Saturday, September 27, 2014

山ヤって何だ?

■ 晴れなのに

引き続き、山ヤとは何だろうか?の考察をします(笑)

今日は朝は超早起きしてしまいました…ベッドは窓際です。

昨日はホントは山に行きたかったのです。前日、予報を見て、晴れると思っていました。しかし、行かなかったのは、ひとつはただの怠惰と、ひとつは、朝に書く日記のようになっているブログが調子よく、書きたかったのと、あとは山に行くのは遊んでいるって意味なので、一人で楽しんで悪いなーと思ったせいなのですが、ブログを書いていても遊んでいるってことには変わりありませんね(笑)。私は書くと言うことに関しては、遊んでいるっていう、後ろめたさがないのです。常に書くネタを探しています。山を歩くと書きたくなるから山が好きって面もあります。

さて、思考を元に戻します。

■山ヤとは何か?の考察

百名山ハンターの一般登山者と岳人100ルートに行くような山ヤは、だいぶスキルの上で違うわけですが、山ヤと一般登山者を分けるのは、単純にスキルだけ、というわけではなさそうです。

たしかに、山ヤの山ヤたる、その根幹は、その心根にありそうです。

しかし、その心根のところが、私には掴めそうで掴めないのです…。

■山が好きかどうか?

山ヤと山ヤじゃない人は見れば分かります。山が好きじゃないのに、山に来ている人って、案外多いものです。

登山者の中には、”俺(私)だってできるもん”系も結構います。こういう人は、登山でなくても、水泳でも何でも、人を見返してやれる活動ならばよいわけで、本質的には山が好きではない可能性もあります。ま、入り口が何であれ、山に行く中で山ヤに成長すれば良いわけですが。

なので、山自体が好きなのは大前提ですが、山自体が好きと言いながら、全然観察もしないし、調べもしない人もいます。登って砕けろ系? 好きのあり方が違うのだろうか?

■ 反対を考えてみる

見れば、すぐ山ヤさんか、ただの一般登山者か(すいません、失礼な言い方で)分かるのですが、それがどうして分かってしまうのか、説明するとなると考え込んでしまいます。うーむ。

ストレートに迫っても、表現しづらい。ならば、山ヤじゃないという否定形ではどうだろうか?

金魚の糞登山の人や、めんどくさいからという理由でツアー参加の人は山ヤじゃありません。それは明白だけど・・・本人だって、周辺の人だって、分かっています。

でも大抵の人が、中途半端な所にいるのかもしれません。

自分で行き先を決めず、そのため、ルート研究をすることもなく、人に連れて行ってもらう専門で、マルチピッチクライミングへ、たびたび行っている人は、山ヤと言えるのだろうか?

以前『華絵、山に行く』という本を読んで”?”となったため、思考の外にあった事例ですが、雪の穂高にアルパインクライミングに連れて行ってもらって山に開眼。しかし、自分一人では高尾山に行くこともできない。こういう人は山ヤなのか?

私の中では、「山を教えてくれてありがとう」と言って、高尾山なんか自分でやっつけちゃう、という話なら、立派に山ヤに成長した、という話で、めでたし、めでたし、ではないか?と思うのですが、そこで「誰かと一緒に行きたい」となれば、そして、その”誰か”が、ガイド役の人って話になれば、その同行者が本職のガイドであってもなくても、もう、山ヤではないような…???いくら雪の穂高に登って、大感動した人であっても。

どうなんでしょう?

あるいは、言い訳をしてくる人はどうだろう?山で地図を持たない言い訳に、子供や介護というのはありなのだろうか?

山は誰にとっても等しく厳しく、忙しい生活をしているからといって、道標が増えるわけでない。いくら誰かと連れ立って行っても、相手が怪我をすれば、自分だけで歩かないといけなくなる。その時に、一人では歩けません、という人は山やなんだろうか?同行者と行くことで自分はリスクヘッジしているが、自分も同行者のリスクヘッジになってあげないといけない、という視点がない。こういう人は山ヤと言えるのだろうか?

まぁ大抵の一般ルートは、地図なんか一回もポッケから出さなくても歩けてしまうので、そうした習慣になってしまうのは致し方ない面もあるのだが、それでも、うっかり今回は忘れちゃった、ということではなく、万が一をまったく想定していない、ということが、山ヤではない、と言い切ってしまうに値する資質のような気がする。

あるいは、どんなに山に登りたいという情熱があっても、成功の見込みのない山に行ってしまう人は?

以前ニュースで、甲斐駒に普段着で行ってしまって救助された人がいたが、あの山に登りたい!と思って、何も考えず、それが登山だとも気が付かず、出かけてしまったそうだった。”あの山に登りたい!”は、間違いなく、登山衝動であり、その心根は山ヤだが、その後の行動は…山ヤと言えるのだろうか?

私が読んで感動した『第七級』とかでは、アルピニストは必ず、綿密で緻密な計算をして、勝算が確実・・・少なくとも自分の主観においては…な山にしか挑んでいない…。あのメスナーだって、なぜ無謀な単独行なのか?と問われれば、単独行は彼にとって無謀ではなく、むしろ”より安全”なのだから。相手のクライミングスキルが低くて遅いと山では致命傷になる、というわけ。

つまり、勝てると思うから行くわけで一か八かではない、元祖山ヤ…。

とすると、甲斐駒普段着の人は、大博打を考えもなくやっているわけで、そういう人は山ヤといえるのだろうか?何の経験がなくても、普通、1時間も歩けば分かるでしょう。

昨今、話題に上がることが多い、ジム上がりのクライマーたちは山ヤなのか?

たとえば、よく批判のやり玉に挙がっているように、車で乗り付けられる岩場で、クライミングしても、山頂もトップアウトもせず、降りてくるだけの活動がメインの人は山ヤと言えるのか?

などなど…一体何が山ヤと非山ヤを分かつのか?

考え始めると、よく分からないのです…

自分で行き先を決め、自分に行けるのか行けないのか自分で判断し、登山計画を立て、地図を見て、登山に行く人の多くは、一般縦走やピークハントしかしなくても、「山ヤ」です。

そこは間違いないのだが、それは否応なしに、”リーダーである”ということになる。

リーダーと言っても言葉のあやで、実際は、”係りの者”という程度の話なんだけれど、このリーダーという言葉に引きづられると、日本では、女性には奥ゆかしいことが求められ、それは=非リーダー、ついていきます世界の果てまで、という話になり、女性はいつまでたっても、山やにはなれない。

しかし、女性だけのグループでの登山だと、面倒な手間は皆で分け合いましょうということで、登山計画を立てるのも自身でやってしまえるようになるようだ。 男女混成部隊は、役割が固定になってしまって、よくないのかもしれない。

それは、自立した登山者=山ヤになるにあたって、単純に言葉の想定させるイメージが障害となるだけなのかもしれない。

ちなみに、登山では、奥ゆかしい性格で、前を歩きたくなくても、歩けないといけません。地図を用意するのは、自分用ではなくて、パーティに迷惑を掛けないため。コンパス、高度計、GPS、同様。

パーティの行動に何がしかでも貢献しない人はゴマメであり、メンバーとは言えない。やってもらって当然と言う発想の人はダメだ。

貢献はオヤツではなく、意思決定の部分で、貢献しないといけない。オヤツで買収して、意思決定は変わってやってもらおうと言うのは、たぶん山ヤではない。

何もかも、お任せします、は、たぶん山ヤではない。 家で練習してくれば済むアイゼンのつけ方を練習してこないで、だからできなくて当然よね、と思っている人や、そう思って免除してもらいたい人もたぶん、山ヤではない。仲間を自分の怠惰のせいで危険にさらしているのに無自覚ということだし・・・。

しかし、人間は間違いを起こすもの、それは仕方ないので、「しまった~練習してくるの忘れた!ごめん!」と発言する人はたぶん山ヤだ。

というわけで、かなり微妙すぎて、線引きが難しいが、言動を見ていれば、やっぱりすぐ分かるのだった。

歩けるか歩けないかのフィジカルや、ロープワークや地図読みをを知っているかいないかのスキル・技術系ではない。

技術やスキルなんて機会があったかなかったか?の問題に過ぎない(とはいっても、情熱がある人は機会を自ら作り出すものだけど)。

でも、心根、心の持ち方、のことは、切り分けるのがとても難しい・・・。でも、やっぱり、山ヤ同士だと、すぐ分かるし、山ヤじゃない人と、一生山ヤにならないで山に登るんだろうなという人も分かる。

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