Thursday, January 31, 2013

案内されても初登の意味


■ 案内されても初登の意味

日本の高山…登山の歴史の本には、初登争いの話が出てきます。

でも、登山史の最初の頃って、登山家はみんな案内人と呼ぶ地元の人に案内されて山に登っており、門外漢の私には、案内されたら、それって初めて行く場所、処女峰ではないんじゃないの?と疑問でした。だって今風に言ったら、ガイド登山…(汗)

が、『剣岳 点の記』を観て、疑問解決。

案内人は、登山者と一緒に、ピークへの登路を色々と一緒に考えてくれる人なんですね。

登山道はない。その道なき道をどう登るかを一緒に考えてくれる人が案内人。

それに必要な知識が…山の知識。尾根と谷を読む知識やどこに何が生えているか、気象のこと、言い伝えのこと、天気の読み方などなど。

案内人っていうのは、何を買われているか?というと、その山域に対する知識と経験、そして、山への直観、山勘(笑)!?それが判断の基準になっているために無知な人より合理的判断を下せる状態にあること。

知識と経験は、すぐには手に入らないもの。なので、案内人を雇うわけですね。 

だから、案内人だって道に迷ったりする…特に濃いガスのときには…
映画では、「ライチョウが助けてくれた」ことになっています。ライチョウの生息域から現在地を同定したわけ。

というわけで、なるほどね~!と剣岳点の記を見て”案内人を雇って初登”の謎が解けた次第(^^)。

■ 航海術を山域でやるのが山

結局、登山の本質は何か? というと、道がない未知の場所(駄じゃれじゃないよ…)において、発揮される3つの力なんだと思いました。

 1)道を見出す力  
 2)現在地を知る力
 3)未知のことに対応する力

ただ悲しきかな、現代は、ほとんどの登山ルートにすでに道があるので、①の力はほとんど不要。

なので、山ヤさんは基本的に一般道での登山に関しては、まったく評価しません。

トレースがない山においても「赤布をたどる歩きなんてルートファインディングではない」以上終わり。まぁそれはそうですね。赤いリボンが道を示しているわけで。自分で見つけた道以外は価値がない。

いわゆる航海術と同じことを山でやるのが登山なのです。

それが登山の本質的な部分なんだな。 そうしてみると、海と違い、山には明確な道がある。

 尾根、谷、そして稜線。 

稜線なんて、最近は高速道路に見えてくるくらいです(笑)。絶対、ココを歩いてね、って感じがしますもん。

■ 現代はどうなったか?

③のリスク管理において、今は道自体が困難だったり、踏み跡がなかったりとリスクがあるわけではありません。そういう道はもうあまりない。安全な道になっているので、危険な道はほとんどない。

より危険、という意味での困難な道を求める人は、壁に向かうことになるのかな? そこんとこはよくわかりませんが、危機管理、という意味では、登山道自体が危険というより、むしろ登山者側の事情でリスクが大きくなった、のが現代的な特徴です。

つまり、持病が突然悪化したり、ねん挫で足をくじいたり…道ではなく登山者側の理由でガイドを頼む人が多い。一種の一回コッキリの保険ですね。これは、現代ならでは、ですね。 一回ん万円の保険代を払えるくらい豊かになった、ととらえていいかな。

逆に技術伝承(教育)の意味でも、現代は豊かになりました。たとえば、沢とか、冬山でテント泊…いきなり一人でやるのは微妙に心細い、なんてことだったりします。

一人でマスターしてしまえる人とそうでにない人に分かれますが、一般論的には、これまでは、無料で先輩から後輩に受け継がれたような内容をお金を払って伝承してもらうのが現代なのです。

むむ。母から娘へ伝承された家庭料理は、今や家庭料理の先生に入門して学ぶ時代、ってのと同じ構図ですね。あるいは会社に入ってから社員教育してもらうはずが今では教育済みの人を部品を買うようにポイと入れる時代、ってのとも似ている。とりあえずどの業界も伝承されない、伝言ゲームがうまくいっていない、という愚痴は同じベースにあります。 

ってわけで、花嫁修業というか花嫁になってからのお料理教室が儲かり、社会人になってからの教育産業が儲かり…と同じ構図で、ガイド料を払うのも、現代的な豊かさの傍証ですかね。

まぁ今はそういう時代だということですね。 古い知識は持っていること自体が非常に価値あることです。

■ ガイド不足?

一説に、登山ガイドは登山ニーズに対して不足している、と一応言われていますが…ホントなのかなぁ?

このガイド不足っていうのは、一昔前の情報ではないかと。私が山を知らないちょいと前は100名山&ツアー登山ブームだったそうです。たしかに今山に行っていても200名山中の人とか、自慢話を聞かされたりします。

よく都会では新聞広告で見ました。 ○○新聞主催 花の○○山 ○拍×日 9500円 などです。バスでガーッと乗り付け、団体でぐるーっと歩き、バスに戻って、おしまい。つまんなさそー。

なので、登山というのは、おじいさん、おばあさんの趣味だと思っていました。山と古刹を巡って温泉に入り、旅館に泊まって、カラオケでも歌って帰る。たぶん、子供や孫が忙しくて相手してられないからかな~と。

でも今このタイプのツアー登山は弊害が明らかになって、尻すぼみ中です。

■ 未組織登山者

雑誌によると、今の山ブームの主体は、未組織登山者、と言われる人たちです。(私もその一人) で、未組織登山者を問題視する声は大きいですが…

ですが、これを問題視するのもなぁ…。核家庭が増えて一人世帯が増えたことを問題視するのと似ている(汗)。

未組織というのは山岳会に属しない、という意味らしいですが、ツアー登山にしても別に山岳会に属していたわけではないでしょう。ただの烏合の衆だったのは同じことで、ツアー登山より、未組織登山者のほうがグループのサイズが小さい分、環境に与える悪影響にしても、遭難した場合にしてもインパクトは小さい。

ツアー登山は何かあった場合の責任をツアー会社やガイドに転嫁してしまうが、結局のところ、スケープゴートに過ぎない。

それにこういっては何ですが、山岳会って属しても、結局、人が集まらず、2~3人のパーティの山行になるようです。ではあまり個人山行と変わりがないように思ったりしたのですが…?

グループから個へ。束縛からゆるつながりへ。これは時代の流れってもんで。逆らうのは無駄骨ですね。

今は、テント泊山行にしても、それぞれが自分のソロテントを持ち寄って、「ではおやすみなさい」と各自のテントに入る時代なのだそうです。私もそれがいいなぁ…。

■ リーダー不在? というか不要?

で、こうした山行で何が問題視されているかというと、リーダー不在です。

でも、ここで出てくるのが一般ルートを歩いている限り、それは登山ではなくて、登山のトレーニングにすぎないという話。

要するに特にルートファインディングする力は要らないわけですから、案内する人の存在意義自体が希薄なわけです。行ってみれば、それほど重みがない登山なわけです。登山ではなくて、登山のためのトレーニング。ルートを自ら見出すことなしで登れるわけですから。

そんな道でガイドしますって言われても…何のメリットがあるのってわけ。となると、価値があるとすれば、リーダーシップってことになるわけなんですが…

つまり、ガイド登山はリーダーをインスタントに買う、という行為なわけですね~。でもリーダーシップというのは、困難な状況においてのみ発揮されるので
一般ルートを歩いている限り、悪天候なら歩かない、と判断するなら、リーダーシップも最初から無用の長物になるわけですね。

ってわけで結局、今増えている未組織登山者はリーダーがいなくてもガイドがいなくても歩ける山しか歩いていないので、この層の人が育って一般ルートには
満足できなくなり、バリエーションに踏み込まない限り、ガイドの数は別に不足はしないんじゃないか? というのが私の見方なわけです。

だって、ゆるつながりの未組織登山者グループで登山しても、何の問題もないし…それこそ雨など緊急時はかれらは「自己責任」で行動しますよ。

というわけで、ガイドを必要とするニーズを掘り下げてみると、バリエーションルートに価値を見出し、行きたいと考えるような登山者が増える、という状況になるには、ある程度の教育がいる、というわけで、それまでは高齢者が主要な顧客となるのでしょうかね。 

こんなのもフツーの登山者でも見れるんだもん




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