Thursday, May 7, 2015

アルピニズムの原点とは何か?

■ 終に完済

春山合宿から帰ってきたら、育英会奨学金の返済満了のお知らせが来ていた。

当然だが、感慨深い。

一人で進学してから、25年。返還を始めてから17年。やっと普通の人が立つのと、同じ経済的地位、ゼロの地点に立つことができた・・・。

正直言って、不利な条件を生きたなと思う。氷河期に当たり、就職率25%なんて時に卒業したため、ボーナスをもらう生活はしたことはない。今は貯蓄を取り崩す生活だ。

自分がいかに恵まれない環境でサバイバルしてきたか?と思うと、自己憐憫に染まりそうになる。

が、越えられない試練は与えられない、と思うことにしている。高山植物みたいな感じか。

最初の職場から、成果や技術、知識を持ちこむ側でいたことには、少なからぬ自負を感じている。一発目の職場から、中途採用だから即戦力で、まぁ当然なんだけど・・・。

■ 求めて与えられない人 vs 与えられても気が付かない人

社会という土台が同じなのだから、当然かもしれないが、山の世界は会社と同じだな~と思う。 

アルパインでいうと、情熱もあり、努力も惜しまない人を何人か知っているが、みな不遇だ。

講習生であることから、自ら求めた人たちであることは実証済みだ。技術を得ることに金銭や時間という、犠牲も払い、ある程度の知識を身に着けてから、仲間を得たいと、門戸をたたいた人たちだ。

講習会にでるような意図を持った時点で、すでに感心な人だ。つまり、ただ連れて行ってもらいたいから、と会に来るような一般的な登山愛好家とは異なる。が、大抵は受け入れ先がないようだ。

その結果、即席パートナーシップに陥ることも多いのではないだろうか。情熱もあり、努力もし、求め、それでも得られず、という環境。つまり不遇だ。

今回の涸沢岳の知人の訃報は、選択するルートについて、適切なアドバイスが得られなかったために亡くなったのではないか?と想像した。残雪期の西穂奥穂が歩けるような人は技術は十分なはずで、山を舐めていたとは思えない。

一方、親元住まいのように、”してもらう”のが普通になってしまっている人もいる。トップロープ&セカンドで守られ、自分の実力の足りなさに気が付けない。しかし、しょうがないな~と周りがフォローせざるを得ない。

こういう風に山の世界も、二極化で間がない印象だ。

与えられていることに気付けない=感謝できない、のも、それはそれで、かなり不幸かもしれない。もっともっと凄いルートを与えられないと満足できない。

人生の質は、達成感の量ではなく、感謝の量で決まるような気がする。少ないものに感謝できる人が幸せな人だ。

■ リバースエンジニアリング力が必要なのかも?

元の製品を分解して、そっくりの新品を作ることをリバースエンジニアリングという。

最近、登山にもそういう思考回路が必要なのではないか?と思うことがある。事柄から意味を取り出す力だ。

 〇〇ということはどういうことか?

と、ある行動の意味を考えるということだ。

例えば、クライミングに連れて行ってもらう。そこは近所の無名のゲレンデだ。

さて、どういうメッセージをくみ取るべきなのか?

それは、「クライミング力をつけるには、こういう近所の無名の小さな岩場に通ったらいいよ」だ。

出された助け舟から、ちゃんとメッセージを受け取る、意味をくみ取る力がないのが、皆のつまづきの原因なのではないか?と時々思う。

たとえば、以前相方と二人で岩場に連れて行ってもらった。行く前は分からなかったが、一つだけでも二人だけの力で完登できるルートを作ってもらえる、ということは、「ここから二人で練習したらいいよ」という意味だと、帰ってから分かった。

(問)  「仲間を増やしたいなら、どうしたらよいか?」
(答え) 「一つだけでも自己完結できるルートがある」
      「もう一人メンバーがいる」

が答えだ。岩は二人からしかスタートできない。初心者一人教えるのに、二人必要だからだ。

そういうのは、事柄から、的確に意味を読み取る力、がいるのかもしれないと最近考える。

行動や様子から意味を読み取る、というのは、例えば、先輩がピッケルをお尻に敷いて歩いていたら、それは、転ばない自信満点という意味だそうだ(笑)。それは、聞いてみて分かった。

■ 学ぶべきことを学ぶべき時に学ぶ 

それはともかく、山では適切な時期に適切な助言が与えられるようになっているようだ。

ただ意味を深く掘り下げて考えたり、応用して考えたりする習慣が薄れた。そう鋭くない人が増えた今、その助言を適切に受信できる能力がない、という点が先輩が与えても、与えても、債務超過に陥ってしまう原因ではないか?と思う。

非言語メッセージで伝えられたことを受け取れない人が多いと言うことになるが、いわゆる空気が読めないということとは違うような気がする。

現代では、もっと言語化して、顕在化しないとメッセージが伝わらないのかもしれない。

想像するに、そういう非言語メッセージが主体となっている点が、いわゆる一般論で山岳会が「古くさい」とされる点のように思える。そのやり方は昔は、”選抜”の意味あいが昔はあったのかもしれないが、今では選抜する余裕はなく、必要もなく、来た人を何が何でも山屋に仕上げないといけないのだから、方法論はもっと変わってしかるべきなのではないだろうか。

私が思うには、その齟齬の原点は時代そのものにあると思う。戦後60年経ち、時代は移り変わり、”日本人”の内容も変わった。

例えば、内蔵助という言葉で、私は何で”内”を読まないのだろう?と思った。先輩は「大石内蔵助知らないの~?」と言っていた。

私はTVを子供のころから見ないで育ったし、時代劇には全く関心がない。それでちょこっと調べてみたら、現代訳すると、どうもどこぞの県知事が、東京に接待に招かれたときに、「この間の恨みを忘れたか?」と言って、接待担当の高級官僚を斬りつけたという話らしい。斬りつけられたほうは「身に覚えがありません」。現代でいうなら、私怨による通り魔殺人未遂。それも何が具体的に”恨み”なのか、一切闇の中らしく、結局、要約すると、一人の男性の血迷いごとのために、2つのお家崩壊、一家離散の悲劇になり大勢が死んだという話だった。時代劇ファンの人知らずにすいません。

が、逆に先輩に「ソクラテスの妻」と言っても通じない。ソクラテスは恐妻家で有名なんだけどなぁ。

要するに何を言いたいかと言うと、世代間ギャップもそうだし、個人的な生い立ちや生活史もそうだし、何を食べるか?ということから、何を常識として知っているか?ということまで、同じ日本人でも随分多様化しているということだ。前の会社では日本で背広を買ったことがない人が多く、衣類は日本で、と思っている私は少数派だった。

時代についていけないというのは、口を悪く言えば時代遅れ。時代の変化を嘆くよりも、適応するという姿勢が必要なんだろう、と思う。一方で変わらぬものを変えてはいけない。つまり、原則というようものだ。

一般論になるが、今の衰退しつつある山岳会というような組織は、古い技術とかウエア、ギアというような、変えても良いものにしがみつき、変えるべきでないもの…それが何かは後で考察…を変えてしまっているのかもしれない。

その、時代に適応した姿、ビジョンというようなものが、示されていないために、おそらく、どこの会も、空中分解、浮遊状態なんだろう。

かつての勝ち組日本企業が、勝ちが何であるかが多様化した時代に時代遅れとなっていることと相似形だ。

■ アルパインの原点とは何か?

涸沢岳西尾根の解説に ”アルパインの原点” という言葉があり、気になった。

  はて、アルパインの原点とは何を言うのだろうか?

自ら困難を求めることだろうか? 登山を知らない一般の人の価値観では

 ・高い山 (標高)
 ・数    (何個行ったか? つまり百名山)

が、評価の対象になるそうで、逆に言うと、(標高)や(数)を追いかけている間は、あまり山のことを分かっていない、という意味かもしれない。

つまり、そういうものを捨てる気持ちになった時が、山と向かいあい始めたスタート地点なのかも?

ちょっとGoogle先生に”アルパインの原点とは”と聞いてみたら、次のような結果が出た。

検索結果1)ワルテル、ボナッティーのアルピニズム論

アルピニズム論と云うといかにも難しく聞こえるが、山に登る姿勢や考え方であり、余り難しく考える必要はない。ボナッティーは初め山に心の慰みを求めたが、やがて自分の人間としての成長が、山に鍛えられた事により得られた事に気付く。ボナッティーは登山に対し次のように言っています。「山に登ると言う事は、人間が己を知り、自分らしく生きるためにある、沢山の方法の一つにほかなりません。山に登ると言う事は、何かを求めていくのであって、絶対に何かから逃れる為ではないのです。登山者は自然の様々な事物と出会って心を豊かにする事が出来ます。登山者は広大な自然の中で責任を持って行動し、様々な経験をつんだ人間です。ですからアルピニズムは、単なるテクニックとかピークハントとかいった事以上のものなのです。ただ闇雲に山に兆戦すればいい、と言う物ではありません。物事をじっくり考える事、そして色々な事を知ろうとする意志こそが、山を感じ取り、理解し、そして行動に備える為には、ずっと重要な事なのです。」ボナッティーは時代の最先端を行くアルピニストでした、しかしその考え方はいたって古典的で人間らしく、大変共感できる点が多いのです。勿論ボナッティーには先鋭的?アルピニストとしての登攀に対する考え方、ルールといったものもアルピニズム論の中には書き残していますが、我々には高度すぎますので省きました。

検索結果2)

やぶの中で方向を定め、ルートを確認し、やぶをこぎながら登る。まさにアルピニズムの原点を実践している気分となった。成し遂げた後の達成感も十分味わうことも出来た。さらに自分達がたどっている尾根は、かつて英彦山の修験者たちの峰入の道であることを知った時は少なからず感激もした

検索結果3)
穂高の山は、日本近代アルピニズムの原点だ

検索結果4)
「より高く、そしてより困難に登山をしていきたい」というイギリス人のアルベルト・F・ママリーのアルピニズムの原点になったママリズム

検索結果5)
「雪と岩」 ガストン・レビュファ  新潮社
オークションでゲット。50年前から欲しかった本です。現代スポーツアルピニズムの原点となる一冊です

検索結果6)
アルピニズムの原点はやはり英国にある

検索結果7)
白馬岳とその周辺は、私にとってアルピニズム的登山の原点

検索結果8)
アルピニズム誕生 昭和初期の鹿島槍ヶ岳登山史

まぁ材料はこの辺でしょうか。検索してみると色々な解釈を拾うことができます。次に、キーワードでまとめてみる。


  • 人間としての成長
  • 己を知り、自分らしく生きるため
  • 心を豊か
  • 責任
  • じっくり考える
  • 知ろうとする意志
  • やぶ
  • ママリズム 「より高く、より困難を」
  • 達成感
  • 穂高
  • 現代スポーツアルピニズム
  • 英国
  • 鹿島槍ヶ岳


”アルピニズム”も、漠然として捉えどころがなく、また提唱者によって、いろいろな理解や解釈があるののようです。

最近の大きな二元論では、

 アルパインをスポーツととらえる側(例:竹内洋岳さん)と
 スポーツではないと捉える側(横山ジャンボさん)

があります。どちらもやっていることは同じようなことです。スポーツ化するにしても、しないにしても、登山者というのは、ある意味

 自分の登山を作っていく

のが大事なのかもしれませんね。

登山の成否と言うのは、そういう意味では、

 その山行でどれだけ心が豊かに育ったのか?

なのかもしれません。他者の評価ではなく。その物差しで見れば、仲間を置いて山頂に行ってしまうような中高年グループや、登頂できないからと言って返金要求するようなお客はいなくなるのでは?と思います。

今回の春山合宿は、先頭でラッセルした後、登りあげた先で休憩したいと言ったら、置いていかれ、ちょっとガッカリしました。まぁ当人の実力より、周囲の評価のほうが上ということで理解しておきます。

■自分を知る

私が思うには、最も難しいことは、自分を知る、ということです。

しかし、己を知る、ということが物事の中核に来る辺りも、日本人の精神が西洋化した、と言うことを示すような気がしないでもありません。


8 comments:

  1. 大阪万博の翌年に生まれ、大石内蔵助は知ってるけど、ソクラテスの妻は知りません♪

    言語化、顕在化は外国と関わっていくためには必須かなと思いますし、
    そういう意味で、西洋化というよりも、脱島国根性と捉えてもいいのかな
    とも思います。
    例えば、ChinaやVietnamは西洋ではありませんが、日本と比べると、随分と
    言語化、顕在化してるように思います。

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    1. 西洋から輸入したアルパインで、脱島国根性をしなくてはならないというのも、日本的現象ですよね。

      「見える化」や「標準化」という手法は、この分野では足りていないのかな~と思いました。カリキュラム化と言うようなことですが、基本的に山やさんはロマンチストでプライドが高いので、情報の非対称性による優位を譲りたがらない=言語化、顕在化は遠いのでは・・・、と思います。

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  2. こんにちは。記事の要点はそこではないので、つっこまないでおこうかと思いましたが、
    忠臣蔵のくだり、Kinnyさんの解釈はちょっと、、、というか結構な誤りですね〜浅野内匠頭も大石内蔵助もお墓の中でびっくりしてしまいますね^^;

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    1. え~そうかな~Wikipediaを要約するとそうなりますが。忠臣蔵のドラマを史実だと思っていると間違いみたいですよ~。大河ドラマはフィクションですから。 勝手に因縁つけて斬りつけて、そのせいで割腹を命じられた上、財産没収、部下が逆切れして、かたき討ち、そのせいで、二つの家族が離散。なんもいいことなし。男のわがままって迷惑ねーって思いました(笑)。 興味がない人には忠臣蔵なんてその程度のものですよ。

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  3. 日本に輸入された「Alpinism」は、日本では「日本流のアルピニズム」(と言っても混乱してると言えますが)に変身しましたが、発祥元の欧州圏も英米圏も、単なる「高山の登山」という意味にすぎないと思います。
    別に「イズム」が付いてるからと言って主義主張思想思潮でもないのに、
    「アルピニズム論」なんて言うのを振り回してああでもないこうでもないと議論した(昔のこと)のは、おそらく日本だけの、舶来品をあがめる傾向が強かった時代なのでしょうがないと考えますが、特殊状況だと思います。
    まあ、日本は流儀・流派にこだわり、何事も「XX道」を極めたい人が多いですからね。

    「登山」、すなわち「Mountaineering」のWikipediaを以下にコピペします。

    The term mountaineering describes the sport of mountain climbing, including ski mountaineering.[2] Hiking in the mountains can also be a simple form of mountaineering when it involves scrambling, or short stretches of the more basic grades of rock climbing, as well as crossing glaciers.

    While mountaineering began as attempts to reach the highest point of unclimbed big mountains it has branched into specializations that address different aspects of the mountain and consists of three areas: rock-craft, snow-craft and skiing, depending on whether the route chosen is over rock, snow or ice. All require experience, athletic ability, and technical knowledge to maintain safety.[3]

    Mountaineering is often called Alpinism, especially in European languages, which implies climbing with difficulty such high mountains as the Alps. A mountaineer with such great skill is called an Alpinist. The word alpinism was born in the 19th century to refer to climbing for the purpose of enjoying climbing itself as a sport or recreation, distinct from merely climbing while hunting or as a religious pilgrimage that had been done generally at that time.[4]

    The UIAA or Union Internationale des Associations d'Alpinisme is the world governing body in mountaineering and climbing, addressing issues like access, medical, mountain protection, safety, youth and ice climbing.[5]

    (誰がどんな思潮・思想をもって書いたか分からないWikipediaなど100%信頼してはだめですが、)
    mountaineering, alpinism, など、一応納得のゆく説明です。

    Kinnyさんは、英語OKですから是非本文を参照下さい。 

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    1. 山に対するある種の憧憬というものを共有した人となら、山に登りたいなと思います。

      その”憧憬”を説明をするのが、かなり難しくて困りますね(笑)

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  4. アルパイン・クライミングをスポーツと捉えるかスポーツではないと捉えるかの「二元論」があるとのことですが、
    それって本当ですか?

    「登山」がスポーツとして19世紀後半に確立したというのに、その代表的分野であるアルパイン・クライミングをスポーツと捉えないって、一体どういう考え方なのでしょう?

    山を舞台にする「登山」には、競技化されたいくつかのスポーツ分野を除くと、もとより明確なルールがありません(ルールはやる人が自分で作って課す)が、これは登山に限らず自然を舞台にする他のアウトドアスポーツあるいはアドベンチャー・スポーツでも言えることです。

    もしかして、競争的・競技的なものだけを「スポーツ」だと思ってるなら、それは「スポーツ」の何たるかを知らない、ただの偏狭なる誤解だと思います。


    ちなみに今から123年前、世界で初めて(*)上梓された登山の技術本 
    『Mountaineering』 by C.T.Dent & others, 1892, London, Longmans, 439papes,  
    (『バドミントン・ライブラリー・シリーズ』と呼ばれるスポーツ解説書の全集)では、
    Hunting、 Fishing、Golf、Billiards、Tenis、Football、など30あまりのスポーツのひとつとして位置づけられ、
    以下のContentsで語られてます。

    Ⅰ. The Early History of Mountaineering
    Ⅱ. Equipment and Outfit
    Ⅲ. Mountaineering and Health
    Ⅳ. The Principles of Mountaineering
    Ⅴ. Reconnoitring
    Ⅵ. Snowcraft
    Ⅶ. Rock Climbing
    Ⅷ. Maps and Guide-books
    Ⅸ. Mountaineering Beyond The Alps
    Ⅹ. Climbing Without Guides
    ⅩⅠ. Hill Climbing inThe British Isles
    ⅩⅡ. The Recollections of a Mountaineer
    ⅩⅢ. Sketching For Climbers
    ⅩⅣ. Camping
    ⅩⅤ. Photography

    (*) ドイツ語圏にも同時代に登山技術書があるようですが、ドイツ語が分かりません。

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    1. 私はこの議論はどうでもよく、足をつっこみたくないのですが、横山ジャンボさんの文登研の資料には、「登山はスポーツではない」と明言しています。スポーツとしてのみ捉える捉え方は私は好きではなく、私の登山とは違うなと思います。私は、冒険的な登山、静観的登山がどちらかというと好みの登山形態で、スポーツとしてのみ追及すると、山との競争になり、結局は山に負けて(どうせ勝てないのですから)遭難死するのが末路と思います。
      スポーツとしての追及の流れは、トレランや山岳耐久レースに主役の座を明け渡しているのかもしれませんね。

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