昨日行った西穂高沢は思った通りの山だった。
この山行、西穂高沢という名前を聞いたとたんに行きたかった。もし、今回の西穂登頂が、一般ルートの西穂山荘からのルートであれば行かなかったと思う。
実は、穂高はまだ前穂しか登ったことがない。
その前穂も、一泊の定着テント泊で、一日目は岳沢小屋前でテント泊するというラクラクルート。
これは、最初は、夫が新穂高からの白出沢ルートで登ると言い出して、それは無理だろう、というので
私が代替え提案した。
夫は穂高には登りたいみたいなのだが、西穂の独評は行ってしまったし、北穂は涸沢の人ごみが
恐ろしくて行けない。
北穂も、奥穂も、まだ行ったことがない。
■ 登山ブーム
登山ブームの今、北穂や奥穂はスキル不足の登山者が殺到していて、上から人が落ちてくる山だ。
実際、去年、上から人が落ちてきてヘリに乗る羽目になった知り合いがいた。
私はそもそも人が多い山が嫌いだ。 岩が落ちてくるリスクは受容できても、人が落ちてくるリスクは、
ちょっと受容できない。山が山らしくない気がする。
だからと言って、穂高連峰が嫌いなわけではない。
ただ穂高連峰を取り巻く社会的事情から、この山域は後回しでいいやと思っているわけだ。
上高地では、もう定年するくらいの年だと思われるおばちゃんたちが、4、5年遅れの山ガールファッションに身を包んでいる。ピンクの山ジャケットに、ヘリを折り曲げたハット。足元はなぜか登山靴ではなく、安い運動靴。山ジャケットは、化繊ではないかもしれない。ザックはザックではなくて、リュックサック。ヒップベルトも、チェストベルトもついていない。派手な色合いだけが山ガールなのだと思った。こんなおばちゃんがわんさといる上高地…
なんでおばちゃんは、派手な格好をするのが山だと思い込んでしまったのかなぁ…。もちろん、登山では視認性が良いのは重要なんだけど。
若い人も大勢いる。おばちゃんたちとは打って変わって、お金を掛けた山ウエア。でもエーグルとかなのだ。エーグルは山ブランドに入らないしなぁ。CW-Xのタイツに山スカート。肝心の足元があまりお金がかかっていない人が多い。何よりザックがリュックサックだ。
あるいは、全身マムートとか全身アークテリクスで、残雪期の穂高に、6000m仕様のダブルの登山靴。暑くないのだろうか…。すごくウエアがかっこいいのだけど、そのウエアで登るべきなのは残雪期の穂高ではないのではないだろうか?
こんな人が8割くらいの上高地では、むしろ、ジャケットにパンツでカメラをぶら下げた普通の観光客のおじさんたちの方が、素直に見える。
ジャージにデカいザックの若者はなんとなくそれだけで山らしく感じ、好感してしまうが、それもゴールデンウィークの山なのに、足元がアイゼン対応の冬靴ではなく、トレランシューズとなると、やっぱり不安になってしまう。
山ヤは山ヤらしい空気感を醸し出している。空気を読め、というのは日本の悪しき文化だと思うが、今その山ヤの空気感を読める人はごく少数ではないか?と思う。
私は登山を始めてまだ4年。私は、あちら側ではなく、こちら側に来た。あちら側はどうしても好きになれなかった。
しかし、今60Lのザックにピッケルとワカンをくっつけて ザックが歩いているみたいに見える私は、みんなにとって異質だろう、というのは分かる。
沢渡から上高地に行くバスに乗っていても、大きなザックには非難のまなざしを感じる。
でも、上高地を散策するのは、もちろん好きだ。山は山だし、自然は自然だ。万人に不変で、人によって自然や山が態度を変えるわけではない。
夫と初めて一緒に来たのは まだ数年前程度の 最近のことだし、その時は上高地ビジターセンターで、上高地の自然ガイドをしてもらった。それで、上高地が崩落が多いことや、明神のことなどを聞いた。
その時の自然ガイドは、明神に登る人はすごい人だと言っていた。その時は、その”スゴイ”の中身は、エベレストに登るような人のことだと思っていた。今は、単純に山ヤのことを言っていたんだなぁと思う。
同じことで錫杖も、夫とほとんど初めての雪山である、西穂独評に秋に来た時に知った。普通の登山をする人は, 錫杖と言っても、どこの山かも知らない人が多い。
この時の西穂独評は、季節を先取りした雪に合い、雪を抱いた山の美しさに心を打たれたが、「初心者のくせに雪のある独評に行くなんて」とさんざん非常識呼ばわりされた。
確かにこの時は10本のアイゼンは持っておらず、6本の軽アイゼンだったので、独評まであと少しのところでトレースがなくなり先行者が引き返してきたため、引き返した。正しい判断だったと思う。
ただ別にこの山行は危なくもなかったし、怖い思いもしなかった。一歩一歩に行けるという確信があったから進み、無ければ帰る、それだけだった。何より雪を抱いた北アの山々の荘厳さに感動した。
こうして雪の穂高を運よく見れたことは、山がその登山者を歓迎している、という意味だと私には思えた。
そうして、一つの山行は別の山行につながる。独評へは無雪期にリベンジに行ったし。
一つ山に登れば、知識ができる。山域への興味が湧く。それが次の山につながる。それが山登りの楽しさだと思う。
上高地のバス待ちなどで、山ファッションなのにザックもこじんまり、足元は安物、の群衆を見ていると、どうして、そういう風な山の解釈になってしまうのだろうか…とかそういうことを考えてしまう。
見ていて、正直なところ、そんなにいい気持ちはしない。 羨ましいと思っているわけでもないし、彼らが着ているウエアが大きく間違っていると思っているわけでもない。何しろ、散策だったら、手ぶらでいいわけなんだし…。
じゃどう思っているんだろう?と自分に問いかけると、「ああはなりたくない」と思っているわけなんである。
”ああ”は…の中身を正直に言うと、それは私にとって、「バカっぽく見える」のである。ああ、ホント口が悪くてスミマセン。
ただ、何も考えていないように見える。
そして、たぶん、それはその通りなんだな。そして、事実、その通りなんではないだろうか? 違うのだろうか?
ただ雑誌を見て山に行くにはこういう格好をするもんだ、とそれでそういう結果になってしまっただけなのでは…。
登山に行くには、最も必要なのは、まずはしっかりとした登山靴だ、とかそういうことは考えないのではないだろうか?
そして、その”考えなさ”は、登山活動のすべてのプロセスでリスクになってしまう。
だから、人のことより自分のこと、とは思っても、やっぱり目に入るものは入ってしまう。
こうした思考も、何度も繰り返されるたび、バカっぽいウエアを着た登山客=アブナイ と自動的になってしまう。
だから山小屋で働くのは苦痛だった… 何しろ、見る者の7割くらいはみんな「アブナイ」というメッセージ性を持つものだからだ。
いいね!ボタンを押せるような登山者は夏山の小屋にはまず来ないわけだし……。
というわけで、どうしても上高地周辺からの穂高は、なんとなく避ける、ということになる…神経が休まらないので…
でも、この西穂高沢、そうした視覚による心理的ストレス被害を最小限に抑えて、西穂にダイレクトに登頂できるという、非常にお得なルートだった。
私は雪が溶けかけの歩きづらい登山道よりも、カリッとクラストして、アイゼンがサクサク刺さる急斜面の雪渓のほうが斜度は合っても疲れずに歩ける。
滑落停止も実は同じ班になったメンバーの中では一番上手にできた、という記憶も手伝って、止めれる、と思っているから、あんまり雪の斜面を怖いと思っていない。
下山はまだ10時だというのに雪が腐りグサグサで、もう走って降りれるな、と思った。
そんなお得なルートだった西穂高沢… 天狗沢も登れるなぁと思った。
また同じような性格のルートを試してみたいものだ。
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