■ 登山界の覇権争い?
最近、気が付いたことだが・・・・、
山岳会という組織では、ガイド登山を敵視している。というか小馬鹿にしている。
一方の、ガイド登山を率いるガイドの側でも、山岳会を技術がないと言って小馬鹿にしているようだ。
以上は、指導者側の派閥。
翻って、指導される側にも派閥がある。
ガイド派は、山岳会を「古くさい」といって馬鹿にしていている。個人登山者のことも同じく「本格的な山ではない」と言ってバカにしている。
いつだったか夜叉神峠の登山口で鳳凰三山に登る女性登山者の一団に散々バカにしたまなざしを注がれたことがある。(でも三年後に地蔵まで個人山行で登った。)
これ以外にも、ガイド登山の登山者は、基本的に装備が華やかでブランド物を着ており、お金持ちムードを漂わせている(笑)。(もしかしたら、単純に都会の山道具屋さんに言われるがままに揃えただけかもしれない。都会ではブランドも安く手に入るので・・・)
一方、山岳会の人たちは基本的に質素ななりだが、これはむしろ”山ヤの誇り”の表現であり、豪華な装備のガイド登山の登山者をもちろん見下している。
ひとりで歩くというのは、こうした奇妙な覇権争い?(笑)から、無縁でいられる、というメリットがあるかもしれない(笑)。
■ お客の奪い合い?
思うに、ガイドが山岳会を嫌い、山岳会がガイドを嫌うのは、同じマーケットの客を奪い合っているという先入観があるからではないだろうか?
しかし、考えてみれば、実はお客の奪い合いにはならない。
なぜなら、自立した登山者を育てよう!といくら山岳会が頑張っても、自立しない人は後を絶たないかから。増えすぎて困るくらいだ。
だから、本来はそうした、(自立できないけれども、山には登りたい人)をガイド側に回していくべきなんだろう。ガイド諸氏はそうした人たちの教育機関になるべきなんだろう。
現状で、そうなっていないのは、仕方ないね~と誰かがボランティアで連れて歩いているのであり、日本社会の豊かさを象徴するものかもしれない。
たぶん、今ガイド不足が叫ばれ、求められているのはこのタイプのガイドであり、本来山に行くべきでないような非自立型の人たちを言葉は悪いが再教育するためのガイドなのではないか?と思う。
教育者、指導者、という層の厚みが足りていない。
■ 技術
一方、本当にガイドが持っている価値というのは、一言で言えば 技術、 だと思う。
強靭な体力、登山計画の立て方、地図読み、天候の判断、アイゼンピッケルワーク、ロープワーク、確保技術、どれをとっても若いころから山に分け入っていなければ身につかない。
若いころから山をやっているだけではだめで、継続していなければ、身に付いたものも、さび付いてしまう。
一朝一夕で身に着けることができないものこそ、技術と言うべきで、一回講習を受けただけで出来るようになる、というようなものは、そもそも技術とは言えない。
今、ガイド諸氏が持っている技術のほとんどは山岳会から伝授されてきたものだ。
それらは一体なぜ山岳会に残っていないんだろう?
こういった技術は、山岳会でも、ある程度中心的役割を果たしたり、リーダー的役割を果たしたりしたことがある人でないと、身に着ける機会がない。
山岳会は技術を伝え、後継者を育てても、技術がある中心的メンバーが抜けてしまう… これは昨今の会社と同じだ。優秀なものほどいなくなってしまうのだ。
抜けたメンバーは?というと、要するにガイドになる。ガイド業というのは、それだけ魅力に満ちた仕事なのだろう。
そういう経緯が、山岳会からガイドへの恨み節になるのか?それとも、出ていったガイド側が古巣に愛着を感じられないのか?
どちらなのか、私はこの業界の新参者なので、まったく分からないが、どっちにしても分かることは、この両者は互いに嫌い合っているってことだ(笑)。
賢者は危うい場所には近づくべからず・・・という感じだ。
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