Wednesday, January 30, 2013
安寧は緩慢なる死
ここしばらく凹んでいました。凹んだ理由が今一つ自分でも上手に説明できず… なんだか鬱気味に…
■ 気がついてしまった(汗)
今年のお正月は南岸低気圧の接近で、温かい日と寒い日が交互だったので(これは雪崩が起きやすい条件を意味する)遭難が多かったです。
遭難… めっちゃ他人事だと思っていました。
山登りする人はみんな天気図みたり天気予報みたりするので、遭難が起こったような日はほとんどの人がどんな天候か?知っていると思います。
で、私は山登り歴が長くないので、「この天気図なら北アはパスよね~」くらいの軽い気持ちで、遭難のニュースが飛び込んできても「え~あの天気図で北ア?無謀~」というような気分くらいでスルー。
同じ日に鳳凰三山に行っている自分のことはまったく別物だと思っていました。 が・・・別じゃない!(鳳凰がアブナイという意味ではまったくありません)
なぜなら、登山がどういう遊びか?というと、「リスクを乗り越えていくプロセスを楽しむ遊び」なんですよね。
だから遊び方そのものが、遭難という名の失敗に至る論理的な構造を持ったもの、なのです。
今まで行けなかったところに行けるようになる。
今まで行けなかった天気でも行けるようになる。
今まで行けなかった短時間で行けるようになる。
できなかったこと → できるようになる
が楽しいわけで。 さらにいうなら、
できなかったこと → できるようになる
は人間の根源的な願い。 人間であるかぎり、捨てることができない欲求です。
■ あくまで遊び
私の中では登山というのはあくまで”遊び”です。 楽しいから行く。楽しくないときは行かない。
それは正しい。
しかし、登山に含まれる(楽しさ)は(つらさを乗り越える楽しさ)。
つらさ => たのしさ にだんだんと変換されていくんですね。 めっちゃM。
登山の進歩具合は、だから、その登山者がどれくらいの(つらさ)を(楽しみ)と捉えられるか?で大まかに知ることができる。
だから「ストイックですね~」とか「Mですね~」は山の世界ではほめ言葉です…(^^;)
そんなの変!と思うでしょう。 それがねぇ…山登りに慣れてくるとだんだんと変ではなくなっていってしまう。
たとえば、私たちは、去年の今頃は知りさえもしなかったラッセルさえも楽しみに(汗)。
でも、(つらさ)と(楽しさ)の天秤で、(たのしさ)がだんだん増していくのが登山っていう活動なんです。
だんだん、つらさはあんまり感じなくなる。人間は適応力のある動物ですもんね。能力が開発されていくと、つらくはなくなるわけですね。
でもその適応力を超える自然の驚異が襲うこともある。人は弱い。
あるいは楽しみを求める心から、そもそも、娯楽、レジャー、遊びなんだということをついうっかり忘れる。
■ 失敗なきところ、進歩もない
脅威やリスクに対面したとき、正しい対処法は、よく知ることです。
危ないことには近づかないのではなくて、対応力をつける。逃げるのではなくて取り組む。
大まかに言えば、人類の進歩の歴史なんて、それでしょう。
リスクを減じて、人間の適応力を増し、快適性を上げる、その努力が人間の進歩の歴史。
努力をするということは失敗もあるという宿命から逃れられない・・・
けれど失敗ゼロを目指せば最初から「行かない」「やらない」になります。それは「進歩しない」という道を選んだということ。
チャレンジ、そして進歩には失敗がつきもの。チャレンジや進歩が人間性そのものならば、失敗を恐れる心、チャレンジを否定する心は、人間性そのものを否定することになる…
と失敗を否定することは、大きな目で見ると、生きながら死に向かう、ということですね。
安寧…それって緩慢なる死って意味だったんだ…
享楽的な生き方、それこそが生きている実感を持てない理由のもっとも根源的なものです。
大体、寒い屋外から部屋に入ると暖房なんてつけていなくても家の中が温かい、ということにだれだって気が付くでしょう。
つまり、生きることの根源的な喜びは、受け手側、受信側の都合によるのであって、環境によるのではない。
そのことに私は最近気が付いてしまったのです。
私が登ったのは、剣や明神みたいなプロの山域ではなく、安全な鳳凰三山ですが、それでもその登山という行為の中で働くメカニズムである(つらさを乗り越えるプロセスが楽しい)という点は同じ…。
つまりこの道をどんどん先に歩いていけば、今は点ほどにしか見えない遭難という名の失敗の可能性も、徐々に大きくなっていく…そういう道の上に私は立っているわけですね。お山を愛し始めた時から…。
…そこんところに気が付いてしまった…(汗)
今立っている道。 今いる地点から、先を歩くか歩かないか、それは自由ですって言われても…。
人間には生きるか生きないかの自由あります?ないでしょう。
生きるか、生きるか、生きるか、しか選択肢はないのです。
はぁ… 登山って生きることと同じですもんね。そりゃ道があれば、前に行く以外に選択肢ありますかね?ないよな。
と、いうわけで、道の真ん中に立って、その道が緩やかであっても実はのぼりで、その道はどこに続く道かを知ってしまったんですね~(汗)
こりゃ気合を入れなおさなくちゃなんないんじゃないですか…
あ、でもカモシカ君だって、やってるんだよね・・・カモシカ君はカモシカ君の課題を・・・
人間だけが逃げるって選択肢をも与えられている・・・あるいは立ち止まって何もしないって選択肢を・・・
それをもしかしてもの珍しそうにカモシカ君は眺めていたのでしょうか・・・
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