■今ある環境を生かすこと
今回の沢は、登山自体もまだそう慣れていない初心者と言っていい女性の方と一緒だ。彼女とは自然学校関係の会で出会って、なんとなく意気投合した。カメラマンであるので、芸術家。
私は小さいころ、毎週美術館に通うような家庭に育ったのだ。母は東京女子美術大学を出た人だった。だから、今でも路上で写真が売られていたら立ち止まって見るし、気に入ったら高くても買う。バレエが好きだったのも、そういう事情も少しあったと思う。舞台芸術について、舞台の良しあしを語る時は、辛口ね、と言われる。ローザンヌバレエコンクールを見れば、良しあしが分かるし、見るのは楽しい。
若いころ、サンフランシスコに暮らしたのは偶然の幸運だった。人生にめったないサンフランシスコ暮らしという、この機会を生かすには?と考え、サンフランシスコシンフォニーとサンフランシスコバレエ、アンセルアダムスセンターの年間の通しチケットを購入して、事あるごとにクラシックコンサートとバレエを天井座敷で味わい、街を探検するのに疲れたら、アンセルアダムスセンターにいた。働いている以外は、そういう活動をしているのが、私らしい暮らし方だった。
今は同じ発想で、山梨での生活環境を生かすにはどうしたらよいか?と考え、出した結論が、登山をすること。
地元の資産、雪と沢。それに岩。
■成長とは不可逆的なもの、前提的なもの
私はいつも登山に限らず、何かの成長というのは、子供が大人になって成長したり、老いることと似ていると思う。
人の変化は不可逆的で、人は生まれた瞬間から、一方的に死に近づいて行っている。成長と成熟と老化は、同じ現象を違う価値観で見ただけのことだ。それは企業の成長も同じだし、成功などと言うとらえどころのないものでも同じだ。前提であり、そこへ到達するかどうかが問題となるのではない。成長しない人はいないし、幸福を求めない人もいない。どういうやり方であれ、成功しようとしない人はいないし、登れるようになろうと思っていない登山者もいない。
人はみな、水流に逆らい、同じ方向を向いて、泳いでいる魚と同じだ。あるいは高速道路で走っている車と同じで、同じ方向を見、同じように走っているが、目的地は別れている。隣と競争しても仕方がないが走っている向きが同じなだけで、抜きつ抜かれつの小さな競争に終始するのが楽しい人もいる。ちなみは私はそういうタイプではなく、自分のスピードを守るタイプだ。
成長ということは、別に成長すること自体が素晴らしいことでもなんでもなく、人は何もしなくてもすべからく成長する。ただ、成長することで、自らの成長を振り返った時に、感動や充実感をもたらすことは確かだ。
子供はできなかったことができるようになるとうれしい。老いの境地にいる人は身体機能的には、できたことができなくなっていくが、それでさえ、心ある人に言わせると精神的な成熟のプロセスだ。
成長ということについては、そういう風に考えている。以前ほど成長と言うことにあまり大きな価値を置いていないし、早く成長をしたいとも思わない。例えば、もし、今5.12登れる力があったとしても楽しくないと思う。
■ 思いの成就
伝丈沢は、わたしにとっては、易しいと感じられる沢だった。私は初めて行ったのは、海沢という奥多摩の沢で、誰でも可能なくらい易しいという設定を、もちろんツアーだから、してくれていたと思うのだが、それでも唇は紫になり、歯がガチガチいい、タイヘンだった。”ええ~?!こんなの行くの~”という感じも、もちろんあった。夫は懲りて行かなくなった。
それでも主催者側は、女性向けに着替えテントを用意してくれたり、事前資料が渡され、親切丁寧なパッキング方法の記載があったり、で、沢を知らなかったので、そうした親切丁寧さのためにお金を払った甲斐があったと思った。
次は二級の沢だったので、ほとんど登攀。次は、講習会でオーバーペースで歩き、クライミングでへこたれた。体力の沢だった。次は、増水中のモロクボ沢。次は同行者が”うーん”で、置いてきぼりの沢。後は自前で行った沢だから、これくらいの経験では、私の沢経験も乏しい。初心者の域を出たとは言えない。
それでも、自分で伝丈沢に行った時は、”これなら私の力でも初心者を連れて行ける!”と感じた。同時に、”なんで、初心者をこれくらい易しい沢に連れて行かないのだろうう?”と感じた。
その二つの思いが結実した形が今回の伝丈沢だった。
・初心者の力でも行ける沢はあるのではないか?
・これくらい易しい沢に初心者の頃、連れて行ってほしかった
■ 連れて行けた、という成功体験
一度行ったところなら、誰かを連れて行くことは、ルート的には難しいことではない。知っているところを案内するからだ。
連れて行く側は知っており、連れられていく側は知らない。
片方が情報に有利で片方が不利なことを、情報の非対称性という。誰かを案内するときには常にそれがある。
情報力で圧倒的に連れて行く側が優位だ。経験の長い側が、その優位を笠に着た状態は、あまり尊敬できる態度ではないな…といつも思う。例えば山においては、歩くのが非常に早いなどだ。慣れは速さを加速するものだ。
知っていることはパワー(権力)で、そのパワーを振り回す、というような態度は、あまり尊敬できない。
けれども、そういう態度と言うのは、登山の世界ではむしろ一般的なようだと思う。
情報の非対称性による権力のアビュースがないのが、商用のツアーだと思う。ツアーでは知らないことが前提だからだ。お金を払って受け取るサービスはすべてそうあるべきなのではないか?
例えば、服装を見て値踏みしたり、とか、登れるか登れないかで態度を変えたり。
生まれて初めて岩に触る人が怖くなっても結構普通のことだ。ダメだというのは、どういう価値観なのだろう?
先輩に聞くと昔は「登れなくても登れ!」とかいう教わり方だったらしいので、そうしたアビュースは、シゴキ時代の後遺症として登山の世界に残ってしまったのかもしれませんね。
「〇〇ができないようでは、△△はこなせない」というのは、”〇〇ができるようになれば、△と言うルートに行けるようになる”という意味ではない事が多い。
ほとんどが挑発であり、”〇〇もできないくせに発言するな”という横暴の行使であることが多い。
人間も山も、平等でない前提だし、ヒエラルキーを作るのが好きなのだ。
■ 易しい沢
今日行った伝丈沢は、大滝20mを登らなかったので、私が初めて行った海沢よりうんと易しい。泳ぐ要素はなく、クラミングの要素もない。
それでも、同行者は足元を探りながら、沢を歩くのは大変なようで、ずいぶんゆっくり進んだ。
私はこの沢くらい易しい沢を愉しみながら成長するのが良いと常々思っているのだが、その思いが正しかったことを改めて感じた。
私は、実は、沢へ別の同行者と行くと、遅れる側に入り、自分の方が待たせる側で、待つ側ではない。
伝丈沢は初めて行った時は、8:00伝丈沢入渓 10:30稜線 金石沢大滝13:20 下山14:00だ。今回は11:40に入渓して、15:30二股。つまり初回に行った時の倍くらいの時間かかっている。
私自身はもう登山自体が自分は初心者だと思わないし、初心者だと言ったら、良い意味の謙遜ではなくて、自己卑下になるだろうと思う。
けれども、山岳会では歩き方も初級者であって、クライミング力も初級者であって当然だと考えている。それが普通であり、普通でない能力がある、と誇示したことはないつもりだ。5.9が登れるようになることを目指すのは初心者にはちょうど良い目標だ。
登攀力だけが登山者の実力ではなく、自分の力量に会った山を見出す力も力のうちだと思う。偏差値のように画一的な物差し・・・グレードで登山者を計りたがる風潮は間違っていると思う。登山の多様性を無視しているだけでなく、死の危険がある。
登山自体も初心者であれば、やはりこのくらいのペースでしか歩けないものであり、それで普通だと思う。
ちなみに彼女も一般登山は普通にやっている人だ。それでも一般道はどこを歩くか?というルート取り、という思考回路を経ずに歩ける道だ。たとえ縦走路で難路であっても、考える必要性という意味ではほとんど皆無に近いものだからだ。沢や地図読みの山、雪稜、岩稜では、基本的に考えないとルートが取れない。
それは、一般にベテランが考える以上のパラダイムシフトなのだ。そのシフトが起きる前と起きた後の差は、一般に考えられるより大きなものだと思う。
■ 地図読み
一般登山からの大きなパラダイムシフトという点では、地図読みも同様で、地図読みをしないような山が一般登山では普通で、そのような登山経験を何回重ねても、足は強くなっても、地図を見て歩く山が歩けるとは言えない。
地図を見て自分でどこを歩くつもりか予想を立てるということが、登山の基礎で、その基礎がないまま、脚力だけが上がると、上がった脚力も自分でルートを採らなくてはならなくなった途端に、活用の道を失う。
考える方に時間がかかって、歩みを進められないからだ。それは、クライミングで、ムーブが分からないから次のホールドが発見できないと言うのと同じだ。そういう部分は自分で考えることでしか、解決できず、ほとんどの初心者に必要なのはそのような時間だ。自分の中で熟成する時間。
だから、地図を読んで地図を見て歩く山の経験を少しずつ貯めなくてはいけないが、地図読みの山は一人ではできないし、誰かにケツについて歩いてもらう必要がある。
稚拙は、回数の差ただそれだけのことだ。誰でも必要な成長の機会が今の時代はなかなか得られない。
■ 歩かれていない場所を歩く
今回は地図読みの山も、彼女には初めての紹介だったと思う。地図を読む山をやると、普通の人の歩かない場所を歩くことになり、それは一般登山道よりとても歩きにくいと言うことを意味する。
私も初めてそういう山をしたときはびっくりした。ベテランになればなるほど、その気持ちは分からないに違いない。
私自身もつい2年前程度のことだが、自分自身の感じ方が、「ええ~?!」から「歩けるなー」とか「楽勝」に代わっていて驚いた。
これくらいの斜面なら歩ける、という基準が高くなったのだ。
そういう基準がない人には、「ええ~!!」だっただろうことは容易に想像がついた。結構大変そうにしていたからだ。
私にとってはそう大変ではない場所だったが、私が頑張った量と彼女が頑張った量では圧倒的に彼女が頑張った量が勝っていたと思う。頑張った人はエライなと思った。
■ 初めては貴重
そう言う意味では、人が絶対に通りがからない沢で寝ることや、ツエルトで寝ること、焚火をすること、なども、きっと同じくらい大きなパラダイムシフトであったに違いない。
私は自分自身のパラダイムシフトが起こった瞬間は、強烈に、刺激を受けた。
あ、そっか~分かったー!!という感激だった。
登山とは自ら尾根と沢を読み、自らの思った場所を歩くことなのだ、とか、そうやって歩くと言う視点で見ると、歩いてくださいと言っているようにしか見えない尾根などを歩いた痕跡があることなどに共感を感じたりとか、そういうことだ。そうすると、焚火の跡にさえ、そこを泊り場に選んだことに共感を感じることができる。
そう言う意味では、本来の登山の登山らしい、楽しみを知らないことは、そういうパラダイムシフトを与える人が、今の時代いないことを意味するのだと思う。
■ パラダイムシフト
今回は私にとっても、何か重要なパラダイムシフトだったような気がする。それは、たぶん、自分の力で、誰とどのようにどんな場所に行くか?みたいなことだろう。
私は夫と登山を始めたけれど、夫との登山では計画担当で、決して無理が無いように、と、計画してきた。そこにはどういう登山をするべきかというポリシーみたいなものはなかった。ただ易から難へということを貫き、安全を第一にしてきただけだ。
成長が当然の流れなので、ステップアップは当然だが無理のないペースで順調にしてきたステップアップが非常に早いペースで、それはラッキーなことだったことに理解を深めた。
ただステップアップしてきた登山・・・そこになんらかの味わい、私らしさみたいなものが加わったのが今回の山行なのかもしれない。
登山と言うのは一つの自己表現であるのだろう、自分らしさを追及しているのだろう、と思った山行だった。
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