トップロープで確保しながら、リードしていくクライマー。
こういうのを見て人には反応が二通りあるようです。
①「オレにも出来る!」と思う人
②「こんなのに付き合っていたら遭難する!」と思う人
私は積極的にビレイヤーばかりをしたので知っていますが、リードするクライマー側は、ほとんどハングドッグ状態でした(失笑)。
ハングドックというのは、トップロープに全体重をかけてぶら下がっている状態です。
つまり実際リードしていない(笑)
実はトップロープでさえ登ってはいませんね…。私は全体重をかけて、トップロープのロープを引っ張っていないといけませんでしたから…(笑) おかげで、同じくらいの体重の人でも長い時間ハングドッグされるとビレイヤー側はタイヘンだと分かりました。汗びっしょり。
登れないのはたぶん、クリッピングでアップアップになるからです。クリッピングする、ってことは、片手で体重を支えなければならない瞬間があるってことです。
ランナーはそう都合よくクライマーの事情に即して配置されているとは限らず、壁がハング気味で一瞬の通過で済ませたいところにだってクリップ下がっています。クリッピングでモタモタする=自分の体重が自分を苦しめるです。
私はこの経験で、5.9の壁でリードできるようになるには、クライミンググレードがトップロープで5.10ないと危険だということを理解しました。グレードの数値が合っているかどうかはともかく、トップロープでのクライミングより一枚上手でないとリードはできません。クライミンググレード5.9の人がリードで5.9の壁だとギリギリです。ゆとりゼロ。
ボルジムではボルダリング壁なので当然高さは低く、3mくらいです。3mの壁でいくらグレードが上がっても、12m連続で登るわけではないので、私は自分の課題を持久力と感じました。
私に向かって申し訳なさそうな顔をしたのは約1名のみでした。だから、「こんなのに付き合っていたら遭難する!」
と思いました。②の人です。なぜなら、今説明した上記の内容に気が付いた人がいなかったから。みんな自分が登れていないという事実に無自覚。
そのまま登れると思って、岩場に行ったらどうなるでしょうか?
■ ヒヤリハットから学ぶ人学ばない人
一つの遭難事故の裏には、300のヒヤリハットがあると言います(ハインリヒの法則)。
つまり、このリードクライミングは、わたしにとって、”300のヒヤリハット”を実感することと同じでした。
私がビレイしてあげたクライマー誰一人、リードに進む資格がある人はいませんでした。
なぜならトップロープに体重を預けなかった人はいなかったからです。
スポーツクライミング(インドアのクライミング)で、墜落しても、墜落しただけです。
ところが、外岩での墜落は死に直結します。そのことは誰も教えない。 一回落ちると死んだっておかしくないのです。
岩場での死はそれはきたないものです。「生と死の分岐点」は2冊とも読みましょう。およそ信じられないような、ばかばかしい話で、たくさんのクライマーが死んでいます。
私が思うにはクライミングを教える前にクライミングは死に直結する活動だと教えるべきです。
昔から山をやっていた岳人は結婚すると山から足を洗うという約束をさせられたそうです。それはそれくらい死が近い活動だからです。
今だって初心者向けの講習で死ぬ人はいます。実際、私も知っているガイドさんのガイドで行われた三つ峠のクライミングで初心者が死んでいます。
■ 下駄を履かせてもらっていることに無自覚
体験クライミングはいうなれば下駄を履かせてもらったクライミング経験です。ところが
①「オレにもできる」と思った人は、下駄の存在に無頓着です。イケイケどんどんタイプです。
なぜでしょうか?
理由1)下駄の存在に気が付いていない ⇒ 無知
理由2)下駄のありがたみに気が付いていない ⇒ 無自覚
理由3)下駄があることに考え至っていない ⇒ 思考停止
まずは、無知、無自覚、思考停止は、遭難事故で必ずみられる現象です。傍からみたら明らかな危険やリスクに、遭難する人は驚くほど無頓着、つまり、無知で無自覚で思考停止しています。
無知は無自覚の始まりであり、無自覚は思考停止の始まりです。思考停止は山では死に至ることさえあるリスクです。だからこそ、昔は登山はエリートの”崇高なスポーツ”とされたのでしょう。
しかるに、思考停止を防ぐには、無自覚を防ぎ、無自覚を防ぐには無知を防ぐしかありません。
そもそも、無知を防ぐにはどうしたらいいでしょうか? それは本人に失敗させるしかありません。
赤ん坊が歩くのを学ぶとき、よちよち歩きで一杯転ぶように、まだヨチヨチ歩きの低山歩きをしているときに一杯失敗すべきなのです。
たとえば、低山で雨に降られ、レインウエアの着方がへたくそで下のウエアまで濡れてしまい寒かったとします。これが自分で行った低山で起これば、すぐに安全地帯なので「あ~寒かった~。今度からちゃんとレインウエアの襟元は締めよう!」で終わります。
「○○!レインウェアのジッパーはちゃんと閉めろよ!」なんて先輩に言ってもらっていたら、全然人は学びません。
ヒヤリハットから学ぶというのは小さいミスから多くを学ぶと言うことです。もし危険な目に遭うのなら、低い標高の易しい山で小さい危険な目に会う方が当然ですがリスクは低いです。
言っておきますが、山では一個の失敗が死に直結することがあるのです。
去年のGWの白馬の遭難を覚えていますか?経験なら何十年もあるパーティがレインウェアを着るのが遅かったってだけで低体温症でバタバタ死んでいるのです。白馬岳なんてグレード3の山です(参考までに五竜はグレード5。瑞牆は1。)
■ 危険に対するブレーキの精度を高める = 自覚と言う能力を高める
人間の能力には色々なものがあります。 私はヨガを教えていますが、ヨガは別の言葉でいうと、自覚という能力を高める活動と言えるかもしれません。
自分を外から客観的に眺める訓練です。
アコンカグアで凍傷で両手の全部の指を失った人はガイドに対して訴訟を起こすことはできます。が、たとえ訴訟に勝ったとしても指は戻ってきません。
ここから分かることは、いくら人を責めることができても、責任は自分だということです。つまり、危険に対するブレーキは最終的に自分自身しかいません。
べき論ではなく、真実なのです。
山はどう転んだって最終的に自己責任だからです。歩くのは自分で登るのも自分、墜ちるのも自分です。ビレイヤーがいても墜ちて死んで痛いのは自分です。カラダから抜け出た霊の状態でいくらビレイヤーに悪態をついても後の祭りです。
雪の天狗岳に私は人を連れていけます。そこで雪山とは何かを知らない初心者の人が行動食を食べず、凍傷になって指を多少でも切ることになったら、私の責任でしょうか?私は自分を責めるでしょうが、私の指が痛いわけではありません。
もちろん、人間は弱いものです。
自覚という能力を補うために人は助け合うべきです。私は色々な山屋さんから助けられています。
たとえば、阿弥陀南陵に登るべきかべきでないか判断するのに、自分の技量で十分なのかどうか、阿弥陀南陵についての情報を詳しく分かりませんから、知っているだろう人に聞きます。それも一人ではなく最低3人くらい聞きます。判断するのは自分だからです。
3人の山やが私にはちょっと難しい山だと言えばそれは真実でしょう。
(余談ですが、その聞き方は「私でも登れますか?」ではありません。もちろん、要旨はそうですが、内容としては自分が登れるんじゃないかと考えた根拠を伝えます。)
山岳会などに所属していれば、先輩の後をくっついていく後輩には常にお目付け役が付き、アブナイ時は「危ないからダメ!」と言われます。しかし、それは本来は取ることができない責任の肩代わりでしかありません。単純に言うと甘やかしですね。
そして、このことの最大の問題は下駄の存在に気が付かないことです。つまり無知を助長することです。そして、甘やかされて育った子は親元を離れるまで親のありがたみが分かりません。
無知であること=ありがたみが分からないこと。ガイド登山であればガイドの存在を軽視していること、山岳部であれば先輩の存在を軽視しているってことです。
■ 自己責任力
山岳会にしろ、ガイド登山にしろ、誰かと一緒に行く山に潜在する危険は、要するにこれです。
低いレベルから自分で問題を解決するという自己責任力が付かない。
○も登れた。△も登れた。○△も登れた。△△は登れないって?!なんで~?!登れるに決まってるだろ~!!という帰結になります。
そして登らせてくれる甘い人を探すようになります。そして金を払うから登らせろ、と言い始めます。
それは「あなたには△△は登れない」と言われたときに、△△に登れるための要素を自分で分解する力が付いていないからです。
元をただせば、低い山から順繰りに自分の力だけで解決していないから、自分の技量が客観的に見れないのです。
山梨にはリードできるジムはピラニアしかありませんが、ピラニアでは、
「黄色テープをマスター」し、「自宅でクリッピングの練習をして来たら」
リードクライミングに至るに十分な力が備わったということになるそうです。
しかるに、黄色テープ以前のピンクテープを今私はやっていますから、リードはまだ出来ません。クリッピングも上手とは言えません。
しかし、トップロープでつられていればリードの真似事は出来るでしょう。だって壁そのもののグレードは5.8くらいなのですから。
しかし、それは真似事です。
ガイド登山で連れて行ってもらった山も自分の山ではなく、同じように真似事です。
これはガイド登山ではなくても、山岳会でも同じです。
先輩の後ろについて歩き、そのついて歩いた道は自分の実績でないということに無頓着になってしまうのは、これはもう性格もあるかもしれませんが…私は低いレベルでの失敗を先輩が肩代わりするせいというのも一因だと思います。
無知による痛い目にはリスクが低い段階で合っておくのが本当は後輩のためなのです。
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