昨日は、とても楽しい日だった。
山には登っていない。ただ山麓から白馬の山々を眺めただけだ。
風が気持ち良かった。それだけ、が幸福の記憶。
私は大町で講習会を受けていたので、大町には通った。思い出のある場所だ。
その場所に夫と訪れることができた。彼にとっては、雑誌等で見るだけだった場所だ。後立の山々が目の前で光り輝いていた。雪渓を抜けて吹いてくる風が素晴らしく快適だった。同じ風を味わうことができて幸せ。
彼は、雪渓が氷河と評価される話を聞いて、雪渓にも興味を持ってくれたみたいだ。
ふと思うのだが、登山を充実させる、山登りに満足感を持つには、ある意味、お手前のような段階的なアプローチ、というものが大事なのかもしれない。
ちょっとした興味を持つ。どんなきっかけでもいい。
そのちょっとした興味が端緒となって、行って見たいなと思う。機会はすぐには訪れない、ということも大事なのかもしれない。
そうしたプロローグ的なことを端折ると、どんなに良い場所も、印象が浅くなり、どのような良い日に当たっても、「きれいな所だった」で終るのかもしれない。
■ 同行者
師匠が、私が沢の何に魅かれるのか分からなかった、と言うので、確かにそうだろうな、と思った。
師匠と出かけた沢は、うっとりするような美しい景色に乏しかったし、良い印象を持った沢山行はなかった。
仕方のない面があるのはお天気。一つ目のモロクボ沢は大増水中だった。ユーシン沢の継続は、大きなザックに体が振られ、ついて行くのにやっと。置いてきぼりを食い、行程を愉しむゆとりはなかった上、同行者が非常に悪かった…。お金を払ってでも一緒には行きたくないような人で、その人のおかげで、その沢山行は、ただその人の横暴な発言に耐えるだけの山行となった。おかげで、沢そのものの印象は全く残っていない。罰ゲームのような沢山行だったのだ。
それ以降は師匠とは沢には行っていない。
私が作り上げた感動の沢は、二つともわたし自身のリーダーシップで行った沢だ。先輩には後ろからついてきてもらって実現した沢山行だ。
望みはささやかでこういうのを歩きたいだけ |
楽しい山になるか、ならないか?に、同行者はとても重要だ、と思う。これは沢に限らず。
次なる疑問は、どういう同行者が楽しい同行者なのか?ということだが、最近わかったことは、わたしには、
同行者の年齢は関係がない
ということだ。以前は60歳以上は避けたいと思っていた。生きていた時代が違いすぎ、価値観が合わないと思っていたからだ。例えば、「結婚は3年で飽きる」など。
就職氷河期という言葉があるが、今の時代は山岳会の氷河期だ。
■ 優秀な男性
性別は最初から大して関係がないだろうと思っていたが、実際は私の側の問題としてより、相手側の問題として、大問題のようだ。性別が同行者選びに深く関係するのは、むしろ男性の側だ。
私は、元々男性の友人が多い方だったし、弟もいたので、あまり男性に大しても女性に対しても、態度を変えない。
学生の頃の親友は男性だったし、よく泊めてもらったりもしていたし、向こうが泊まっていくこともあった。
が、男性の中には、相手が女性と言うだけで、対等に付き合うことができない人もいるし、女性が登山をしていると、自分の地位が脅かされているように感じるのだろうということも分かる。
例えば、自分が泊まることになるテント、食料、自分の飲む分のお酒まで女性に担がせるのは、そういう心理が働いているせいであるとしか思えない。
おおよその傾向を言うと、結果から判別すると、私が一緒にいて、心地よく感じる人は、優秀な男性に限定されているようだ。
そうした男性らは、男性の中でも特に優秀で、自分の男性性や優秀さ、他者との優越性に、自ら疑念を持っていないように見える。
要するに、わたしに自分自身の地位や立場が脅かされると感じない人に、気が合う人が多いと思う。
逆に言うと、それだけ私が強い印象を放っていると言うことで、気を付けなくてはいけない点でもあるのかもしれない。
ただ、私が選ぶ同行者はもれなく優秀な人だ、ということは言える。優秀な人としか山に行けない体質である、というのは、でも、実際、本当かもしれない・・・(笑)。
■ 生き方と相似形
バレエは知性がないと、上手になれない、と言われていた。身体を使うが、スポーツではないし、総合芸術と言われる。それと登山は少し似ているかもしれない。
物事を掘り下げて考える習慣、
というのが、登山では、重要だからだ。そして、大事なことは、
物事を高い視点から見る、
という習慣だ。 全体像を把握してから位置づける、というようなこと。フリークライミングは、登山の一分野であって、全体ではないが、枝葉に囚われると、登れなければ人間ではない、となってしまう。
それに大事なことは、
偏見を持たない
ことでもあるし、
勇気を持つ
ことでもある。
でも、もっとも重要な資質は
探究心が旺盛
ということかもしれない。そうでないと、ただ連れて行かれるだけの人になってしまうものだからだ。
強いあこがれは大事な要素だが、探究心がなければ、功名心を満足させるだけで充足してしまうだろう。行ったかどうかだけが大事で、どう行ったか?が大事ではなくなる、ということだ。
ある種のパイオニア精神
は、どのような分野についていても、非常に労力を要するものだ。そういう意味で、その人が付いている日常の仕事が、リスクフリー、保守性の権化のような仕事で、市場の競争原理にさらされないモノであれば、おそらくその人自身のクライミングも、同じく危険のないものを愉しむと言う話なのだろうと想像できる。
山は大なり小なりその人自身の生き方を表しているような気がするものだ。
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