■ 注目を集めた前回記事
山と誰と行くか?という前回の記事は、
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※ 登山とは道のない場所を歩いて初めてスタートするもので、夏の一般道を歩くことは
通常「登山」とは言えません。しかし、世間では夏の一般道を「登山」と称し、本来の意味での
登山は「本格的な登山」と言われています。この場合”本格的な”の意味も誰も説明してくれません
ので(笑)初心者にはチンプンカンプンです。
道なき道を歩かない限り、登山ではなく、もともとハイキングなのです。しかし、ハイキングの
ことを「登山」と称するようになってしまったため、やむなく、”本格的な”をつけているわけで
それが分かりにくさの由来です。
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の部分が注目を集めました。そこで補足説明をします。
■ 建前と真実は一致する
登山の建前は「楽しければ山は何だっていい」です。実は、これは建前であるだけでなく、珍しく「真実」です(笑)。
ところが、多くの人がご自身の登山行路において見失う真実です。
登山者は、建前からスタートして真実にたどり着く間に色々な寄り道をします。
寄り道、その1。 競争。 たとえば、同じくらいに登山を始めた○○さんが△△山に行ったらしい、と聞くと自分も行く、などです。
寄り道、その2。見栄っ張り。たとえば、「最近どこに行ったの?」と聞かれるときに備えてスゴイ山の名が言えるように山を選ぶ。 いわゆる山のブランド志向です。槍穂志向の人に多い。
寄り道、その3。モノ。ギアばっかり立派で山が立派でないのは、ある意味、素直で可愛いらしいことです(笑)。金儲けしたい業界に食い物にされても、それはそれで社会貢献ではないですか(笑)
寄り道、その4。仲間に入りたい。山にあこがれるのではなく、岳人への憧れで山に登る。つまり有名人の○○みたいにカッコいいオレ系。この系列では、北鎌尾根に顕著な傾向が(笑) 理由は登山をしていれば、分かるようになってきます(笑)
まぁ、登山と言えば、歴史的に若く屈強な(そしてエリートの)男性たちが”青春をかけて”行うものとしてスタートしてきたものである、という経緯を考えてみれば、競争や見栄っぱりが、価値観の根底で幅を利かす、というのは、致し方ないことだったのかもしれません。
何しろ、男性が作る社会と言えば、群れの論理、縦社会です。強いオスがボス猿になり・・・が秩序の最初なのですから・・・そこに競争がないほうが不自然とさえ言えるかもしれません。
(ところが、登山の本当の良さは、そうした部分が登山活動を続けるにつれて、そぎ落とされ、純粋になっていき、登山の本質に立ち返ることです。たとえば、少し前に紹介した著名な登山家長谷川恒夫さんの人生などを観察すると分かります。)
だから、登山行路において道に迷いそうになったら原点に帰ることが重要です。
※近代登山は、明治大正から一部のエリートが始め、大学山岳部の時代を迎え、さらにそれが社会人山岳部へと流れ、その後、中高年の百名山へ続き、昨今は山ガールブーム、という風に歴史変遷してきています。
参考: http://stps2snwmt.blogspot.jp/2013/04/blog-post_7327.html
■ アルピニズム(近代登山)の価値観
登山の古典的な価値観では
・より高い山に
・より美しい山に
・一番乗りで
・より険しい道で
・より困難なやり方で
・より道具を使わず
登るほうがエライ、
という価値観で、山に登る人をランキングしてきました。
なので、世界で一番高い山(エベレスト)に一番乗りで(初登)した人が一番エライ。
つまり、人は望むと望むまいと、この価値観でジャッジされてきたのです。
”山に登る人”としたのは、登山家と登山者は違うであろう、違うべきだと思うからです。
今でも野心的な若い登山者(つまり登山家候補生)は、こういう価値観を背負い、登山界の限界をプッシュする活動に繰り出していると思います。それはそれで人類の進化のために必要な行為です。
ところが、近年この垣根は意識があいまいになりつつあるようです。登山者なのに登山家の論理で自分を図るべきではないように思っています。
山に野心と競争を持ち込んで、私のような”登山者”に向かって山自慢されても・・・単純に言って、お門違いなんですよね(^^;)・・・ただ”愉しんで”山に登りたいだけなのですから。
■ ああ勘違い!な山自慢
「どこ行ってきたの~」
「○○山」
「ふーん(そんなツマンナイ山)」
「…」
「こないだ鶏冠山に行ってきてねぇ…」(←参考までに鶏冠山は山梨百名山で難山として知られる山です。山梨県民の中でのみ通じるステータスの山)
となることは多いです。
大体、中高年に多く、山小屋で「どこ行ってきたの~」と言われたら要注意!です。「どこ行ってきたの~」という質問は、過去に登った山の自慢話をするキッカケ作りのために発せられる頻度が非常に高く、こちらが行ってきた山の感想を聞くことには一切興味がなく、大抵は百名山のうち何個登ったかに始まり、「槍穂」で話が終息することが多いです(笑)。そうですね、話しかけられるうちの8割くらいがそうです。
寄り道その1)&その2)の”競争と見栄っ張り”を持ちこんだ人たち(笑)…です。
■ 空振り
ところがこの手の登山の人たちが失笑を買うのは、登山の価値観を中途半端に持ちこんでいるためです。
典型的な百名山登山者というのは、
・もっとも易しいルートから
・出来るだけ労力を掛けずに山頂を踏む、
ので、これは登山の価値観と真っ向から対立するのは分かりますよね。
同じ金峰山に登るにも、片道2時間の大弛峠からの道と5時間の増富からの道では内容が違うのは自明のことです。
さらに、山小屋に泊まるか、泊まらないかでも困難度は違います。ザックの重さでも違うし、季節でも違います。登山の内容が簡単ならば、何の自慢にもならないでしょう。なのに自慢できると思っている時点でズッコケなわけです。
そこを理解せず(つまり、おのぼりさん風情丸出し)、単純に登った山の数で競おうとするので失笑を買っているわけです。
私なんて山頂で「今何座目?」なんて聞かれました(汗)。
ちなみに日本百名山を全部登ろうとすると、ツアーを使わない人で200万円、ツアーを使う人で500万円ほどかかるそうです。 (お金持ち自慢にはなりそうですね。その意味でスゴイ!)
山に何を求めても、それはその人の自由なので、百名山の数競争を求めても良いのですが、
・山に登った数が多いほうがエライ
・お金持ちの方がエライ
という価値観は、古典的な山の価値観に含まれていない。
そこのところを間違えて、他の岳人からのリスペクトを得ようとすると空振りに終わる率は高いです。
昔は山小屋で「私は○△会社の社長だ」と登場する人さえいたらしいです…。
登山の価値観を知らないと大なり小なり、こういう事になります。
■ 山ヤな会話
ちなみに山自慢でない場合、上記の会話はこんな感じに流れます。
「最近、どこ行ってきたの~」
「○○山」
「お!あの辺なら○△したんだね。いいねぇ。その辺だったら△△尾根も素晴らしいよ」
「そうなんですかっ?(瞳がキラっ!)」
「そう、ずいぶん昔だけど行ってね、素晴らしい○△だったよ。○月ごろがいいかな。当時、面白い小屋のおやじさんがいてね…(続く)」
「○月ごろだと△○が必要ですよね?」
「無しで大丈夫だけど、念のため△は居るかな」
(続く・・・)
「○○さんは△な山が好きなんですね!」
「そうそう!面白いんだよね~××するのがとっても!」
となります。夢は広がるよ、どこまでも…って形で、山が広がるんですよね。
■ 易しくなるほど、山の価値観から離れていく矛盾
登山史を別の視野から見ると、昔は、当然、山小屋なんてありません。
山小屋どころか、登山道も無かったのです。それはたかだか100年くらい前の日本の山の話です。
北岳なんて、ウエストンが登っていた頃というのは、藪漕ぎだったようです。
多少デフォルメ的に表現すると、先駆的な人々が先鞭をつけ、その踏み跡を大学山岳部が歩き、その踏み跡を社会人山岳部が踏み、山小屋が開設され、さらに中高年登山者が歩き、昔は道なき道だったものが、あまりに多くの人が同じ個所を歩いたがために、歩いた箇所は立派なトレイルになってしまい、今は歩きやすいよう整備も整って、立派な登山道になったわけです。
たくさんの人に歩かれたがために道ができた…のが一般道です。
なので、一般道は先人のありがたい遺産ですが、困難度という面でみると、昔の方が困難ですよね?というわけで、人がたくさん歩けば歩くほど登山の価値観からは遠ざかってしまうという、負の遺産と言うべき側面もあります。
困難であることが良さだったのに、困難さがどんどん削られて行ってしまった、ということです。もともと困難なほうがすごい山だったわけですが、今では山小屋がある一般ルートの山は、ぜ~んぜん困難ではなくなって、山の価値観の反対になってしまいました。つまり山としての価値を相対的には失ってしまいました。
その現象を代表するのが、地図を見ないでも歩けるということですね。
道なき道を歩かない限り、”登山”ではなく、ハイキングだ、というのはこういう意味です。
もちろん、山に登ればそれは登山です。間違いありません。天保山(標高4m)に登っても登山だけどね…(笑)
けれども、それが 「ザ・登山」であるか?というと違ってしまいます。
■ 緒論、各論、持論、大いに結構、山の良さを主張すべし!
「ザ・登山」には、もちろん緒論ありますが、岳人の間で一致している価値観は上記のように一応あります。そうでないとピオレドール賞だの作れないですしね。
ただ一定の価値観はあっても厳密には定義されておらず、個人の思想の入り込む余地がたくさんある。それがまた登山のおもしろさであり、可能性なわけです。
時々湧きあがる議論を見れば、分かります。
たとえば、最近だと、三浦雄一郎さんが世界の最高齢でエベレスト登頂しましたが、下山がヘリだったので議論を呼びました。「登山としては中途半端」という意見も成り立つからです。
理由は、登山とは、
・登りより下りが困難
・登山口から下山までが登山
という価値観が今でも一応常識だからです。特にヘリってものすごい人工物ですよね? できるだけ人工物に頼らないという価値観にも反してしまいます。
■ 自分の山を登ろう!
私は個人的には、山の価値観というのは、登山家だったら世に評価される必要があるけれど、登山者なんだったら、世に評価されなくてもべつにいいわけなので、登山者各個人が自分で作り上げるものだと思います。
登山界という大きな目で見た場合、一人の人が「これが俺の山だ!」と思った価値観が賛同を得て、一つのスタイルになってきた歴史は既に日本の登山史の中にあります。
というのは、「近代登山」いわゆる「アルピニズム」だって、実をいうと西洋人が「これが俺の山だ!」と思った価値観に日本人の岳人たちが賛同した結果に過ぎないのです。
なにしろ、それより前には、日本には「生活のための山(マタギ、タタラ)」や「信仰のための山(山岳宗教)」があったのですから。
■ 山が山を物語る
その人が山に何を求めて登っているかは、その人の山行履歴が如実に物語ります。だから山行履歴を見えればその人が何を求めて山に行っているかは一目瞭然です。
私のをみれば、私が高い山、より困難な山を求めて入っているのではないことが明らかと思います。
私が選んでいる山は、大抵がリスクは低いけれども、頑張って歩くことで解決できる山です。
自分では、本格的だけれども先鋭的でない山をやりたいな、と思っています。
こちらも。 http://stps2snwmt.blogspot.jp/2013/02/blog-post_28.html
■ 私の山
私自身は、山には
・静けさ
・自然の豊かさへの感動
・美しさ
・自然と親しむ
・冒険心の充足
・好奇心の充足
・夫婦で素晴らしい時間を分かち合うこと
を求めて入っています。
今日本の夏山の一般ルートには”静けさ”がありません。静けさを求めると、どうしても今よりはもう少し、難しいルートに入らざるを得なくなります。その”難しさ”は”静けさ”を得るために支払わなければならない代償なので、支払う気でいます。(具体的には、その”難しさ”は、”道なき道を歩けること”ですね)
雪稜は、登山最初のころから入っています。それは私が登山に”美しさ”を求めるからです。雪稜に入る限りは、”高額なウエア類・ギア類”は、支払わねばならぬ代償です(^^;) ないと死んでしまいます。また勉強というのもそうです。勉強しない人は雪稜には入るべきではありません。
沢は、自然の豊かさを知るためです。日本の自然は、山だけでなく、海もあれば、川もあり、空もあります。海は山梨では得難い自然ですからそれは山とセットにはできないですから、除外して(ちなみに岩とならセットにできます)、山を深く知りたいなと思いますが、山には尾根だけでなく、谷もあるのです。山は尾根と谷から成り立ちます。尾根だけを知っても山を知ったことにはならないので、多面的に山を深めたいと思えば、ぜひ必要な山行タイプです。沢でなくてももちろん魚釣りでもいいのですが。
(実際沢ヤさんと魚釣りのおじさんは同じようなところに生息していて、南アの小屋は魚釣りのおじさんでいっぱいです…笑)
■ その他登山の常識
登山の価値観には、ちなみにこのようなものがあります・・・コツコツ収集しました(笑)
・初登>第二登
・重い荷物を担げる人>担げない人
・早く歩ける人>歩けない人
・地図を読める人>読めない人
・高いところを怖くない人>怖い人
・一人で歩ける人>一人で歩けない人
・分厚いシュラフ>カバーだけ
・リード>トップロープ
・オンサイト>レッドポイント
・テント泊>小屋泊
・ツエルト泊>テント泊
・薄着>厚着
・エイド>フリー
・エイドでしか登れないところをフリーで登る>エイドで登る
・登山道がない山>登山道がある山
・プアな装備>リッチな装備
・寝食一式を担ぐ>担がない
・寝食一式を山で調達する>山に持ち込む
・山頂アリ>山頂無し
最大の価値観は、生きる>死ぬ です。そこんとこ踏み越えぬよう、他のと調整を取るのがきわどいバランス感覚が必要なところ。登山の愉しみのひとつです(笑)
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