枡形山から金峰山 |
登山道のない岩尾根を歩きました☆
■ 地図読み?
登山道のない、道なき道をゆく山行は、巷では”地図読み山行”と呼ばれています。
一方で、中高年の道迷い遭難の根拠に”地図読みができないからだ”はよくあげられます。
私はこれらは、前者は誤解を生ませ、後者は誤解に基づくのではないかと思います。
道迷いの原因は「歩いている道自体を見ていないから」です。つまり「関心が道にはないから」です。さらに言えば、それは「関心が山にない」ということです。 山が好きと言いつつも、その行動が示しているところは、山への無関心です。では一体何に関心があるのでしょう(笑)?そこは突き詰める価値がある問いのようです。関心が山にない=道にないのですから、道に迷うのは簡単です。何しろ、道があっても道を見ていないですから(笑)
一方、道なき道を歩くには、地図は読みません。読むのは地形です。つまり、読むのは「山そのもの」です。
細かな地形は、地図には表現されていません。ですから、現地で見て判断しなければなりません。
梅田で、あるいは新宿で街を闊歩するとき、わざわざ目的地に遠回りになるようなルートを取る人はいませんし、混んでいる改札前で人の流れにわざとぶつかる人もいません(たまに意固地になって人を避けないオジサンもいます) 雨の日は地下を通るのが合理的選択肢ですし、大抵の人は地下鉄のどの辺で降りれば改札口に近いかまで計算して地下鉄に乗っていると思います。
それと同じように、山を歩くにも、合理的なラインというものがあります。
それは地図を見ればおおよそ理解できます。つまり、地図は目で見て判断できない、より先の地形を想像するのに使うのです。
が、細かなところは地図には表現されていないので、現地で地形を見て判断しないといけません。
人は自然の中で暮らさなくなってから久しく、自然の中をもっとも少ないリスクで合理的に歩くには何を見たら良いのか?おそらく一般の人には分からなくなってしまいました。私もその一人です。
■ 地図からわかる地形的に明瞭な場所
地図を見て、出来ることは、ここを歩こう、と言う予定を立てるところまでです。基本的には、歩く場所は、
地形的な特徴が明瞭な場所
です。 なぜなら、自分が今どこにいるのか?現在地が明瞭であることがもっとも重要だからです。
地形的に明瞭な場所といえば、もっとも代表的なのは、ピークです。 ピークは周囲360度からもっとも高く、地形としてはこれ以上明瞭な場所はありません。
余りにも地形として明瞭だから人はピークに立ちたい、山に行きたいと思うのでしょう。
ピークが連続すれば、それは稜線になります。 ピークから派生している襞の高い場所は尾根です。ピークからは尾根と谷が襞を作って派生していますから、谷はもちろん尾根と対になります。低いところが谷です。谷が付きあげるところはコルになっています。
山は極論してしまえば、尾根と谷で成り立っています。
地図には他にもいろいろな情報、滝や池、人工物も表現されていますが、基本は谷と尾根を見ます。
つまり地形を把握することがもっとも重要なスキルです。
■ 山との対話
つまり、山を歩くとは地形を見る、ということ。
岩登りでは岩の弱点を突いて岩を登るラインを見出します。となれば、道なき道を歩くのは、いうなれば、山の弱点を見出す、ということですね。
そこが山との対話です。
山は懐を開いて登らせてくれる、ものです。 天候もそうだし、歩く力についてもそうです。その山を歩く力が付いていなければ、山は人を跳ね返します。
いかつい顔をした高い頂も近づいてみれば、優しい人柄だった、ということはよくありませんか?
そうすると、遠くから見るとあんなに険峻で怖いのに、行ってみたら、意外に易しく歩けた、とうれしくなりませんか?
いうなれば、地図を見るのは、お山にここ登らせてくれますか?と事前に聞くようなものです。
行ってみて、いいえ、という返事がくるかもしれません。たとえば、地図に表れていない急峻なルンゼがあったりしてです。
そうしたら、またそこが登れる技術を身に着けて帰ってくればいいだけです。力が付けばお山は「おいで」と再度言ってくれるでしょう。
それが山が懐を開いてくれる、山が登らせてくれる、という意味です。
山との対話、それが私を夢中にさせ、面白いドラマのように登山にハマらせるのです。
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