■ 達成感
登山の喜びには色々ありますが、「達成感」を挙げる人は多い。
確かにピークに立つヤッホーが定番なのですから、ピーク=「達成感」は、登山の重要な要素です。
ただ、登山もだんだんと経験を重ねると、”1ピークを目指す山”から徐々に、ピークやその高さは登山全体を成功させるための”単なるプロセスの一部”となってきます。標高は”登山要素の一部”でしかない。山に慣れてくると、標高そのものには達成感を抱きません。
つまり、ピークに立ったか立っていないか、より、そのピークに立つための努力(プロセス)が、いかに整合性があったか? ということが、登山の成功評価(=満足)の対象になります。
標高については、その山行の大まかな難易度を表現はするものの、高ければすごい、という単純な話ではない。なにしろロープウェイやらの山もあります。高さは天候の急変など困難への事前予告でしかない。その予告された困難やリスクにどれだけ適切に対処したのか?が評価(=満足)の対象になります。
つまり、困難については、しっぽを巻いて逃げる対象ではなく、いかに向き合ったか、向き合い方が適切だったか?の話になる。
そして、最大のポイントは・・・・山行の成功は、”ピークを踏んでからの下山と無事が最低ライン”、ということです。
下山が登ることより難しいことは良く知られ、五体満足無事で帰ってくるまでは、その登山の成功はまだ約束されていません。
こうした中では、「ピークを踏む達成感」とは、いち山行全体の小さな象徴でしかありません。
■ 人生における達成感を山から読み解く
こうした登山における「達成感」と「ピーク」の関係から、学べることは何でしょうか?
登山では、ピークを踏むことだけを目指した場合、効率主義に陥り、途中のプロセスを無視したピークコレクターになってしまいます。
「達成感」をピークを踏むことだけに求めると…その達成感を得るためには、数々のピークが必要になり…100名山が終われば、200名山、200名山が終われば300名山とキリがない。 そうした姿は100名山ハンターと言って登山の本流からは外れたところとして、まったく登山界からは評価されていません。むしろ、同じ100回なら同じ山を100回登るほうが評価されるのではないか?と言うくらいです。
キリがない・・・これは「満足感」とは程遠い感情ですね… つまり「達成感」に中毒症状を起こしている、ということでしょう。 この場合、「達成感」はお酒やタバコ、ギャンブルと等しく、おぼれる対象です。ただ健康的なだけに罪が浅いというくらいのもので、精神的な構造としては依存であり、あまり変わりがありません。
なんだか、どこかで見たようなデジャブ感があるのは・・・うーん?会社? 5%UPの売り上げ目標を達成すれば、今度は7%、次は10%。 どれだけ頑張ったところで満足がない。ラットレース、と端的に表現されます。これは広くみられ、成長にたいする依存と言えます。煩悩ですね。
というわけで、そうした”キリのなさ”に陥る「達成感」のスタイルは、幸福につながる道ではない、ということは日ごろ会社勤めで、すでに誰しもが経験してしまっていることでしょう(笑)・・・。
今の時代、「がむしゃら」や「熱血路線」は空虚です。他の人と比較でプライドを満足させるという態度も空しい・・・それはすでにキリがないということがばれてしまっているからでしょうね・・・。
■ 方角を知るため
しかし、では、ピークを目指さないとすれば、一体何を目標物に設定したらいいのでしょう?
そう、目標物がなければ登山自体が成立しません。なぜなら方角が分からなければ、歩き出すこともできないからです。
それは人生も同じですね。どこに到達したいのか?目標がなければ、それに向かって進むすることもできません。
まさに歩くべき方角を知るという点においてのみ、目標とは評価されるべきものなのかもしれません。
リンデワンデリングをご存知でしょうか?ホワイトアウトした状態で(つまり擬似的に目標物が見えない状態で)歩みを進めると人間は同じところを堂々巡りするのです。
それと同じことが人生に言えますね。目標が見えないときに、ただがむしゃらに進んだところでリンデワンデリングするのです。
■ 道迷い=現在地をよく見る
登山に置いて、どこを目指して歩くべきかは、地形がおのずと決めます。現在自分が立っている位置から周囲をよく観察すれば、見えているピークがあるはずです。そこが目指すべき場所です。
見えているピークは、いくつかあるかもしれませんが、どれを選んでも頂には立てます。それが、すべての道が正解に至る道と言われる意味だと思います。
見えていないピークには行きたくても行くことはできません。それが人生においては、到達できる目標を持て、と言われる意味だと思います。大志を抱け、ではなく、小志をいくつも抱き続け、ピークを踏み続けることのほうが具現性があるのです。大きな夢は今いる地点から見えないピークのようなものです。どう到達していいのかわからない。
登山においては、道迷い時は、決して下ってはいけないと言われています。なぜなら、さらに道迷いの度が深まるからです。最悪は沢に迷い込み滝つぼに落ちて死にます。 迷ったら、下るのではなく、登る。 これは、人生においては、道迷い、つまり、どう生きてよいか分からなくなったら、選択に迷ったら、易きに流れず困難の方を選択すべし、ということでしょう。
これらはすべて、周囲をよく観察する、ということから得られる登山の基礎的技術で、それは、そのまま、人生の知恵であるように思います。
■ それでも高みをめざせ
このようにピークというのは登山においては、登山全体のプロセスを形づくる一要素ですが、ピークを目指すからこそ、そこへ至る道が発見されます。
ひとつのピークへ至るの道には尾根道があり、沢ルートがあり、難易度もそれぞれで、何尾根を登ったかでその人の登山熟達度がわかる、というようなものです。 難ルートを取っても、易しいルートをとっても、ピークそのものは変わりません。あるいは荒天でのピーク、好天でのピークでも、また到達に至る困難は様々です。
したがって、その人が到達した、ピークの名前や数だけを聞いてその人のスキルを判断する愚かしさがわかるでしょう。
それはまるで名刺に書かれている地位や会社名で人を判断する愚かしさと同じですね。そこにいかに到達したかのほうがどのピークにいるかより重要なことなのです。
ただ、目標=ピークとは、登山活動全体の起点、動機となるものなので・・・そう、だからこそ、ピークにはこだわらなくても、それでもピークを、高みを目指さなくてはいけないのです。
なぜなら、そうでなくては、人は前進する、生きるということさえやめてしまって、その場に立ち止まったまま、遭難することになるからです。
登ることのない山=目標のない人生は、ただ死を待つばかりです。何もしないのであれば、なぜ生まれてきたのでしょう? どうせ死ぬのですから、どこに生まれる意味があるのでしょう。
■ 死と下山
人はすべからく平等に死にます。ので、死を恐れていても仕方ない。死を考えるとき、登山から学べることは、人生における死とは、登山における下山口のようなものではないか?ということです。
登山では下山が完了してやっとそこで、登山の成功が確定します。いくら高いピークに至っても、下山完了しなければ遭難という失敗です。
人生においても死の間際になってやっと、その人が生きた人生が評価できるのではないか?それまではいくら地位や財産があっても勝負はついていないのではないか?結局人生の成功とは、地位や名誉、財産ではなく、本人が十分に幸せに生きたと考えるかどうか・・・それは本人が総決算をするしかない。
■ まとめ
・目標は進むべき方角を示すためにある。目標の効率的な到達だけを考えると空虚となる。
・キリがない「達成感」におぼれるとき、その目標は間違っている。
・迷ったら、困難な方を選ぶ。
・それでも高みを目指せ。
■ サットバ
ヨガの世界では、
最初は苦しくても、後でだんだん良くなるもの…
をサットバ(純粋)な性質を持つものの見極め方として教えています。 まさに登山はそのようなものですね☆
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