚
 ・化粧が薄い、もしくはない
 ・太っていない
 ・ブランド志向ではない
 ・ナチュラル
 ・タバコは吸わない
 ・海外経験者が多い

という傾向があります(笑)。

山でお化粧が濃く、香水の匂いをさせ、ダイヤのネックレスを身に着け、ゴールドの指輪をしてブランド志向で肉食、山頂でVサインでポーズを決めていたら…もしかして人種が違うかも…?と思ったりします・・・(笑) 山でなかったら問題ないですけど。

私もパタゴニアやノースをよく着ているし、ウエアが豪華なのは、ちょっと許します(笑)私の師匠はウエアがトレパンだったりし、時々豪華なギアをからかわれたりします。まぁ人間、どこかに弱みがないと。私は良いものは好きです。結局は安くつくし。でも、ブランドロゴに余計な代金を払いたくない。

ブランド志向って今の若い人には少ないんではないですかね?

お金を持っているかいないかにプライドを寄せるのは古さを感じさせます。何しろ今は、”持たない生き方”のほうが合理的な時代なので、おモノ持ちは不自由の証にしかなりません。

■ 気の合う男性の傾向

・プロフェッショナルである
・仕事で有能
・太っていない
・鷹揚
・オタク気味
・エース型

男性でも女性でも、どちらかというと個人で活動し、つるまない人が傾向として気が合います。個人でやる仕事を持っている人、たとえばプログラマーや士業、研究職などの専門職、などの人が、傾向としては気が合う率が高いようです。どっちかというと一匹狼型ですね。

エース型、というか、実力が染み出して、結果人が付いていくタイプですね。あまり社会的には器用なタイプではないかもしれない。

組織人の方が私は合いやすいです。私が組織人だからかな? 一般に会社勤め経験がある人の方が、話が分かりやすいです。自営業の人は損得勘定で計りすぎだと感じます。組織づとめだと、損得勘定が個人間で清算されることは少ないからかな?

体型については、男性は太っていても社会的に損が少ないので太りやすいですが、年齢などを考慮しないとすると、でっぷり太ってしまうのは、健康に留意していない、節制ができていない、という一つの表れかもしれません。男性は基本的に不摂生だと太るので。

節制が出来ている人は仕事もよくでき、仕事ができるかどうかは、男性には大問題と思います。

ただあまりキンキンに痩せていると、筋肉が男性性の象徴になっているので、筋肉がないことに引け目を感じているかもしれません。そういう人は筋肉以外で男性らしさを発揮していることが多い。

それはそれでいいのではないかと。そういう人がこれまで恋人になることが多かったです。私は筋肉隆々としたタイプに魅かれるほうではないみたいで…(笑) 

メタボが言われ始めてだいぶ経ちますが、少し前の世代の人はメタボを社会的成功の象徴と見ていた節があり、その価値観とは相容れないモノを感じます。私はバブルを知らないからかな? 

大勢でガンガン飲んで…という飲み会は退散決定です。私はどちらかというと、バーでしっとり一人ウイスキーを傾けるタイプです。

■ ザイルパートナー候補 

クライミングを始めると、気の合うクライミングメイトと、ザイルパートナーが必要になります。クライミングメイトくらいなら、誰でもなれますよね。

ザイルパートナーというのは、たぶん、あ・うんの呼吸などが必要で、その意味で普通のクライミングメイトより、位が高い(笑)

・私が相手のパートナー試験に合格するか?
・相手が私のパートナー試験に合格するか?

が重要です(笑)

気が合うためには、なぜ山が好きなのか?という、その点が重要だったりしないかと思います。

■ 行き過ぎた人間中心主義を反省するため

登山をなぜ好きなのか?と考えたときに、やはり、どうしてもそこにある自然と言うものを考えずにはいられません。

私がなぜ山に魅かれるか?というと、「行き過ぎた人間中心主義の文明がもつおごりに対する反省」を山の自然に触れることで取り戻すからです。

山は厳しい。人間は小さい。 

自然があって、初めて人間が存在できる。 その逆ではない。

このサイトには、いたく共感しました。ピオレドール賞をもらったクライマーがなぜ山に登るのかを語っています。

Why WE Climb

文明というものが、奢ってしまった、自然を超越できると思ってしまった、そのおごりを実感する…そのために山に行くのかな…

一方で、人一人が歩いて制覇できる山…人の足はまだまだ捨てたものじゃないな、とも思います。

だから、自然をやみくもに怖がり、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てて、自然を破壊し、今そこにある普通の自然から人間を守る必要はない。

が、それ以上に、自然には人間は、そして文明は決して勝てはしない、とも思います。

大地震、悪天候、雪崩、津波、吹雪・・・一旦荒れ狂った自然には、人間は太刀打ちできない。

人間がすごい以上に、自然がすごい。 

南沢大滝に行っても、あの巨大な滝を作ってしまうー33度の寒気はすごいと思います。

一方であの30mはあろうかという落差をリードできる人間もすごいなとは思うのですが…それでもやっぱり-33度の方がすごいな。

そういう風に思うので、山頂でピースサインをして写真を撮る、ということにはどうしてもなりません。

私には山頂は単純なる通過点でしかなく、山の機嫌が変わらぬうちに降りなきゃな~という感じ。

もちろん写真は撮りますが、記録用です。下山口に降りてからが達成感の時間です。

山に登っている間は常に山の機嫌をうかがっています。ので、人間の機嫌の方は後回しです。


■ チャットの山

おばちゃんたちの山に私が合わないのは、おばちゃんたちの山は人間の機嫌優先だからなんじゃないかと。

私は高山植物などを見るのも好きなのです。

貧栄養の地に健気に咲く花を見ると、人間もそうあらねばならないと、思ったりします。

貧栄養(つまり人間に例えるなら環境が悪くても)立派に花を咲かせない(つまり生き生きと生きる)言い訳にはならないなと(笑)

おばちゃんたちは、花は見ていないで、お互いのチャットに忙しいんですよね。あと「可愛い~」と叫ぶ。

ちょっと違う。

私の考えでは、花は可愛いから存在価値があるのではなく、その環境に適応して、なおかつ美しく咲くことに自然の驚異や威厳を感じる。

置かれた場所に咲きなさい、という言葉は誰の言葉か忘れましたが、人の行為を戒める言葉ですよね。

■ 男のロマン

一方、生と死の際を行くことを追求する男のロマンの山もたぶん違うようです。

男性は、子供のころから、生と死の間際を探求するのが大好きです。それはもう男性の本能に入っているんだと思います。

小さい男の子たちの、「お前、階段10段跳べる?」と構造的には変わりがありません。ランナウトするほうがかっこいいっていうのはそういう風土があるんでしょうね。

でも、それは私の場合は、10代の屈強な男性にお任せしたいエリアです。

気持ちはなんとなくわかるんですけどね。ひたすらスゴイなと思いますが、私は違う人種だな(笑)

私は弟がいたので、弟はあそこを縫ったり、ここを貼ったりと、怪我ばかりしていて、そんな弟を見るような気持ちになります。

■ 合目的

そうなると、一体、私の山はどんな山なのか?表現するのがとっても難しくなります…

私は山の成否を、目的とどれだけ整合性があるか?で後で判断しています。

・親睦山行
・チャレンジ山行
・クライミング山行
・トレーニング山行
・教育的山行
・癒し山行

全部、山行に求める成果が違います。 

親睦の時は、親睦が目的なので体力的ハードルは低く。

チャレンジ山行の時は徹底的に軽量化して、コンディションも整えて。

トレーニング山行なら、ザックは技と重く。

トップロープのクライミングなら、ちょっと難しいラインに行って無理をする。

教育的山行なら良く学べること。

癒し山行なら、山頂で昼寝。

実際の山行目的は、もっと難しく、たとえば、こないだの三つ峠は、初心者の女性二人が将来ザイルパートナーになるにあたって、各人の課題を明らかにする、という目的がありました。

それにとても合目的だった山行だったので、とても充実感がありました。 

なので、山行の成否は、まずは山選びから、です。

やはり、登山を志す人なら、今クライミングをしていても、そのクライミングは将来的にルートに出る為ではないでしょうか。

その人がどこまで行けるかは別として…結局は、ハイキングの山にその人自身の山を見出すにしても、そうだと自身の内なる声で分かるまでは、上を目指し、パートナーや山仲間と切磋琢磨する、のが、あるべき登山ライフという気がします。

そういう中では、山行のタイプは色々。 

でも、山はハイキングの人にやさしく、チャレンジの人に厳しく、と変わるわけでない。

基本的に山が山であり、厳しい自然であることは変わらないので、基本的な山のオキテには、全員がすべからく基本を学びましょう、ということだと思います。

今日の裏山

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